日本人は、あるいはアジア民族は、物質的経済条件に支配されやすい民族であつて、精神主義などといふものがこの国に根づいたためしは一度もないのだ。いや、これは私の誤用である。ここでも「××主義」とはちがふことを、もう一度想起する必要がある。すなはち、日本には、精神主義はあったらうが、精神といふものはなかつた。いや、精神が欠けてゐるから、空疎な精神主義に陶酔するのである。ふたたび誤解をさけるために、あわててつけくはえれば、日本人はまことに現実的な「夢のない民族」なのである。
私たちの間では、精神が行動を左右するといふ事例に乏しい。このことは西洋文化と接触するやうになつて以来、ますますはつきりしてきたやうに思はれる。戦争中は「西洋は物質文明だけだ」といふ乱暴な言葉が通用した。戦争中ばかりではない。最近、ふたたびその種の文句をあちこにに見かける。言ふまでもなく「東洋の精神文化」をそれに対立せしめようといふのだ。実際は、さらにアジア主義をそれと結びつけようとするものがある。
が、実際は、西洋は物質文明だけなのではなく、私たちが西洋のうち見ることのできたものが物質文明だけだつたのであり、そこに精神を見る能力を私たちは欠いてゐるのである。つまり、私たちは精神をもつてゐないのである。あるいは、西洋の精神が、私たちの精神にとつて、それほど異質なものなのである。
(福田恆存「日本への遺言」/文春文庫/P121)
日本人は、精神論が好きだ。だから、議論にならない。唯物論が、物質のことをわからないからこそ、唯物論であるように、精神論は、精神のことがわからないからこそ、精神論なのだ。
だから、精神論とセットで即物的になる。右翼が左翼とセットで存在しているようなものだ。「夢のない民族」が飛び上がるためには、片翼では無理なので、やはり、精神主義と即物という翼が必要だったのかもしれない。ブランドを買いあさり、テーマパークに群れる日本人。まさに、「日本人はまことに現実的な「夢のない民族」なのである」。
「夢」とは、「精神」であり、「理想」である。
日本人は、西洋に「物質文明」しか見ることはできなかった。それは、西洋を鏡にして自分の姿を映してみただけなのだろう。
ゲーテは言った。
もし眼が太陽のようでなかったら、どうしてわれわれは光を見ることができるだろうか。もしわれわれの内部に神みずからの力が宿っていなければ、どうして神的なものがわれわれを歓喜させることができるだろうか。
日本人は、「西洋の精神」を見ることができなかった。その内部に「精神」が宿ってないからだ。だから、「西洋の精神」の部分が日本人を歓喜させることはまれだった。日本人が歓喜するのは、もっぱら「物質文明」であり、批判するのも、またもっぱら「物質文明」なのだ。
もちろん、日本人だとか西洋人だとかいう抽象的な物言いはあまり適切な表現ではないだろう。ここで「日本人」と言っているのは、日本で多く群れている人たちのことだ。どこでも群れない人物には、どんな批判の矢もあたらない。仏陀の前では矢も花に変わるようなものだ。
「精神主義」を嫌うあまりに、「精神」という言葉を拒否し、みずから「精神」を欠いたポストモダン風の感覚主義者が最近では多いが、それが何を意味しているのか、彼らは知ることがない。彼らは、まさに「精神」という鏡を割って捨ててしまっているのだ。
さて、シュタイナーの人智学は、「精神(霊)科学」である。それは「精神(霊)」なしでは、意味を持たない。しかし、「精神(霊)」なしで、それを受容したつもりになっている日本人がいる。もちろん、言葉の矛盾になるが^^;、「精神」を欠いたまま「霊」が好きでたまらない人たちが「精神(霊)科学」を誤解したりする。
ともあれ、課題は明確である。光を見るためには、眼を太陽のようにしなければならないように、精神を発見するためには、みずからの内に精神の鏡を創らなければならない。そうでなければ、精神に歓喜することなどできはしない。
文章を通して思考をきたえるような試みをしてみたい、とは以前からの願いだった。というのも、学校で言語表現・文章表現を教えていていつも感じるもどかしさがあったからだ。文章にとどまっていて、決してその向こう側には出て行こうとしないような、世界に対する関心があふれでてこないような、文章内で自己完結する読み書きのレッスンに疑問があった。
考えることは危険なスリルに満ちた行為でもあるのだから、安全処理のされた文章を読んでも思考のレッスンにはならない。
(長沼行太郎「思考のための文章読本」ちくま新書154/1998.4.20/P7-8)
広告表現を「コピー」とはよくいったものだと思う。「コピー」は「コピー」であって、オリジナルではない。複製技術時代の表現であるのが「コピー」なのだ。それがいかにもっともらしくても、どっかーんとした衝撃的なものだったとしても、それは「コピー」にすぎない。
