風のトポスノート426 

 

知覚と想像力の限界について


2002.8.19

 

        荒俣 クックの先輩のマゼランが南米の突端で体験した話。船が岸に近づいて
        も原住民がまるで気づこうとしないのです。そして最初に妙なものが海上に現
        われたと気づくのがウィッチ・ドクターなんですね。魔法医者が見つけて、あ、
        沖にあんな変なものがきたっていうんで。
        奥本 心の辞書に出ていないもの、ありえないものはみえないという……。
        荒俣 ふつうの原住民には、なんかきたなという実感が全然ない。
        奥本 言葉にも概念にもなかったんですね。
        荒俣 ないから。僕、あの話、いま奥本さんがちょうど出してくれておもしろ
        いなと思ったんですけど、人間というのは、さっきの想像力もおんなじなんで
        すけども、知覚の限界があって、どうも「さあみるぞ」とかと身構えないと知
        覚できないっていうことがあるんですね。
        奥本 そして驚きにもスケールと限界があるんですよ。
        荒俣 僕なんか海で魚採ってっても同じ体験します。全然関係のない人連れて
        って、海中を見せるとしましょうか。するとそういう人は、こんなだだっぴろ
        い海をながめて、いったいどこにどういうものがあるのかわからん、といいま
        すね。で、途方に暮れちゃう。でも磯採集者の手にかかると「だまし絵」を解
        くように魚が見えるのです。…その意味で、多くの日常の知覚は偏見か予想の
        延長ですよ。たまたまそれが結果と一致するから、我々には実際にものをみた
        ような錯覚が生じる。ところが新しいものをみせられると、このマヤカシが破
        綻してしまいます。で、みえても「みえなく」なる。
        奥本 そういう人はたいてい、なんにもみずに帰ってきますね。
        荒俣 ほんとうになんにもみないですね。我々からいわせると、ほんとにもった
        いないと思うんだけれども。せっかく「知覚」を広げるチャンスなのに、と。
        奥本 それと逆にいまの子供みたいに、テレビがあったり本があったりして、も
        う先にみて知っているつもりになっていると、それと同じものが、生きているの
        をみてもほんとうに驚くことができなくなるんですね。これもなにもみていない。
        (荒俣宏・奥本大三郎『虫魚の交わり』平凡社/1986.11.14発行/P25-36)
 
人は見たいと思っているものしか見ることができない。
これは、おそらく思っている以上に深い真実である。
 
上記のマゼランの話を聞いても、
その原住民こそが自分のことだとは思わないのではないか。
しかし、多かれ少なかれ私たちはそうした原住民にほかならない。
そういうものは存在するはずがない、
存在するはずがないとさえ考えたことがないものを
人は体験することはできない。
 
人は自分で自分の「現実」だと思っている世界にしか存在しえない。
たとえそれに直面したとしても、
それを別の形に置き換えすり替えたりしながら、
それにまったく気づくことはできないのである。
 
まず自分は日々、自分で見たいものしか見ていない、ということを認め、
それまで見えなかったものが見える可能性に向かって自らを開き、
「驚く」ための準備をしていなければ、
自分の狭い「世界」の裂け目を見つけることはできない。
 
その準備のひとつとして、
たとえば他律的な「そういうものだ」から離れようとする
「自由の哲学」もあるだろうし、
自分がまだ見たことのないものを目にして
「そういうもの」だという存在をうち破り続ける
博物誌的なアプローチもあるように思う。
 
要は、最初から完結した問いと答えのセットを捨てて、
まだ見ぬものについて問い続けるプロセスに身を置くということなのだろう。
そうしないと、ますます「みえても「みえなく」なる」しかないから。
 


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