風のトポスノート41-50

(1998.3.10-1998.4.11)


41●ポスト・アンダーグラウンド

42●自分は何をしようとしているのか

43●人間関係について

44●生みの苦しみ〜自己実現

45●夫婦とリアライゼーション

46●危険なよい子

47●善意といじめ

48●学ぶという謎について

49●「私」という物語

50●なにもしないくせに素晴らしい

 

 

 

風のトポスノート 41

ポスト・アンダーグラウンド


(1998.3.10)

 

 村上春樹が、地下鉄サリン事件の被害者に取材した「アンダーグランド」に続いて、今度は、オウム真理教の信徒にインタビューした「ポスト・アンダーグラウンド」が、10日発売の文芸春秋から数回に渡って発表されるらしく、楽しみにしている。

 しかし、地下鉄サリン事件とはいったい何だったのだろうか。今事件の関係者は裁判を受けていて、林被告は無期懲役の判決を受けたのだが、事件を起こした人たちはむしろきわめて真面目すぎるのかもしれないと思う。河合隼雄ではないが、「マジメも休み休み言え」のようなもので、「マジメ」も極まればそういう事件を起こしかねないということかもしれない。

 「マジメさ」は、常に自分の外に自分を律する基準を探していて、一度その基準を信じ込んでしまうと、その基準を中心として、それにどこまでも従ってしまうというところがある。

 何か規則があると、その理由如何にかかわらず、それが規則だからという理由だけで従おうとする態度。もしくは、最初は一般社会のあり方に批判的であるがゆえに、正しさを求め、何かを見つけたと一度思いこんでしまうと、そのアンチそのものを自分の絶対的基準にしてしまう態度。どちらも、「マジメ」に一途なのだといえる。だから、そこから「自由」は容易に抜け落ちてしまう。

 「自由」とは、「自らの由」。自分の理由を、何か外的なものに預けてしまうが故に、ああした事件は起こりうるのであるし、それは、何か絶対的な基準を外に探す限り、可能性として、常に起こりうる事件なのかもしれない。

 「何を信じていいのかわからない」・・・そういう時代。しかし、それは「何かを信じたい」ということを強く求めているということでもある。だから、その信じたい気持ちに答えるものが見つかったと思えば、人は、マジメな人であればあるほど、そこに自分を預けてしまうことになる。そして、そこに、「悟り」だとか「超能力」だとかいう巧妙な目的が織りまぜられていると、それも大きな目的になってしまうのだ。超越的なものというのは、自分がなにをしたいかわからない人にとっては、なにか途方もなく素晴らしいものであるかのように映るのかもしれない。少なくとも、それに従っていけば、なんとかなるという気持ちになるのかもしれない。

 逆に、「私は何も信じてなんかいない。無信仰なのだ。」という人がいる。しかし、そういう人は血縁を信じていたりするし、お金を信じていたりもするし、死んだらお墓にはいろうと思っていたり、法事に出たりもする。そういうのも、立派なというか、鰯の頭のような信心に似たものだ。もちろん、科学主義や唯物論もまったく発想は似たものだといえる。

 シュタイナーがいうように、唯物論者というのは、物質のことをまったく分かっていないからそういう立場がとれるのだといえる。つまり、信仰者は信仰ということがまったくわかっていないからこそ、信仰できるというようなパラドックスに陥ってしまっているのだ。

 そういう意味では、超越的なものにあこがれるのは、超越的ななものがわからない証拠だといえるし、悟りを得ようばかりするということは、悟りがわからないということになる。

 村上春樹の今回の「ポスト・アンダーグラウンド」は朝日新聞での紹介によると(3月8日付30面)

今回は、「日本社会というメイン・システムから外れた人々(とくに若年層)を受け入れるための有効で正常なサブ・システムが日本には存在しないという事実」は変わっておらず、「オウムを潰したとしても同じような団体はまた出てくるだろう」という危機感から、オウム側の取材に取り組んだと言う。

 メイン・システムとサブ・システム。「有効で正常な」。「有効で正常」であるように思われているあり方は、果たして「有効で正常」なのかどうかということから問われなければならないのかもしれない。つまり、それは誰にとって「有効で正常」なのかということだ。その「軸」そのものが激震しているのが現代なのだといえるのだ。

 実際、何をどうすればよいのかを提示することは非常に難しいことなのだ。だから、少なくとも、自分は今なにを自分の価値基準として選択しているかということにだけは、自覚的でなければならないのではないかと思う。何かを信じ込んでいるということは、自分が選択している価値基準に対する自覚的な反省作用の可能性を自らが潰しているといえる。シュタイナーが「噛みつくような疑念」が必要だというのも、常に自覚的な反省作用でもある意識魂の必要性を示唆しているように思う。

 さて、「ポスト・アンダーグラウンド」だが、そこに何を見ることができるのだろうか。とにかく、見てみようとすることだ。それを自分が選択している価値基準の物語に照らしながら。自分のその物語にも「噛みつくような疑念」を持ちながら。

 

 

 

風のトポスノート 42

自分は何をしようとしているのか


(1998.3.15)

 

古い理解にもとづいて、ひとは−−善意で、しかも信仰心あついひとは−−人間関係のなかで、いちばんひとのためになると思うことをしていた。悲しいことに、たいへいはその結果として虐待されつづけてきた。あるいは酷使され続けてきた。うまくいかない人間関係ばかりが続いた。他者を基準として「正しいことをしよう」と努力したひと−−すぐに赦し、同情を示し、ある種の問題やふるまいを見過ごしつづけてきたひとたちは、結局は神を恨み、怒り、信じなくなった。正義の神なら、たとえ愛の名においてであっても、そんな際限のない苦しみと喜びの欠如と犠牲を要求し続けるだろうか。