ぼくは日々「コピー」を書くのを仕事としていて、ありとあらゆる「コピー」にこの手を染めているが、いかによくできた「コピー」が書けたとしても、それは自己表現ではなく、クライアントの表現の影武者だ。
影武者だから、影武者なりの危険はつきものだ、というよりは、危険を背負うのが影武者だともいえる。だから、「コピー」を書くことは、それなりに「危険なスリルに満ちた行為でもある」。
しかし、「コピー」の思考は、やはり「コピー」だ。「コピー」はどこまでいっても「コピー」にとどまる。「決してその向こう側には出て行こうとしない」。
「コピー」には「コピー」の目的があって、その目的を遂行しなければ、「コピー」の意味がない。だから、そこで「自己完結」しなければならない。「安全処理」をされた言葉なのだ。
こういうことを言ったからといって、自分が「コピー」を量産していることを卑下しているのではない。「コピー」には、「コピー」なりの「思考のレッスン」が必要だし、その「コピー」の「思考のレッスン」によって、そうでない「思考のレッスン」のなんたるかがわかることもある。
ひょっとしたら、ぼくがこうして「コピー」でない「文章」を日々書き連ねているのは、「コピー」と「コピーではないもの」とが混同されている現代において、「コピーではないもの」の香りを「危険なスリルに満ちた行為」によって体験しようとしているのかもしれない。
「コピーではないもの」からは、「世界に対する関心があふれでて」くる。神秘学が、お仕着せではなく、生きることそのものの体験であるのは、そういうことだ。いわゆる世の中は、お仕着せに満ちている。「コピーではないもの」が、「コピー」に置き換えられたまま、それが「コピー」であることに気づけなくなっているのだ。SFで、自分以外の人間がすべてアンドロイドに置き換えられていた!という話があるが本物がコピーに置き換えられていてもそれに気づかないでいるのは、なんという悲劇、または喜劇だろうか。
広告表現という「コピー」も、そんな悲喜劇に満ちていて、それはそれでとても楽しむことができるが、楽しんでばかりはいられない。
「コピー」の向こう側を、つまりは深淵をのぞき込む勇気を持ちたい。
慈悲には三種類があります。第一は衆生縁の慈悲、第二は法縁の慈悲、そして第三が無縁の慈悲です。「衆生縁の慈悲」というのは、現実に生死の岸頭で悩み苦しんでいるものがあるのだという見地に立ち、何とかして彼らを救ってその苦しみの世界から解放させたいと願う心であります。これは小乗仏教の菩薩の持つ慈悲であります。(略)
次に「法縁の慈悲」というのは、もろもろの縁によって生起しているこの世界の存在は、感情を持つ動物も感情を持たない木石のようなものも、すべては「幻化」すなわち幻がさも実有のようになせるわざに過ぎないまぼろしのようなものだとさとって、その見地に立って慈悲を起こし、すべてはまぼろしのようなもので実有ではないという教えを説き、もともと縁によってまぼろしのように存在している衆生を救おうとするものです。これこそが大乗仏教の菩薩の慈悲だというのであります。(略)
ところで「無縁の慈悲」というのは、仏道修行の結果、さとりに到ることによってもともと身に具わっていた性徳、生まれつきそのままの人間性が自然に顕われ出て、わざわざ他を救おうという気持ちを起こさなくても自然に一切のものを済度してしまうもので、あたかも月が無心にその影を水に映すようなものであります。(略)
この立場から見ると衆生縁や法縁の慈悲に関わる人たちは、かれらの考える慈悲に遮られて、かえって無縁の慈悲を起こすことができないでいるように思われます。小さな慈悲を持つことが、逆に大慈悲の妨げになるといわれるのはそういう意味です。百丈禅師が「小さな功徳や小さな利得を貪ってはならぬ」と誡められたのもこのことでありましょう。
(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P14-16)
ぼくなどは、「慈悲」とかいうこととはほど遠いタイプなので、こうした「慈悲」について云々することは憚られたりするのですが、ぼくがなぜ、いわゆる「宗教」や「教育」などに対して、はなはだ身勝手ながら、どうしてもあまりいい感情を持てないでいるのは、ぼくの接してきた「宗教」や「教育」に関わっていた人たちが、「小さな功徳や小さな利得を貪って」いるように見えたからなのかもしれません。
ぼくは小さな頃、病気で死にかけた体験があるのですが、そのとき、ある新興宗教の方に、信心をしなければ死ぬと脅されたりしました。子供心にも、そんな馬鹿なことはない、と腹が立ち、ある意味ではその反面教師によって直ったのかもしれないとも思います^^;。学校でも、成績をあげて良い学校に入って、いい会社に就職して・・・ということにつらなった「利得」のための勉強を促す在り方に対して、そんな馬鹿なことはない、と思って、学校での成績のための勉強を怠り勝手に自分で興味のあることを勉強するようにもなりました。(これは、処世術的には確かに失敗だったかもしれませんけど^^;)
