風のトポスノート31-40

(1998.1.15-1998/1998.2.26)


31●無知の知・知の無知

32●オモロナイのはかなわん

33●精神世界の陥穽

34●言語化と自我

35●思考による「守」「破」「離」

36●ポジティブとネガティブ

37●キリストの眼

38●ジプシーのように

39●自由のきびしさ

40●恐怖からの自由

 

 

風のトポスノート 31

無知の知・知の無知


1998.1.15

 

あなたは、自分が思っている以上のことを知っていることがわかっているのだろうか。自分の知っていることすべてを使えば、そして自分の可能性をすべて使えば、できないことなどほとんどないということも。いや、それ以上に重要なことがある。あなたが自分が知っていると思っている以上のことを使えば、この世界は楽園になる。われわれの知っていることが砂粒ほど小さいとすれば、われわれの知らないことは山ほど大きい。しかしわれわれの知らないことは、われわれの思いもよらない可能性は、われわれのなかに限りなく存在する。それこそが、われわれの真の力であり、真の王国なのだ。どこかの国が素晴らしいことをなしとげたとしよう。それは、知っていることから作ったものだ。それはそれだけのことだ。どこかの国が途方もないことをなしとげたとしよう。それは、自分たちにもあるとは思えなかった自分たちのなかの部分から作り上げたものだ。しかし国であれ人であれ、このくえなく崇高なものを作りあげたとしよう。天才的な創造性と歓喜にあふれたものを。どんなにすぐれた頭脳も考えたこともなく、思ったこともなく、ひらめいたこともない奇跡のようなものを作りあげたとしよう。それは間違いなく、自分たちのなかにある広大な未知の部分から作られているのだ。間違いなく、彼方の部分から作られているのだ。彼らは、自らのなかにある未発見の部分や無限の可能性を自分たちの友とする。彼らは、目にみえない隠された天才の野原に住んでいる。だが、彼らの凡庸な作品のほとんどには天才のひらめきはない。もっとも、世界が目にし、世界が賞賛するのは、彼らの凡庸な作品なのだが。しかしかれらのもっとも抜きんでた作品は、瞳には映らず、目には見えない。だからこそ壊れることもない。いつまでも損なわれることはないのだ。

(ベン・オクリ「見えざる神々の島」青山出版社/1998.1010/P65)

 私は私が知らないということを知らない。

 と同時に、私は私が知ってるということを知らない。

 その二重の無知のなかに私はいて、自分ができないということに気づかず、自分ができるということに気づくことができない。

 私は自分がなしたことを自分ですごいと思ったり、逆につまらないことだと思ったりする。どうしてすごいと思えたり、つまらないと思えたりするのだろうか。

 私は自分がなしえないと思っていること、さらに、なしえないとさえ思えないことや思い描くことさえできないことに対して途方もなさや恐れのようなもの、そしてときには激しいまでの拒絶感をもってしまう。それは人に対する傲慢なまでの感情をさえ導き出してしまう。またその逆に、畏れ敬い崇めたてまつったりもする。

 私は私が知らないということを知らない。

 と同時に、私は私が知ってるということを知らない。

 私は自分が知っていることに安住してしまう。私は自分のなしたことに対してあまりにも軽く考えてしまう。

 私は自分が知らないことに対して傲慢になる。私は自分がなさないことに対してあまりにも無頓着である。

 私は、自分が知らないこと、知らないと思っていることに対して、注意深く心の耳を開けなければならない。

 私は、自分がなしていないこと、なしていないがゆえに、なしていることに対して、かぎりなく澄んだ目を持たなければならない。

 私は、私が知らないことを知ったとき知ることができる。私は、自分が知っていることを知ったとき、自分があらたな扉の前に立っていることを知る。

 

 

 

風のトポスノート 32

オモロナイのはかなわん


1998.1.30

 

従って、何かにつけて「オモロイカ、オモロナイカ」ということが極めて大切な価値の指標になる。映画にしろ書物にしろ、仲間に何か意見を聞かれ、「オモロナカッタ」というと、それは相当に価値のないことになる。ともかく親しい人との会話で「オモロイ」という形容詞を使わずに過ごす日はないのである。

私は子どもの本が好きで、割に読んでいて、それについて講演をしたりもする。子どもの本の熱心な読書サークルの方に「先生は子どもの本を選ぶときに、どんな規準でお選びになりますか」と訊かれて、気安く「オモロイものは読みますが、オモロナイものは読みません」と答えた。この方はマジメな児童文学研究者だったのだろう。「われわれは児童文学を人生の糧として大切に思うから読んでいるのです。先生のような興味本位で読まれるのは困りますね」ときつくおっしゃって、私はまったく恐縮してしまった。しかし、心の中ではガリレオのように、「それでもオモロナイのはかなわん」とつぶやいていた。どこかで「マジメも休み休みいえ」なんてことが書いてあったなと思い出したりした。