神は要求していない、それが答えである。神は、あなたが愛する相手に自分自身も含めるようにと求めているだけである。

神はさらに先へ進む。神は、自分を第一に考えることを提案し、勧めている。あなたがたのなかにはこれを冒涜と呼ぶ者がいること、したがってこれは神の言葉ではないと言う者がいること、さらには、神の言葉であると受け入れた上で自分自身の目的のためにねじまげて解釈し、神意にかなわない行動を正当化する者がいることも、よくわかっている。気高い意味で自分自身を第一に考えるなら、決して神意にかなわない行動をするはずはない。

したがって、自分自身のために最善のことをしようとして、神意にかなわない行動になるなら、問題は自分を第一としたことではなくて、何が最善かを誤解したことにある。もちろん、自分にとって何が最善かを見きわめるには、自分が何をしようとしているのかを見きわめなければならない。無視している者が多いが、これは重要なステップである。あなたは「何をしようと」しているのか?あなたの人生の目的は何か?その疑問に答えなければ、ある状況で何が「最善」かはいつまでも謎だろう。

(ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話/宇宙をみつける・自分をみつける」吉田利子訳・サンマーク出版/1997.9.30/P177-)

 我をなくして、「無私」の態度をとるということは美徳のように思われているが、果たしてそうだろうか。自己犠牲という名の美徳は、多く宗教者を酔わせ、苦しみのなかに自分を置くことで、「正しいこと」を貫いていると思いこむ。

 しかし、そこで根源に立ち返らなければならない。自分はいったい「何をしようと」しているのだろうか、と。「無私」の態度をとるその「私」は「何をしようと」しているのだろうか、と。「愛に生きる」というその態度で、「何をしようと」しているのだろうか、と。その価値観の根源にあるものを見据えた上での態度なのか、と。

 そこにシュタイナーの「自由の哲学」の核心も存在している。

 人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって道徳行為が存在するのである。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからである。しかしその人は道徳を成立させるために行為するのではない。個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提なのである。

(「自由の哲学」イザラ書房/P193-194)

 「気高い意味で自分自身を第一に考える」ということは、「個的な倫理的直観」によって道徳的活動をする「自由な人間」となるということにほかならない。

 それは、社会や宗教の教義などが「〜することが正しい」と命ずるからそれに基づいた行動をするということでは決してない。そうした行動は多く無私で自己犠牲を貫いているように見え、素晴らしいものであるように美化されることが多いのだけれど、それは、みずからの自由を放棄した行動でしかない。

 なにかをすべきだからとか、なにかが正しいとされているから、という理由で行なう行動と自分が何をしようとしているかを見据え、「個的な倫理的直観」による「道徳理念」から行なう行動ととは、それが外的にはまったく同じように見えても、それはまったく異なっている。「私は自己義性的にあなたのためにこんなことをしてあげる」というのと「私は、私の人生の目的に適っていると思うので、あなたにこれをする」というのがまったく別の行為だというのと同じである。もちろん、どちらの場合も、相手に迷惑になることもある^^;。

 後者の場合でいえば、「問題は自分を第一としたことではなくて、何が最善か誤解したことにある」だけのことだ。その「誤解」を解けばいい。

 しかし、前者はそうはいかない。たとえば、宗教の押し売りのような行為にそれが典型的に現われる。「あなたを救ってあげよう」というわけである。そして、それは「個」としてではなく、常に外からの基準でなされる。

 人は、「自分が何をしようとしているのかを見きわめ」るのではなく、それを外からの「正しさ」や「善」などで自分の行動を決めようとする。つまり、「自分が何をしようとしているのか」わからないのだ。「自分が何をしようとしているのか」わからない人ほど、群れて、そのなかの価値観で鎧をつくり、悪くすれば、その価値観でない人を攻撃しようとする。

 こうしたことは、とても誤解されやすいことだけれど、人はまず「自分が何をしようとしているのか」に立ち返らなければならない。それを見きわめようとすることなく、容易に無私になること、それはまさに「洗脳」を意味している。そして、人は「洗脳」されることに慣れすぎているのではないだろうか。

 

 

 

風のトポスノート 43

人間関係について


(1998.3.18)

 

人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会−−それどころか、唯一の機会−−を与えてくれるからだ。逆に、相手のもっと気高い部分をとらえて経験する、つまり他者との経験のための最大の機会だと考えると、失敗する。人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。自分は何者か、何をするか、何をもっているか。自分は何を欲し、要求し、与えているか。自分は何を求め、創造し、経験しているか。そう考えれば、すべての人間関係はすばらしいものとなり、その目的に−−そして関係を結んでいる人間にとっても−−大いに役立つだろう。

人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。

これは奇妙な教えに聞こえるかもしれない。あなたがたは、最も気高い人間関係では相手のことだけを考えるものだと聞かされてきたからだ。ところが、ほんとうはあなたがたが相手にばかり気を向けること−−相手にとらわれること−−が、失敗の原因になる。

相手は何者か?相手は何をしているか?相手は何をもっているか?相手は何を言っているか?何を欲しているか?何を要求しているか?何を考えているか?期待しているか?計画しているか?<マスター>は、相手が何者で、何をし、何をもち、何を言い、何を欲し、何を要求しているかはどうでもいいことを知っている。相手が何を考え、計画しているかはどうでもいい。大事なのは、その関係のなかであなたが何者であるかだけである。

最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。

(略)

自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。多くの人たちは、相手への愛情を通じて自分への愛情を求めるという過ちを犯している。もちろん、自分がそうしているとは気づいてはいない。意識的ないとなみではない。(略)ひとは、考える−−「正しく相手を愛することさえできれば、相手はわたしを愛してくれるだろう。そうしたら、わたしは愛される人間になり、自分を愛することができる」と。

