子どもを育てる時には…… 漢字を若い頃に教えちゃうとか、 計算を教えちゃうとか、 幼稚園なのに微分積分をできちゃうとか、 そういう能力を高めるということは、 実はそのぶん、可能性を狭めている危機にも とても近いところにいくのではないかと思います。 そのことさえ忘れなければ、どんなふうに教育されても、 いいんじゃないかなぁ、と考えております。 ひとつの能力に固執するあまりに ほかの能力を伸ばすポテンシャルを削ることには、 割と興味があります。 「ポテンシャル」って、実際には、年を取ってからも 持ちつづけなければいけないものだと、 ぼくとしては、考えているんです。 ぼくはいま三一歳だけど、まだ ポテンシャルが残っていると思っているわけで…… だからこそ、生きていくことができるんです。 ポテンシャルや可能性がなくなってしまった人に これ以上生きろと言っても酷なところがあって、 生きる活力ってなんだろうという問題になると思います。 余分なものごとに目を向けなくなるのは、 ある方向から見ると、成長だと言えます。 しかし同時に、余分なほうに向かう可能性も削っている。 (「ほぼ日刊イトイ新聞」5/21 「海馬。」 池谷裕二(東京大学薬学部)第7回「脳に関する質問に、おこたえします」より) 進化の袋小路とかいうのがあって、 ある部分が特殊化していくと元に戻れなくなってしまうというのがあるらしい。 人間の成長というか可能性というのも、それに似たところがあるのかもしれない。 どこかを特殊化してしまうと後戻りというか、 それ以外の可能性をどんどん閉ざしてしまうことになる。 そういう意味で、ある種の早期教育をやりすぎて、 可能性のすそ野を広げていく前に能力を特殊化してしまう方向にいくと、 たぶんここでいう「ポテンシャル」を奪ってしまうことになるのではないだろうか。 たとえば水平にも垂直にも360度(円の中心にいる感じで)見渡せる可能性があるのに、 その可能性をスポイルさせて見えないようにしてしまうということ。 認識の自己限定ともいえるかもしれない。 そういう意味では、ここで述べられているように、 「そのことさえ忘れなければ、どんなふうに教育されても、いいんじゃないかなぁ」 というか、特定の教育にこだわる必要もないんじゃないかという感じがいつもしている。 むしろ全体としてはアバウトでいたほうがあとで楽なのではないかと。 重要なのは、関心領域を狭めようにないすることだし、 自分でなにか考えようとしたときにはそれができるように、 最低限の準備をしておくことのような気がしている。 まあ、ぼくはこれまであまり学校のような特殊な勉強をしてこなかったし、 「余分なものごと」にばかり目がいっていたので、 そういう意味(だけ)でいえば、「ポテンシャル」はいまだにあるかもしれない(^^;。 たぶん、その「ポテンシャル」のまま終わってしまうんだろうけど、はは。 とはいえ、「生きる活力」っていうのがそんなにあるともいえないところがあって、 ずっと、こりゃ困ったな、という状態だけど、なんとか生きてるからいいか、なんて(^^;。 ところで、今「ほぼ日」で連載されている「脳」に関する話はかなり面白い。 この連載のなかで紹介されている糸井重里との話は、 池谷裕二『海馬/脳は疲れない』(「ほぼ日ブックス」)として、 6月に刊行される予定だということである。 |
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