(河合隼雄対話集「こころの声を聞く」新潮文庫/1998.1.1発行/P9)

 ぼくはここでシュタイナーなどをテーマにしてけっこう「マジメ」な書き方をしてしまうことが多いのだけれど、それは実際のところ「オモロイ」から書いているのであって、「オモロナイ」としたら決して書きはしないだろうと思う。

 実際、シュタイナーの講義などで随所にみられるシュタイナーの皮肉などはほとんどの場合、フォローのない皮肉が静かな爆笑ギャクのような感じで語られていたりして、そういうところもぼくは大変気に入っていたりする。

 ちょうど、近々登録予定の「精神科学と医学」の第十三講のなかにも次のような箇所があって、先ほど相棒が訳の校正などをしているのを横で見ながら、そういう皮肉に大笑いをしていたものだ。参考までにそうした箇所のひとつをご紹介させてもらうことにする。

 こうした語り口は、シュタイナーを読むひとつの楽しみでもあるのだが、ひょっとして「マジメ」一途にシュタイナーを読んでいる方からは、上記の引用のように、「われわれはシュタイナーを人生の糧として大切に思うから読んでいるのです。あなたのような興味本位で読まれるのは困りますね」といわれながらも、やはり心のなかで「それでもオモロナイのはかなわん」「マジメも休み休みいえ」とつぶやくことだろう。

 奇妙に聞こえようとも、ある人が、頭の弱い、愚鈍な人であると見なされざるを得ないような特性を備えながら、才気にあふれ、天才的なことも作り出す、ということもあり得ます。これはまったくあり得ることです。こういうことがあり得るのは、ある人がその愚鈍さ[Schwachsinn]によって非常に暗示にかかりやすく、周囲の秘密に満ちた影響を非常に容易に自らのなかに反映できる、という理由からです。ここで文化史的ー病理学的にきわめて興味深い観察をすることができます。ここでもちろんこういう観察の成果として、名前を挙げる必要はありません。そうするとむろん確信はいくらか揺らぐかもしれませんが、名前を挙げるとやはり都合が良くないですから。とりわけ、ジャーナリズムにおいて奇妙なことが起こっています。本来愚鈍な頭脳の持ち主が、良いジャーナリストになることができるのです、その愚鈍さによって、自分のわがままな意見ではなく、その時代の意見であるものを提示することができるからです。その時代の意見が彼らを通じて反映されるのです。したがって、たとえば、愚鈍なジャーナリストの論述は、わがままで、知性鋭いジャーナリストの論述よりもずっと興味深いのです。常に自分自身の意見を作り出そうとしている知性鋭いジャーナリストよりも、愚鈍なジャーナリストを通じての方が、人類が考えていることをずっと良く知ることができます。ここでーーこれは極端なケースですが、人生において何度も起こってくることですーー本来のケースの強度の遮蔽と呼ぶことのできるものが現れてきます。最初は、非常に天才的な現れとさえ言えるものが現れてくるために、現にある愚鈍さに気づかないのです。当然のことながら、通常の生活においてはこれはたいしたことではありません、私たちの読む新聞が愚鈍さによって書かれていたとしても、良いことだけをもたらしてくれるなら、結局あまり害はないでしょうから。

 ひょっとしてぼくがここで一見「マジメ」な書き方をしているのは、仕事柄、一日のかなりな部分をギャグに似たことを考え続け、スタッフと大笑いしながら過ごしているし、家出も相棒とかなり冗談ばかりとばしあっているものだから、それとバランスをとっているのかもしれない。

 しかし、「マジメ」一途の人をみると、どこかでひょっとした拍子にポキリと折れてしまうのではないかと心配になる。それに、こちらも肩が凝ってしまうものだから、疲れてしまう。「笑い」があり「オモロイ」ことがそこにたくさんあるならば、そこでは「中一、女性教師を刺殺」という事件も起こらないだろうし・・・。

 

 

 

風のトポスノート 33

精神世界の陥穽


1998.1.30

 

 確かに思考は現実を形創ることができる。長いこと願っていた自分の欲しいものが突然手に入ったり、結果が自分のイメージ通りに起こってみたり、それは確かに小さな現実の創造によるところが多い。ビジネスにポジティブ思考を用いて大成功を納める人もいる、これも立派な現実創造だ。

