風のトポスノート401 

 

積極的に思考する習慣


2002.5.2

 

          真の世界は、あるいは世界全体は、われわれが意識する物質からだけではな
        く、物質と相関的な関係にある意識や無意識からも成り立っているのであります。
        こうして、意識や物質は世界の非物質的な構成要素と言ってよいのでありますが、
        しかし今日、われわれの知的習慣が認める唯一の非物質的な要素と言えば、われ
        われ自身の自己意識の小さなきらめきぐらいではないでしょうか。われわれが現
        実の世界からも、また他の人びとの自己意識のきらめきからも、引き離され、疎
        外され、切り離されていると感じる理由は、ここにあるのではないでしょうか。
         その講演でわたしがやや詳しく述べようとしましたのは、このような「切り離
        し」、あるいは「監禁状態」ーーこれが実際の姿であるからでありますがーーの
        ことであります。(…)
         牢獄に監禁されている人にとって最も重要な問題は、そこを脱出する手段があ
        るかどうかということでありましょうが、これこそが、今日私たちが最も関心を
        もっている問題であります。問題の牢獄は、鉄鋼やコンクリートでできているわ
        けではなく、知的習慣でできているのだから、脱出の方法も簡単なのではないか
        というふうに思われるかもしれませんが、決してそうではありません。この知的
        習慣というのは、単に私の知的習慣、あるいはあなたの知的習慣といったもので
        はなくて、われわれの知的習慣だということであります。わたし個人としては、
        いわゆる唯物主義にとらわれることなく思索することができますが、おそらく皆
        さんもおできになるでありましょう。しかし、われわれが今論じているのは、個
        人的な習慣というのではなくて、集団的な知的習慣ということであります。とい
        う意味はこうであります。すなわち、われわれが哲学的に思索し、日常生活に戻
        った後でも、唯物主義が依然としてわれわれの思考や、また実際、知覚の道具の
        中に潜んでいるということであり、またわれわれが話したり、考えたりする時の
        言葉の意味に、とりわけ、「事物」(thing)、「生活」(life)、「人間」(human
        being)、「事実」(fact)「思考する」(think)、「知覚する」(percept)といった
        ごくありふれた語の中に潜んでいるということであります。つまり、それは単な
        る習慣というのではなくて、深くしみ込んだ習慣であり、われわれが「常識」と
        呼んでいるものなのであります。
         この常識を、つまり、われわれの意識の無意識的な基盤を変えない限り、脱出
        の作業を始めているということにはならないのであります。
        (…)
         それでは、私が述べてきたような、身にしみついた知的習慣を捨てるために、
        新たにどんな習慣を身につけたらよいでありましょうか。それは積極的に思考す
        る習慣、つまり、われわれの思考が生じるに任せるというのではなくて、自ら思
        考しようとする習慣でなければならないということであります。他の習慣を身に
        つける場合と同じように、同じ行為を何度も何度も繰り返し行なうこと、あるい
        は行なおうとすることからはじめなければなりません。
        (オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』
         人智学出版社/1987.8.30発行/P81-85)
 
私たちは自動化している。
自動化した習慣のなかで日常を生きている。
そこは牢獄である。
 
牢獄とはいうものの、
牢獄で暮らしていることに気づくことは稀である。
牢獄で暮らしていることを気づかせてくれることには
日々出会っているはずであるにもかかわらず、
そのことを見ないで済ませるか、
それに別の意味をもたせて気づかなくても済むようにしている。
 
たとえば、死。
死なない人はいないが、
死を三人称化することで
死を外的な問題であるかのようにとらえるか、
二人称の場合にもそれに直面したときに
その死から視線をそらせるか、
その死を慣習的な在り方のなかで解消しようとする。
もちろん、そこでは、一人称の死は存在を許されてさえいない。
 
しかし、私たちがこうして生きているということは、
同時に死とともにあるということにほかならない。
死とともにいない生は牢獄なのである。
 
ところで、そうした牢獄から脱出するためには、
いわゆるグノーシスのように、
地上を去るような解脱的な在り方ではなく、
(それではまた別の牢獄を用意するだけだろうから)
自動化した習慣に気づくことから始めなければならない。
 
シュタイナーがその著書を読むということそのものが
修行であるという意味のことを語るとき、
それはそうした自動化した習慣を去ることを意図していると思われる。
自由の哲学もそうである。
 
そこで詳細に検討される思考は、
受動的に流れ去っていく習慣化した思考ではなく、
積極的になされる思考である。
自動化した意味を享受する思考ではなく、
常にそこで新たなものが生み出される思考。
ポエジーもそのことに深く関わっている。
 
自動化した思考は、死んでいる。
「おまえはすでに死んでいる」という北斗の拳の名ぜりふのように。


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