これを裏返せば、愛してくれる他者がいないから自分を憎んでいるひとが多い、ということだ。

(ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話/宇宙をみつける・自分をみつける」吉田利子訳・サンマーク出版/1997.9.30/P167-169)

 非常に明解であり、痛快だ。自分のことに目を向けないでいたならば、他者との人間関係の意味をとらえそこなってしまうし、その他者への依存のなかで自分を見失ってしまう。

 道徳的倫理的な方、宗教的な方は、「愛を与える」ということが大切だと言うようだけれど、それはいったい誰が与えるのか、ということについては問わない。「与える」というのがもっとも無自覚なエゴになるのだ。「教えてあげよう」というのもそれに似ている。

 宗教者に救いを求める方がいなかったら、その宗教者はいったいどうすればいいのだろう。教師に生徒がいなかったとしたら、その教師はいったいどうすればいいのだろう。そのことを問わねばならない。

 医者が必要なのも、患者がいるからだ。

 そういう意味で、癒しを求める人がヒーラーをつくり、救いを求める人が宗教者をつくり、教えてもらいたがるひとが教師をつくり、患者になることによって医者がつくられる。妻になるためには、夫が必要だ。親になるためには、子どもが必要だ。

 人間関係を考える場合、まずそうしたことから考えなければならない。相手がいるということがどういうことなのかを考えるということである。そして、その関係のなかで、自分は何者なのかということを深く考えていかなければならない。

 人間関係を固定的にとらえることで、自分も固定化され、その枠のなかで自分のそれ以外の部分をスポイルしてしまうことになる。それは、相手がこうだから自分はこうするという発想だ。妻がこうだから自分はこうしかできない。逆に、夫がこうだから自分はこうしかできない。子どもがこうだから自分はこうしなければならない。それがひろがって、社会がこうだから自分はこうなのだ・・・・というふうに、環境のせいにしてしまう発想法へとつながってくる。

 一見、「愛を与える」という発想はその逆のように見えるのだけれど、それは「与える」という発想をなくしたとき以外には、やはり「他者」のなかに自分を見失ってしまっているのと同じだ。この部分にはよくよく注意が必要である。「善魔」が始末に負えないのはそういうところからきている。自然環境を守れ!を叫ぶ主婦が、家庭環境を破壊していたり、教育の大切さを叫ぶ主婦が、自分の足下で破壊が進んでいることに気づかないというのも同じ問題だといえる。宗教が家庭を壊すというのも同じだ。

 人間関係においては、自分がその関係でなにをしようとしているかについて自覚していることが基本となる。自己責任ということは、常にそこは「自分を創造する最大の機会」であるということを意味しているということがいえる。

 上記の引用にあるような部分は、「自分のエゴをどんどんだすのがいい」というように容易に誤解されうるものだけれど、それは人間関係において、自分がなにをしようとしているのかに無自覚であるということなので、まったく逆であることは知らなければならない。むしろ、無自覚なままに「愛を与えなさい」ということこそ、「自分のエゴをどんどんだすのがいい」ということにほかならないのだ。

 

 

 

風のトポスノート 44

生みの苦しみ〜自己実現


(1998.3.24)

 

 癒しというと、苦しかったことが癒されて楽になることののみが意識される。しかし、実際は、簡単に楽になるのではなく、むしろ苦しみを深めることが先に求められることが多い。新しいものの創造には苦しみが伴うからである。苦しまずに癒されることはない、とさえ言えるだろう。(略)

 すべての癒しの根本に「死の癒し」ということが存在している。従ってそれは「欠損からの回復」などというイメージでは単純には語れない。こう考えると、人間にとって「癒し」ということは、一生の間続くプロセスだとも言うことができる。創造が必要だと言ったが、考えてみると自分が生きる生涯は他にかけがえのない「作品」である。毎日毎日をいかに生きるかは、その作品の完成につながる。(略)実際にクライエントの方々の話を聞いていると、うまくいくときは、ちょうど適切なときに適切な人が現われ、その人間関係のなかで創造活動が行なわれていると感じる。「生き甲斐がない」とか「生きる意味がない」ので、生きていても仕方がないと言っていた人が、「生き甲斐を探し」、「生きる意味を見出す」ためにいま生きているのだと思うようになった、と言われたという報告を聞いて感激したことがあった。創造活動をするのに、他からの答えを期待するのはまちがいである。自分で発見しなくてはならない。

(河合隼雄「日本人の心のゆくえ」岩波書店/P52-53)

 病が癒えるというのは、病という課題を通じてみずからを創造しているとうことで、なにもわからぬまま対症療法的に楽になるというのは、ある意味ではドラッグによって痛みを感じなくしてしまうことになる。それは創造的契機をみずからなくしてしまうということだ。

 「生みの苦しみ」というように、創造には苦しみが伴う。もちろん、「苦しみ」は文字どおりの苦痛である必要はない。それは、無意識なロボットのような関わりであってはならず、常にそこにアクティブに関わっていなければならないということだ。そのひとつの現われとして「苦痛」という形が与えられることがある。そういうふうにとらえる必要がある。もし、痛みがなければ、病に気づかないまま、死に至ることもあるだろう。痛みは気づきのためのシグナルなのだ。

 なんらかの形で与えられる問題に答えること。それが「生み」であり「創造」であるのだといえる。だから、アンチョコを見たり、答えだけを教えてもらうことでは、「生み」でも「創造」でもない。また、それは問題と答えが一対一対応するような、答えが一つであるようなものではなく、ひとそれぞれに答えが創造されなければならないような問題である。