 しかし、人はその力を確実に使えるだけの魂の度量を持たないうちに、その甘い蜜を知り過ぎると、次第に支配欲と権力、そして物欲に逆戻りすることがある。

 これはある意味で、新たな魂の堕落を引き起こす可能性があるのだ。

 それを避けるためには、思考が創造するものを正しく制御するだけの高い精神性が必要とされる。

 だが、これまでのチャネリング情報は、なぜかその部分が語られることがほとんどないと言っていいほどだ。

 それはなぜなのかと、問わずにはいられない。

 より良く生きるとはどういうことをさすのだろう。

 それは、もしかすると今ある生活状態をより良くするということなのだろうか。

 人が情報を信じて道を誤るとき、伝えられた情報の99の真実は見ることができるが、そこにまじっている1%の虚偽を見抜けないことから起こりという。

 私たちは。そんな1%の虚偽に引っかかっていることはないだろうか。

 これから先も、しばらくの間は情報が絶えず送り続けられるに違いない。またその中には、確かな真実もあるだろう。

 しかし、情報を真に受けるだけでは真実はつかめない。情報を確かなものとして判断するためには、透明な心と意識が何よりも大切なのだ。

(風祭音弥「人類が星の記憶を取り戻す時」三心堂出版社/P168-169)

 いわゆるニューエイジや精神世界などでは「ポジティブ思考」やら「わくわく」やら「癒し」やらが強調されることが多い。もちろん、それはとても大切なことなのだし、そのことそのものが間違っているとは思わない。けれど、大事なのはそうしたことの前提にあるものだということがニューエイジや精神世界などで強調されることはまれである。

 免疫なしにニューエイジや精神世界にハマルと、その前提なしに、結果の部分だけを「ワーク」させられてしまうことになる。それは、計算するということがわからないのに、いきなり伝達を持たされた子供のようなものだ。だから、電卓を取り去られたらもはや計算することができなくなるのだ。別の例でいうと、いつも車を使って移動したり、ロープウェイなどを使って山を登っている人がその同じ距離を自分の足で移動したり、登ったりしなければならないときに、それでも「ポジティブ思考」「わくわく」「癒し」が可能となるのかどうかということを考えてみればいい。

 シュタイナーの講義では、かならず自分の言ったことを鵜呑みにしないで、かならず自分で考えるように、そして図式的にとらえないようにということが強調されるのだが、おそらくはそうした危険性を常に意識していたのだろうと思う。

 実際、シュタイナーの著作も講義も、自分で考えないでアンチョコ的なわかりかたをゆるさないような書き方、語りかたがされている。だからこそ、ほとんどそうしたものを読まないで、「シュタイナー教育の実践」という結果を得たつもりになっている人が出る。もちろん、シュタイナーはその一例であって、あらゆることにそれはあてはまることではないかと思う。

 大事なのは「人はその力を確実に使えるだけの魂の度量」を地道にそして絶え間なく鍛えていくことなのであって、最初から「結果」の部分の「甘い蜜」を見ることではない。もちろん「結果」を享受できることもあるかもしれないが、魂の力ということから見れば、「結果」は「プロセス」の「結果」であって、ラッキー!ということではない。

 免疫なしに精神世界にハマル場合、その前提事項が欠けている場合が多いものだから、超常的な現象を体験しやすいのも事実のようだけれど、そういう現象にふりままわされやすくなるのも事実で、そこからあらためて、その前提になる魂の力を遡って鍛えようとする努力が本来以上に困難な作業となる。しかし、そうなってしまった以上、それ以外に道はなくなる。「わくわく」の作用は麻薬のようなものでそう長くは続かないのだから。そしてその効き目はどんどん薄くなっていくのだから。けれど、その困難な道をくぐり抜けることができれば、それはまた大きな魂の達成を意味していることも確かなのではないかと思う。

 

 

 

風のトポスノート 34

言語化と自我


1998.1.31

 

日本の学者同士はある水準まで行くとツーカーでわかるでしょう。ちょちょというとパッとわかる。すると、弟子はものが言えないわけですよ。それがアメリカなんかへ行くと若造がパッと手を上げて、すごい馬鹿な質問するわけですよ。でもそれに対して先生はちゃんと答える。アメリカの大学院へ行って、僕の正直な感想をを言うと「何と馬鹿なやつらが大学へ来ているか」。その結果、どうですか?学者はみんなアメリカの方が日本よりレベルが高いじゃないですか。これがなぜかというと、どこかでツーカーの世界で溺れているから、無理にでも言語化して戦うところまで行かないということですよね。こういう点では、言葉にするということの意味を痛切に感じます。好みとしては嫌ですが、仕方なく関西弁の英語で、言葉にするように頑張っています。疲れますけどね。しかし、言語的に出来た自我というもの、これはすごい強いんです。

(河合隼雄対話集「こころの声を聞く」新潮文庫/P99-100)

 言葉にしないと伝わらないというのは、すごくダサく感じる。ツーカーだとか、察する、だとかいうことは気疲れしないし、洗練を感じる。こういうところは、ぼくが自分を「日本人だ」と感じるところだ。それは、西欧のさまざまを知るにつけ特に実感させられるところである。