こういう話は、「慈悲」とは関係のない馬鹿げた話なのですが、「救ってやる」とか「教育してやる」とかいう態度は、ともすると、真の救いや真の教育の逆のことをしていることになるのではないか。そんなことを思ったものですから、あえてコメントしてみることにしました。
昨今、ボランティアというのがすっかり有名になりましたが、今や学校の内申書にポイント制で組み込まれたりするほどに「ボランティア」ということさえ、「小さな功徳や小さな利得を貪」るための手段になりかけています。これでは、ボランティアに関わる人たちは、かえってほんとうのボランティアから遠ざかってしまうことにもなりかねません。
世の中すべからくこうした転倒に支配されているものだから、老子の言葉などの重みが身に染みて感じられるわけです。なぜ老子の言葉が逆説的になっているように見えるのか、ということです。
書き始めたときには、老子がでてくるとは思っていなかったのですが、そういえば、ぼくがいちばん最初に自分のお金を出して買った思想関係の本で、何十回も繰り返し読んでいて、今も手元にあるのが、老子です。その中から、「無縁の慈悲」にも通ずるのではないかとも思われる第二章の訳を(「老子」小川環樹訳/昭和48年6月)。
天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこから悪(みにく)さが出てくる。善を善として認めること、そこから不善が出てくるのだ。まことに「有と無はたがいに生まれ、難しさと易しさはたがいに補いあい、長と短は明らかにしあい、高いもの下いものはたがいに限定しあい、音と声とはたがいに調和を保ち、前と後ろはたがいに順序をもつ」のである。それゆえに、聖人は行動しないことにたより、ことばのない教えをつづける。万物はかれによってはたらかされても、いとわないし、かれは物を育てても、それに対する権利を要求せず、何か行動しても、それによりかからないし、仕事をしとげても、そのことについての敬意を受けようとはしない。自分のしたことに敬意を受けようとしないからこそ、かれは(到達したところから)追い払われないのである。(P8)
仏道にとって障害となるものを一般に魔業と呼んでおります。[…]魔に二種類あるとされています。つまり、内魔と外魔の二つです。魔王や魔民(魔王の家来)たちが外よりやってきて修行者を悩ませるのを外魔と申すのです。[…]
この魔王は迷いの世界のすべての人や生物を自分の支配下と心得ていますので、人が仏道(さとりの世界)に入ろうとするのを邪魔してくれるのです。[…]魔は飛行が自由にできますし、身体から光明を放ち、過去や未来のことがよく分かり、その上、仏や菩薩の姿となって現われてきて、弁舌さわやかに仏の教えを説いたりするのです。[…]
このような外魔がやってきて悩ませることがなくても、もし修行者の心の中に煩悩が生じ、悪見に執われ、また高慢を起こし、坐禅ばかりしたり、さとりの智慧を誇ったりすること、あるいは小乗の修行者のように自分ひとり苦しみを脱出しようとしたり、大乗の修行者のように、すぐに迷える衆生を憐れんではこれを救いたいと思ってしまう心が起こるなど、すべて究極的な悟りを得るための障害となるものですから、これを内魔と名づけるのです。[…]
あるいは、ごく当たり前に道を求める心が起こり、しばらくの時間も惜しんで修行をするものの、なかなかさとりが得られないので悲しく思い、日夜涙を流すことがあるのも、やはり魔障であります。[…]あるいはまた善知識を尊敬するあまり、この人の糞尿を食してもよいとさえ思うのも魔障ならば、逆に善知識の日常行為に少しでも欠点が見えると、せっかくその人が持っている尊い正法まで捨てて彼のもとから離れてゆくのも魔障です。
貪りや瞋りというような煩悩が起こるのが魔障ならば、そういう煩悩が起こるのを怖れ、また嘆き悲しむのも魔障であります。
(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P33-35)
これは仏道修行ということなので特別なことかもしれませんが、日常生活を送るわれわれの心構えとしても、外的な障害にも内的な障害にも、できるだけとらわれないようなあり方というのは重要だと思います。
まず、外魔を、逆境と順境ということでとらえてみてもいいかもしれません。人は逆境に置かれると挫けて、やけのやんぱちになったりしますし、反対に、順境に置かれると、今度は怠けたり高慢になったりして、反省を忘れてしまいがちになります。どちらにしても、自らの由としての自由をなくしてしまうことになります。
