あるとき、外国人の集まりに臨んだ晩年の先生は、「バイブルに、神が、 光あれ、といわれたら、光があらわれて、夜と昼とができた、とあるが、 いったいだれがそれを見ていたのか?」という質問を発せられました。会 衆一同、なにをばかなことをいい出すかというような顔をするだけで、た れ一人としてこの問いに答えられる者はいませんでした。先生は後で筆者 にいわれました。禅録なら、さしずめ「大拙自ら代わって云く」というと ころです。 「わしはいった。わしが見ているのだ。このわしが、その証人なんだ、 とね。外ならぬわれわれのこの心(即心)に、そのはたらきがあるのだ。 わしらは、時々刻々にそれを行じているのだ」。 (上田閑照・岡村美穂子編『鈴木大拙とは誰か』岩波現代文庫所収 P95/秋月龍みん「鈴木禅学の基本思想」) 今日は、57回目の原爆忌。 広島市の秋葉市町の「平和宣言」を聞きながら、 この鈴木大拙のエピソードを思い出した。 いかに人間は創造的であることか。 「報復」によって正義を誇示するのも、 またその連鎖を断ち切るのも人間がそうするのだ、ということ。 そして、戦争か平和か云々というような事だけではなく、 すべての人が時々刻々、世界を創造している「証人」なのだ。 その内容如何によらず……。 でき得るならば、 その「はたらき」に気づき、 少しなりとも自分なりに臨めればと思う。 よく順境のときと逆境のときにその人のとる態度が その人となりを表わすということがいわれるが、 昨年の9月11日の事件のようなことがあると、 それがたとえばまったく個人的なことであったとしても、 それに対してどうするかによって そのひとがなにを「創造」しようとしているかが見えてくるところがあったりする。 さて、時々刻々、ぼくはなにを「創造」しているか。 「神よ、この者は自分で何をしているのか知らないのです」 といわれかねない自分であることは避けたいと思いながらも…。 |
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