 自分の関わるあらゆることが「問題」だといえる。それが「問題」であると認識することがすべての出発点になる。それが「問題」であると認識できないことこそ、「無明」なのだ。それは教祖がでてきて解決してくれるような問題ではない。決まった形にしたがっていれば与えられるような答えではない。

 だから、「苦しかったことが癒されて楽になる」のではなく、むしろ、その「苦しみ」を深めていくことが重要となる。

 ニューエイジ的に言われる「わくわく」というのは、実はその「苦しみ」のことなのだけれど、それが微妙にニュアンスを変えられて、「苦しかったことが癒されて楽になる」かのように受け取られがちだ。

 しかし、その「苦しみ」は、「一生の間続くプロセス」なのだ。「気づき」というのは、その「苦しみ」は決して「苦しみ」なのではなく、「喜び」なのだということに気づくことだといえる。その違いは大きい。

 この「生みの苦しみ」によって、「自己実現」が可能になる。

 他を理解するためには自分を理解しなくてはならない。このことは、それまで自分が知っていた「私」というのとは一段と異なる深い水準で自分自身を知り、それを生きることを意味する。「知る」ことと「実現する」ことを共に意味する言葉として英語のリアライゼーション(realization)というのは非常に重宝な単語である。そのような意味での自己実現が必要となってくる。ところが、最近は自己実現という用語が非常に浅薄に受けとめられ、自分がやりたいと思っていることを実行するというような意味で用いられている。しかし、私がここに述べている自己実現は本人にとっても不可解であったり、そのためにはこれまでに経験したことのない苦痛を体験したりするようなことである。おそらく、そのためにはそれまで自分を支えてきた人生観や世界観が崩壊するほどの体験をすることだろう。

(河合隼雄「日本人の心のゆくえ」岩波書店/P65)

 そうした「体験」をした場合、それを「自分を理解」するためにどうしても必要なことだと受けとめるか、それを相手や環境のせいだとするかの違いが、「自己実現」に踏み出せるかどうかを分けていくことになる。

 

 

 

風のトポスノート 45

夫婦とリアライゼーション


(1998.3.24)

 

 日本人が現在直面している多くの問題のなかの重要なひとつとして、夫婦の問題がある。(略)

 結婚をするときに、現在の日本ではそれによって「幸福になる」というイメージが非常に強く作用しているようだ。(略)

 かつて、私は「愛し合っている二人が結婚すると幸福になる」というのは危険思想だと冷やかし半分に書いたことがある。このような危険思想にかぶれた夫婦が出現すると、周囲がどれだけ迷惑を受けるかわからない。(略)

 ロマンチック・ラブの根本には相手に対する「崇拝」と呼んでもいいほどの感情が流れている。もともとは絶対者に対して抱いていた感情が尾を引いているのだから、それも当然である。ところがその崇拝も底の浅いものであると、相手の人間としての実態に気づくと、一挙に消え去ってしまう。これは単純なロマンチック・ラブの終わりである。

 実際の夫婦は、人間としての自分の実態を見せ合っても、その関係が維持されるところに意味があるのではなかろうか。(略)

 お互いが力を合わせて、何かのことを遂行しようとしているとき、夫婦の関係には、それほど決定的な破局が訪れることはない。たとえば、子どもを育てること、その子どもが成長し一人前の成人になること、家をもつこと、社会的に認められる地位につくこと、それらを二人で共同して遂行しているとき、何といっても利害関係を共にしているので、下手に協力関係を壊すと自分自身の損害になってくる。(略)

 一般には夫婦の協力関係はある程度の年齢まで続く。息子が大学に入学するまでとか、家のローンを返すまでとか、夫が部長になるまでとか、二人が達成しようとする目標がある場合、この間にもちろん些細なことでは争いがあるにしても、だいたい協力関係がうまくいくので、夫婦が別れることなど思いもよらない。しかし、最初の目標が達成されて、ほっとした頃に危機がやってくる(略)

 夫婦が協力関係から理解し合う関係に移ろうとするとき、二人はともども深い苦悩を味わうことになるだろう。苦しみがない、悲しいこともない、怒ることもない、などなどと一般に否定的と思われる体験が少ないほど幸福であり、結婚によって幸福を得るなどと考えている人は、この時期に耐えるのは非常に難しいであろう。(略)

 もし結婚生活を誠実に続けていこうとするならば、わが国においては特に、それは宗教性に対して心をひらく契機となることが多いと思われる。

 ここに言う「宗教性」とは、特定の宗派のことを指していない。人間が何らかの自分を超える存在を感じ、それによって生じる現象をあくまで避けることなく観察し、理解しようと努めることを意味している。(略)

 夫婦という二人の関係でありながら、それをほんとうに維持しようと努めるとき、自分のなかに自分を超えた存在があり、それによって包まれていることが「関係」の基礎としてあることに気づくであろう。そうなると、二人の関係は極めて深くなるし、夫婦はそれぞれ一人であっても生きていくだけの強さをもつことになるだろう。

(河合隼雄「日本人の心のゆくえ」岩波書店/P55-70)

 この引用は、河合隼雄「日本人の心のゆくえ」のなかの第四章「『夫婦』と『リアライゼーション』」からのかなりこまぎれな引用集になってしまいました。引用したかったのは、最後のところなのだけれども、それだけでは伝わらないと思ううちにこうなってしまいました。それは、まさに「日本人が現在直面している多くの問題のなかの重要なひとつとして、夫婦の問題がある」と思うからです。

