風のトポスノート418 

 

天地創造の証人


2002.8.6

 

         あるとき、外国人の集まりに臨んだ晩年の先生は、「バイブルに、神が、
        光あれ、といわれたら、光があらわれて、夜と昼とができた、とあるが、
        いったいだれがそれを見ていたのか?」という質問を発せられました。会
        衆一同、なにをばかなことをいい出すかというような顔をするだけで、た
        れ一人としてこの問いに答えられる者はいませんでした。先生は後で筆者
        にいわれました。禅録なら、さしずめ「大拙自ら代わって云く」というと
        ころです。
         「わしはいった。わしが見ているのだ。このわしが、その証人なんだ、
        とね。外ならぬわれわれのこの心(即心)に、そのはたらきがあるのだ。
        わしらは、時々刻々にそれを行じているのだ」。
        (上田閑照・岡村美穂子編『鈴木大拙とは誰か』岩波現代文庫所収
         P95/秋月龍みん「鈴木禅学の基本思想」)
 
今日は、57回目の原爆忌。
広島市の秋葉市町の「平和宣言」を聞きながら、
この鈴木大拙のエピソードを思い出した。
いかに人間は創造的であることか。
 
「報復」によって正義を誇示するのも、
またその連鎖を断ち切るのも人間がそうするのだ、ということ。
そして、戦争か平和か云々というような事だけではなく、
すべての人が時々刻々、世界を創造している「証人」なのだ。
その内容如何によらず……。
 
でき得るならば、
その「はたらき」に気づき、
少しなりとも自分なりに臨めればと思う。
 
よく順境のときと逆境のときにその人のとる態度が
その人となりを表わすということがいわれるが、
昨年の9月11日の事件のようなことがあると、
それがたとえばまったく個人的なことであったとしても、
それに対してどうするかによって
そのひとがなにを「創造」しようとしているかが見えてくるところがあったりする。
 
さて、時々刻々、ぼくはなにを「創造」しているか。
「神よ、この者は自分で何をしているのか知らないのです」
といわれかねない自分であることは避けたいと思いながらも…。
 


■「風のトポスノート401-500」に戻る
■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る