「規則の中で暮らすのは女学校時代でたくさん」。世界的に知られる抽象画家・ 水墨作家の篠田桃紅さんには「自由人」という言葉が似合う。昨年話題になった 自伝エッセー『桃紅』に続き、この春には描き下ろし『桃紅えほん』(世界文化 社)を出版。89歳にしてますます元気、旺盛、闊達。「自由」と「無為」から エネルギーが沸いてくるように見える。 (…) 「決まりというものが一つもないのよ、私の生活には」。一度も「転校」した ことがない筋金入りの「自由」主義者は、むしろ凛としている。 (朝日新聞2002年6月11日/筆から生まれた「絵そらごと」(中島哲郎)) この記事にはとても感動して、 90歳近くなった篠田桃紅さんの写真なども印象に残っていたのだけれど、 yuccaもやはりぼくと同じことを感じていたらしく、 この記事を切り抜いて見せてくれたりした。 もちろんこうまで「自由人」であるのは難しいのだけれど、 こういう方がいるということだけでもとてもうれしい。 「規則」「決まり」というのは人のためにあるはずなのに、 それは往々にして、というかほとんどの場合、逆転してしまうところがある。 この記事のなかにはこういうエピソードも語られている。 規則や決まりごとへの抵抗感、嫌悪感、「自分流」へのこだわりは徹底してい る。「女学校の時、目立つスカートをはいていたら女の先生に注意された。 『でも、先生これは私に似合うでしょ』って聞いたら、『似合うとか似合わな いなんて言うのが、もう不良の始まりです』って言われた」 「不良の始まり」。 たぶんこういう「不良」を許さないで、 なんらかの色で一色に塗ろうとしてしまうところに、 教育やら世間やらの問題があるんだろうなという気がする。 規則や決まりとかは、ないに越したことはない。 民主主義とかいうのもそうだけれど、それなんかも決して最善のものではなく、 むしろ最悪を避けるためのひとつの仕方のない方法論でしかないのに、 それが前提であるかのように語られたりもする不思議。 組織とかも、この規則や決まりとかと似ていて、 なければないに越したことはないはずなのに、 まず組織ありき、とかいうことになってしまったりする。 そして、組織の論理ですべてが動いてしまったりする。 男や女や親や先生やそうした属性なども、 それがなによりも優先するものであるかのような顔で闊歩したりするし、 それを自分のなかで「決まり」だとしてしまう。 それが「似合う」かどうかなど「不良の始まり」であるかのように。 自分のなかにある、「規則や決まり」をこの際、問い直してみて、 「不良」になってみることからはじめないと、 なんだかんだと、結局、規則や決まりや組織、さまざまな属性たちは、 わがもの顔に「べき」「ねばならない」を連呼しようと構えている。 「不良」になる勇気は、「自由」への勇気。 自由をこわがるからこそ、「不良」といわれることをこわがるのだろう。 ぼくもできることなら、90歳になるころには、 篠田桃紅さんのように、 「決まりというものが一つもないのよ、私の生活には」 と言えるような自分になっていたいものだ。 |
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