 実際、周囲を見回してみても(自分の親を含めて)、夫婦問題というのは、かなり壮絶なものがあって、親が決めた同士で結婚していた時代をはるかに過ぎて、「愛し合っている二人が結婚する」という時代になってきているだけに、その結婚幻想というのは(見合い恋愛という変な用語もあるほどに)大きく肥大したまま、修復のできないような状態にまで至っています。もちろん、「愛し合っている二人が結婚する」というのが変なのではなく、「愛し合っている二人」ということについて、あまりにも現実の深い関係性を無視した幻想ばかりが肥大しているということです。

 そもそも、一人でいることのできない人が、二人になることで、うまくいくはずもないというのが実際のところで、「子はかすがい」というように、「かすがい」がなければ、二人の関係性がもたないというのもおかしいわけです。

 二人でいるということの前提条件は、一人でいることができるということでなければなりません。半円と半円が合わさってひとつの円を形成するというのなどは、関係性が最初から破綻しているともいえます。そうではなくて、どういう形であれ一人は一人として一つの円であり、その円と円がともに関係性をもつことによって、さらに大きな円の可能性を模索していくというのでなければ、関係性そのもの基礎がないということがいえるのだと思います。

 半円と半円が合わさってひとつの円を形成しようというのは、互いが互いに対して「私を幸福にしてくれ、理解してくれ」と要求しているようなもので、そんな関係が相互理解を導くことはまずは望めないどころか、「あなたは私を幸せにしてくれないのね」とか「あなたはわたしのことをまるでわかってないのよ」というふうに、相手の非をあげつらって恨み辛みばかりを増大させるのは必定です。そういう関係性で、いっしょにいるということは、かなり辛いのではないかと思うのですが・・・。

 もちろん、その円と半円の比喩は、子どもについてはあてはまり、子どもを半円だととらえてしまうと、夫に失望した妻は、自分の半円を今度は子どもの半円と合わせて円を形成したがり、夫という半円は行き場を失って、自分の半円を仕事や他の女性関係や自分の趣味などにもっていこうとし、そのことでよけいに疎外された存在になります。

 周囲を見ているとそういう悲しい関係があまりにも多すぎて、なぜそうまでして結婚しなければならないのかと思ってしまいます。なぜせっかくいっしょにいるのに、理想を共有する関係になれないのか、それができないのになぜいっしょにいようとするのか。もちろんその理由は、そういうことなど考えてもみないということなのですが^^;。

 男女で理想を共有するということは、男女間の恋愛関係をさらに大きく友愛的な関係にまで高めていくことではないかと思います。通常は、友愛的な関係を恋愛にまで至らない関係のように思いがちですが、そういう友愛というのは、たんなるつきあい的な打算的関係にすぎません。もちろん、通常の恋愛と称するものの多くも打算的な関係なのですけど^^;、それはともかくとして、真の友愛的な関係というのは、恋愛関係をさらに高次のものにするために不可欠なのではないかと少なくともぼく自身は思っています。

 同性間でも、親友といえば、相手の実際を深く知るほどに、その関係性は深まっていくものであるように、異性間の恋愛においてもそれは同じ事ではないかと思うのです。相手の実際を知ることで相手に対する投影が幻滅に変わるというのは、その関係性に友愛的なところが欠如しているからこそのものではないでしょうか。

 上記引用の最後にある夫婦という二人の関係性についての河合隼雄の言葉はとても深いものがあります。お互いがいることで、それぞれが自分を深く見つめる契機になる。それが、円と円がともに大きな円を形成するという比喩であらわされている深い関係性ということなのではないでしょうか。

 

 

 

風のトポスノート 46

危険なよい子


(1998.3.25)

 

思春期の壁となる強さをもつためには、大人は「内的権威」をもたねばならない。日本人は権威の本質がわからず、権力と混同して忌避している人が多い。母性社会には権威というものがない。常に全体の圧力が作用し、「長」と呼ばれる人も、その力を利用しているだけの方が多い。権威というのは、判断力、決断力を十分に持もち、個人としての責任を明確に自覚することによって得られる。従って、それは、論争や対決を回避しない。それに対して権力は、その力によって他を支配しようとする。「内的権威」などと書いたが、それは権力と混同されると困るからで、権威はもともと内的なものである。日本の大人たちがそれを身につけることを怠ってきたことが、現在の思春期の子どもたちの「守り」を非常に弱いものにしている。

権威が確立してくると、他人の自由を許す範囲が広くなる。子どもを意のままになる「よい子」にしようなどとは思わない。子どもが自由に生き、その子らしい「権威」を身につけるために、ぶつかってくるのを正面から受けとめるのだ。子どもが自分で自分を守れる人間に成長するのである。権威によらず母性的権力を行使(真綿で首をしめると言われる方法)して子どもを早くから「よい子」にしてしまうので、思春期になったとき、彼らは「いじめ」の経験のないまま、急にいじめの世界にほうりこまれ、どこでいじめをやめていいのかわからないままに暴走する。

(河合隼雄「日本人の心のゆくえ」岩波書店/P81-82)

 ここでいう「大人は「内的権威」をもたねばならない」というのは、シュタイナーが子どもにとって「権威」が必要であるということに他ならない。それは、子どもが「内的権威」を身につけるために必要なのだ。それは健全な自我の発達にとって非常に重要である。

 ぼくにとっては、「内的権威」をもった大人の存在が欠けていて、もちろん先生にもそういう対象はいなかったので、その後、「内的権威」を身につけるために格闘したのだろうと自分で思えるような体験がたくさん必要になったように思う。子どもにとってそれはかなり苦しく辛い経験になってしまう。だから、「内的権威」をもった大人の存在があったほうが、比較的容易にそれを自分のものとする契機をもてるのだと思う。

