小林 このごろ数学は抽象的になったとお書きになったでしょう。私は数学は 何もわからないが、私ども素人から見ますと、数学というものはもともと抽象 的な世界だと思います。そのなかで、数学はこのごろ抽象的になったとおっし ゃる。不思議なこともあるものだ。抽象的な数学のなかで抽象的ということは、 どういうことかわからないのですね。(…) 岡 それは内容がなくなって、単なる観念になるということなのです。どうせ 数学は抽象的な観念しかありませんが、内容のない抽象的な観念になりつつあ るということです。内容のある抽象的な観念は、抽象的と感じない。ポアンカ レの先生にエルミートという数学者がいましたが、ポアンカレは、エルミート の語るや、いかなる抽象的な概念と雖も、なお生けるがごとくであったと言っ ておりますが、そういうときは、抽象的という気がしない。つまり、対象の内 容が超自然界の実在であるあいだはよいのです。それを越えますと内容が空疎 になります。中身のない観念になるのですね。それを抽象的と感じるのです。 小林 そうすると、やはり個性というものもあるのですね。 岡 個性しかないでしょうね。(…) 私の数学の世界ですね。結局それしかないのです。数学の世界で書かれた 他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書い てある。一人一人みな別だと思います。ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以 外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、 いいものには普遍的に共感する。個性はみな違っているが、他の個性に共感す るという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そう いう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳だと 思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのま までないと、出しようがないと思います。…個性的なものを出してくればくる ほど、共感がもちやすいのです。 (岡潔・小林秀雄『対話 人間の建設』 新潮社/昭和40年10月20日発行/P22-24) 数学と個性。 というと矛盾していそうにも感じられるけれど、 たぶんそうじゃない。 「内容のない抽象的な観念」と 「内容のある抽象的な観念」との違いを 感じとることさえできるならば、 前者には個性がなく、 後者には個性のあることがわかる。 つまり、「内容のある抽象的な観念」とは 「対象の内容が超自然界の実在である」ということ。 その違いを感じ取ること。 個性、Individualitaetは、分けられないということ。 おそらく単なる抽象は分けることができたように思え、 生きた抽象はどうしても分けることができないところに行き着く。 そして、分けることのできない個性があるゆえに、 つまり、孤(個)独でありえるということにおいて、 人はその孤独の底に流れている普遍につながることができ、 その普遍を通じて、一人と一人との共感へと至ることができるのだろう。 |
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