風のトポスノート435 

 

興とポエジー


2002.10.14

 

        梅原 もう一つの「興」というのが、いちばん大事ですね。
        白川 これが非常に難しい。これも文字の上から言いますとね、「興」
        という字の上の方はね、「同」という字を書く。(書きながら)これね、
        お酒を入れる筒型の器です。これを両手で持つ、両手で捧げる、これが
        「興」という字になる。それでね、両手でもってお酒を注ぐというのが
        「興」という字なんです。酒を地に注ぐのです。
         何でこんなことやるかというとね、例えば或る土地で何か行事をする、
        儀礼を行うという場合にね、まずその土地の神さまを安んじて、鎮めな
        ければならん。土地の神さまを鎮める時に、この「同」という杯にお酒
        を入れて、みんなでお酒を降り注いでね、地霊を慰めるんです。そうす
        ると地霊はそれで目覚めて、「興」というのはね、目が覚める、起き上
        がるという意味があるでしょ、目覚めてね、自分たちに応えてくれるよ
        うになる。土地の霊を呼び起こすというのが「興」なんです。だから
        「興」というのはね、或るものを歌うことによって、その持っておる内
        的な生命を呼び起こすというのが「興」なんですよ。
         例えば美しい鳥の鳴き声がするといって鳥を歌う、鳥といえば鳥形霊
        という観念がある。その鳥の鳴き声を美しく描写しておるとね、祖先の
        霊がそこへ出てくる。だから…鳥の鳴き声が聞こえるという風な歌い方
        をすれば、あとにその霊が現われてくるという風な、お祭の歌になる。
        お祭の前に鳥を歌う。
         (対談 白川静+梅原猛『呪の思想/神と人との間』
         平凡社/2002.9.9.発行/P206)
 
『詩経』には、内容・性質による分類とされている「風・雅・頌」、
修辞法による分類とされている「賦・比・興」があるというが、
とくにこの「興」は興味深い。
「歌」の根源にもつながってくるのがこの「興」であり、
またそれは四大霊の解放というテーマとも深く関係しているように思える。
 
ほとんど慣習化しているだけの
現在日本で行なわれているさまざまな「祭り」や
四季折々に愛でられ、歌われる花などの自然も
本来は歌と切り離せないコトノハによる「呪」だったのだろう。
 
そしてそれが次第に形骸化してしまい、
果ては、現在の日本のような「標語」のようなものになってしまう。
各地に張り付けられた教育的なコピーたちの群・・・。
それはたんにモノローグ的な、行き場を失ってしまった
記号操作にすぎないにもかかわらず、
郷愁のように、無意識的な「呪」を込めているのかもしれない。
 
そこにはポエジーはすでに失われている。
現代人のポエジーは、思考をなくしたところでは腐敗してしまう。
おそらく古代において「興」として機能したであろうものを
現代においてはポエジーが引き受けなければならないのではないだろうか。
ポエジーから発したものが、四大霊にも作用し、
そしてこの地上世界を変容させるものともなっていく。
おそらくその最上の試みとして精神科学の存在がある。
 


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