 思い出せば、ぼくは小さな頃、何か主張したくなることがあったときには、稚拙ながら自分なりにそれを言語化しようとして焦っていたものだが、その言語化するという作業に対して、親も先生方もそれを歓迎しなかった。「理屈を言うのはやめなさい」ということなのだった。

 日本では、言語化するよりも、その場に適した調和的な表現が好まれる。「言挙げ」しないということが日本文化の洗練を作り出したのだとも思う。「禅」が日本で受け入れられ洗練されたのも、そうした背景が大きく働いているように思う。

 そうして、言語化しない方法を多く学ぶことになったと思うし、言語化しないほうが、ずっと楽だということも学んだと思う。しかし、ぼくのなかには、無闇なばかばかしいまでの言語化を嫌う部分と同時に言葉にしないと伝わらない部分を分かった気になってしまうような安易さを嫌う部分とが同居し続けているようにも思う。

 上記の引用にあるような馬鹿な質問をする学生は、確かに馬鹿なのだろうけど^^;その馬鹿から始めなければいけない部分がある。日本人に欠けているのはそうした部分なのだと思う。だから、言語化不能な叡智までをも修得したすぐれた人物も少しは育つが、ただわかったふりをしてふんぞり返って権威を振りかざす人のほうがずっとたくさん育ってしまうことになる。あとは、ずっとわからないまま権威に盲従していく人が生産される・・・。

 シュタイナーは、太古の叡智が一度失われることで、人間は「思考」を獲得したのだという。現代人は、先祖返り的な霊視に戻るのではなく、「思考」による「自由」を獲得する必要があるというのだ。その「自由」のために、一度は「馬鹿」にならなければならないわけだ^^;。もちろんずっと「馬鹿」のままである危険性はあるわけだけれど、あえてそれが必要だということに意味があると思う。

 

 

 

風のトポスノート 35

思考による「守」「破」「離」


1998.1.31

 

河合 日本人の場合言語がひとつだということすら飛び越えて、所作でわかることが多いですよね。よく外国の人が「日本人は排他的だ」というようなことをいいますが、何も排他的なのではなく、日本のシステムが非常に学習しにくいシステムになっているからでしょう。つまり僕ら子供の頃から言語的に何も訓練されてないのに、微妙なサインを非言語的に学習してるわけですよ。

白州 昨日ある方と話したんですが、お能でも、面を被ったり、あるいは被らなくても、顔に表情というのを使っちゃいけないでしょう。全部身体の所作で表現しなきゃいけない。西洋の場合は逆でしょ。顔で表現する。そして言葉で外へ出す。

河合 日本の芸の場合はむしろ、西洋的な意味あいでいう自我は一度こわさなきゃならないでしょう。そして、形ができてからその人の人間がジワジワ出来てくるわけだから、八十歳位までかかるわけですね。

白州 そのかわり西洋のは若くて終わっちゃう。

河合 日本だったら長い間出来るでしょう。僕も八十、九十まで生きてたらまだ現役で行けるななんて考えるようになりました。

(河合隼雄対話集「こころの声を聞く」新潮文庫/P100-101/対話の相手は、「白州正子」)

 「守」「破」「離」とか「序」「破」「急」といわれるものがある。まずは、「型」を修得しなければならないということ。それができて初めてそこから「破」することも可能になるのだし、そこから「離」という自在さを獲得することもできるというわけだ。自在さを獲得した人こそ、真に個性的な存在であることができるといえる。そして「個」であることが、小さな器ではなく大きな器となっている。そのために、「西洋的な意味あいでいう自我は一度こわさなきゃならない」ということだということはわかる気がする。

 「型」ということを修得するということは、意外なことだが、シュタイナー教育にも似ていると思う。その「型」は、思春期移行の「自我」の発達としての「破」の前提でもある。そうとらえることもできるからだ。「型」ができていないと、その「破」は単なる破壊になりかねないのだ。

 実際、もし日本の教育の在り方を、武道や芸事やそうしたことにつらなる学問や徒弟の世界のようにして、すべての子供をそうしたシステムに組み込んでしまえば、むしろ、現在のようにネジ曲がった自由ではなく、真の自在な自由への道を拓く可能性があるのではないかと考えたりもする。

 しかし、問題はその前提なのである。そのシステムには、すぐれた師匠が不可欠になる。しかもそれはかなり少数しか指導できないだろうから、かなり大勢の師匠がいなければなりたたない。そこに困難さがある。

 実際、そうした困難さはシュタイナー教育にも共通している。これからますますシュタイナー教育やそれに類する先生を志望する方はふえていくのだろうけど、どれだけの方が「すぐれた師匠」であることが可能だというのだろうか。結局は、シュタイナー教育でなくても、「すぐれた師匠」さえいれば、そこで「すぐれた弟子」の可能性は拓かれることになる。問題は結局のところ「すぐれた師匠」の不在そのものにあるといえるし、それは「親」の問題でもあると思う。