逆境で自由を失うというのはわかりやすいのですが、順境でも自由を失ってしまうということにはよくよく心する必要があります。小人閑居して不善をなす、ともいいます。忙しいときには、自分のしなければならないことが外から次へと押し寄せてきますから、自分で主体的に考えたり行動したりする余地が少ないのですが、余裕ができると、自分で主体的にならない限り、そのせっかくの余裕の使い道は安易な方向に流れていくわけです。ぼく自身の体験からいっても、むしろ時間のないときにこそ、工夫していろんなことをする余裕をつくりだそうとしますが、時間があったりすると、そのせっかくの余裕をつまらないことに食いつぶしてしまうことが多いように思います。
今度は、内魔ですが、これは外魔より始末が悪いといえます。というのも、内魔は、外的な基準がなく、自分の主体的な反省作用とでもいえるものだけがガイドになるからです。
いわゆる「精神世界」や「宗教」やらにふれておかしくなる人も、この内魔にあたるといえるように思います。これまで自分を見据えたことも、そうする努力を地道にすることもなしに、霊的な現象などにみまわれたり、そこまでいかなくても、いろいろな知識を得て自分が偉くなった気持ちになったりすると、この「内魔」の困難に遭遇することになります。始末に悪いというのは、それを「困難」だと認識できないことが多く、自分は超能力を得て悟りに近づいているのだとか、自分はこれで悟ったのだから、人に教えを説かなければならない、とかいうように思いこんでしまい、自分は今もっとも困難なところにいるということがわからないどころか、その逆だと思いこんでいるからです。
そこには、「悟り」をめぐる執着があるのだといえます。だから、悟ろう悟ろうとばかり思いこんでしまって、導師に何がなんでも従って悟りを得ようとして、「法」ではなく、導師そのものを目的にしてしまったり、悟りには、煩悩などが邪魔になると思いこんで、自分が今こうして生きていることそのものを等閑にしてしまったりもします。
また、自分が少しなにかわかった気になって、これで自分はもう悟ったのだというふうに思いこんで、自分は迷える人を教える側なのだというふうになってしまうと、自分を見つめることのできない善魔になったり、常に自分を先生の側にしかおけないような心の不具者になったりします。心の不具者で、成長できないでいるのに、自分は高みにいる気になって、悩み相談にくる方を食らっているのだということに気づけないのです。
こうしてみてくると、内魔には、マゾ的内魔とサド的内魔があるようにも思います^^;。マゾ的内魔は、悟ろう悟ろうとして自分の生を虐待するタイプ。サド的内魔は、人を教え導こうとばかり考えて、自分を置き去りにするタイプ。現われ方は違っても、どちらも同じ内魔の裏表だといえるのですけど。
親鸞が、自分は弟子などひとりも持っていない、と言ったり、死んだら鴨川に投げ捨てて魚の餌にしてくれ、とか言ったりしたのも、こうしたことから考えていくと、至極当然のことだったわけです。
最近よく思うのですが、人はまずお金に執着を示すといいますが、だんだん歳をとってきてお金にあまり困らなくなると、今度は「名前(名声、名誉)」をほしがるようになります。まあ、この「名前」を欲しがる浅ましさは、自分の銅像をつくったり、記念館をつくったり、自分の名前が刻まれている記念碑を建てたり、と飽くことなく続くようです。よくよく考えてみれば、少々そんな名前を残したところで、死んで1000年も経てば残る名前などほとんどありませんし、それこそ5000年、10000年も経てば、藻屑なんですけどね^^;。
そういうのではない、「自由」をほしいものです。そしてそれを得るために、日々の「生」を大切にしたいと思います。
魔境に入ることを怖れて、これに堕ちないような方法を求めるのもまた魔境です。(略)
仏界といってもそれに愛著すれば魔界であり、魔界といってもそれを忘ずればそのままに仏界であります。真実の修行者は仏界に愛著しないし、魔界も怖れることはありません。もしこのように、心の準備をして、さとったといって安心せず、もはや悟りは得られないとあきらめてしまったりさえしなければ、どんな魔障も自然に消えてなくなります。
(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P50)
君子危うきに近寄らず、というのがありますが、これは、たぶん、その「危うさ」をきちんと知っているからであって、最初から「それは危うい」というふうに決めつけているのだとしたら、それは君子とはいいがたいというふうに思っています。
「子どもたちが、そんな危ないところに行かないように」「そんなみだらなものを目にしないように」とかいうふうにして、「魔境」をおそれるあまりに、「魔境」に近づかせないようにして、「魔境」がいったい何なのかわからないままにしておくのは、もっとも「魔境」なのではないでしょうか。少なくとも、そういうふうな指導をする以上、自分が「魔境」の何たるかを知っておかなければ、それは単なる欺瞞です。
