風のトポスノート415 

 

どこへでもどのようにでも赴ける


2002.7.17

 

        ようするに『遊』とは
        どこへでもどのようにでも
        赴けるということである。
        (「いとへん」編集工学研究所 HPより「Seigow自著本談」
        http://www.eel.co.jp/03_wear/02_selfread/index.html
        のページに雑誌『遊』のコンセプトとして置かれている文字から)
 
松岡正剛編集による雑誌『遊』。
それをはじめて知ったのは第二期になってからだけれど、
その存在は、ぼくのなかに深く影響している。
「神秘学遊戯団」の「遊」もそのひとつ。
 
「どこへでもどのようにでも赴ける」ということは、
垣根を超えて自在に「横断」するということでもあるが、
なんでもいいからつなげていこうというような恣意性ではなく、
そこには「編集」という創造性がなければならないように思う。
それを「遊」ということができるのだと。
そうでないと、どこかに赴いてもそこがどこなのかわからないし、
その赴いた場所とのコラボレーションもできない。
それをぼくは「ポエジー」という言葉で表現してみることもあるが、
それはなかなか図式的な仕方で表現するのはむずかしい。
 
「どこへでもどのようにでも赴ける」とはいえ、
ぼくのような腰の重い存在は、あまり動かなかったりする。
こうしたネットでも、面倒なのもあり、
あまり積極的にネットワークしなかったりもする。
しかし、こうしたネットがなければ、
今以上にものぐさだったろうことを考えると、
ぼくにしてみれば、このネットの存在によって、
ほんのわずかではあるが、「遊」の可能性を、
お散歩程度ではあるが広げてみることもできるのかもしれない。
 
しかし、天井や空を眺めたり、岩石のかけらを眺めてしているような仕方でも、
ぼくには「遊」である可能性を広げてみることもできる。
ハムレットの「胡桃の殻に閉じこめられても…」の科白のように。
むしろ、わけもなくレミングのような暴走をしているときには、
そうした「遊」である可能性が閉ざされている。
どこに赴いてもどこにも赴くことができていないということになる。
 
どこかに赴けるということは、
逆説的だけれど、
自分のなかにその場所がなければならない。
太陽を見るのは眼にすでに太陽がなければならないように。
 


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