風のトポスノート431 

 

意識の変化と醒めていること


2002.9.21

 

「おしりだって洗ってほしい」
このウォシュレットの広告コピーがトイレのイメージを変えた。
先日のNHK、プロジェクトXでとりあげられていた、
TOTOのウォシュレットの開発談。
 
最初に夜の7時台、食事時間に流したCMには
最初抗議が殺到したというが、それもそのうち収まり、
やがてトイレへの意識は確実に変化していく。
かつてはトイレの広告に便器を出すということそのものが
新聞社等の拒否にあっていたというのだが、
そういう意識は今ではおそらくはほとんどないだろう。
 
その陰にはひょっとしたら、トイレ掃除ツアーを組んだりする
道徳的な経営者連の活動もあるのかもしれないが、
そうした意識の変化というのはいったい何だろう。
それは個人の意識の変化というのではなく、
おそらく集合的な意識のなにがしかが
そこで組み替えられていったということになる。
 
世間の見方、通念、常識は、変わらないが、
変わるときには急速に変わっていく。
その変化は点でも線でもなく面として変わる。
意識という場における諸要因の関係性がそこで変わるということ。
しかしおそらく自分のなかの意識の面の変化を
自覚している場合はかなり少ないのではないだろうか。
何かがいつのまにか、そう、いつのまにか変わっている。
そのプロセスを意識していくのはむずかしい。
 
それはおそらく「考え方」というのではなく、
「感じ方」の変化というのが底にあって、
それが態度変容をもたらしていく。
逆にいえば、態度変容をもたらすためには
「感じ方」を変化させ、それを衝動に変える必要がある。
 
広告のテーマもそこにあることが多い。
態度変容をもたらすためにプレミアムを用意したりすることで
行動のほうからその商品そのものの意味づけを変えようとしたりもする。
そしてそれはときに成功しときに失敗する。
 
またその変化は表面的なものもあれば
根底的なものもあって、
根底的なものになるほど
それをとらえることはむずかしくなる。
 
ところで、世間の見方に抗するのはとてもむずかしい。
多くがある方向を向いているときに
それに逆らうような見方を提示するには困難である。
 
世間の見方の尻馬を利用したり、
それと気づかずにその世間の見方を信じ込んで
行動したりする現象は常にみられる。
 
北朝鮮の拉致問題が明らかになったとたんに
在日の人達へのいやがらせが湧き起こる。
自分の遺伝子を残したいというある種のエゴイズムに
何の疑問もいだかずに声高らかにマスコミで称揚される。
被害者という位置がときに無前提な権力になる。
戦争時に人を殺すことをいやがることは許されない。
 
みんながそうしているときに、
そういうのもだということでそうする。
ときにそれを利用する。
あるいはそうは思っていないけれど
そうしておいたほうが得、または楽だからそうする。
そういう現象にできるだけ醒めていたいものだと思う。
 
醒めていられないとき、
人は後になって自分がなぜそんなことをしたのか
わからないことをしてしまっている。
そのときおそらくその意識は集合無意識的な面にあって、
自分としての点が消えてしまっているのだろう。
それはまるで悟りのようなものにもみえるが、
おそらくは似て非なるもので
ただの群衆になっているにすぎない。
民主主義と称されるものの危険性もそこにある。
 
精神世界的なムーヴメントの問題性というのも
そうした自分を消してしまうことを良しとすることにあるように思う。
それを大いなる我というふうに表現しながら
肝心な自分というのをそこでごまかしていたりする。
重要なのは自分が今ここにいて醒めていることではないだろうか。
醒めているというのは冷淡であるということではなく、
むしろ逆に限りなく熱を有していなければならない。
 


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