光ばかりを教えて闇はないのだ、というふうに闇そのものの体験がないとしたら、その人生はどんなに不毛なことでしょうか。お仕着せの道徳を絵に描いたような善人の顔をした地獄がそこにはひろがっているばかりなのではないでしょうか。以前、山上たつ彦の初期の漫画に、み〜んな同じ菩薩顔をした菩薩たちだけのいる世界の不気味さを描いたものがありましたが、そういう感じです^^;。
浄土を穢土は遠く隔たっており、したがって迷いと悟り、凡夫と聖者とは同じではないと思っているのは妄想であります。逆に、聖者と凡人には隔てがなく、浄土と穢土の別もないと思うのもまた妄想であります。仏の教えに、大乗・小乗、権教・実教、顕教・密教、禅宗・教宗といったような区別があると思うのも妄想というもの。逆に仏教の諸派の教えはすべて一味平等であって勝劣はないと思うのも妄想でありましょう。日常の行住坐臥や見聞覚知がそのまま仏法だ、と思うのが妄想なら、仏法はすべての所作・所為とは別のところにあると考えるのもまた妄想。世界中のすべてのものは実在している、と思うのは迷える凡夫の妄想であり、世界中のすべてを無常なものと見るのもまた小乗的な妄想であります。すべての存在を永遠不滅としたり、あるいは断滅してしまうものだとするようなのは外道の妄想です。そうかといって、すべては幻の如く実態のないものと考えたり、また有るとか無いとかいうことの両方を離れた非有非空の中道だとさとるのもまた菩薩の妄想というものであります。真の仏法は教の外にあるということを教える禅宗のことを知らず、教えだけを最後のものとして頼るのは教宗の人の妄想。「教外別伝」とばかり唱えて、それが、教宗よりもすぐれたものだと自負するのは禅者の妄想であります。
(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P83-84)
何かを分かるということ。
そのことそのものが妄想であるということを知ること。
分別智を去ると言うのは簡単ですが、ここに述べられているように、自分が立脚しようとするその地点で分かるということそのものが妄想なのですから、ではいったいどうすればいいのか、ということになります。
唐の無業国師は、そうした類のどんな質問に対しても、「妄想するなかれ」とだけ答えたということですが、実際、妄想しないためにはこうするのがいいのだ、などというふうに足場を作ってしまうことそのものが妄想になりますから、まさに「妄想するなかれ」としかいえないわけです。
この引用では、夢窓疎石は、仏教のあらゆる教派に対して、それらが妄想であるというふうに言っています。自分の依る教説そのものの妄想性を常に自覚し続けること。あれもこれも妄想だけど、これは真実の教えである・・・というふうに分別してしまうことそのものこそが妄想なのだということを自覚しつづける以外の道はないように思います。
何かを選ぶことというのは、何かを選ばないことでもあります。
白を選び黒を排除すること。黒を選び白を排除すること。白も黒も選ぶこと。白も黒も選ばないこと。白も黒も選ぶという選び方を去ること。白も黒も選ばないという選び方を去ること。
・・・そのように、なにかであるこという分別によって逃れ去ってしまうことばにならない真実を体得していくということ。自分を常にそうしたダイナミズムの渦中に置き続けること。「妄想するなかれ」とみずからの妄想を問い続けることのなかでしか体得できないものがあるとしかいえないのかもしれません。
よく使われる例に、師が月を指さしているのに、その師の指をいくらみても月を見たことにはならない、自分で直接月を見なければならないというのがありますが、実際、あらゆる教説、分別というのは、月を見ないで指のほうばかり見ているということでもあるわけです。漫才のネタではよくそういうのがありますが、実際にそういうことばかりしているというのが、妄想の妄想たる所以というか・・・。
いちごは美味しいよ、といわれて、それはどのように美味しいのかをいくら聞いてもそのいちごを味わうことによってしか、いちごの味はわかりません。しかし、じぶんだけいちごの味をわかったわかたっと思いこみ続けるのもまた妄想になります。実際の月をみること、見ようとすることの重要性と同時に、やはり、月とはどういう存在なのかについて、あらゆる角度から検討してみるということも必要なことなわけです。
妄想をなくすということについて書くということの困難さはこうして書いていながら煩悶せざるをえないところでもありますが、やはり、自分に「妄想するなかれ」と言い聞かせ続けながら、自分のそのつどの妄想を自在にしていくことしかないのだと思います。もっとも危ないのは、自分は妄想していないと思いこむことなのですから。
問い ある人は日常生活をしながら本文の工夫をするとい、またある人は、本文の工夫の中に日常生活の諸事万端を行なっていくといわれますが、両者のやり方はいったいどこが違うのでしょうか。