 ぼくの場合でいうと、まず小学校に入って半年あたりで、ストレスで病気になってしまって、あやうく死にかけた^^;。その後も、非常に精神的に不安定で、神経性胃炎になったり、熱をだすたびごとに世界がゆがむような体験をすることになった。実際、その言葉通り、世界が湾曲したりねじれたりするのだ。その体験は、思春期あたりで、少しながら「内的権威」を自分なりに身につけはじめる時期まで続いた。熱に浮かされながら、世界がゆがむような体験をしているとき、決まって見ていたかぎりなく重苦しい夢があった。その夢も、世界がゆがまなくなってから、見なくなった。おそらくやっと「守り」が少しながらできはじめたのだろう。

 日本ではおそらく真に「内的権威」をもった大人の存在を見出すことは非常に困難なのではないかと思う。先生は権威ではなくて、生徒を従わせようとする「権力者」だし、社会に出てからも、「権力者」は多く見たが、「権威者」に出会ったことはほとんどない。学校の校則も「なぜ」を問うことはできず、「そうなっているから従え」以外の要素は限りなく少なかったし、社会における「慣習」というのも、その延長線上にあるものだった。そのために、ぼくが職業を選択したのも、そうした「慣習」から自由度が大きくたとえ必要であってもそれを遊び感覚で使いこなす程度で済むような要素を求めることになった。

 さて、親も教師も子どもを「よい子」に育てようとする。「よい子」というのはくせ者なのだ。「よい子」は、自分のなかの「わるい子」を排除し、それを魂の闇のなかへともぐりこませるからだ。そのもぐりこんだ「わるい子」は、闇の中で陰湿に成長する。そして「内的権威」を蝕んでいく。

 「内的権威」の芽が腐ってしまいかけたところで、思春期へと突入すると、「よい子」はいろんな危険に見舞われることになる。「よい子」のまま過保護に育ち続けるマザコンもいるだろうし、「よい子」が人面顔になっていることに耐えきれず、キレてしまうような子もいるだろうし、援助交際をするような子もいるだろう。

 「内的権威」が希薄なので、自分でどうしていいのかわからないのだ。自分でどうしていいのかわからないというか、自分がないのだ。つまり、「自由」の可能性を放棄したわけである。だから容易に時代の空気にロボットのように従うようになる。バタフライナイフをふりまわすのが流行ればそうするし、援助交際が流行れば、その空気にのっかってしまう。また、新興宗教にはまりこんでしまう場合もあるだろう。まさに自分で自分なりに葛藤しながら考えていく力が希薄になってしまっているのだ。つまり、どの場合も、かぎりなく「よい子」なのだ。

 「よい子」は隔離されていないかぎり、免疫力がない。しかも、時代はさまざまな菌に満ちている。そしてその特効薬は存在しない。自分で自分を「守る」すべを身につけることができなければ、「よい子」はどこまでも暴走していくことを止められない。

 教師も親も、子どもを「よい子」にしようと躍起になればなるほど、その「よい子」であるということのゆえに暴走していくのだ。人は「よい子」であると同時に「わるい子」であり、その両方の自分をしっかり持っているということを試行錯誤を通じて体験的に知った上で、自分でどういう人間になりたいのかを自分で描けるようになれなければならないと思う。

 「わるい子」のことがわからない「よい子」ほど危険なものはないのだ。

 

 

 

風のトポスノート 47

善意といじめ


(1998.3.26)

 

 いま、日本の学校のいじめの最大のボスは誰かというと、実は、学校と教師なんです。

 小学校過程では低学年がとくにそうですね。中学年でいえば、たとえば「明るく」「大きな声で」「はきはきと」「元気よく」「忘れ物をしないで」などと学級目標が示され、あるべき「理想の人格イメージ」や、「期待される生徒像」が教室に掲げられる。基本的な生活習慣も細かい表やスローガンとして教室に書かれ、一律強制的に到達させようとする。

 だから、小学校の中学年以下で、いじめられている子を見つけようと思ったら、簡単ですよ。学級目標と反対の子を見つければいい。先生がいつも注意している子がいじめを受けるんですよ。

 この子たちにはいじめているという認識はほとんどないです。「だって、先生が注意しているのを、僕たちも一生懸命注意して直してあげようとしているんだ、班ぐるみで注意しているんだ」などと言う。忘れ物しないように前の日に電話をかけたり、迎えにいったりとか。来られるほうにとっては大変な恐怖ですよ。どんどん個人のプライバシーの領域にまで介入して、その子を良くしようと子供たちは努力しているわけですよ。でも、それはいじめですよ。はっきりと。その子の自己決定権の侵害行為です。

(尾木直樹・宮台真司「学校を救済せよ」学陽書房/P100-101)

 こういうところをしっかりと意識できるようになると、「善意」と「いじめ」というのが、深く関係していることがよくわかります。

 第二次世界大戦での日本の行動パターンも、国内でもそうですし、国外でも、「あるべき「理想の○○○」や「期待される○○○」などを「善意」で目標に掲げて、そうでない人たちを「一律強制的に到達させようと」した部分がかなりあったのではないでしょうか。

 警察のよく掲げている標語なども、小学生の学級目標の発想とほとんど同質の発想であることもわかります。あんな標語掲げて、だれか「なるほど、そうしよう」と思う人がどこにいるのだろうかと不思議になるのですが、ああいう「善意」というのが、日本人は好きなわけです。

 鬱の子どもに、「元気で明るくしようよ!」などと言ったら死にたくなってしまう、とかいうようなことをシュタイナーも言ってますが、そういうの、鬱がベースのぼくなんかはよくわかります^^;。ぼくも、「ハキ」のない子でしたから、先生から、もっと元気良く、手をあげて、はきはきと、仲良く・・・ということを耳にたこができるまで「やさしく」諭されましたが、そのつらさというのが、先生にはわからないわけです。だって、先生はあるべき「理想の人格イメージ」や、「期待される生徒像」を「善意」で教えてあげているつもりなのですから。