 また、その「守」「破」「離」は、可能性としてはあるが、ほとんどの場合、「守」の途上で終わってしまう可能性のほうがずっと高い。だから、「そういうものだ」だけが主流になるわけなのだ。そして一部の者だけがあえて「破」を行ない、多くが自滅するなか^^;、さらに一部が「離」という自在を獲得する。

 現代の混乱は、「守」を無視した破壊的な「破」にあるといえる。つまり、健全な権威を持ち得ないまま、自我の成長時期になり、それが暴走してそのままになってしまうのだ。

 ぼくの場合も、健全な権威を持ち得ないまま育ってしまったくちで、自在になれないままに「破」の途上にある^^;。しかし、多くの者がそういう状態にあるのではないかと思う。そして、ではどうすればよいかということになる。

 ぼくの思う可能性の一部は、外的な権威での「守」が期待できないならば、それぞれが気づいた時点で(その「気づき」も困難なのだけれど^^;)自分のなかに「守」を創造するところからはじめることだと思う。その「守」が「思考」ということであり、だからこそシュタイナーは「自由の哲学」で「思考」の重要性を訴えているのだと思う。もちろんその道は、ある意味ではもっとも困難な道でもあるのだけれど、もっとも着実な道でもあるのだと思う。そのことについては、「神秘学概論」をはじめシュタイナーの著作や講義などでも述べられていることだ。

 上記の引用で河合隼雄さんが、「形ができてからその人の人間がジワジワ出来てくるわけだから、八十歳位までかかるわけですね」と述べているが、このシュタイナーの「自由の哲学」の方法も、それとは違った意味で「思考ができてからその人の人間がジワジワ出来てくるわけだから、八十歳位までかかるわけですね」ということなのだと思う。だから、ぼくも同じように、「僕も八十、九十まで生きてたらまだ現役で行けるななんて考えるようになりました」(^^)。

 

 

風のトポスノート 36

ポジティブとネガティブ


1998.2.2

 ポジティブ思考が流行です。ビジネス関連のセミナーでも、このテーマは必ずといってもいいほどとりあげられるものです。今回はこのポジティブ思考について考えてみたいと思います。

 このポジティブ思考は、いわゆるプラス発想ともいうことができ、何事も前向きに明るく積極的に考えるようにしようということです。たしかにその発想で物事に取り組むとうまくいくことが多いものです。反対に、くよくよとマイナス発想をしているとろくなことがない^^;、これも事実。しかし、そんな単純なものでもないのではないか、というのが今回のテーマです。

 このポジティブとネガティブ、プラスとマイナスということを、善と悪、光と闇、といったテーマとの関連性でも考えてみるとよくわかります。「悪は善の欠如である」「闇は光の欠如である」というとらえかたがあります。こういうとらえ方は、いわゆる光明思想系の考え方によくみられるものです。「ネガティブはポジティブの欠如である」「マイナスはプラスの欠如である」そうとらえることによって、常に前を向いて生きていくことができますから、「思いは実現する」という原則からいえば、「思い」をポジティブに、プラスにしていけば、それが実現されていきます。そこで、ネガティブなことやマイナス要因のことを考えてしまえば、そのポジティブやプラスの足を引っ張ることにもなります。だから、なにかを実現しようと思うならば、それをできうるかぎりポジティブにプラスに発想していくことが求められるわけです。

 しかし、物事をトータルに認識していくという視点からすれば、それは片手落ちになってしまっているということは容易にわかることです。磁石には両極があり、定規にも両極があるように、何事にも両極があります。目的を明確にするために、ひとつの極に重点を置くということはあっても、だからといってもうひとつの極がなくなるというわけではありません。

 なぜポジティブ思考が重要だとされるかといえば、そこにはポジティブにもネガティブにも向かえる「自由」がそこに存在するからです。自分で選べるという「選択の自由」、そしてそれによって創造が可能になる「創造の自由」がそこにあります。ですからその「自由」のためには、ネガティブが、マイナスが、そして悪が闇が必要とされているのだといえます。つまり、ポジティブであるためには、ネガティブという踏み台が「必要とされている」ということです。そして、それは単なる「踏み台」なのではなくて、ポジティブのなかには、ネガティブという契機が変容されたかたちで組み込まれているわけです。

 整理してみましょう。ポジティブ思考、プラス発想とひとくちに言っても、そこには大きくわけるとふたつの観点があります。つまり、ネガティブ思考、マイナス発想を排したそれと、ネガティブ思考、マイナス発想をも統合したあり方としてのそれです。少し角度を変えていうならば、ネガティブ思考、マイナス発想は真の意味でのポジティブ思考、プラス発想に向かうための自覚的契機を提供するものでもあるといえるのです。