答え 「工夫」というのは中国の俗語であって、日本語の「いとま」ということばに当たるでしょう。つまり人間のなす一切の仕事に通じることばであります。田畑を耕すことは農民の工夫であり、材木を組んで家を建てることは大工の工夫というものです。このような世俗の用語を借りて、修行者が仏道を行じることも工夫と呼ぶようにしたのです。本来、自己に具わっているものを確かめるために「心を用いる」人にとっては、それが日常の仕事の中で行じられるか、工夫の中で行じられるかというように区別する必要はありません。(略)
古人は「山河大地・森羅万象は、すべて自己にほかならない」と申しておられます。もしその深い意味が分かるならば、工夫と別のところに万事があるということにはならないでありましょう。
工夫の中で着物を着、食を摂り、工夫の中で行住座臥の振舞いをし、工夫の中で見聞覚知のはたらきをし、工夫の中で喜怒哀楽の感情を起こすでありましょう。そういうことならば、「工夫の中に万事をなす人」ということができます。
これこそ「無工夫の工夫」(しない工夫)、「無用心の用心」(しない用心)というものにほかなりません。このように用心する人は、それを意識するもしないもそのままで工夫になっております。(略)
しかしながら、たとえそういう境地を得たとしても、まだそれは修行の途上の話であり、完全に始祖の教えられた端的に契当した人とはとてもいえないのであります。
(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P170-172)
「工夫の中に万事をなす」といえば、自分の行なうあらゆることに意識的でいるようにする行、とでもいえるグルジェフのワークのようですね。
たしかに、自分の気になったことだけにはこだわるけれど、あとはどうでもいいというのでは、その「工夫」というのは、自分を根本的に変容させるに足るものにはなりません。自分の仕事についてのこだわりというのであれば、職業意識、プロ意識としてもそれはそれで成立するわけですが。
この「工夫」というのは、「自己教育」ということでもとらえることができます。自分で自分の可能性を引き出すべく試みるということを、限定したものとしてとらえるか、限りない可能性としてとらえるかです。これは、認識の限界から出発するか、認識を広げるために、みずからを高めていこうという姿勢でいるかの違いでもあります。
それ以前のものとしては、自分は教育する人であって、教育される人ではない、というような偏った姿勢もあります。それは、人には「工夫」を求めるにも関わらず、自分は「工夫」の必要性を認めないというような姿勢です。人の世話はするけど、自分の世話はできないというのもそうです。
さらにいえば、「工夫」を自分の職業においてとらえることさえしない、というさらに偏ったというか、偏るまでにさえ到らない姿勢もあります^^;。本来それはドイツ語でBerufが、職業という意味でもあり、使命、天命という意味でもあるというように、生活の糧でもあると同時に自分の生まれてきた役割に関わるものです。で、そのBerufにおいても、自分の役割を果たそうとしないという姿勢です。
また、「山河大地・森羅万象は、すべて自己にほかならない」というのは、まるでノヴァーリスのようでもありますが(今後のノヴァーリス・ノート参照)そうとらえるとすれば、この部分だけは「工夫」するけど、これは自分とは関係ないから「工夫」する必要はない、とかいうことはできなくなります。
もちろん、逆に、自分とは直接関係ない人のことは積極的に「工夫」するけど、自分に関係したことだと、どうしようもなくなる、というのは、「工夫の中に万事をなす」ということとはほど遠い姿勢です。
しかしさらに重要なのは、それはまだ「修行の途上の話」だというのですからほんとうにこうしたことは途方もなく難しいことだといえますね。
ぼくなども、特定のことだけに「工夫」するのでせいいっぱいの状態ですから、何かが少しわかったとかできたとかいうことで、過信するなどということは許されないというか、そうなってしまっては、単なる馬鹿ですから^^;、少しでも「工夫」の視点を「万事」のほうに近づけられるようにしたいものだと思っています・・・がなかなかですね^^;。
岩波書店のホームページで、面白い試みが始まっています。
■中村雄二郎のインターネット哲学アゴラ
ちょうど一年ほど前に出版され、このMLをオープンした早々ご紹介させていただいた中村雄二郎さんの「術語集II」(岩波新書)を素材にして、インターネット上で、中村雄二郎さんとテーマに応じたゲストの方との「オンライン対談」をベースにした議論を行ない、中村雄二郎さん自身の言葉で言えば、
