風のトポスノート407 

 

感覚を磨くこと・開くこと


2002.5.25

 

         味を構成する要素は、甘味、塩味、酸味、苦味、うま味の五つ。
         このうちの甘味やうま味は、生まれたばかりの乳幼児でも判別できるという。
        エネルギーになる糖(甘味)やタンパク質の成分であるグルタミン酸(うま味)
        などは、生命維持に必要な基本的要素だからだ。それに対して、酸味は食物が
        腐敗しているサインであり、生物にとって危ない味。苦味も同様に危険な味で
        あり、通常子どもは好まない。私たち人間は後天的な食環境・文化の中で、酸
        っぱさや苦味の楽しみ方を学習していく。
         日本人には馴染み深い「うま味」が、じつは約百年前に発見された新しい味
        だということを、ご存じだろうか。
         1908年(明治41年)東京帝国大学・池田菊苗教授は「昆布だし」のお
        いしさの正体が「グルタミン酸」であることをつきとめ、「うま味」と名付け
        た。五つの基本味が世界共通の味、と考えてはいけない。昆布だしなど食べた
        ことのない欧米人には「うまい」という味覚がない、ということ。
        (SWEET,SALTY,SOUR,BITTERのルートは日本人と同じだが、ダシの素のル
        ートは味覚野の神経細胞(一時、味覚細胞を発現しているが)にまでは通じて
        いるが、前頭葉連合野の神経細胞(覚識界)へは通じていない。言語中枢に
        「旨い」ということばで興奮する細胞がない……ダシの素文化がないからであ
        る。「旨い」ということばがないからである)(高木雅行「うまいの構造」ー
        ー『大航海』No.9)
         味覚は生活文化の中から構築されてきた。「うま味」という感覚が、そのこ
        とを証明している。    
        (山下柚実『五感生活術』文春文庫240/P95-96)
 
感覚と言語(文化)との関係は興味深い。
言葉が存在しないとき、それに対応する感覚は存在しない、
もしくは存在しているとしても潜在的にしか存在していない、
分節化していない、ということがいえる。
 
日本人は虫の音に耳を澄ませるが、
それは、たとえば「ちんちろちんちろちんちろりん」、
というような音が言語化されていることで、
それを雑音としてではなく有意味的に聴き取ることができる。
それは逆にいえば、有意味的であるとする感覚があるがゆえに
それを言語化しているともいえるのであるが。
 
もちろんここではすべてを言語化するのがいい、
ということがいいたいのではなく、
感覚はそのままで感覚である、のではなく、
まずはそれを育てる(文化的)環境が必要であるし、
さらにはそれを育て磨いていくことで、
その潜在的な可能性に向かって開いていくことが
可能なのではないかということである。
 
この引用例では、味覚がとりあげられているが、
味覚に限らず、聴覚、嗅覚、視覚、触覚も(もちろんその他の感覚も)
それはそのままでそこにあるというようなものではなく、
積極的に開いていくことができるし、
そうしないならば、それらはルーティーン化し、鈍磨していくことになる。
 
そのためにも、今自分が意識的にとらえられていない感覚、
言語化しにくい感覚などに向かって、
自らの感覚を開いていくことは非常に重要なことではないだろうか。
たとえば、聴けないと思い込んでいる音楽を聴けるようにする、
わからないと思い込んでいる絵画を鑑賞してみる、
食わず嫌いという思いこみの壁を超えてみる、ことなど。
 
新たな言語を学ぶということによっても、
その言語が豊かに開示してくれる諸感覚の可能性を得ることができる。
たとえば、欧米の人たちが日本語や韓国語を学ぼうとすれば、
たとえば敬語とかいう難解なものに直面せざるをえなかったりもする。
日本語の「私」を意味する言葉の多様性もそうである。
 
シュタイナーの示唆した十二感覚についても、
五感という感覚だけでは開示されない世界が
そこには豊かに広がっている。
たとえば、言語感覚や熱感覚など。
 
そういう意味でも、「世界」は、
私たち自身が開こうとする感覚に応じてしか
開示されないということができる。
感覚が貧しいということは、世界が貧しいということに他ならない。
「思考」に関しても同じである。
 


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