風のトポスノート61-70

(1998.5.20-1998.6.11)


風のトポスノート 61●強連結の教育と弱連結の教育

風のトポスノート 62●愛着と自由の緊張を生きる

風のトポスノート 63●<紋様>としての思考

風のトポスノート 64●関係としてとらえた時間

風のトポスノート 65●すべては生きている

風のトポスノート 66●性別は人間の前か後か

風のトポスノート 67●縁起

風のトポスノート 68●新しい目の知恵と長生きの知恵

風のトポスノート 69●適切さとバランス

風のトポスノート 70●内部と外部との弁証法

 

 

 

風のトポスノート 61

強連結の教育と弱連結の教育


(1998.5.20)

 

 これから環境との出会いについて取り上げたいのですが、このことを考えるためにはまず、強連結の教育と弱連結の教育とを区別しておく必要があります。

 私たちが学校で学ぶ社会科や理科の学問、文学や音楽のような芸術は、弱連結の教育の対象です。(略)

 強連結の教育というのは、このごろはどうかわかりませんけれども、私たちの世代ですと、ごはんを食べる習慣は強連結です。私たちが日本語を母国語として身につけるのも、もちろん強連結です。(略)

 強連結と弱連結のどこが違うかというと、日常生活をいとなむ際に絶対欠かすことができないものと、なくてもすむものとの相違です。(略)

 なぜ強連結の教育と弱連結の教育とを区別したかと言いますと、幼児期に強連結の教育がしっかりなされていれば、環境に対する結びつきが強まり、環境に対して愛情が持てるようになるからです。そしてお米に対する愛情とか、周囲の人たちへの愛情とか、日本語への愛情とかが強く持てるなら、現世否定的なマインド・コントロールに対しても、肉体の次元で抵抗力が持てるのではないかと思うのです。(略)

 弱連結の教育だけをたくさん受けている人が、人生のある時期に強連結で結ばれた共同体に出会いますと、その人は共同体の中に限りなく引き込まれていき、それに従って自分の弱連結の知識や教養のすべてが、その新しい強連結のための理論になってしまうのです。

(高橋巌「自己教育の処方箋」角川書店/P32-35)

 まずここでしっかりと理解しておかなければならないのは、子どもの頃に、生活習慣等を通じて、しっかりとした「強連結」の教育を受けておく必要があるということです。

 それは、シュタイナーが子どもの頃の「模倣」や「権威」ということの重要性を繰り返し強調していたことでもあると思います。それは、人間の土台の部分を形成するものでもあって、その基礎の部分がしっかりしてないと、少しの地震でもその人は倒壊の危険にさらされてしまうことになります。

 引用の最後の部分にもあるように、マインド・コントロールを受けやすいというのはそうした基礎の部分の脆弱さが大きな原因になっているということでもあるからです。

 しかし、もう一つの視点も可能であることを忘れてはならないようにも思います。「強連結」の教育だけを受けすぎた場合、生涯がそれだけに支配されてしまうこともあるのではないかということです。つまり、メインのメモリを「強連結」の教育で埋め尽くされて、それ以外のフリーなメモリがなくなってしまうということです。

 「強連結」の教育は、土台ではあるのだけれども、問題はその土台の上に、何を建築するかということでもあるからです。土台だけでは人はそこに住むことができないのですから。

 ですから、ある意味では、「自己教育」をいかにするかということが、その上の建物の部分に関わってくるのだといえないでしょうか。「自己教育」ができなければ、その人は、土台は動かないとしても、それが意味するものは、最初から既にマインド・コントロールされているということではないかと思うのです。「現世否定的なマインド・コントロール」ではなく、過剰な現状肯定型のマインド・コントロールです。プラス発想や「そのままでいいんだよ」的なわくわく・・・の考え方も、容易に固着した自分への肯定作業になりかねません。

 自分の生活習慣に異常に執着して他の人のそれを排そうとさえする方、自分の信じ込んだことを「そういうものだ」として人を受け入れない方、そういう方は、むしろその「強連結」の教育の部分をある意味で自分で壊す作業というのも必要になってきます。それは、「自由へ」向かうために欠かせない作業でもあります。

