風のトポスノート425 

 

場における共鳴


2002.8.19

 

        奥本 アフリカのほうでもね、マダガスカルのフタオチョウの裏面と、人間の
        つくる楯の模様がそっくりなんです。はじめ、人間がフタオチョウの翅の裏を
        みて、同じ模様を写したと。ふつうそう考えますね。でもね、実はそうではな
        くて、そこの風土に暮らしていると、チョウも鳥もほかの動物も人間も、同時
        に同じ趣味をもつようになるだろうと。
        荒俣 模倣ということじゃなくてね。
        奥本 模倣じゃなくてそういう趣味にならざるをえない。だからそういう翅や
        羽根がごく自然に使えることにもなると。身につけて違和感が生じない。
        荒俣 土地にしみついた一種の傾向が、全部そういうとこに共通項として出て
        くる事例はあるんですね。
        奥本 同じ土の上で同じ植物を食い、暮らしていると、その動物の肉にもそこ
        の植物の要素が入ってて、調和した味がするわけです。だからフランス人のい
        う、その土地のニワトリをその土地の葡萄酒で煮込むというのは、無限に正し
        いと思う。
        (…)
        奥本 人も虫も鳥もその他の動物も風景に調和するんですね。だって日本のそ
        のへんを、ときどきインコがカゴから逃げて飛んでますけれども、これは実に
        とっぴょうしもない。
        荒俣 場違いですよね。
        (荒俣宏・奥本大三郎『虫魚の交わり』平凡社/1986.11.14発行/P20-24)
 
荒俣宏と奥本大三郎のこの対談は、もう15年以上前にでたものなのだけれど、
読み直してみるとすごく面白い。
 
最近とくにyuccaと岩やら樹やら植物やら虫やら魚やら鳥やら…を
観察する機会が増えてきて、図鑑などもよく見るようになっているのだけれど、
やはり「事実は小説より奇なり」というか、それらのいちいちに驚いている日々で、
もう面白くて仕方ない。
それで、以前買い求めた図鑑やら虫めずる人々の対談やらを本棚から物色していて、
ああこういう面白い話もあったなあ、ということで読み始めた次第。
 
やはり、この二人、ちょっと筋金入りの「虫魚の交わり」。
やっとぼくのほうの理解力も十数年の間にほんの少しだけれど追いついてきたようで、
こうなると、またまた面白いことが増えてしまってちょっと困ってしまい、
こうして書き付けておくことなども面倒になってしまいがちなので、
気のついたことだけでも何か書いておこうということで、少し。
 
ここで引用しているのは、いわば「形態共鳴」的なあり方。
もちろん、生物学者などにいわせると、ほとんど根拠無しとされてしまうだろうけれど、
経験上からいっても、同じ場を共有することで似てくるというのは確かにある。
yuccaが以前話していた「ユカタンビワハゴロモ」なんかもそれ。
犬が飼い主に似てくるとかその逆だかも似たようなもののような気がする。
 
日本産の動物やら虫やらの色彩と
アフリカや南米やらのそれらの色彩の違いなども
どうみても「場」が違うとしかいいようがないところがある。
 
ところで、人間がほかの虫や動物などと違うのは、
人間も同じように場に共振したような在り方をしめすものの
それを自分で意識することやそうでない在り方を
自分で方向づける可能性に対して開かれているということだろうと思う。
この対談の二人がわざわざこうした「虫魚の交わり」をするというのも
その自由のひとつのはずであって、
その部分の可能性を模索していくためにも、
こうした博物誌的な視点をもっておくことは、
とても重要なことではないかと思う。
 


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