デジタル化によってわれわれの物質・精神生活が変質するなかで、インターネット時代の〈コモンセンス〉を見つけ出し、共有することが求められている。インターネット時代に入って、多くの人たちが、われわれの時代や社会のコモンセンスはなんであるのか、あるいは、どういうものであるべきなのかを求めている。それをこのコーナーで確かめ、形づくれたら、と思っている。
という試みをしていこうとするものです。
「アゴラ」とは「広場」という意味だそうです。実は「トポス」というのもそれに似た意味あいを持っているので、「トポス」じゃなくてよかったなとか思っていたりします^^;。
さて、中村雄二郎さんとゲストの方とのネット上での議論に対しては、電子メールを使ってぼくのようなそれを読んでいる者からの意見を寄せることができます。そして、次のようにそれらを再編集し岩波書店が出版していこうというわけです。
公開する議論には映像や画像、音声、世界中へのリンクを貼り付け、マルチメディアを前提とした内容を目差し、従来の活字メディアより多元的な情報アクセスができるようにつくってみました。出版の際にもCD−ROMを添付して、インターネットとのミックスメディア化を図っていく予定です。
この試みは4月から既にはじまっていて、「生命」をテーマに、池田清彦さんとの第1通信から第4通信までを読むことができます。「術語集II」のテーマが議論されながら、そこにでてくるさまざまなテーマについての用語説明や関連リンクなどがHP上に張り付けられていて、けっこう充実している印象があります。
なお、この「哲学アゴラ」でも、中村雄二郎さんは、「新しいストア主義の招来」ということを提示しています。これは、このMLでも#596で、NIFTYネットワークコミュニティ研究会による「電縁交響主義・ネットワークコミュニティの出現」(NTT出版/1997.11.25)をご紹介したときに、そこでもご紹介させていただいたものです。簡単にいえば、
個人主義的なストア主義を越えて、個人の生存を支える新しい共同体が形づくられることが望まれ、おそらく今後そのような共同体の在り様がさまざまに追求されることになろう。
ということです。
こうしてMLなどを開いているのも、基本的には同じ発想で、それが時と場所や特定の慣習などといった制約を超えて、比較的小さな単位での議論などを重ねていく試みがさらにネットワークしながら形成されていく「個人の生存を支える新しい共同体」ということなのだと思います。
詳しくは、この「中村雄二郎のインターネット哲学アゴラ」のHPをご覧いただければと思います。
アドレスは、以下の通り
http://www.iwanami.co.jp/agora/index.html
友情は、キリスト教思想で中心的な位置を占めている。西洋には、友情とは薄められた親密さの感情などでは断じてないとする古代以来の伝統があり、キリスト教の考える友情の理想というのも、じつはこの伝統の上に成り立っている。ところが現代では、この伝統に陰りが見えはじめているのだ。現代ではジャーナリストが、二人は「ただの友人にすぎない」などという言い方をする。まるで、本当に意味のある人間同士の関係は、友情を「超えた」ところから始まるとでもいいたげだ。こういう考えは、キケロにも、聖アウグスティヌスにも、理解できないだろう。彼らやその前後の世代の多くの人々にとっては、友情は人間関係が形成されていくときに経験されるものすべての最終目標であった。広い意味での教育は、自分自身のなかのもっとも深く、もっとも真実な部分を、他人と分け合うことのできる友情をつくりあげるための準備だった。(中略)
友情においては、違いを尊び、それを楽しむこともできる。友情のない関係では、違いばかりがとてつもなく大きくなり、民族的、宗教的、イデオロギー的な違いが原因で、別れてしまうことになる。自分に脅威を与える「他者」を悪霊として思い描いたり、相手のなかに悪い面ばかりを見て、摩擦を生じさせようとしかねない。しかし、友情は、真理は傾向性をもったあらゆる主観に勝るものであることをしめす、慈悲と寛容の崇高な表現なのである。と同時に、友情はまた、真理の客観性は主観を排除しないことさえも、思い出させてくれる力を持っている。友情は、普遍と個体を統合するものであり、「反対物の一致」(coincidentia opositorum)を実現させてくれるのだ。十五世紀の枢機卿にして政治家、数学者であり神秘主義者でもあった、ニコラウス・クザーヌスは、神はこの「反対物の一致を超えたところに」見いだせるものであると説いている。(ローレンス・フリーマン/「ダライ・ラマ、イエスを語る」角川書店/1998.5.10より/P18-21)
友情とは愛そのものであると思っている。しかし、現代では、愛という言葉がほとんどセックスのようにしかほとんど使われなくなったりもしている。友情という言葉、友だちという言葉も、似た状況にあるのではないか。