 ですから、強連結の教育と弱連結の教育ということを云々するにあたっては、上記の二つの点をしっかりと見ていく必要があるのではないかと思うのです。

 

 

風のトポスノート 62

愛着と自由の緊張を生きる


(1998.5.27)

 

 愛着と自由の原理を人間関係にあてはめてみれば、二つの傾向が牽引しあう緊張感のなかにどっぷりつかって生きているときに、もっとも活発に魂が活動することを発見できるだろう。もし家庭をつくりたい、他人と暮らしたい、共同体に加わりたいという強い願望をもっているにもかかわらず、それらの欲求が満たされたとたん、まったく逆の願望を覚えたら、そのような複雑さこそ魂の道にほかならないことを思い出してもらいたい。愛着と自由というスペクトルの両面に同等の敬意を払い、親密さと孤独、両方を楽しむ具体的な方法を探す必要があると言えるかもしれない。

 たまに、自分の適性が気になるという形で、問題が浮かびあがってくることもある。私は結婚すべき人間なのだろうか、それとも、独身で生きなければならないのだろうか?大企業で仕事をすべきなのだろうか、それとも自営業で生きるべきなのだろうか?どこかの思想の流派に所属すべきなのだろうか、それとも独自の道を見つけるべきなのだろうか?

 こうした疑問に対する最良の答えは、相反する疑問を両方とも頭と心で受けとめ、緊張のなかで生きることだ。そうした緊張のなかからかけがえのない解決策が、すなわち愛着すると同時に離れる方法が生まれてくるかもしれない。

(トマス・ムーア「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」平凡社/P41-42)

 人は、愛着と自由とを反復横飛びしながら生きることが多い。できれば、その両方のバランスがうまくとれるところにいられればいいのだけれどそれは、反復横飛びしながら、その途中で静止することを求められるようなものでなかなかうまくいくことはないように思う。

 愛着が極まれば自由を欲するようになり、自由が極まれば(この自由は「〜からの自由だけれど」)愛着したくなる。陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる、あの太極のような運動を私たちは繰り返しながら生きているようだ。

 人は一人では生きてはいけない。しかし、愛着ばかりで生きていくこともできない。では、どうすればいいのか、ということになる。上記の引用にあるように「緊張のなかで生きること」。そのことで見えてくるものもあるかもしれないと思う。

 仏教で煩悩即菩提というのがあるが、煩悩を滅するのではなく、煩悩をしっかり見つめながら、同時にそこから自由である自分を創造すること。つまり、愛着を否定するのではなく、同時にそこから自由であるような自分を常に創造しようと努めること。その試みこそが、ひょっとしたら、この「生」の意味なのかもしれない。

 シュタイナーは、ただ感じるばかりして認識しようとしないことをアストラル的歓楽と呼んでいる。つまり、快−不快というアストラル的なものにどっぷりつかって、それを自覚し、そこから自由でありうる自分を創造しなければならないというのだと思う。

 そのときに気を付けなければならないのは、先にも述べたように、愛着を滅することが必要だというのではないというとだ。人を愛したり、何かを愛でたりする魂の力は滅するのではなく、育てていかなければならないと思う。人を愛することができない人が、自由でありうるとはいえないからだ。自由への道は、愛するという力を原動力としているのだとさえいえるのだから。しかしそれを暴走させるのではなく、それを認識の光で貫くこと。そのことで、人は自由への道を歩むことが可能になるのではないだろうか。

 

 

 

風のトポスノート 63

<紋様>としての思考


(1998.6.1)

 

そこでまず、自分の先見を全員の目に見えるような形で中空に再現して見せることが、第一の仕事だと考えた。

「そのうえでみんなの意見を聞こうじゃないか」

彼は内心そう思った。

「俺の考えでは抜け落ちていたような現実が見えるかもしれん」

こうして、彼らは一人ひとり意見をのべていった。彼の想いの形にそって、あれこれの行動に磨きをかけていくと、最後に一つの全体像が浮かび上がった。いままで見たことがないのに、どの部分をとっても一族の人びとが慣れ親しんだ方法である。(略)