 そうした自覚的契機のないポジティブ思考、プラス発想は、精製された砂糖や塩や精白された白米のようなもので、見た目にはきれいにみえるものの、非常に危険な排除型の様態だといえます。それを「自由」のない純粋培養型だということもできるでしょう。医療に例えるならば対症療法型だともいえるでしょうか。

 こうした観点を持ちながら注意深く見ていくと、ポジティブ思考、プラス発想といわれているものでも、さまざまなあり方があるのだということがわかってくるような気がします。

 

 

 

風のトポスノート 37

キリストの眼


1998.2.12

 

(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)

「主よ。あなたがいつも沈黙しているのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」

「私はそう言わなかった。今、お前に踏み絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」

(遠藤周作「沈黙」より)

 河合隼雄さんとの対談を読んでから、あらためて遠藤周作という作家のことに興味を引かれたので、その作品のテーマについて知るために格好の「人生の同伴者」(新潮文庫)というインタビューというか対談を読んでみた。その中ではもちろん、キリスト教、キリストをめぐって、「日本人とキリスト教」や「肉」、「悪」などのテーマが語られている。

 上記の引用にもある「沈黙」は、高校生の頃読んだもので、そのころはそれなりに感銘を受けたことを覚えているのだけれど、その後数十年の間に、ぼくにはぼくなりのとらえかたの変化がある。もちろん、その間にぼくがキリスト教徒になったとかいうことではなくて^^;、シュタイナーが語った「キリスト」の意味が自分のなかでいわば生命をもちはじめて以降の変化だといえる。それは、「悪」の問題とも「肉」の問題とも、また「日本人とキリスト」の問題とも深く関係してこざるをえないものだ。

 「沈黙」を読んだ高校生の頃、漢文の時間で、孟子の性善説と荀子の性悪説、それから老子の無為自然の道といった話があり、性善説だとか性悪説だというような善悪などは人間が勝手に拵えたものだから、善悪を実体的に語るのはナンセンスではないかと気安く考え、「やっぱり老子や荘子あたりが魅力的だなあ」とか思っていたくらいだから、「沈黙」で提示されているテーマも、キリスト教でこだわっているようなよくわからない「罪」の問題などに関連してとらえていただけだった。

 しかし、「善」や「悪」などの問題は、そんなに恣意的なテーマではなく、人間存在そのものに深く関わっているテーマだということが今では少しながらわかるようになってきた。そしてそれと関連した「キリスト」についても。

 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

 この言葉の重みが、わかるということは、キリストの真実が実感されるということでもあるように思う。踏み絵の磨滅したキリストの顔。それは、「一緒に苦しんでいた」キリストの顔であり眼なのだ。

 シュタイナーの黒板絵展でも展示されていたらしい1917年にシュタイナーの描いた水彩の「キリストの顔」がある。シュタイナー全集のなかの新刊にその絵が収められているので、そのキリストの顔、そしてまなざしをよく見る機会があるのだけれど、その眼からは人間をともにふかく見据える視線を感じる。いや見据えるというより、まさに「一緒に」いるキリストの存在だというふうにとらえるほうが適切なのかもしれない。

 「神」は善なる存在であるというとらえ方があるが、それでは「悪」はどうとらえればよいのだろうか。そのときにも「一緒に苦しんでいた」キリストの眼を思うならば、「悪」さえも、抱きかかえている存在を思わないだろうか。

 キリストの顔を、その眼を見ると、すべてを抱きかかえ、いつもともにいる存在を思う。

 キリストはゴルゴタの秘蹟で復活して以来、地球の霊としてエーテル的形姿をとって地球に結びついている。そうシュタイナーは語っています。パウロが回心したのは、エーテル界へ再臨したキリストのその霊的形姿を知覚したことによってだと。

 キリストはいつも見ている。人間をまるごと抱き抱えている。そのことを、信仰によらずにとらえること。そして人間の課題をそこから洞察すること。そこにシュタイナーの人智学の最重要課題があるように思う。

 

 

 

風のトポスノート 38

ジプシーのように


1998.2.20

  

サーシャ そうです。われわれジプシーの文化の<様式>には、他の人々が考えているような特異のスタイルはないのです。私たちは、常にその土地、その時代の文化を受けとめ、交わり、変化させ、それを運ぶのです。スペインではスペインの風土と文化に交わり、ロシアではロシアの音楽と伝統をとり入れます。もし、ロシアでジプシーがはたした役割を分析するとすれば、それは東方の芸術と西方の文化をロシアに運び、それをロシア的に結晶させたことでしょう。(略)世間の人々がエキゾチシズムをまじえた目で評価するジプシーは、必ずしもジプシーの本質ではないということを言いたかったのです。ジプシーは特異な風俗や文化をもった異人種ではない。私たちは人間なのです。そしてある土地にやってくれば、その土地の文化をとり入れます。他ときわだって孤立することが目的じゃないのです。よその土地から違った文化を運んできて、その土地とミックスさせて、さらにまたそれを他の国へ運ぶ。(略)

