風のトポスノート432 

 

変容の種について


2002.9.22

 

ある音楽を聴く。
その体験が私のなかの音楽を変えていくことがある。
それまで聴いていた音楽も私のなかでその位置づけを変えていく。
 
それはある集合に別の要素が加わることで
その集合そのものが変化し
他の要素の持っていた意味も変化するということでもある。
 
もちろんある一つの集合はおそらくそれだけで閉じているものではなく、
他のあらゆる集合やその要素とリゾーム的に通底している。
つまり音楽を聴くことで音楽以外の受け取り方も
変化していくことがあるということである。
 
流行という現象を見ていると
その変化がよく見えていくところがある。
たとえば車のデザインにしても、
次々と新しく発売される車のデザインの前では
かつてのデザインは色あせたものとなってしまうことがある。
パソコンのデザインにしてもそう。
新たなデザインが開発されそれを受け容れることで
かつてのデザインはそれまでの受容はされなくなってしまう。
それがあたらに受容されるときにも、
たとえばレトロというような新たな意味づけがそこに加わることになる。
 
以前からその変化というのはいったい何だろうかと思っていた。
流行は感覚を容易に変化させていく、
流れ行くのだからまさに感覚はどんどん流れ行くわけだけれど
変化する前と変化した後の自分の感覚の変化を
ちゃんととらえようとするととても難しいことがわかる。
そしてその変化が自分に与えたその他のさまざまな影響についても。
 
意味づけにしても、
それが与えられることで
同じものが別に見えてくるところがある。
それはゲシュタルト的な変換というだけではなく、
意味というものがどこかからやってくると
その意味は確実にそのものとそれを受け容れる主体との間の
関係性を立体的に変化させていくことになる。
 
もちろんそれは枠付けやレッテルを貼ることにもつながり、
それまで見ていた何が何だかよくわからない絵に
だけかが「それは裸婦だね」と意味付けしたとたんに
それが裸婦に見えてしまうなどということもあったりする。
そういうお節介というのはよくあることなのだけれど・・・(^^;)。
 
いったい何がいいたいのかというと、
たとえばぼくの聴いたバッハの音楽は
いったいぼくのなかの何を変えたのかということ。
人は自分のなかに太陽をもっているがゆえに
太陽を見ることができるともいえるのだから、
その変化というのはぼくのなかのどんな種に影響し
それをどのように変容させていったのかということ。
 
逆にぼくのなかに種を植えるということは
いったいどのようにして可能なのか、
ということがもっとも気になったりもする。
つまり今ぼくのなかにない種については
ぼくを変えることはおそらくできないのだろうから、
その音楽を聴いても感動することができない。
気づくことさえできない、その悲しさ。
宗教的な言葉でいえば発心とか回心とかいう種が
もっとも重要であるということでもあるのだけれど、
では自分のなかにないものをどのようにつくるか、
ということになると途方に暮れてしまうところがある。
 
人間のなかには宇宙のなかのあらゆるものが
深い深いところでは種として眠っている、
というふうにとらえることもできるかもしれないが、
それにしても果てしない深みで眠りこけている種を
揺り起こす作業は果てしなく困難なことなのだろう。
 
音楽を聴くとき、絵画を見るとき、
一冊の本を読むとき、
私は自分のなかにそうして眠りこけている何かを
覚醒してくれる何かを求めている。
そういうことは極めてまれなのだけれど、
皆無ではないはずなのだから。
 


■「風のトポスノート401-500」に戻る
■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る