風のトポスノート434 

 

縄文と弥生・殷と周の間の変化


2002.10.14

 

        梅原 (…)この世の人があの世へ行って、生まれ変わって来る。縄文
        時代の思想では子孫となって生まれ変わって来る。ところが弥生時代に
        なると、甕棺なんか見ますと、個人の遺体を腐らぬように保存しようと
        している。子孫として生まれ変わるのなら個人の遺体は保存しなくても
        いいんです。遺体は霊の脱ぎ捨てる着物に過ぎない。
         ところが弥生時代になると屍を大事にする。これは個人の不死という
        考え方ですよ。これ中国から来た思想だと思いますけどね。ですから妊
        婦の話を聞きますと、ひょっとしたら殷の時代にもあるんじゃないかと
        思いますね。
        (対談 白川静+梅原猛『呪の思想/神と人との間』
         平凡社/2002.9.9.発行)
 
古代においては、多くの場合、縄文時代においてそうであったであろうように、
生まれ変わりというのは、おそらく血縁を通じたものが多かったのだろう。
それが次第に血縁という在り方が少なくなっていく。
かつては祖先の記憶もその血縁を通して継承されていったのであろうし、
そういう意味では個々人はその部族の一部として集合的に存在していた。
 
集合的なあり方から個的なあり方へと移行していくにつれて、
血というものが集合的なあり方から個的なあり方へと移行し、
個の不死ということが肉体的な不死というふうにも錯誤され、
「個人の遺体」を保存するようにもなっていったのだろう。
 
現代においては、遺伝子信仰のような二重の錯誤が起こってきている。
血縁と遺伝子というのが結びつけられ、
そこに個人のアイデンティティーが結びつけられる。
遺伝子を残すことが自分のアイデンティティを残すことであると
思い込んでいるのだろう。
もっと極端になれば、自分の遺伝子データを保存し、
そのクローンをつくることで自分のアイデンティティを残そうとする。
 
面白いことに、仏教でもキリスト教でも、
かつては聖職者は生涯独身であるということが
ほとんど建て前にせよ原則であった。
それは、血縁によって継承されるということが
基本的に否定されているということであったはずである。
しかし仏教では死体を拝んだりすることは否定されるが、
キリスト教においては多く死体を保存したりもする。
そこに肉体に対する今や失われてしまった叡智の断片が
残っていたりもするのかもしれない。
肉体性というか肉体の理念が高次の在り方で残るということと
そこにある物質的な肉体とが混同されているのではあるのだけれど。
しかしもちろんその肉体性というのは遺伝子ではない。
そうしたことは、おそらく精神科学的な探求を進めていかないかぎり、
いつまでも錯誤は消えないように思う。
 
ところで、この白川静と梅原猛との対談を読みながら、
中国の殷の時代と周の時代が、
日本の縄文と弥生とだぶって見えてくるところがあった。
この時代の変化というのをシュタイナーの宇宙進化論的なプロセスにおける
世界史的な変化としてとらえていくと面白いのではないかと思った。
決して「文献」ではとらえることはできないだろうが、
遺伝子信仰のような現代人のあまりに稚拙な錯誤を錯誤として
認識できるようになるためにもその必要性があるのではないだろうか。
そうすることで、縄文に帰れ、的な回顧からも自由であることができる。
 


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