ーーぼくは、先生のところに、クラス委員として、クラスをまとまらせ ることができるかを、相談に来たのでしたね。 ーーうん、そうだったね。 ーーしかし、まとまらせようとすることに、問題があるということが、 話をしていてわかりました。失われたのは、失われた理由があったから だし、それを考えずに失われたまとまりをとりもどそうとすることが無 理だということが。 ーーそうかね。それがわかればいいのさ。 ーーそして、ぼくたちが、まとまりのある社会ではなくて、調和のとれ た社会を目ざさなければならないこともわかったのです。そして、結局 はその方向しかないことも。 (なだいなだ『『権威と権力』岩波新書/1974.3.28発行/P236) 権威も権力も、いうことをきき、きかせる原理に関係している。権威は、 ぼくたちに、自発的にいうことをきかせる。しかし、権力は、無理にい うことをきかせる。そして、今のぼくたちの社会は、少し、それがくず れかけてはいるけれど、この権力と権威が二重うつしの一つのイメージ を作っていて、それがぼくたちにいうことをきかせ、まとまりを作らせ ている。こういうわけだね。 (同上/P62) みんなに同じ方向を向かせ、同じ方向に歩かせようとする。 ぼくが学校で感じた第一印象というのがそれだった。 そしてぼくはとくに問題児というのでもなく、 「おとなしい子」とされていたにもかかわらず、 常に一貫して、協調性に欠けるということを通知票に書かれ続けた。 それはみんなと同じことを積極的にしようとしないというだけなのだけれど、 それがおそらくは「クラスのまとまり」に差し障りがあったのだろう。 その頃は、なぜそうなるのか、 なんとなくはわかっていたところもあるけれど、 はっきりなぜなのかを言葉にすることができないでいた。 ぼくはただ、なぜみんな同じようにしなくてはならないのか、が どうしてもわからなかっただけなのだ。 その必然性というか。 それは、そうするようになっている、という以外に 理由を見つけることができないものだった。 ぼくだってむりにそうしているわけではなく、 納得さえできればそうしていたはずなのだ。 逆にいえば、なぜ、みんな同じようにしたがるのか、 したがらなくてもそうしているのか、のほうがわからなかった。 そのことがずっと不思議でならなかった。 また、同じようにしないけれど、 ただただ逆らって乱暴したりするのもわからなかった。 少なくともぼくにはそうしたいとも そうしなければならない理由もなかった。 ただ、「いうことをきかなければならない」という学校の居心地が悪かっただけ。 だからといって家が居心地がいいわけでもなかったけれど…。 なぜみんな権威とかが好きなんだろう、という疑問は 子供の頃からいままでずっと持ち続けている。 たぶん権威に自分から進んで従っていたほうが ある種の不安を感じないで済むからなのかもしれない。 「なぜそうするのか」を自問しないでも、 「権威だからそうだろう」という理由さえあればいい。 権威は権威の顔をして権威の言葉を話し、 そして権威の言ったことはそのまま権威であって疑う必要はない。 ぼくは、不安でいることもいやだったけれど、 少しでも納得しているほうを選びたかった。 納得できないことはできればしたくなかった。 人に迷惑をできるだけかけないでそうすることができればいいのだけれど、 「まとまり」をつくることを原理としている場所では、 まとまらないというだけで、迷惑になってしまうことになる。 その延長線上に、たとえば「ヒコクミン」とかいうこともでてきたりもしたのだろう。 それは何も過去のものではなく、今現在起こり続けていることなのだ。 |
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