よく聞くべし。この順序だった行動に込められた知恵は、いま振り返ったほうがわかりやすいかもしれないから。その谷間の真ん中にいたら、それを見てとるのは難しかったろうし、物語の中よりは理解の進み方も遅かったろう。心の中でいろいろな紋様をあれこれいじったり、新しい組み合わせを探すのと、一族全体で新しい紋様を共有したうえ、その目的に向かって力を合わせるのとでは大ちがいなのだから−−。

こうして<新しい紋様を探る男>が、まず一本の倒木の陰に身を横たえ、<大いなる毛長>が近づくのを待ちかまえてみると、やはり窪みが必要なことがわかった。くり返しくり返し、彼は倒木のそばに寝転んで、どうすれば事がうまく運ぶかを示して見せた。するとようやく、堅い蹄を狙う追手全員が彼のやり方をじっくり見ようと集まってきた。

一人また一人と、彼らは自分の頭にある紋様を忘れ、まだだれにも手のとどかない新しい紋様を見つけようとするこの探索を見守った。一人また一人、彼らにも自分の頭にある紋様と、その外との境目が見えるようになった。

(ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路」翔泳社/P76-77)

 ネイティブ・アメリカンによる思考とその共有とでもいえるものがここには描かれているように思う。「想いの形」である<紋様>というのがそれだ。

 一人ひとりの思考も<紋様>だけれど、それが、自分にとっては未知の他の人の<紋様>を見、それを共有していくということ。

 ぼく自身、何かを考えるときには、自分のなかにある種の形を描いているようにイメージすることが多い。その形を、こうだ、というふうに提示することはできないとしても、「それはこんな感じ」ということで、まるで絵を描いていくように、ある時には、粘土をこねるように、料理をつくるように、また音楽を演奏するかのように自分のなかに形をつくっていく。

 考えをまとめるということは、ある形をつくるということであり、ある意味ではそれが曼荼羅のような形をとりえたときに、その考えはかなり柔軟でトータルなものとしてまとまっている感じがする。まさに、<紋様>だといえるかもしれない。

 そのように、人の感じていることや考えていることを理解するときにも、それがどのような形をとっているのかということを想像していく。その形がうまくイメージできないときは、理解が行き詰まっているときだ。

 仕事で、広告の提案をしなければならないときにも、スタッフでまず、「コンセプト」を明確にする作業が必要となる。それがスタッフ間で「よし、これだ!」というふうに共有できてはじめて、実際の表現プランや展開プランがそこから出てくる。

 その「コンセプト」づくりの作業というのも、上記の引用で描かれているネイティブ・アメリカンの作業と似ているように思う。その「コンセプト」という<紋様>は、ひとりでむりやりつくりあげてそれをスタッフに押しつけるという作業ではなくて、ある要件やプランを提示しながらも、最終的には、その「コンセプト」という<紋様>は、スタッフの場のなかに、いわば浮かび上がってくるのだ。もちろん、そこまでできないで、でっちあげてしまうことも多いのだけれど^^;。

 ともあれ、「思考」や「概念」、そしてそれを理解したり、創造したりするにあたり<紋様>という観点は非常に示唆されるところが多いように思う。

 

 

 

風のトポスノート 64

関係としてとらえた時間


(1998.6.3)

 

 いま私たちが「時間」と考えているもののほとんどは関係としてとらえられていた。たったいま、地球と月はどんな関係にあるか。太陽が北へ移ったように見えるのは、地球が動いているのか太陽が動いているのか、というふうに−−。万物は動いていると考えられた。もしかしたら、それは後述する“動く大地”を知っていたせいかもしれない。こう考えると、“いま”というのはその道でたどりついた現時点のことであり、じっさいには“いま”という時より“ここ”という場所に近い。

