風のトポスノート423 

 

ニヒリズムとヒューマニズムの狭間で


2002.8.10

 

        「彼のやってたテレビ・アニメーションというのはね、彼は本来ヒューマニズム
        でないのに、そのヒューマニズムのフリをするでしょう。それが破綻をきたして
        るんですよ、『ジャングル大帝』なんかでね」
        (…)
        ーー僕は一度、手塚治虫にインタヴューしたことがあるんです。で、ヒューマニ
        ズムについてちらっと話したら怒りだしちゃいましてね。「もう、やめてくれ!
        俺についてヒューマニズムと言うな、とにかく。俺はもう言っちゃわるいけど、
        そこらへんにいるニヒリストを持った奴よりもよほど深い絶望抱えてやってるん
        だ」と。
        「ええ、そうだと思います」
        ーー「ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをし
        ているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる」と、もういきなりシリア
        スな顔をして怒られましてねえ。
        「それがね、つまりそのヒューマニズムでないものが、僕らをものすごく掻き立
        てたんですよ。
        ーーそうですよねえ。
        「ええ。だから、昭和二十年代の彼が単行本で出した世界の持っている衝撃って
        いうのは恐ろしいものだったわけですよ。それを『(鉄腕)アトム』がメジャー
        になった途端にね、ヒューマニズムにすり替えたんですよ。で、それが彼の商売
        感覚だと思うんです。それもわかるんですよ。僕らも似たようなことをしょっち
        ゅうやってるから。だけど、それは漫画のときとアニメーションのときは違う。
        アニメーションのときはそのヒューマニズムの問題だけじゃなくて、なんかやっ
        ぱり長屋の大家の義太夫なんだよね。で、現場から聞こえてくる話がそればっか
        りなんですよ」
        (…)
        ーーただ、ニヒリスト=手塚治虫というのは、だけどやっぱり作品にはちゃんと
        しっかり定着していて、そういう作品活動をそれなりにしているからこそ我々は
        感動するわけなんですけれども。
        「そうですね」
        ーーニヒリズムとヒューマニズムというものの狭間にいるというのは、宮崎さん
        もやはり同じような構造の中にいて引き裂かれているわけですけれども。
        「はい」
        (…)
        「僕は少なくとも、ヒューマニズムのフリをした記憶は一回もないです。(…)
        そういういわれのないヒューマニズムでね、なんかこう話をまとめてしまうよう
        なことは、絶対やるまいと思ってますよ。」
        (宮崎駿『風の帰る場所』(ロッキング・オン/P72-76)
 
ヒューマニズムを語れるとするならば、
それは深いニヒリズムを通ってでなければならないように思う。
ニヒリズムの闇の底に沈み込み、沈み込んだがゆえに見えてるもの。
 
現代においては、ヒューマニズムもエコロジーも
ほとんど経済システムのなかに組み込まれてしまっている。
組み込まれてしまっているということは、
ヒューマニズムもエコロジーも、商売にならないと
成立しがたくなっているということでもある。
ボランティアにしても、それで生活している人が増えている。
それが職業化しているということである。
 
神や高次存在を商業化してはならないと
ニューエイジ的な方向を批判していた方も、
そのことを本に書くことで生活をしていた側面があったりもした。
 
そうした矛盾そのものから目をそらすということは、
批判の矛先を自分には向けないということになってしまう。
自己意識の欠落もしくは欺瞞化である。
 
ところで、シュタイナーの社会論などを読んでいたりすると、
自分だけを綺麗事のなかに置くことを戒めていたりするのだが、
おそらくそこにある矛盾を自覚的に生きることの必要性がいいたったのではないか。
 
シュタイナーがもっとも重要視していたのは「精神生活」なのだが、
たとえば賃金を支払うのは商品に対してであって
決して人間の労働力に対してであってはならないという。
「精神生活」は「商品」ではありえないがゆえに、
教育などもそうであるが、その営為を賃金として支払うことはできない。
結局のところ、「精神生活」に対しては、
「商品売買」等において生まれる「余乗」から「寄付」することしかできないわけである。
 
そういう基本的な在り方を純化してしまうと、
人はほとんどまさに霞みを食って生きていくしかなくなるのだが、
商品化された「精神生活」に鈍感になってはならないのも確かで、
「精神生活」をそうした矛盾のなかで商品化して生活する方向性では
みずからの矛盾から目をそらすことはできないように思われる。
つまり、自らのなかにニヒリズムを抱えずには
そういう行為が成立しえないということでもある。
 
そういう意味でも、
「僕は少なくとも、ヒューマニズムのフリをした記憶は一回もないです」
という宮崎駿の言葉はとても重い。


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