読む側もやり切れないと言ったが、実は『道草』を読みすすんでいるうちに、 そのような感情とまったく異なる感情が湧いてくるのを感じる。出世した男に 金をせびりにくる親類縁者、それをめぐっての夫婦のたりとり、いわば「どろ どろした」と形容したくなるような人間関係のしがらみを、細部にわたって丹 念に語りながら、その合間にそれとはまったく逆の、澄んだ空気がふと肌に触 れるような、あるいは清流の流れる音をふと耳にするような、透徹した感じが するのである。 これはいったい、どうしてだろう。筆者は実のところ小説をあまり読まない が、漱石は好きで、若いときに作品はすべて読んだ。どれも好きだったが、こ の『道草』がとくに印象に残り、その後、何かにつけてよく思い出した。中年 になってから読み直してみて、この澄んだ感じが印象的だったのだと思うとと もに、その要因として、このようなことを記述している作者の視点が、実に高 いところにあることに思いいたった。この小説の主人公は健三である。しかし、 その健三のもっと高いところから、お住みと健三から等距離にあると思われる 高さからの発言が、『道草』のなかに認められる。 (…) <「御前は必竟何をしに世の中に生まれて来たのだ」 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答え たくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮 し始めた。何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。 「分からない」 その声は忽ちせせら笑った。 「分からないのはあるまい。分かっていても、其処へ行けないのだろう。途中 で引っ懸かっているのだろう」 「己のせいじゃない。己のせいじゃない」 健三は逃げるようにずんずん歩いた> つまり「御前は必竟何をしに世の中に生まれて来たのだ」という問いを念頭 においているかぎり、そう簡単に「片付く」ことなどないのである。 ではどうするべきか。答えは『道草』全編を通して語られている。「己のせ いじゃない」としか言いようのないたくさんの道草を食わされて生きている。 その細部のひとつひとつを高い視点からしっかり見つめること。「己のせいじ ゃない」と言いつつ、それをやっているのはやっぱり自分なのだ。自分にもわ からない自分を生きることは、その自分を自己と呼ぶならば、自己実現という ことになる。自己実現は到達するべき目的地なのではなく、過程なのである。 (河合隼雄『中年クライシス』朝日文庫/P184-190) そういえば、夏目漱石の作品をほとんど読んだことがない。 そもそも話をくどくどと辿るのが面倒なので小説などもあまり読まない方であるが、 この河合隼雄さんの言葉に少し乗せられたのもあり、 ちょうど手元に昭和3年発行の夏目漱石全集があったので、 そのなかの『道草』を読み始めたところ、 その旧仮名字体や総ルビなども珍しさ面白さも手伝って、 ついつい読み進めてしまうことになった。 たしかに「澄んだ空気がふと肌に触れるような、 あるいは清流の流れる音をふと耳にするような、透徹した感じ」を感じることができた。 やはり、夏目漱石である。 最近になってやっとだけれど、 その言葉から響いてくるなにがしかを感じることができるようになった。 おそらくそれはここで「記述している作者の視点」とでもいえるものを わずかなりとも以前に比べて感じ取ることができるようになったのかもしれない。 やはり人間、『道草』を夥しく食っているぶん、 年を取るというのはそういう側面もあっていいものだ(もちろん、自分比)。 さて、「御前は必竟何をしに世の中に生まれて来たのだ」という問いは ぼくの場合もいつもぼくから去ることがない。 従って、何事も「片付く」ということはない。 「己(おれ)のせいじゃない」と叫びたく思いながらも、 その「道草」というプロセスのなかにぼくはいつもいる。 自分がその「道草」というプロセスに 常にいるのだということに気づけただけでも、 ぼくにとってはなにがしかの救いになっているようだ。 苦しさや悲しさ、面倒くささはまるで去ることはないが、 その去ることがないということに気づけただけでも幸いだということだろう。 そういえば、聖書に「〜は幸いだ」というような箇所があったが、 確かにそういうことはいえそうである。 そして、「答え」が先にないというのも、なんという幸いか。 |
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