 過去・現在・未来など時間のもつその他の側面は、時間ではなく“変化”とみなされた。変化は循環や周期(めぐり)からくる自然で避けがたい結果である。何ごとも同じままではありえない。すべてがつねに変わり続ける。けれども、すべては丸く円をなす。もとにもどってまったく同じになるというのでも、周期がただくり返すだけというのでもないが、すべてはかならず同じ場所にもどってきて、踊りが続いていくのだ。

(ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路」翔泳社/P484-485)

 ふつう時間といえば、現在・過去・未来というような直線的に進んでいくものとしてとらえられている。時計の針が動いていくような、カウンターが刻むようなあり方だ。しかし時間を体験としてとらえるならば、そうした物理的な時間とは別のあり方でとらえる必要がある。

 時間を「関係」としてとらえるというのは、いわば変化しつづける場所としてとらえているということだろうと思う。だから、「いま」ではなく、むしろ「ここ」なのだ。

 「ここ」にいるということは、あらゆる関係性における「ここ」という場所で、その要因が常に変化しつづけているがゆえに「ここ」は二度と戻ってはこない。しかし、その「ここ」を、季節のめぐりなどの循環や周期においてとらえ、また特定の場所との関係においてとらえるならば、それはまためぐってくるものとしてとらえることもできる。しかしそれはまったく同じものの回帰ではなく、変化のなかでの回帰である。円運動ではなく、螺旋運動だということ。

 そして、それが「踊り」になる。踊りは身体性をふくんだリズムである。だから、時間体験は、意識だけではなく、身体性をふくめた「ここ」での「踊り」だということになる。

 「ここ」は、狭い意味での関係性においてもとらえることができるけれど、それを宇宙のなかでの関係性を含んだものとしてとらえることで、わたしたちは、時間という場で宇宙の「踊り」を踊っているというように、コスモロジーに関わる時間を生きている、というとらえかたが可能となる。

 

 

風のトポスノート 65

すべては生きている


(1998.6.4)

 

 地球はつねに動いていると考えられた。そんなふうに育てられたせいで、「地球が動かない」という考え方に出会ったときは理解に苦しんだ。(略)地震を大地そのものの動きと見るかわり、ほかの子どもたちはそれをひどい災害であり、不自然で、一種の病気だととらえていた。大地/地球は堅く動かないものと思い込んで、それが少しでも変わると信条を侵されたように感じていた。かたや私は大地/地球を動いて波立つ一種の波と見ていた。海と同じで波や潮流があるけれど、もっと動きがゆっくりなだけなのだ、と−−。

 <大地の女>は、「石の雨」のくだりのようにそれ自身が動くばかりか、月や太陽との位置関係においても動く。二本足も四つ足も、大地も大空も−−すべてはつねに動いている。ただちがうのは、その動きが速いか遅いかだけである。地球もまた一つの生き物と考えられていた。すべては生きている。石であれハマグリ(中身も貝殻も)であれ、すべてはエネルギーをもち、それゆえに生きているのだ。「石の雨」の中で<母なる大地>に耳を傾けるくだりには、そのような考え方が示されている。私の理解によると、ここで「耳を傾ける」というのは感受性のことであって、じっさいに音や声が聞こえるわけではない。

(ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路」翔泳社/P485-486)

 唯物論というのは、物質のことがわからない人の論だ。物質がいかに霊的なものかということを理解することが、現代のもっとも重要な課題だといえるかもしれない。

 地球を生命体としてとらえるという考え方に驚いてしまうほど、現代人は盲目になってしまっているのだろう。

 すべての存在は、その存在の仕方はさまざまだけれど、それぞれの仕方で生きているのだといえる。

 私たちは、そんなことまで教えてもらわなければわからなくなってしまったというのだろうか。耳を傾けることさえわすれたまま。

 「地球が生きているというなら証明してみろ」そう言う人もいるかもしれない、きっといるだろう。その人にとっての「証明」ということがどういうことか、聞いてみればきっと面白い答えが返ってくる。そういう人に問い返してみるのもいいかもしれない。「それでは、あなたがここにいるということを証明してくださいませんか」

