諸先生方の意向や出版社の思惑、新聞社の権力などを一足跳びに無視 できるインターネットという方法は、言葉の自由のためには画期的なの ではなかろうかと、当初は私も思ったのである。 けれども、やはり、必ずしもそうではない、らしい。なにしろ私は見 たことがないのでよく知らないのだが、ちょっと考えれば、当然である。 愚劣な力関係から自由になったところで、その人の精神が同じく愚劣な ままなら、そこに書かれる言葉もやはり愚劣であるに決まっているから である。いや、ひょっとしたら、「愚劣であることの自由」とは、事態 はいよいよ最悪なのではないだろうか。 「ホームページ」というのは、つまるところ「自己表現」ということら しいのだが、その表現されるところの自己がナンボのものか、それが問 題なのである。なるほど表現することは自由だが、言語とはそれ自体が 精神に課するところの必然、必然的形式である。そのことを認識し、自 己として自覚することによって、その精神は言語となる。したがって、 表現されるところのものは必ずしも「自己」ではない。それを自己と呼 ぶとするなら、大文字の「精神」である。何をして楽しかったとか、ア タシ悩んでいることがあるの、といったこととはおよそ関係がない。 にもかかわらず、世の多くの人は、そういった類のことを言葉で書い て発表することを、「自由に自己表現すること」だと思っているらしい から、世のホームページなるものは、おおかたそんな具合なのだろう。 (池田晶子『ロゴスに効け』角川書店/平成14年6月20日発行/P16-17) どんな道具もそれなりに役に立つわけだけれど、 それを持つ人次第でときにはまるで異なった道具となる。 鉛筆一本もっても、包丁一本もっても、 はたまたインターネットをすることができても、 それはその持つ人がそのできることを決めることになる。 包丁をもって料理する人もいれば、 人を刺してしまう人もいて、 人を傷つけるかもしれないから包丁は持たない という考えの人もいるかもしれないように、 インターネットもそれをする人、しない人、 したくない人、それぞれである。 そして、インターネットというわりと便利な道具が使えるからといって、 その人は相変わらずその人であることに違いはないのであって、 それは絵筆と絵の具があったからといって素晴らしい絵が描けたりはしないように、 たとえばただただ集まって井戸端会議をするのが好きな人は、 インターネットを使っても同じことしかないだろうし、 それだけではないとしても、その人の発想の範囲は そこから見渡せる程度の範囲を出ないのではないだろうか。 それはインターネットに限らずあらゆることにいえることで、 要はそれでどうするか、自分はどうあるか、ということである。 それで自由になりうる人は自由に向かって開かれている人であり、 それで不自由になる人(わがままにあばれる人もそう)は ただその人は最初からそういう人だったということなのである。 だから、たとえば、インターネットという場に対して そこには匿名の人が集うからと不信感などを持つ人なども、 インターネットだから不信感を持っているわけでははなく、 匿名の人は何をするかわからない、 だからすべての人を自分の監視下に置くことで 安心したいというだけのことである。 要は、何にせよ、そこで自分の姿が いろんな形で浮き彫りにされやすいということ。 インターネットが今までのメディアよりも 少しなりとも面白いところがあるとすれば、そのことなのかもしれない。 |
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