風のトポスノート436 

 

われわれという宗教


2002.10.29

 

        B「科学を信じる仲間も宗教か。それならなんでも宗教になるね。だが単
        なる科学者と、科学を宗教にするものとはどう違うのかね」       
        T「言葉づかいで分かるよ。<われわれ科学者はこう考える>、という人
        間は、科学を宗教にしているね、<一人の科学者として自分はこう思う>、
        と意見を述べる人は、宗教にしていない、それはカトリックにもプロテス
        タントにもいえる。<われわれカトリックは><われわれプロテスタント
        は>という人たちは、それを宗教にしている」
        B「なるほど<われわれ日本人は>といっている人間は、自分を他と結び
        つけるための日本を欲しがっている。つまり日本を宗教にしているという
        わけか」
        T「なにか共通のものを神聖だと考える。そしてそれを人間をまとめる原
        理として集まる」
        B「集まるのはなぜだ」
        T「簡単なことだ。集まるところがほっとする。今の流行では癒やしだが、
        一種の酔いだな。それが、人間を孤独の不安から救う。孤独こそが現世の
        地獄なのさ。人間はわれわれと呼べる仲間がほしい」
        B「われわれねえ」
         ぼくは七〇年代の学生運動家が、<われわれはー>と演説している姿を
        思い出した。手ぬぐいで覆面し、顔が見えなかったが、話の内容も見えな
        かった。残ったのは<われわれはー>という主語だけだった。
        T「一番の不幸は、仲間意識はグループが小さい方が強いということだ。
        だから、<同じキリスト教徒>という意識よりは、<同じカトリック>
        <同じプロテスタント>という意識の方が強い。だから<同じキリスト教
        徒>が殺し合いをする。さらに同じプロテスタントが内ゲバで殺し合う。
        もしその反対なら、人間の不幸がどれだけ避けられたか」
         (なだいなだ『神、この人間的なもの』
         岩波新書806/2002.9.20発行P181-182)
 
私たち女性、俺たち男、私たち日本人、私たち企業人、私たち芸術家…、
だれでもときに「私たち」という表現をするときはあるのだろうけれど、
そのとき、そこにはたして「私」がいるかどうかを問う必要があるだろう。
「私」のない「私たち」が宗教化することは思いのほか多いのだから。
 
では、なぜ「私」のない「私たち」が宗教化してしまうのだろう。
人はひとりでいる不安と孤独に耐えられず、群のなかにいて安心したい。
自分をなにか集団的・集合的なものの一部とし、
それにいわば「帰依」することで、自分を見つめなくてすむからである。
しかもその集団や集合的なものに付着している「権威」的なものを
自分そのものであるかのように思い込むこともできる。
そうなるとそもそも希薄だった「私」は「私たち」のなかに融けていってしまう。
 
国も、民族も、血縁も、性別も、役割も、さまざまな組織も、
それらの「私たち」になることで、
自分が自分である「自由」の寄る辺なさ、不安、恐れから
自分を遠ざけておくことができるわけである。
そして孤独であることを避けられる。
 
仏陀は、反省を説いた。
それは自分が自分を見るということにほかならない。
そして極端を排した「中道」を歩めるように人を導いた。
中なる道を歩むためには、
まず自分が今どの道を歩いているかを自分で見つめる必要がある。
それは、みんなでいっしょに歩いていれば怖くないということではない。
天上天下唯我独尊ということは、「私」であるということであり、
それこそが「自由」ということにほかならない。
「私」であるということができるならば、
「私たち」のなかにいたとしても、「私」が消えることはないだろう。
 
「私たちはーーー断じて許さない!」
「私たちはーーー要求する!」
「私たちは一致団結してーー」
「私たちってさあ、こうなのよ」
「私たちはこうすべきではないのだろうか」
「私たちの行くべき道は」
「私たちとともに歩もう」
・・・・・
そんな「私たち」のなかに「私」の「自由」が基盤にあるかどうか。
そのことをしっかりと見つめる目をなくしては決してならないだろう。
人のためになにかをしたいと思うときなどにも、
そこに自分をしっかり見つめる目があるかどうかを確かめる必要がある。
もしその目を持たないとしたら、
自分はどんな道を歩いているかを知らないということと同じことになる。
 


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