風のトポスノート422 

 

数学と詩


2002.8.10

 

        岡 リアリティにいろいろな解釈があって、どれをとるかが問題になった
        という実例はないと思います。リアリティの解釈が問題になるということ
        は、数学では一度も出会ったことがないでしょう。
        小林 物理学者は?
        岡 物理学者はリアリティを問題にしますね。
        小林 それに近づくために、実験をしていますね。証明というものは、間
        接にしろ直接にしろ、リアリティに近づいていくためのものがあるらしい。
        数学でそれに相当するものは何ですか。
        岡 物理学者の場合、リアリティというものは、人があると考えている自
        然というものの本質ということになりますね。それに相当するものは数学
        にはありません。だから見えない山の姿を少しずつ探していくということ
        ですね。ある意味では自然をクリエイトするものの立場に立っているわけ
        です。クリエイトされた自然を解釈する立場には立っていないのです。
        小林 それがあなたのおっしゃる種を蒔くということですか。
        岡 そうです。ないところへできていく。できていく数学を物理では唯一
        の正しい解釈をさぐり当てようとする手段として使うのでしょう。例えば
        アインシュタインはリーマンの論文をそのまま使った。そういうことを数
        学はしない。無いところへ初めて論文を書くのを認める。だから木にたと
        えると、種から杉を育てるということになって、杉から取った材木を組み
        合わせてものをつくるということはやりません。
        小林 そうですか。そうすると詩に似ていますな。
        森 似ているのですよ。情緒のなかにあるから出てくるには違いないが、
        まだ形に現われていなかったものを形にするのを発見として認めているわ
        けです。だから森羅万象は数学者によってつくられていっているのです。
        詩に近いでしょう。
        小林 近いですね。詩人もそういうことをやっているわけです。それはど
        いうことかと言いますと、言葉というものを、詩人はそのくらい信用して
        いるという、そのことなのです。言葉の組み合わせとか、発明とか、そう
        いうことで新しい言葉の世界をまたつくり出している。それがある新しい
        意味をもつことが価値ですね。それと同じように数学者は、数というもの
        が言葉ではないのですか。詩人が五十音に対するような態度で数というも
        のをもっているわけですね。
        岡 言葉が五十音に基づいてあるとすれば、それに相当するものが数です
        ね。
        小林 新しい数をつくっていくわけですね。
        岡 数というものがあるから、数学の言葉というものがつくれるわけですね。
        (岡潔・小林秀雄『対話 人間の建設』
         新潮社/昭和40年10月20日発行/P130-132)
 
詩のポエジーは数学ににている。
それは外的な対象のミメーシス表現ではないからである。
シュタイナーが対象のない思考の必要性を示唆しているのにも通じている。
 
「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」こと。
それはただ形が見えない、音が聞こえていない、というのではなく、
むしろ「クリエイト」していくということである。
もちろんそれは単なる恣意的なものではない。
その「クリエイト」は、その「個」的に「種」を植えることで
「普遍」へと伸びていく生成のこと。
 
おそらく自然学における「観察」においてもっとも重要であるのも、
そうした「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」ことである、
ということを忘却したとき、
それらは単なる「物理」になってしまうことになるのだろう。
DNAがすべてを決めているとか、
環境がすべてを決めているとかするのも、
そうした忘却のゆえのものでしかない。
 
見えないものを見たいと思う。
聞こえないものを聞きたいと思う。
そこに数学の衝動があり、
また詩の衝動がある。


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