 それほどまでに盲目になってしまっている人の群が、現代という時代を創造している。自分が盲目で、しかも何も聞き取れないまでになってしまっているとはまったく気づいていない人たちの群。

 すべては生きている。

 存在に応じた時間のなかで。

 存在に応じた仕方で。

 そして、私は生きてここにいる。

 そのことは、証明できることではないかもしれないが、大事なのは、私がいまここで大地を踏みしめ、大きく深呼吸をしているということを実感しているということなのだ。決してバーチャルリアリティではない、いまここで・・・。

 

 

 

風のトポスノート 66

性別は人間の前か後か


(1998.6.5)

 

 英語その他の現代語に浸透した男女の区別は、<歩く民>の文化にはなじまなかった。もっとも古い区別は「母になる者/ならない者」で、のちに人間の個性というものがもう少しはっきり認識されると、人は「人」(英語のpersonとほぼ一致)で表わされるようになった。その人が女か男かを伝えなければならない場合は、人・男、人・女というふうに性別を示す接尾語をつけた。

 兄弟姉妹は同じ言葉で、男女を問わず第一親等を表わしていた。(関係には、村という小さな輪、人間という大きな輪、狼や甲虫や岩石を含む大地の子供たちの輪、宇宙の輪というふうに十段階ほどあった。)祖父祖母も同じで、性別にかかわりなく一つの言葉で表わされた。

(ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路」翔泳社/P489)

 ぼくのこれまでの経験からいうと、人間を最初から男と女ということから発想するように人間のまえに性別がくる方と人間のなかで性別をいうとすれば男と女がいるというように、まず人間があってから性別があるという方は、けっこうはっきりと分かれているように思う。

 ずっと以前、バーテンのアルバイトをしていたときの話なのだけれど、そこのママさんとこの話になったことがあるのを思い出した。ぼくは当然のごとく、人間があってそれから性別がくるという感じで、男女差よりも、個人差、個性差のほうを重視していたのだけれど、ママさんいわく「そりゃああんた、女がいて男がいる。人間とかいうのは、そこからの話よ。じゃなきゃ、つまんない。」ということだそうで、それまでにもそういう話はたくさん聞いてきたものの、そのママさんの話とその後いろんな人に確かめてみたことから、あらためて人間の前に性別があると思っている方のほうが、むしろ多いというか、絶対多数なのかもしれないなあとか思ってけっこう驚かされてしまった。

 ぼくが、友人、友情、友愛というのを恋愛をさらに超えた理想だと思っているのがなかなか伝わることが少ないのも、そういう背景がありそうだという気もする。つまり、友人、友情、友愛には、たまたま同性の場合もあるけれど、異性の場合もあり、異性の場合でも恋愛を伴うものとそうでないものがある。それだけのことだと思うのだけれども、世の中はどうもそうでない場合がけっこうあるわけです。もちろん、まあ、同性の場合でも、恋愛を伴ったりすることもあるわけですが、そこらへんはぼくは疎いので、よくわかりません^^;。

 さてさて、やはり社会的に男女が不平等だというのは当然のごとくやはりまずいと思う。男女ではなく、個人、個性を先に見る社会にはやくなればいいなとごくごく単純に考えていたりする。

 だから、いまだに男にこだわっていたり、逆に過剰なまでにフェミニズムばかりを叫んでいるだけの人もどちらも、もうそろそろおしまいにしてはどうかという気がしている。

 そういえば、シュタイナーはなにかの講義で、生まれ変わりのことにふれて、男性の次には女性というふうに交互に生まれ変わるのが基本だということをいうと当時の男性はあまりいい気がしなかったようなことがあったようだけれど、ひょっとしたら今でもそういう男性というのはけっこういるのかもしないとぼくのまわりを見ていても思うことが多い。

 

 

風のトポスノート 67

縁起


(1998.6.7)

 

 私はこれを<万物のはじまり>として教わった。それによると、<はじまり>にはただ<一つのもの>があった。その<一つのもの>は<想いの女>、またの名を<万物の本質を宿す女>であった。ほかには何もなかったが、最後に<クモ女>が現われて本質の中に潜在性を見てとった。彼女はこの<本質>から<想い>の糸を引き出し、それを使って宇宙内のあらゆる個別性を紡ぐと同時に、それらすべての個別性どうしを結びつける<つながりの糸>も紡いでいった。