多くの場合、友情とは「薄められた親密さの感情」であり、そうした感情を持っているものどうしを友人と呼ぶ。だから、男女間では、恋愛になると友情はなくなると思いこまれている。恋愛関係を拒否する言葉として「お友達のままでいましょ」という言葉が使われるのはそういうことだ。そんな馬鹿げたことはない。
愛も友情も、そんな意味で使われてはならないと思う。友情ははるかな目標であり、理想そのものなのだ。
友情の前提にあるのは、「個」である。「個」と「個」が真に向き合うところに友情の可能性が生まれる。「個」と「個」がその違いをしっかり見据えることを通じて、互いの真実を分かち合うことができて友情が成立するといえる。
この引用で、友情を普遍と個体を統合するもの、「反対物の一致」を実現させてくれるものだとしていることには深く共感させられた。同質のものが融合するのが友情ではないのだ。異質のもの、反対のものが「和」によって結ばれるのが友情だ。融合と和とは似ているようで違う。
マタイ福音書に、
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。
とあるが、その意味で友情は「自分を愛してくれる人を愛」するというのだけではない。「反対物の一致」という理想に向かう限りない営為を友情の可能性に見なければならないと思う。
心理療法を受けている人が、自分のかかっているセラピストやそのセラピーそのものに、すっかり主導権をゆだねてしまったとしたら、その人は自分の自律性を失ってしまうことになる。自分本位なセラピストはこういうのが大好きで、むしろ患者の依存度を高めるように仕向けて、患者には子供のような判断しか残しておかないようにしてしまう。しかし、『聖書』を読む行為における聖霊は導き手であり、読み手がみずからの力でそれを読むように仕向ける。これこそが、真のセラピストなのである。『聖書』をより良く読みたいと思っている私たちは、ただひとつの登録料を納めるだけで十分だ。一心に、注意をそらさずに読む、これだけである。ただ鋭い注意だけが、霊的な権威のふたつの柱−−個人の洞察という権威と、生きて伝達される伝統の権威とのふたつ柱−−の上に築かれる私たちの旅と、私たちの修行とに必要とされるものなのだ。
このように『福音書』を読むことによって、神秘的知性を養うことができる。この知性は、しだいしだいに日常の生活を照らし、豊かにしてくれるようになる。これは、書かれた意味に魔力が宿るというような考えとはまったく違う。そんな考えは、日常生活を豊かにするどころか、歪めて、崩壊させてしまうだろう。
(ローレンス・フリーマン/「ダライ・ラマ、イエスを語る」角川書店/1998.5.10より/P55)
セラピー、ヒーリング、癒し、ワーク・・・それらの多くは、依存させるための巧妙な仕掛けのノウハウで成立している。最初に、依存したいという種をどこかに蒔いてしまえば、それがセラピーという場所でぐんぐんと育っていくのだ。そこでは、受容と供給がマッチしているものだから、成長が早い。
開発セミナーの講師経験者の「泣かせてしまえばこっちのものだ」というような恐ろしいセリフを聞いたことがある。自分で考える力を失わせ、感情に溺れさせ、崩れかけたところが最大の効果を生むと知っていて、その支点であたたかく両手を広げ、「さあ、きなさい。心配することはない、あなたはOKだ。」とくる^^;。そのプロセスにおいてたとえ一見反省的な視点が持ち込まれたとしても、それは外からの指示でしかないがゆえに、それさえも依存の原因となる。つまり、自分一人で自分なりに徹底的に自分を見つめるということとは、似て非なるものがそこには現われてくることになる。
それは、病名をつけたり、対症療法で治したふりをするような医療の現場でも教育と称して、自分でものを考える力をスポイルしてしまう場でも、まったく同じシステムになっているといえる。
つまりは、人は自分で考えることがいやなのだ。自分で自分の主導権を握ろうとすると、自分で責任をとらなければならないし、自分で一から考え、試行錯誤しなければならないものだから、そんなことをしなくても、誰でもいい、何でもいい、自分を救ってくれるものがあれば、それでいいのだ。そこで現われてくる「救い」こそが、底なし沼であることを知らずに。
知識を得るのはある意味でたやすい。もちろん、得るのにたやすい知識など、皮相な知識、文字づらの知識にすぎない。しかし、常に自分をふりかえらざるをえなくなるような、自分の行動に影響をあたえざるをえなくなるような知識を得るのは、決してたやすいものではない。書物を読むにしても、その読み方はさまざまで、それは聖書などの聖典に限ったものではない。
そこでも、知識に依存しようとするのか、それを智恵に変容させようとするのかが鍵になる。前者は、日々の生活をますますメカニカルなものとするが、後者は、日常生活のひとこまひとこまをも変容させる生きた力となりうるものだ。