風のトポスノート414 

 

「自分がない」のメリット


2002.7.13

 

        「自分がない」ということを「悪いこと」としか考えないと分からなく
        なるが、「自分がない」には、それなりのメリットがあるのである。だ
        からこそ、「自分」のない人達は、平気で「自分」がない。
        「自分がない」ということは、「孤独がない」ということである。
        「自分」がなくても、自分の生活、あるいは人生に不都合がないーーそ
        ういう現実があるから、「自分がない人」は、平気で「自分」を欠落さ
        せていられるのである。
        「自分」はない。その代わりに、自分の所属する「全体」がある。その
        「全体」の一員でありさえすれば、すべては機能的に動くーーだから、
        「自分」は必要とされない。必要なのは、その自分を動かしてくれる
        「全体」なのである。
        (橋本治「「他人」という基準、「自分」という基準」
         「考える人」創刊号2002.Summer新潮社よりP71)
 
「自分」がなくて「全体」がある集合魂には「メリット」がある。
それは確かだ。
そのことを忘れるわけにはいかない。
「メリット」がないのに、いつまでも集合魂的でいようとするはずがない。
 
列車の駆動部分が自分になくても、
客車は引っ張られていくことでレールを進んでいくことができる。
自分のなかに苦心惨憺してあえて駆動部分をつくらなくても
ひっぱってくれるのだからそれについていけばいい。
自分で自分を動かそうとすると、
どこにいったらいいかわからないし、
ひょっとしたらとんでもないところに行ってしまうかもしれない。
そんな恐れからも自由であることができるし、
とんでもないところに連れていかれても、
それは自分で行ったのではないのだから、自責を感じないでもすむ。
そういう「メリット」というのはやはり無視できない。
 
そういう「メリット」を自分からあえて捨てて、
自分でやってみよう、というのが個別に育とうとしている「自我」で、
それだけに間違いも多いだろうし、暴走もする。
だったら、そういうのなしでやったほうがずっといい。
そういう発想がどうしてもあるのは致し方ない。
 
キリストはあえて「剣」をもって、
そういう「メリット」を切ろうとした存在としても理解できるが、
その衝動が理解されがたいのは、
つまり、剣をふるって家族とかいう仲良し関係を切っていくというのを
愛とか呼んだりすることが理解されがたいということである。
 
「だからこそ、「自分」のない人達は、平気で「自分」がない。」
し、キリスト衝動という、シュタイナーの精神科学にとって
中核にある衝動に関してもそれを「キリスト教」的に曲解して
避けて通ろうともしたりする。
 


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