☆Chitose Diary 『写真週刊誌』2002/05/24 私は今回、写真週刊誌に自分が取り上げられたことに とても腹がたっています。 特定の男性とお付き合いもしておりませんし、一緒に暮らしている事実もありません。 彼は奄美の大切な友人のひとりです。 この記事のために私が大切にしているお友達や家族が深く傷つけられたことに ほんとうに腹がたち、また私も深く傷つきました。 「報道」という名のもとに、人の住所を調べたり、こっそり写真を撮り、 事実と違うようなことを思わせる記事を書くことは間違っていると思います。 私は「なぜ島唄を仕事にしなかったのか」と聞かれた時に 「人のいのち(生活)を使って自分のいのち(生活)を支えていくことは 考えられなかったからです」と答えます。 今回の記事のように人のいのち(生活)を使って、自分のいのち(生活)を 支える人がいるということを知ってとても残念です。 私を純粋に応援してくれている人たちにこの記事を本当のことかと思われるのが とても悲しいです。 けれども、私はメゲないで楽しくこれからも本当の歌を歌っていきます。 心配しないでください。 http://www.office-augusta.com/hajime/chitosediary/index.html 今話題の元ちとせが先週放送のラジオ番組で、 パーソナリティの「あなたのいちばんの宝物はなんですか?」という質問に、 「じぶん、かな…」という答えをしていて、 一瞬、パーソナリティを戸惑わせていたのが印象に残っている。 そしてその戸惑いを感じ取って、「…ごめんなさい」というフォローまでしていたりした。 じぶんを宝物だと思うことができるならば、 おそらく「人のいのち(生活)を使って自分のいのち(生活)を支えていく」ような 「報道」のあり方は決してできないだろう。 ひとはおそらくじぶんを宝物だと思いたいにもかかわらず、 それができないために、どこにもない類のものを宝物にし、 それが得られないことがわかると、 または、それを得たとたんにそれが宝物でないことに気づき、 また新しい宝物を探そうとする。 最近はやりの「自分さがし」というのも、 その多くはおそらく自分を宝物だと思えないために、 別のところにある影を「自分」という宝物だと思い込んでいるためなのではないか。 だから、自分が少しでも害されたと思い込むと過剰反応で応えてしまったりする。 そうした過剰反応はほとんどが自分のシャドーとの闘いでしかないのだけれど、 当人はそのシャドーを自分が戦うべき相手だとして怒りを向けたりする。 先の「報道」の人もそうしたシャドーと戦う人も、 ことばや歌のほんとうをきけない人なのだろうという気がする。 そうした人達の宝物はいったい何なのだろう。 その問いに対して、おそらく内心、汗をかきながら、 その答えを探している姿を思い浮かべることはそう難しいことではない。 ぼくにしても、その質問に対して答えることばを持ち得ない気がするのは、 現代という時代の一つの病の反映でもあるのかもしれないけれど…。 |
■「風のトポスノート401-500」に戻る ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る ■神秘学遊戯団ホームページに戻る |