風のトポス・ノート391
教科書は世界
2002.3.1
糸井 子どもが学校に行かないと、
どこかから怒られたりはしないの?
綾戸 しました。
糸井 あ、やっぱり。
それはどうしたの?
綾戸 怒られたときに、その担当の人に
「あんた、そしたら、
『学校に行ったらこの子の人生は明るく開けて、
ハナマルな、すごいいい人生になります』
って誓約書書いてくれる?
それだったら、学校行かせるわ」
と言ったの。
そうしたらその人は、
「いや、書けません」
って答えた。
「学校に通うというのは、約束ごとなんで」
「約束ごとって、いま世間で、
いろいろつぶれてるじゃない。
『こうなってたことがだめになった』
ということがあるじゃない。
学校に通う、という約束ごとも、
時代でつぶれることあるかもしれんでしょ?」
「あるかもしれません」
「そんなことに、あんた、かけられへんわ。
死ぬときは、わたし
息子殺して自分も死ぬから大丈夫」。
糸井 ハハハハ。
じゃあさ、子どもの、
普通の「読み書きそろばん」にあたる勉強は、
綾戸さん自身が教えたの?
綾戸 わたしとおばあちゃんと、
それから世間とね。
糸井 教科書みたいなのって使ってる?
綾戸 うん、世界。
(「ほぼ日刊イトイ新聞」3/1 これでも教育の話?
綾戸智絵・第9回「教科書は世界」より)
綾戸智絵さんのお子さんは、
学校にいってないそうだ。
登校拒否とかいうのではなくて、確信的なもの。
勇気がでる。
やはり、世の中で
ほとんど無意識化しているような「約束事」には、
その「約束事」がいったいどういうことなのか、
その背景にはなにがあるのかを
きちんと考えてみる必要があるように思う。
ぼくは、義務ではないと知ったので、
幼稚園はすぐにいかなくなったし、
学校はとりあえず通ったけれど、
学校で学んだことはあまりなく、
学んだのは、
仕方のない協調性を偽装すること、
くらいのものでしかなかったように思う。
それはそれで、
たぶんそのおかげで
今もこうしてかろうじて
はちゃめちゃにならない程度には
仕事をして暮らしをしていけるようになったのだけれど、
それだけだとあまりにも悲しい。
ぼくが字を学んだきっかけは
お相撲の番付表とそのテレビ放送で、
力士の名前や決まり手などの文字と
それを読み上げる声だったように
けっこう自分でもはっきり覚えている。
なにせ、とってもおもしろかったし、
力士の名前を覚えたかったので、
自然にけっこうな数の字を覚えてしまうことになった。
あとは、図鑑。
野山や海川を巡るときに出会う
いろんなものを図鑑と照らし合わす作業は
面白くてエスカレートしてしまい、
つぎつぎといろんなことに興味が拡がっていく。
あとはナイフ一本あれば、いろんな実験もできた。
学校の授業はあまりに
人をばかにしたようなつまらなさなので、
時間があると、図書館とかにいって、
宇宙開発の本(フォン・ブラウン)とかを
いろいろ見つけて
自分なりに「世界」を理解しようとしていた。
もちろん、ぼくのような
極めて自分勝手な人ばかりではないだろうから、
それなりにガイドを示してくれる人というのは
多くの場合、必要なのだろうけれど、
それにしても、できるだけ早い時点で、
そういうのが要らなくなるようなかたちで
教育とかいうのも考えていったほうが、
ずっと学ぶということの面白さ、切実さが
拡がりやすいのではないかと思う。
それに、今では
教育とかにあまりに無意味なお金が
かかりすぎているのだろうし、
あんまりお金がなくても自己教育できるような、
そんな方向性があればいいのに、と思う。
それで、使える費用の範囲で、
自分の興味のあることを探究していく。
そういうのだったらどんなにかいいのに、
といつも思っているのだけれど、
なんだか、世の中、そういうのとは
いつも逆に向かっているようで、悲しい。
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