 しかし、「善意」は、そういうことを認識しないがゆえに「善意」なのですから、その行軍は止むところがありません。ぼくのばあい、そうした先生以外のイジメにあわなかったことが救われた部分かもしれません。

 社会にでても「あるべき「理想の○○○」や「期待される○○○」などは、企業ではつきもので、変な上司にかかると、どんなセミナーを受けさせられるかわかりませんが(「ブレイクスルー」を強制されるセミナーなんかもありますね^^;)ま、企業のばあい、いやだったら、最悪会社をやめればいいわけですから、適当なところでお茶を濁したり、自分にとって切実に必要な部分については、自分なりに工夫していけばいいわけですし、なんとかなる。しかし、学校なんかだと逃げ場がないですからね。それに、先生そのものにあまりに説得力がない場合が多くて、なおのこと引き裂かれるような体験を重ねざるを得ません。

 「あるべき「理想の○○○」や「期待される○○○」というのは、やはり、自己決定によって自発的に「道徳的ファンタジー」によって意志されるからこそ重要なのであって、それを外から「目標」として掲げられ強制されるとしたら、それはまさにファシズム以外のなにものでもない。ファシズムとは、「イジメ」が公認された状態だともいえます。そしてファシズムなどもまさに「善意」からでているのではないでしょうか。

 

 

 

風のトポスノート 48

学ぶという謎について


(1998.4.7)

 

 教育というものは教育を超えている、そう私は思っている。この点に関して好きな考え方が二つある。一つは教育というのはない、教育現象があるだけだという言葉で表わされる考え方である。そのように言ったのは、小山俊一という思想家だった。教えたという錯覚と教えられたという錯覚とが生み出す教育現象である。教育が成り立つとすれば、自分で自分を教育する、自己教育においてだけあるというのである。『プソイド通信』という本のなかにある言葉だが、手元にはないのでうろおぼえで書いている。(略)

 好きな考え方の二つ目のものは吉本隆明が書いた遠山啓氏の追悼文のなかに見られる。彼は教えようとした、だから私は学ばなかった。彼は教えようとしなかった、だから私は学んだ、という言葉でそれは表わされる。

(芹沢俊介「桜の下の大学論」上/朝日新聞1998.4.6 23面)

 「自己教育」というのは、シュタイナーの教育に関する基本的な考え方だというふうにぼくは思っている。「自己教育」ができるようサポートする環境というテーマでもあるし、また、生徒も先生もそれぞれのテーマは、自己教育だというテーマでもある。

 だから、「教えてあげる」という発想や「教えてほしい」という発想からは何も教えることなどはできないし、学ぶこともできない。しかし、世の中には、なんと教えようとする教師や教えてほしがっている生徒のなんと大勢いることだろうか。

 だから、それが屈折してでると、「彼は教えようとした、だから私は学ばなかった。彼は教えようとしなかった、だから私は学んだ」ということになるのだと思うし、これは、ぼく自身のこれまでの姿勢そのものだと思い、少しばかり屈折した笑いがこみ上げてきた。

 ぼくが学校がずっと嫌いだったひとつの理由には、先生たちがあまりにも教えようとしていたというのがあると思う。だから、ぼくは学ばなかった。彼らはいったい何を教えようとしていたのだろうか。

 ぼくは教えようとしないさまざまな人や書物によって、多くを学ぶことができたし、今も学ぼうとしている。

 しかし、学ぶということはいったいどういうことなのだろうか。そして、それは自己教育ということが基本であるとすれば、自分で自分のなかから何かを引き出すということにほかならない。教育をドイツ語で die Erziehung というが、erziehenとは引き出すという意味である。

 人は知らないことを教わることはできないということをどこかで聞いたことがあるように思う。学ぶというのは、自分の中にあるものを思い出すことなのかもしれない。自分がいったい誰であるのかということを。

 しかし、おそらくそれに尽きるものではないはずだ。世界があるという謎、そこに私がいるという謎は、ただ思い出すためにだけあるわけではない。おそらく、思い出すというプロセスこそが謎の中の謎なのではないか。つまり、そのプロセスこそが、新たな創造なのかもしれないということだ。宇宙は、思い出されるというプロセスという創造行為によってこそ、成長する可能性を得るのではないだろうか。

 

 

 

風のトポスノート 49

「私」という物語


(1998.4.9)

 

「ふしぎ」といえば、「私」という人間がこの世に存在している、ということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。自分が意志したわけでもない、願ったわけでもない。ともかく気がつくとこの世に存在していた。おまけに、名前、性、国籍、貧富の程度、その他、人生において重要と思われることの大半は、勝手に決められている。こんな馬鹿なことはないと憤慨してみても、まったく仕方がない。その「私」を受け入れ、「私」としての生涯を生き抜くことに全力をつくさねばならない。

いったい「私」とは何ものであろう。このことは人間にとってもっとも根本的な「ふしぎ」のようである。この「ふしぎ」な存在について、ある程度、これが私だという実感をもたないと、うまく生きていけない。生まれてからだんだんに成長していく子どもを見ていると、その時期に応じて「私」という感覚を身につけていくのがわかる。二歳にもなると、「これは自分がするのだ」という明白な意志表示をする。あるいは「いや」という拒否を示す。これは「私」という存在がある程度自覚されて言えることである。外界に対してそれに対立する存在として「私」が意識されている。このようにして、だんだんと「私」の実感ができあがってくるようだが、「私」とは何ものか、というように比較的はっきりとした形の疑問が生じたり、他と異なるものとしての「私」が存在する、と感じるのは、どうも十歳前後のようである。このことは、児童文学の名作の主人公に十歳前後の子が多いことによっても示される。

