風のトポスノート427 

 

歴史の重層性


2002.8.25

 

         たとえば、T.S.エリオットに「ウェイスト・ランド(荒地)」という詩が
        ありますが、あの詩を分解してみますと、あのなかには、三千年くらい前の
        ヨーロッパのフォークロアのようなものが入っていますし、それから、ギリ
        シャ、ローマ時代の神話的なもの、さらにはペルシャなどのオリエントの要
        素も入っています。つまり、「ウェイスト・ランド」という一篇の詩のなか
        には、三千年の歴史の重層性があるわけです。
         ただ一篇の詩のなかにでも、三千年を往復するものがあるとすれば、私自
        身も一千年くらいの歴史の時間を往復してもいいのではないか、そう思って
        日本や西欧の中世のことをやったりしているのです。
        (堀田善衛『めぐりあいし人びと』集英社文庫/P78)
 
かなり以前のことになるが、
yuccaが堀田善衛の『定家名月記私抄』(ちくま学芸文庫)読みながら、
その面白さをいろいろと話してくれたことが気になっていて、
その影響から、カタリ派がテーマになっているのもあり
『路上の人』(新潮文庫)を大変興味深く読んだことがある。
 
その後、堀田善衛の作品をいろいろ読んでみたいものだと思いながら
そのままになっていたのを、先日、宮崎駿の『風の帰る場所』のなかで、
堀田善衛にかなり影響を受けている話などもあって気になっていた。
そういえば司馬遼太郎も交えた三人による
『時代の風音』(朝日文芸文庫)があったな、と思い出したりしていたところ、
そういう折りに、この引用にある『めぐりあいし人びと』が書店で目にとまった。
 
堀田善衛が80歳で亡くなったのが1998年のことだが、
これは1991年〜1992年に堀田善衛が生涯のなかで出会った人たちについて語る
いわば自伝的回想録で、やっとこの堀田善衛という人のことが
おぼろげながら理解されはじめ、そしてその存在の大きさ、重要さを
やっと実感することができるようになってきた。
というか、ぼくのほうで、やっと準備ができはじめたということかもしれない。
こういうときには、いわばぼくにとっての「旬」なので、
いわば「エポック授業」風に集中的に堀田善衛から
吸収できるものを吸収してみたいと思っているところである。
 
ぼくがシュタイナーから学んだことのひとつが
こうした自分エポック授業という方法で、
とくに歴史を学ぶというときに、ある人物を中心にして見ていくと、
その時代のことがよく見えてくるというところがある。
ぼくは学校で教えられるような歴史がどうにも好きになれなくて、
歴史というのがいったいどういう意味をもっているのか
わからなかったというのが正直なところなのだけれど、
そういう方法で学んでいく歴史はとても面白く、
しかもそれまで見えてこなかったものを総合的にみていく可能性が
そこで開かれてくる側面があることに気づきはじめているところである。
ちょっと遅きに失したところもあるのだけれど、
あらためて思うのは、歴史を学ぶということは
総合的な視点がないといったいそれが何のことなのか
さっぱりわからないということである。
 
そういえば、最近面白く読んだグレアム・スウィフトの
『ウォーターランド』(新潮社)の主人公が歴史の教師。
削除対象科目とさえみなされようとしている歴史の授業のなかで、
主人公は、その地元、イングランドの水郷フェンズにまつわる歴史を語る。
 
         というわけで、私は私の科目を引き受け、背に負った。というわけで、
        私は歴史をーー手あかのついた広い世界の歴史ばかりでなく、わがフェン
        ズの祖先たちの歴史も、というよりはこちらをとりわけ熱心に、調べはじ
        めた。というわけで、私は歴史に<説明>を求めるようになった。しかし、
        ひたむきに探求するうちに、最初に抱えていたよりもかえって多くの、神
        秘や怪奇、不思議、驚愕の種を発見することとなり、四十年ののちにはー
        ー自分が選んだ学問分野の有用であること、その教育に資するところ大で
        あることを信じて疑わぬにもかかわらずーーー歴史はひとつのお話である
        という結論に達することとなる。そして、私がずっと手に入れようとして
        いたのは、歴史が最後の最後に差し出す危険金塊のごときものではなく、
        <歴史>そのもの、つまり<偉大なる物語>、空虚を満たす埋草、暗闇に
        対する恐怖心を追い払ってくれるもの、だったのではないだろうか?
        ・・・
        人間はーーひとつ定義をしてみようーー物語を語る動物である。人間はど
        こへ行こうとも、その後ろに、乱れた航跡や空っぽの空間をではなく、物
        語という、航路標識のブイみたいな、自分が通ったことの明瞭な証を残し
        て慰めとしたがるものなのだ。人間は物語を語りつづけずにはいられない。
        物語をでっちあげつづけずにはいられない。物語がある限りは大丈夫なの      
        だ。人間は今わの際にさえ、たとえば転落死する直前のーー何分の一秒の
        あいだにもーーあるいは溺死しかかっているときにもーー、自分の一生の
        物語が眼前を駆け抜けていくのを見るという。
        (P93-94)
 
この「物語」を自分を通してはもちろんのこと、
できるだけさまざまな場所や時代の人物を通して見てみること。
その人物を通して時代を眺めてみること。
そのガイド役として堀田善衛という存在はとても貴重だという気がし始めている。
 
ところで、堀田善衛ののこした作品を見てみようと思ったものの、
そのほとんどが書店にはすでに並んでいなかったりもする。
昨今の司馬遼太郎とは対照的で、ちょっと残念である。
死後5年にして、一般の人々の記憶から去ろうとしているかのようにさえ思える。
これだけ大きな人物が忘れ去られるということはないだろうが、
昨今の出版業界の厳しさからいうと、
マス受けしにくそうな堀田善衛だから、そうとも言い切れないところがある。
たとえば、宇佐見英治の著作などにしても読めるものはわずかになってしまっている。
 
ということで、早速古書店で手に入れたのが、
この『めぐりあいし人びと』が語られているときに
連載がされていたモンテーニュについての著作『ミシェル城館の人』全3巻。
モンテーニュといえば『エセー』。
そういえば、数ヶ月前から、岩波文庫にある『エセー』全6巻を
折にふれて読んでいるところでもあったので、
やはりこれも偶然ではなさそうでもあり、
この際、じっくりつきあってみたいものだと思っているところである。
 


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