 宇宙は三次元のクモの巣のようなもので、二本の糸が交差するすべての点が、ほかのあらゆる点とつながっている。<大いなる生命の織物>のどの部分を触っても、かならずほかのあらゆる部分に影響をおよぼすだろう。その影響は、距離が遠く離れてはじめて薄れていく。

 ようするに、ありとあらゆる存在がつながっていて、ほかのあらゆる存在と関係し合っているということだ。ほんの小さな一部に影響を与えれば、全体のあらゆる部分に影響を与えることになる。だとしたら、私たちは宇宙の中で兄弟姉妹だとは言えまいか。

(ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路」翔泳社/P489-490)

 木の葉一枚落ちるのも、神の摂理によらないものはない。そういうふうに表現すると、神の絶対を表現しているように見えるけれども、おそらくそれを、木の葉一枚落ちるのも、全宇宙のなかで意味深いことだ、というふうに表現することもできるのではないだろうか。下世話な表現でいうとすれば、風が吹けば桶屋が儲かる。

 もちろん上記の引用で述べられている宇宙観は、仏教では縁起の法といわれているものにほかならない。こうした宇宙観は、仏教に限らず、おそらくはかなり普遍的なもので、それがたまたま目に見える原因と結果だけを見るようになったために、忘れられていたものなのだということかもしれない。

 忘れられていたものは、思い出されねばならない。宇宙を紡ぐ蜘蛛の糸は、そのどこをとっても中心となる。だからほんの一カ所をふるわせただけでも、その全体をふるわせることになる。

 「神は見ておる」そう言った神道家がいたが、どんなささいなことも、中心でないものはない。どんな崇高に見える行為も、どんな馬鹿げて見える行為も、だから、神は見ているのだ。

 マザー・テレサは、誰にも省みられずに死んでいこうとする人に「あなたは必要とされている」と語りかけていたそうだが、そうなのだ、どんな人のどんなささいな行為も宇宙に影響を与えているのだから、その人が必要とされていないなどといえるはずはない。

 この縁起という考え方は、「織物」をイメージすると空間的な観点だが、それは同時に時間的な原因と結果の連鎖としてとらえることもできる。つまりそれを典型的に表わしているのが「カルマの法則」である。それは、前世の結果を引き受けることになるという法則で、通常はマイナスイメージが多いのだけれど、必ずしもそうとらえる必要はない。いわば時間系列での原因と結果の連鎖の法則なのだから、その行為がどういうものであろうともその結果を引き受ければいいわけだ。自分の課題だと思っていることをするために、その準備をするという行為が、その結果となって現われるという積極的なとらえかたもできる。

 空間的な意味でも、時間的な意味でも、いつでもどこでも「神は見ておる」、そして「あなたは必要とされている」。そのことを忘れないでいれば、人は常に無限の天地の主となる可能性を得ている。そういうこともできるのではないだろうか。もちろん、無限の天地の主は自分だけではなく、あらゆる存在がそうなのだ。

 人は決して孤独ではない。孤独にはなりえない存在だ。そのことに限りなく意識的に生きることのできる存在なのだ。

 

 

風のトポスノート 68

新しい目の知恵と長生きの知恵


(1998.6.9)

 

 年端のいかない子どもたちから学ぶことの大切さが、一つのテーマとしてくり返し語られている。<新しい目の知恵>は、のちに身についてしまう文化特有のさまざまな決めつけにとらわれていないため、はっきりと新鮮にものを見ることができる。(略)

 <長生きの知恵>も重んじられた。この知恵は、一族が現在の一族になるにはどのような決定を行なってきたのか、そしてその理由は何だったのかについて十二分にわきまえている。父はよくこんなふうに言った。「たんに年をとったからといって、<長生きの知恵>がそなわるとはかぎらない。道々眠りこけていた人には道がわからないだろう。しかし、まわりの様子に辛抱強く注意を払い続ければ、知恵を積み重ねることができるかもしれない。だから、年をとった人たちにはとくに辛抱強く耳を傾けてみるがいい。眠りこけて生きてきた人か、目をさまして生きてきた人かを読み取るんだよ」

(ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路」翔泳社/P492-494)

 子どもから学ぶこと、そしてお年寄りから学ぶこと。そのどちらもとても大切なことだ。子どもから学ぶのは、まだ色づけされていない視点と態度。お年寄りから学ぶのは、積み重ねられた叡智。最良の場合は、色づけされた後にそれに気づき、色づけされることの貧しさに気づいた視点と態度。

 しかし、子どもの頃は、だれでもある程度とらわれない部分をもっているが、「たんに年をとったからといって、<長生きの知恵>がそなわるとはかぎらない」。そこがむずかしいところだ。

 物理的に年を重ねることと、知恵を重ねていくこととは同じではない。年を重ねることでしか得られない知恵があるのは確かだが、それはかぎりなく能動的な姿勢によって得られるもので、「道々眠りこけていた」としたら、得られないものだからだ。

 おそらく現代ではそのほとんどの人が、外的な強制や必要性からいやおうなく学ばせられなくなれば、ほとんど眠りこけてしまう傾向があるのではないだろうか。それはほとんど二十歳頃に訪れる分岐点のように思う。

 すでに、子どものような豊かさを失い、既成の価値観をまとったまま、それに追いかけられて駆けている。駆けているけれども、眠っているのだ。

 望むらくは、既成の価値観から自由でありながら、子どものような自在さを失わないで生きていたい。つまり、目を覚ましているということ。目を覚ましていることができれば、化石化した知恵の残骸にしがみつくことも少なくなり、常に今このプロセスをこそ大切にするだろうから。

 

 

 

風のトポスノート 69

適切さとバランス


(1998.6.9)

 

 ある行為を正誤という観点から理解するより、父は私に「適切な行為は何かを見つめる」よう促した。同じ事は“適切な時”にも当てはまる。父はよく、「ここでは何が適切だろう」という問いかけをした。そういう見方をすると、いままで学んできたことも現在の状況ではあまり役立たない場合がある。(略)

 適切さと並ぶ二大テーマのもう一つはバランスである。「一方の道ではなく、もう一方の道でもなく、そのあいだの釣り合い……」 すべての要素のあいだに本当のバランスがとれたとき、一つの輪が生まれる。

バランスの悪い輪は卵型になる。輪まわしの輪が卵型にひしゃげるとどうなるかは大きな教材だ。また<一族の輪>がまんまるであるためには、相違をもつさまざまなものどうしでもバランスがとれていなければならない。そうした相違としては、老いと若さ、女と男、四つ足を狩る者と種を植えてその実を集める者、などがあげられる。さらに対比の要素は二元とはかぎらず、四元だったり多元だったりするかもしれない。バランスはつねに継続の必須条件である。

(ポーラ・アンダーウッド「一万年の旅路」翔泳社/P497-498)

 正しいか間違っているかではなく、今なにをするのが適切かという見方をすること。

 正しさを固定すると、それ以外のものを間違ったものとして固定してしまう。白でないものは黒、黒でないものは白、という見方。教条的になるというのも、この正しさの固定だ。魔女狩りもそこからやってくる。

 それは、今自分のおかれた状況において、自分でしかできない判断ということを放棄して、その判断をどこか余所から持ってきて否応なく適用させてしまうこと。それは、あまり役立たないどころか、非常に危険でさえある。

 また、バランスということもとても大事なことだ。これは中庸、中道ということにも通ずるもの。

 このバランスということは、まさに均衡ということでもあるのだけれど、それをさらに発展的にとらえれば、弁証法的な統合という視点でもある。どちらか、ではなく、どちらも、である。そして、そのどちらも、は、最初のあり方から、どちらも、変容したものとしてある。