(河合隼雄「物語とふしぎ」岩波書店/P19-20)

 「私」という人間はなぜこの世に存在しているのだろうか。「世界」はなぜ存在しているのだろうか。自然科学では、そうした類の「なぜ」は問われることはない。「私」はどこから来て、どこへ行くのだろうか。「世界」というのは、どこから来て、どこへ行くのだろうか。いや、「世界」はかつてどのようにあり、どのようになっていくのだろうか。

 「私」を問うことと、「世界」を問うことは、結局のところ同じ問いの両極であるといえる。

 人間は投げ出された存在であるといった哲学者がいた。なぜ投げ出されなければならなかったのだろうか。気がつくと「私」という存在はここにいた。特定の「場」に投げ出されていた。では、「私」はここにいる前には、いったいどこにいたのか。それとも、いま突然ここに出現したのか。その「謎」をずっと抱えたまま、人は「私」であることを生きていく。そしてそこには「物語」がその歩いた分だけつくられていく。もちろん、その「物語」には、外なる物語と内なる物語があって、その両者は必ずしも同じだとは限らない。

 確かに、記憶を遡っていくと、二歳〜三歳くらいのときからぼんやりと辿ることができる。それが最初の「私」だといえるようにも思う。だれにも、最初の記憶(と自分が思っているもの)があるのではないか。それは、ある原風景のような光景かもしれない。そしてその前はまったく霧につつまれている。

 そうしてそれがやがてある明確な形をとるようになる。それが十歳前後だというふうに上記の引用にある。おそらくそうした時期から、ある程度主体的な意味で、「私」は自分の「物語」をつくろうとしはじめるのだろう。その在り方がしっかりとサポートされているならば、思春期以降では、その「物語」を生きる意志が育っていくのに対して、それがないと、その「物語」が自壊してしまう恐れがある。

 それにしても、「私」というのはいったい誰なのだろうか。「私」はそれを問い続け、答え続けなければならない。答えるということは、同時に「なぜ」を増殖させることだと知りながら。

 

 

 

風のトポスノート 50

なにもしないくせに素晴らしい


(1998.4.11)

 

河合 ひとつぼくが思ったのは、キューブラー=ロスは、逆境に入って逆境と闘って何かすることで評価されるというのを、どうしてもやり過ぎたからね、何もしないことを評価されるという体験がないんですね。それがいま来てるんです。それはまだちょっと気がついてないみたいね。だから自分で言ってるでしょう。何もしない人間は一文の役にも立たない、と。僕の考え方やったら、何もしないくせに自分は素晴らしいと思って僕は生きているわけで(笑)。

(河合隼雄・柳田邦男 特別対談「『死ぬ瞬間』と死後の世界」文芸春秋5月号 所収/P278)

 この河合隼雄さんと柳田邦男さんとの対談は、「『死ぬ瞬間』と死後の世界」というタイトルにはなっているのだけれど、そのテーマよりも、この対談の最後のほうにある、上記の引用のような内容のほうがずっと面白いと思いました。もっとも、「何もしない素晴らしさ」などというタイトルにしてしまうと、読者は興味をひかれないでしょうから、やはり「死後の世界」とかいうタイトルにする必要があったのでしょうね。

 「何もしないくせに自分は素晴らしいと思って僕は生きている」とかいうことを笑いながらいえるような方というのは、河合隼雄さんか、禅を究めて笑いの塊みたいになっている方くらいでしょうね。「何もしない」ということをこれだけ積極的な観点としてさりげなく語ることのできる人というのは、やはりすごい。

 ぼくが仕事でよくお話する会社の社長さんや偉い方というのは、「何もしない人間は一文の役にも立たない」というのが基本で、ぼくとしても仕事上のことだから、「そうですね、その通りです。だから、有用な人材が必要です。」とかいうことを、その嘘に気づかれないように気をつけながら言うわけですが^^;、そうした方々はいつも何かをしていなければ気がすまない。どれだけ儲かるかを考えているか、そうでなければゴルフと酒と女、そして少し落ち着いてくると「名声」ということのために寸暇を惜しんで駆け回っている。

 もちろん、キューブラー=ロスというような素晴らしい方とそういう方を較べるのは失礼だし、較べるべくもないのだけれど、「何もしない人間は一文の役にも立たない」という点では共通しています。

 「何かすることで評価される」ということ。それは、存在がそのままですばらしいということでは少なくともない。何かをしていなければすばらしくないというわけです。マザーテレサは、ぼろぼろになって死に行く人に「あなたは必要とされている」ということを告げていました。つまり、「あなたはここにこうしていることだけですばらしい」「あなたの人生はそのままでかけがえのないものなのです」ということを告げていたのです。「何もしない人間は一文の役にも立たない」のだとしたら、マザーテレサのそんな営為はまったく馬鹿げたことになってしまいます。しかし、決してそうではない。

 もちろん、このことを、「だから努力しなくていいんだ」というふうに貧しい意味で「なにもしないこと」を言い訳に使うことはできません。であれば、マザーテレサはわざわざインドに行く必要はなかったのですし、河合隼雄さんも、あれだけの仕事をし続ける必要はない。そうではなくて、「何かすることで評価される」ということに残っているものそのことを離れたところに、「絶対自由」とでもいえる境地がひらけるのではないか、ということです。

 「何もしないくせに自分は素晴らしいと思って僕は生きている」「自由の哲学」の極北には、そんな言葉があるのではないかと思います。

 


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