風のトポスノート420 

 

個性と普遍


2002.8.10

 

        小林 このごろ数学は抽象的になったとお書きになったでしょう。私は数学は
        何もわからないが、私ども素人から見ますと、数学というものはもともと抽象
        的な世界だと思います。そのなかで、数学はこのごろ抽象的になったとおっし
        ゃる。不思議なこともあるものだ。抽象的な数学のなかで抽象的ということは、
        どういうことかわからないのですね。(…)
        岡 それは内容がなくなって、単なる観念になるということなのです。どうせ
        数学は抽象的な観念しかありませんが、内容のない抽象的な観念になりつつあ
        るということです。内容のある抽象的な観念は、抽象的と感じない。ポアンカ
        レの先生にエルミートという数学者がいましたが、ポアンカレは、エルミート
        の語るや、いかなる抽象的な概念と雖も、なお生けるがごとくであったと言っ
        ておりますが、そういうときは、抽象的という気がしない。つまり、対象の内
        容が超自然界の実在であるあいだはよいのです。それを越えますと内容が空疎
        になります。中身のない観念になるのですね。それを抽象的と感じるのです。
        小林 そうすると、やはり個性というものもあるのですね。
        岡 個性しかないでしょうね。(…)
          私の数学の世界ですね。結局それしかないのです。数学の世界で書かれた
        他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書い
        てある。一人一人みな別だと思います。ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以
        外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、
        いいものには普遍的に共感する。個性はみな違っているが、他の個性に共感す
        るという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そう
        いう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳だと
        思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのま
        までないと、出しようがないと思います。…個性的なものを出してくればくる
        ほど、共感がもちやすいのです。
        (岡潔・小林秀雄『対話 人間の建設』
         新潮社/昭和40年10月20日発行/P22-24)
 
数学と個性。
というと矛盾していそうにも感じられるけれど、
たぶんそうじゃない。
 
「内容のない抽象的な観念」と
「内容のある抽象的な観念」との違いを
感じとることさえできるならば、
前者には個性がなく、
後者には個性のあることがわかる。
つまり、「内容のある抽象的な観念」とは
「対象の内容が超自然界の実在である」ということ。
 
その違いを感じ取ること。
 
個性、Individualitaetは、分けられないということ。
おそらく単なる抽象は分けることができたように思え、
生きた抽象はどうしても分けることができないところに行き着く。
 
そして、分けることのできない個性があるゆえに、
つまり、孤(個)独でありえるということにおいて、
人はその孤独の底に流れている普遍につながることができ、
その普遍を通じて、一人と一人との共感へと至ることができるのだろう。


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