風のトポスノート428 

 

魂の質料について


2002.8.31

 

         懐しいという日本語は、古代からある。
         キーンさんの日本語学の分野でいえば、十一世紀の『源氏物語』のころは、
        過去を回想する姿勢は入っておらず、たんに心ひかれ離れたくない、という
        意味だったようだが、中世以後は、こんにちの意味になった。
        「日本とあればなつかしし」
         というのは、キーンさんが青春のころ英訳に熱中した近松の浄瑠璃『国性
        爺合戦』のセリフのひとつで、すでにこんにちの意味になっている。
         キーンさんという人は、対座している最中において、こんにちの意味にお
        いて懐かしい。このようなふしぎな思いを持たせる人は、ほかに思いあたら
        ない。
         それほど、この人の魂の質料は重い。
         そのくせ、ひとと対いあっているときは軽快で、この人の礼譲感覚がそう
        させるのか、他者に重さを感じさせない。
         精神の温度が高いのか、たえず知的な泡立ちがある。一つの事柄を考える
        とき、とっさに脳中に肯定と否定の矛盾がおこるらしく、沸きあがった矛盾
        の気泡が、すぐさまユーモアでもって弾ける。その破裂音がこころよいのは、
        きっと陽気に“弁証法”が完結するからにちがいない。いい芸術に接してい
        るようなものである。
         そのあたりも、キーンさんへの懐しさの一つである。
         いい芸術といえば、文学研究者としては当然のことだが、この人は何国語
        であれ、上質な言語表現に魅かれる。できればその言語表現が、多重に意味
        を美しく塗り重ねていることが望ましく、さらには文章の言語としての音が
        美しければ一層よい。
        (司馬遼太郎・ドナルド・キーン『世界の中の日本〜十六世紀まで遡って見る』
         中公文庫1996.1.18発行/P203 司馬遼太郎「懐しさ」より)
 
ドナルド・キーンという人のことは、
そういえば名前だけしかしらずにいた。
先日古書店で、司馬遼太郎との対談『日本人と日本文化』(中公文庫)を見つけ、
読み始めたところたちまちその懐の深さと静かさのなかに流れている熱に感嘆した。
そういえばと本棚を見てみると、
以前買っておいたままになっていたこの文庫があった。
何につけ「機」というのがあるのだなとあらためて思う。
こちらに準備ができていないと見えていても見えないのだ。
たとえ見ようとしてもけっきょくのところ見えず、
そこに入っていくことさえできない。
 
「それほど、この人の魂の質料は重い」という
「魂の質料」という言葉は言い得ている。
・・・ということが確かにわかるほど
こちらにそれほどの「魂の質料」があるわけではないが、
あれこれと踏み迷っているなかで少しなりともその光がほの見えるというか。
 
しかし、その重い質料というのが、
「他者に重さを感じさせない」というところが
またその重さゆえなのだろう。
重さを感じさせてしまうとしたら、
その重さはおそらくは見せかけの重さだけなのかもしれない。
 
ドナルド・キーンという人の文章をそれ以来
読み始めるようになったのだが、
この人の魂の質料の重さというのは、
やはり文化を横断しているというか、
横断することを越えて、
その懸隔にしっかりと橋を架け得ている、
というところにその一端があるようである。
その著書に『二つの母国に生きて』(朝日選書321)があるが、
ドナルド・キーンは1971年以来一年の半分を東京で暮らすようになっているという。
母国をふたつもつということ。
小泉八雲のように日本人として生きるというのではなく、
ふたつの母国をもったままでいるということ。
 
司馬遼太郎の視線はするどくそれが生み出すものを見ている。
その精神の動きである“弁証法”を見ている。
おそらく通常の日本人では見えないもの、
自分がそうであるがゆえに見えないもの、
ただ可能性のなかにまどろんだまま無意識のまま働いているものを
ふたつの母国をもつということゆえの弁証法的なあり方が
魂の質料を重くしているのだろう。
 
分かるー分ける、ということばは面白い。
「一」であるものをふたつにするということでもあり、
それは「一」であるものを失うということもであるのだけれど、
分けたうえでそれをふたたび「むすぶ」ということのなかに
人間の人間であるがゆえの可能性もまたもちろん悲しさもあるのだろうと思う。
 
「考える」ということもその「分ける」というプロセスを経ることになる。
その「分ける」ということを嫌う向きもあるが、
それはただただ感じとろうとするだけで認識を拒否する態度にほかならない。
感じ取れないでただ知識を溜めるのであればそれは「むすび」を形成しないだろうが、
感じ取るだけであるならばそれはそこになんらの「むすび」も形成することはない。
子供のままであるということになる。
子供は可能性の塊ではあるが、その可能性は一度分けられた上で
「私」を育てていくなかでむすばれ直していく作業が必要だと思う。
そしてその作業のなかでおそらく「魂の質料」は増していくことになる。
 


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