風のトポスノート408 

 

体の音楽・心の音楽・魂の音楽


2002.5.25

 

        武久 (…)僕らが日本語で「心」と言っているようなものを、英語やドイ
        ツ語で何とか表現してみようと思うわけですけど、なかなか上手くいかない。
        それで、僕は三つに分けましてね、音楽にはどうも「体の音楽」と「心の音
        楽」と「魂の音楽」があるんじゃないか。そう分けると比較的上手くいくん
        です。僕の定義は単純で、体というのは言葉以前の次元、心というのは言葉
        の次元。そして、魂というのは言葉以後というか、言葉以上だから言葉にな
        らない次元なんです。(…)
         「体の音楽」とは、動物的次元も含めて、人間であれば、つまり二本足で
        歩いている人だったら、誰にでも共感できる音楽です。リズムにのるとか、
        体を動かしたくなるとか、体が熱くなるとか。(…)
         次にもうちょっと音楽が、いわゆる芸術的になってくると、何かを表現す
        るということになります。意味を持つという次元ですね。こうなると言葉が
        介在してきます。これが僕の言う「心の音楽」です。心で思うことは一応言
        葉で言える。しかし、言葉というのは、僕らは分かっているようで全然分か
        っていないとも言えます。(…)
         音楽は言葉の違いを超えることができる、言葉が分かり合えなくても直接
        理解し合える次元がある。つまり、頭を越えて天にまで行ったら一つになっ
        ているのかもしれない、という希望を持った時に、僕は自信をちょっと取り
        戻したような経験をしました。僕はこれが「魂の音楽」の次元だと思ってい
        て、この段階で初めて音楽には国境がないと言えるんですけど、いきなりこ
        こには行けないんですね。というより、行くべきじゃないんです。
         もう一つ重要なことは、三つの次元が音楽にはあるといっても、音楽が三
        種類あるわけじゃないということです。一度の音楽行為の中に、今申しまし
        た三つの要素が全部あるわけです。つまり、三位一体ですね。(…)
         音楽って限りなく荒唐無稽なところがありますから、いろんなものが予期
        せず伝わっちゃいます。音そのもので伝わるものもあるけど、音と音の間か
        ら伝わるものもあるんです。僕はよく生徒に教える時に、「音と音との間に
        注意しなさい」って言うんですよ。音は実体としてそこにある。でもそれが
        ある形になっちゃたら、もうそこまでのこと。ここにコップがあると言った
        として、相手もコップがあるね、と納得したところで一応完結です。でも、
        その「音と音との間」「言葉と言葉の間」に無限の何かがあって、それがい
        っぱい詰まっていたり、ものすごく空虚であったりします。空虚といっても、
        ほんとにわびしい空虚と、なんかすごく幸せな空虚と、これまたいろんな空
        虚がある。そうなると、音と音との間にあるものなんていうのを言葉で表す
        のはものすごく大変です。
        (武久源造『新しい人は新しい音楽をする』
         ARCアルク出版企画/P151-154)
 
ここで使われている体、心、魂という言葉を
体、魂、霊ということもひょっとしたらできるかもしれないのだけれど、
心とか魂とかいう言葉の使い方は、
それが使われているシチュエーションを見ておかないと、
誤解したままということもありえるので、気をつけたい。
 
ところで、ここでとくに、大事なことだな、と思ったのは、
音楽は言葉の違い、つまり心の音楽を超えて
「直接理解し合える次元がある」のだけれど
「いきなりここへは行けない」し、「行くべきじゃない」というところ。
音楽にはプロセスがあって、そのプロセスを無視したところでは、
音楽が成立しなかったりする。
音楽の三位一体のプロセスの重要性。
 
そういえば、ヒーリングミュージックというのが最近は流行っているけれど、
ともすればそう称するものが、音楽としてはつまらないものになるのは、
そこにしっかりした「体」の音楽がなくとても貧しいからかもしれない。
精神世界的な言葉や表現の陥りやすい貧しさにしても、
それらは「いきなり」高次のものに行こうとするために
肝心の土壌・根っ子・大地がスカスカになってしまうからなのだろう。
おそらく、体ー魂ー霊というのは、豊かな体性と豊かな霊性を
しっかりとリンクさせる魂性の三位一体によってはじめて、
そこに創造的な可能性が開かれてゆくのだろう。
 
おそらくそれは、たとえば「感覚」などについてもいえる。
「超感覚」とか表現されるものも、そうしたプロセスが重要で、
「体」の次元の感覚が基礎になって、
「魂」の次元、「霊」の次元の感覚が展開されていく。
というか、そのプロセスをふまえた三位一体によって、
感覚の創造的なあり方が可能になるのではないだろうか。
 
また、「個」ということに関しても、
そうしたプロセスによって展開生成する三位一体があって、
この地上において、肉体を持って生きていることは、
個別の身体をもってその身体において自我が成長し、
その「個」というペルソナ(個性/仮面)が基礎になる。
その「個」にも「体」の次元、「魂」の次元、「霊」の次元があって、
そこに高次においても失われない「個」の三位一体がある。


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