たとえば私たちの歌や音楽のひとつの特色、いや長所は、即興性にあります。たとえば、私が同じメロディーを三、四回うたうとしますね。そのとき前と同じうたいかたは決してしません。(略)これがジプシーの心です。おなじロマンスをうたっても、毎回ちがう。ここに私たちの音楽の独自性があると言っていいでしょう。

(五木寛之「よみがえるロシア/ロシア・ルネッサンスは可能か?」文春文庫/P85-87/チョールヌイ・サーシャとの対話「ジプシーは風に生きる」より)

 

 音楽コンクールなどに出演する日本人の演奏テクニックは素晴らしいのだが、「心がない」「機会みたいだ」という評が多いという。長野オリンピックを見ていても、女子のフィギュアのように、テクニックと表現力の差が大きいのが現在の日本人選手の特色だ。練習に練習を重ねテクニックを修得する努力。しかし、おそらく「その先」がでてこないのだ。

 おそらく表現というのは、風のように、それを固定的な形に押し込めようとすれば、それはもはや風ではなくなってしまうのだ。今かたちをとっているのは、仮の姿なのであって、それを固定的にとらえたときに、その内的な力が消えてしまうのだ。もちろん、かたちがなければ、表現はなりたたない。テクニックがなければ、かたちをとることができなくなる。その意味でテクニックは不可欠なのだといえる。しかし、それが自己目的化したときにすべては不毛になってしまう。

 ジプシーのようでいたいと思う。かたちを固定させないで、そのダイナミックさだけが、まるで風のようにながれてゆく即興性の存在。

 シュタイナー教育がいいといえば、その肝心のダイナミックさは排してそのかたちだけにとびついて、固定化させてしまうようなあり方は、ジプシーのような即興性をまるでもたない。人はひとりひとりが謎であり、独自性をもった存在。それを特定の型に押し込めることはできない。特定の型に押し込めてはいけないという固定的な型に押し込めていうことに気づけないとしたなら、すべては不毛になる。賛成の反対という全共闘的な不毛。

 ジプシーのようでありたいと思う。これが善でこれが悪という固定観念からも自由でありたいと思う。かつて正しかったことも時代が変わればそうではなくなる。しかし人は何かにしがみつきたいらしく、一度決めた価値の軸を容易には動かしたがらない。

 これが正しいメロディーだとなると、そうでないメロディーは正しくなくなる。即興性は失われる。内的なダイナミックさがおのずととりえた一回性のかたちと単なる恣意的なこれみよがしのかたちととを見分けることのできるたしかな目と耳とを鍛えていく努力としなやかさを持たないが故に、その一回性ということを絶対性ということにしたがる。

 ジプシーのようにいつもしなやかでありながら、しなやかであるための頑固さも持ちたいと思う。ジプシーは日和見なのではない。内的なダイナミズムそのものを失いたくないのだ。

 

 

 

風のトポスノート 39

自由のきびしさ


1998.2.23

  

「おとっつあんは言いました。金ならある。おめえたちを、ただ養ってやることもできる。でも、それをしちゃいけねえ。おめえたちはこれから大人になっていくんだ。人からお恵みを受けて生きることを覚えちゃいけねえ、って」(略)

「籐兵衛おとっつあんは、そういうやり方をするお人でした。商いも、生きていくことも、本当に厳しいことだって。だからこそ、人に恵んでもらって生きることをしちゃいけねえって。恵むことと助けることは違う。恵んだら、恵んだ者は良い気持ちかもしれないけれど、恵まれたほうを駄目にするって」

(宮部みゆき「片葉の芦」/「本所深川ふしぎ草子」新潮文庫所収/P36-37)

 

 生きることは自由そのものだ。だから、生きていくことはほんとうに厳しいと思う。自由であるということは、自分で獲得したものでなければ身につかないということなのだ。

 その自由は、多くの場合、その余りの重みに耐えかねるものになる。自分で考え、行動し、その責任をとることに耐えられないものだから、「そういうものだ」ということにしたがうことで自由を投げ捨ててしまう。

 しかし、人は否応なく自由のなかに生まれてくるのだ。自分で決めないことも、自分で決めたことになる。それをカルマの法則と呼ぶ。それは自由の法則と言い換えることもできる。つまり、自分の思ったこと行なったことの結果はどうあれ自分で引き受けなければならないということだ。それは「自由」をどう行使するかという法則なのだ。積極的な自由もあれば、消極的な自由もある。

