七月の終わりに、グルジェフは弟子たちを連れて山間のリゾート地のボルジョに 移り(…)、オルガに対する情け容赦ない教育を続けた。彼の古いコートはすりき れて色あせていたが、新しいものは手に入らなかった。そこでオルガになんとかで きないか、裏返して使うことはできないかともちかけた。しかしどうやればいいの だろう? 縫い目にそって白い糸で印をつけ、縫い糸を取ってコートをほどき、アイロンで 古い縫い目を消し、次に新しい縫い目にアイロンを当て、それから白い糸にそって 縫い合わせるーー実に初歩的なことだった!ところが、これまで一度も針など手に したことがないオルガはぞっとした。やってみて、師のコートを台無しにしてしま ったらどうしよう?ユリア・オストロフスカならできるのではないか?できるだろ うーーしかし、だからこそやるべきではなかったのだ。オルガはとりかかった。ピ リピリしながら小さなアイロンを原始的なストーヴで熱し、苦労して仕事を進めた。 しかし決意は固かったので、比喩的にいえば、進める過程で彼女自身の裏と表がひ っくり返ったのである。この種の心理的大回転はまさにグルジェフが主要な目的と するところであった。 古い自分を支えるような抽象的概念は与えられなかった。「グルジェフは黒板に 図表を描いて教えるということはしなかった。彼の教授法はそんな心地よさからは ほど遠いものだった。彼は生身のわれわれから経験を切り取り、それを使って教え るのであった」 (ジェイムズ・ムア『グルジェフ伝』浅井雅志訳 平河出版社 2002.3.15発行/P208) 人間がロボットにならないためには、 できることをする安心感のなかから 機会をできうるかぎりとらえて脱出してみることが必要になる。 できることができるのはあたりまえのことで、 そこで安心したり得意になったりしていても、 それらは自分をますますロボットにしてしまうだけのこと。 もちろん、やったことのないことをやるのは、 とてもこわいことだし、不安だらけなのだけれど、 それは注意深く自分の意識を総動員せざるをえないことだけに、 そのプロセスはロボット化からの自由のためには非常に有効なことだ。 ロボットはプログラムされていることはできるが、 未知のことを刻々とつくりだしていくことはできない。 ロボットにならないためには、未知の領域において、 みずからを創造者にしていくことが不可欠である。 おそらくグルジェフが、身体的なワークを重要視したのは、 そのロボット化がもっとも固定化したのが身体だからで、 そこに注意深く意識を向けることが可能であれば、 感情や思考のロボット化から自由になることもできると考えたからではないだろうか。 シュタイナーが、手先の不器用な哲学者はいないといったのも、 哲学者であるということは、そのように身体レベルに至るまで、 自由であろうとしなければならないということではなかったのだろうか。 自分をふりかえってみるに、 いかに自分が、思考においても、感情においても、 もちろん身体においても、ルーティーン化しているか、驚くほどである。 だからせめて、機会があれば、未知の不安のなかに みずからをダイヴさせてみることにしなければ…。 |
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