 白か黒か、ではなく、白も黒も、であり、最初の白でも最初の黒でもなく、灰色なのでもない。

 このバランス及び統合という視点がないと、物事はすぐに極端な方向に走り、固定化してしまう。固定化は、死である。その死は、再生に向かう死ではなく、まさに死滅の方向。

 つねに、今なにが適切でダイナミックな統合に可能性をもっているのか。そのことを忘れずにいれば、たとえ死を迎えたとしてもそれは大いなる再生に向かうものとなるのではないだろうか。

 

 

 

風のトポスノート 70

内部と外部との弁証法


(1998.6.11)

 

 「親しさ」(intimacy)という言葉は、「もっとも奥の深い内部」を意味する。それは「内部」を意味するinterというラテン語の強調形で「もっとも奥」と訳される。親しい人間関係には、われわれ自身や他人の「内奥」の次元が関わっていると言ってもよい。(略)

 親しさは自分自身と和解することからはじまる。もし自分自身を疎外したり、自己を分裂させたまま放置していたのでは、友人や恋人、家族の者と親密な関係をきずこうとしてもうまくいくはずがない。すべての心理的な体験が内的なものだと言いたいのではない。個人の魂の力学、ドラマ、性格などは外側の世界で演じられることになるので、人間関係はつねに内部と外部との弁証法になると言いたいのだ。現実の人生と魂の生活とのダンスになると言い換えてもよい。

 もし自分自身との関係をないがしろにすれば、内部と外部は混同されるかもしれない。自分自身と友達になるというのは、単なる比喩でも、感傷的な考えでもない。それは自分の魂を受け入れるということであり、あらゆる人間関係の基盤になる。われわれはよく自分の人生に緊張を感じ、それを他人との関係のせいにすることがある。しかし、一見外側にるかのように見えるそうした緊張は、内部の葛藤の反映だということもありうる。

(トマス・ムーア「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」平凡社/P46-47)

 逆説的になるが、人を受け入れるためには、自分を受け入れなければならず自分を受け入れるためには、人を受け入れなければならない。

 自分を受け入れることができないからこそ、人が自分を攻撃しているように見えたり、非難しているように見えたりする。しかし、自分をほんとうに受け入れることができていたとするならば、攻撃や非難としてではなく、それらをありのままに見ることができるはずだ。人は、自分を受け入れることのできない度合いに応じて、いろんな色眼鏡を人間関係に持ち込んでしまうことになる。

 「人間関係はつねに内部と外部との弁証法になる」というのはとても深い意味をもった言葉だ。内部を分裂させれば、外部もまた分裂の様相を呈してくる。

 ぼく自身、まだまだ自分を受け入れられているかといえば、いろんな意味で内部が分裂したままになっているように思うことがある。その分裂に対応したことが外部に起こると、その外部で生じたことに対して、過剰反応気味になっていることは、決して少なくないのではないかと思う。そして、そうなったときにはよく「ああ、またやっちまった!」となる(^^;)。

 過剰反応というのは、何かが起こったとき、それに対して冷静さを失ってしまうということにほかならない。冷静になろうとすればするほど、その逆の反応が加速してしまう。こんどこそうまくやろうと決心していても、それは自分の内部の分裂を統合していないかぎりうまくいくものではない。

 だから、自分のなかに住んでいるさまざまな存在たちにいつも語りかけることを忘れてはならない。あなたたちは、いろんな顔をして喧嘩したりしてるけど、ほんとうはあなたたちは、大きな一つなんだ。喧嘩しているように錯覚しているだけなんだ。その喧嘩は、マーヤであって、そのマーヤを通じて、さいしょにひとつだったあなたたちよりも、ずっとずっと大きく成長するためのひとつのあらわれなんだ、と。

 ある意味では、自分のなかに曼荼羅をつくっていく作業だともいえる。箱庭療法などもそのひとつのバリエーションのように思う。

 それにしても、自分を受け入れるのは途方もなくむずかしいし、だから人間関係は、途方もなくむずかしい。そして、ときおりは、挫けそうになったりもするのだけど、むずかしいほど、やりがいのある作業だともいえる。

 やれやれ。


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