梅原 もう一つの「興」というのが、いちばん大事ですね。 白川 これが非常に難しい。これも文字の上から言いますとね、「興」 という字の上の方はね、「同」という字を書く。(書きながら)これね、 お酒を入れる筒型の器です。これを両手で持つ、両手で捧げる、これが 「興」という字になる。それでね、両手でもってお酒を注ぐというのが 「興」という字なんです。酒を地に注ぐのです。 何でこんなことやるかというとね、例えば或る土地で何か行事をする、 儀礼を行うという場合にね、まずその土地の神さまを安んじて、鎮めな ければならん。土地の神さまを鎮める時に、この「同」という杯にお酒 を入れて、みんなでお酒を降り注いでね、地霊を慰めるんです。そうす ると地霊はそれで目覚めて、「興」というのはね、目が覚める、起き上 がるという意味があるでしょ、目覚めてね、自分たちに応えてくれるよ うになる。土地の霊を呼び起こすというのが「興」なんです。だから 「興」というのはね、或るものを歌うことによって、その持っておる内 的な生命を呼び起こすというのが「興」なんですよ。 例えば美しい鳥の鳴き声がするといって鳥を歌う、鳥といえば鳥形霊 という観念がある。その鳥の鳴き声を美しく描写しておるとね、祖先の 霊がそこへ出てくる。だから…鳥の鳴き声が聞こえるという風な歌い方 をすれば、あとにその霊が現われてくるという風な、お祭の歌になる。 お祭の前に鳥を歌う。 (対談 白川静+梅原猛『呪の思想/神と人との間』 平凡社/2002.9.9.発行/P206) 『詩経』には、内容・性質による分類とされている「風・雅・頌」、 修辞法による分類とされている「賦・比・興」があるというが、 とくにこの「興」は興味深い。 「歌」の根源にもつながってくるのがこの「興」であり、 またそれは四大霊の解放というテーマとも深く関係しているように思える。 ほとんど慣習化しているだけの 現在日本で行なわれているさまざまな「祭り」や 四季折々に愛でられ、歌われる花などの自然も 本来は歌と切り離せないコトノハによる「呪」だったのだろう。 そしてそれが次第に形骸化してしまい、 果ては、現在の日本のような「標語」のようなものになってしまう。 各地に張り付けられた教育的なコピーたちの群・・・。 それはたんにモノローグ的な、行き場を失ってしまった 記号操作にすぎないにもかかわらず、 郷愁のように、無意識的な「呪」を込めているのかもしれない。 そこにはポエジーはすでに失われている。 現代人のポエジーは、思考をなくしたところでは腐敗してしまう。 おそらく古代において「興」として機能したであろうものを 現代においてはポエジーが引き受けなければならないのではないだろうか。 ポエジーから発したものが、四大霊にも作用し、 そしてこの地上世界を変容させるものともなっていく。 おそらくその最上の試みとして精神科学の存在がある。 |
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