風のトポスノート430 

 

ルネサンス


2002.9.8

 

         後世によってルネサンス、文芸復興期などと呼ばれることになるこの時期、
        文筆による仕事をしていた人々の数のなかに、言うまでもなくミシェルもが
        入るのであったが、エラスムス、トマス・モア、フランソア・ラブレー、も
        う少し時間をおいて、ウィリアム・シェクスピアやセルバンテスなどという
        人々の名や、その著作物だけを見ていれば、あたかも人間の黄金時代のよう
        にさえ見えかねないであろう。宗教者としてはマルティン・ルターとジャン・
        カルヴァンがいた。
         けれども、このルネサンスと呼ばれる時期にあって、その創造的な営みが、
        いわば絶頂期を迎えようとしていた頃、現実は、憎悪と残酷、残虐、殺戮や
        涜神的な破壊行為において、これまた絶頂期に達しようとしていたのである。
        教会へ雪崩れ込んで、ありとある聖像や聖器具を破壊するかと思えば、魔女
        狩りなどという、非人間性の頂点とも言うべき、人間狩猟に熱中もしていた。
        (…)
         人文主義ーーユマニスム、ヒューマニズムーーといった言葉にも騙されて
        はならない。人間には、天使的な精神と同等なほどの悪魔的な精神もが籠め
        られていることを、忘れてはならないのであった。知性と新しい知識、創造
        的な認識力が一体となって、あたかも新しい光が、人間の世界を照らし出し
        たかに見えた、その地平には、ありとある悪魔的精神もが跳梁していたので
        あった。ルネサンスにおいて、人間生命の力が爆発し、近代西欧文明が出発
        した、などと言うときにも、この生命力なるものが、誰にも償うことの出来
        ない、夥しい流血を伴っていたことを思い出しておかねばならないのであっ
        た。
        (堀田善衛『ミシェル 城館の人ー自然・理性・運命』
         集英社/1992.4.25発行/P85-89)
 
現代とはいかなる時代であるか。
おそらく過去の歴史のなかでも、
もっとも流血の多かったであろう世紀である二十世紀を経て、
二十一世紀の入口をのろのろと歩いている私たちの生きている時代とは。
 
メディアは世界を網の目のように張りめぐらされ、
たとえその操作による欺瞞や
意図するしないにかかわらないフィルターを経てではあったとしても、
なにがしかを見る可能性はかつてない自由度を獲得し、
インターネットは個人と個人との間のリゾーム的な場を可能にさえしている。
 
かつては一部の者だけに占有される傾向にあった歴史も
今や大幅に大衆的な地位を獲得しようとしているかにみえる。
とはいえ、世の人々はおそらくそれを使いこなすスキルをもてあましているが故に、
もしくはそこに至るまでの自由の可能性に戸惑うか
思い違いをしているがゆえに、
世界は「天使的な精神」の可能性「と同等なほどの悪魔的な精神」で
満たされているように見えてくる。
 
世界は悪魔的であるほどに自由であり、
かつまた天使的である可能性にもまた開かれていて、
おそらくそうした闇と光のただなかにあって、
現代の人々はみずからが何者たりえるかの可能性の前で
みずからを試みているともいえるのだろう。
 
今、堀田善衛の描くモンテーニュをひもときながら、
カトリックとプロテスタントの間の、
というよりはむしろ政治的な党派の抗争かもしれない争乱のなかで、
そこから少し身をひきながら「城館」の「塔」のなかで、
ひとり思索を重ねている次第を見ている。
時代はまさにルネサンスといわれるなかにあって、
争乱はますます激しくなってゆく。
同時代、日本は戦国時代の末期にあって、
たとえば信長は延暦寺を焼き討ちしていたりもする。
 
「新しい光」ともいえる意識魂の時代の訪れにあたり、
現代はこれほどの流血、残虐、虐殺を平然とこなしていくことになり、
かつまたそれらを横目にしながらも、
時代錯誤とさえ思えてしまう「正義」の旗を
振り回すような稚戯に興じているようにさえ見える。
 
果たしてこれからいかなる時代が展開してくるのかわからないが、
「意識魂の時代」というのであってみれば、
やはり今自分が何をしようとしているのか、を
見据えようとする姿勢だけはなくしたくないものだ。
たとえ今この認識力が非力なものであったとしても。
 
そしてある意味でこれほどの悪魔的な時代にあっても、
かつてのルネサンスと称されるようになった時代で
光を放っていた人たちにもまして静かに光を放っている人たちは
たしかに存在しているのではないだろうか。
ただ、その光を感知するためには、
太陽の光を見るためには眼のなかに小さな太陽が必要なのと同じように
その光のなにがしかをみずからの内に持ち得ていなければならないのだけれど。
 


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