 さて、ちょっとばかり教育的な匂いのする引用をした^^;。宮部みゆきの時代小説の感動的な短編の一部で、こうした部分だけを引用するのはあまりよくないのだけれど、あまりに名言なのであえて引用してみた。

 これは、「やさしさ」ということはむずかしいということ。人が困っているから助けてあげる、という気持ちは大切だ。けれど、助けてあげることはむずかしいことなのだということをきびしく自問自答しなければならない。子どもが転んだので手助けしてあげるというのは、一見やさしそうに見えるが、それが繰り返されたとき、その子どもは自分では起きあがらなくなるかもしれない。しかし、だからといって、どんなときでも放っておくというのはその子どもが自分で起きあがろうとする努力を潰すことにもなりかねない。そこがむずかしいところだ。

 原則は、自分で獲得したものでなければ身につかないということ。自分で獲得できるように、いかにサポートできるかということをきびしさをもってできるということが、真に助けるということだと思うが、最近は、きびしさということが流行らない^^;。なんでもかんでも手を出すやさしさや、どんなことにも手を出さないやさしさという両極が流行だ。

 人は自由があまりにもつらい。だから自分から自由を放棄して「お恵み」にすがろうとする。しかし、自由を放棄するということは、自分を駄目にすることだ。そのことから出発しなければなにもはじまらない。自由を要らないということは、もはや人間ではなくなるということなのだから。

 

 

風のトポスノート 40

恐怖からの自由


1998.2.26

 

いいえ、あなたはいつかまた、恐怖に出会うでしょう。・・・おそらく自分の感情を表現し、気持ちを露わにする恐怖をね。それから、人々の前で話す恐怖、失敗する恐怖、馬鹿に見える恐怖、自分よりもすぐれていたり、強力だったりする人たちに立ち向かう恐怖などにもね。エゴが残っている限り、恐怖はまた起こるでしょう。でも、あなたは恐怖とあなた自身の関係を変えたのです。恐怖は決して、あなたを打ち負かしはしないでしょう。恐怖がわきあがった時、それにどう対処すべきか、あなたにはわかりますよ。(略)

恐怖は、あなたが行動しなければならないその時に、あなたを動けなくする可能性があります。それが危険なのです。恐怖は体の中のエネルギーを萎縮させ、その萎縮が、まさに一番恐ろしいことを招き寄せてしまうのです。恐怖がない状態とは、威勢のいいことではありません。それは勇気なのです。勇気は行動する空間を広げます。そして、注意が必要な時は、ちゃんとわかるでしょう。

(ダン・ミルマン「聖なる旅」徳間書店/178-179)

 この箇所を読んで思い浮かべたのは、長野オリンピックでのスピードスケートの清水宏保の言葉だ。 

レースでは、とにかく筋肉をしなやかに使うことだけを考えました。「力を入れる」のではなく、「力を動かす」。レース中、手の指先がピンと伸びることはありません。指の力を抜くことが、八割の気持ちで十割以上の力を出すコツかもしれません。最後の直線は、流しているように受け取られがちですが、リラックスした滑りはそう見えるのです。

 恐怖は、体を萎縮させるというのはよくわかる。アガルというのもそのひとつだ。恐怖は、まさに私が動くべきときに、私を動けなくする。しなやかさが失われる。体がガチガチになる。そして注意力がわけのわからぬ場所でスパークしはじめ、混乱する。

 ・・・こうしたことは、だれでも経験があることだと思う。そして、おそらく、そうした「恐怖」はまずなくならない。ではどうするのか。それは、恐怖と自分との関係を変えることから始めなければならない。まず、自分が何を恐れているのかをしっかり見ること。その恐怖によって起こること、何を自分が恐れているのかを見定めること。それによって、恐怖そのものは去らないまでも、少しずつその関係性が変わっていく。そして必要なのは勇気だ。勇気は、まさに私が動くべきときに、私を動かしてくれる。その勇気とは、自由の別名でもある。自由を手放したときに、私は恐怖の餌食になる。

 しかし、こうした「発想」だけでは勇気も自由もそれにひつようなしなやかさも得られはしないだろう。指先をリラックスさせようと思ってもそううまくはいかないだろう。「力を動かす」のではなく「力を入れ」てしまうだろう。

 そのための訓練が必要になる。その訓練は恐怖という闇のなかでのたうちまわることにほかならない。自分を良く見せよう、尊敬されようと思えば思うほど、どこかで自分がますます馬鹿に見えてしまうような煩悶と徹底して戦わなければならない。ここで失敗すればすべてはおしまいになると思えば思うほど、どうしようもなくなってしまう葛藤とその結果の泥のような落ち込みのなかにいる自分を見据えなければならない。そうした繰り返しの末に、恐怖と自分との関係を少しずつ変えていかなければならない。

 それは、光を見るために、闇のなかに降っていく行為なのだ。


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