風のトポスノート381-390

(2002.2.12-2002.2.28)

381●何も教えるな
382●時間を喜ばせること
383●もったいないからやね
384●名づけられないもののなかで
385●再帰表現
386●野良犬からも学ぶ
387●絶対値の展開
388●反射作用の認識とシナジー
389●隠蔽する表現
390●ムダをしとかんと

 

風のトポス・ノート381

何も教えるな


2002.2.12

 
        糸井    つまり綾戸さんの少女時代からわかる教訓は、
                「いい子にしたかったら、何も教えるな」(笑)。
        綾戸    そうやな(笑)。
                (「ほぼ日刊イトイ新聞」2/12これでも教育の話?
                 綾戸智絵・第2回「ひとりじゃない」ということ)
 
教えるというのは
その人の本来もっているものを
その人から引き出すということでもあるようだけれど、
引き出し方というのはひとそれぞれでむずかしいところがあるようだ。
 
要は、教えようが教えまいが、
自分に可能な環境等を生かしながら、
自分から学ぼうとするようになれば
それでいいんだろうけれど、
ある人は、
ぼくのように、教えられないほうが
自分からなにかヤル気になるところがあるし、
またある人は、
教えられないとどうしていいかわからなくなるのだろうし、
みんな違うものだから、
みんなが満足いくような教え方っていうのは
なかなかむずかしいのだと思う。
 
だから、「ゆとり教育」だとかいうのも
いいとも悪いともいいきれなくて、
ある人には有効かもしれないけれど、
また別の人にはひどく働くかもしれない。
ほんとうはそういうことはたぶんどうでもよいいことで、
大事なことは別のところにあるんだろうと思う。
 
シュタイナー教育というのも、
おそらくは現代人が自分で学ぶようになるための
土台をつくるためのある種の理念と方法を提示しているもので、
たぶんその成果がちゃんと現われるならば、
まさに「自由」な人間がそこから育っていくはずで、
(たぶん、従順で常識的なよい子にはならないような気がする(^^;)
そのさまざまを見るにつけ素晴らしいとは思うし、
その基本的な理念を理解することは非常に重要だとは思うけれど、
その形にとらわれることでスポイルされてしまうものも
たぶんたくさんあるんだろうという気もする。
それにあまりにお金がかかりすぎるシステムのような気もする。
少なくともあまりに親に依存した環境が要求されてしまう。
 
ところで、綾戸智絵は、教えられて育ったのではなく、
むしろ母という反面教師から
自分でどうしたいのかを逆に自分で学んだそうだけれど、
そういうのもありだなと思ったりする。
 
しかし、どういうふうに教えられたところで、
また教えられないでいたところで、
結局はいずれはそういうすべてに対して
自分なりの態度で臨まざるをえないわけで、
(だれも責任をとってなんかくれないから)
できれば、たとえば自分のかぎりない歪みなどに気づいたときに、
いくつになっていたとしてもそれなりに頑張っていけるような、
そんな在り方があればという気がする。
 
シュタイナーは、小さい頃のさまざまが
いかにその後深い影響を及ぼすかについて
さまざまに語ってはいるものの、
(そういうのを読んでぼくはいつも
あ〜あ、自分はもうとりかえしつかないんだ、とか思うのだけれど(^^;)
それはそれとして、
いくつになっても、シュタイナーの示唆からはかぎりなく豊かなものを
学ぶことができるように思っている。
とりかえしがつかないこともあるかもしれないけれど、
すべてがそうじゃなくて、今、そしてこれから、
少しずつでもなんとかできることもあるわけだから。
 

 

風のトポス・ノート382

時間を喜ばせること


2002.2.17

 
        綾戸 糸井さん、ポール・ニューマンをどう思う?
               あの人の出てた、かっこええ映画、
               えーっと、何やったっけ?
        糸井 「ハスラー」。
        綾戸 そうそう「ハスラー」。
               かっこええねぇ、あれ。
           すごいなぁと思ったよ。
           でも、あるときポール・ニューマン見たら、
           ぜんぜんかっこええことない。
           ただ、老けた。
        糸井 時間を喜ばせられなかったんだ。
        綾戸 それに比べてショーン・コネリー、
           見てみなはれ。
           若いときには
           「どぎつうて嫌やな」と思うてたのに、
           いまや、どうよ。
           きれいやないのに、かっこええ。
           時間を上手に使うてきたな。これやなぁ!
           大事なんは、プロセスやな。
           ポール・ニューマンは時間をうまいこと
           使えんかったんや。
           「ハスラー」で、とまった。
                (「ほぼ日刊イトイ新聞」2/17これでも教育の話?
                 綾戸智絵・第4回「なぜ結果ばかりを気にするの? 」より)
 
現代人は、かつての時代のように、
年を経るだけで叡智を身につけることはできなくなっている。
「長老」という役割が死語になっているということでもある。
 
現代は若者文化、つまり若いことに価値を見つけ、
そのなかでマスコミを中心としたお祭り騒ぎをする、
というのが常になっているが、
ある意味でそれは仕方ないことでもあるような気がしている。
オリンピックで記録を追いかけ、
観客もそれに一喜一憂するというのも、
そうするしかすべがなくなっているからなのだ。
 
というのも、年を経ることそのものには
もはや価値を見出すことができなくなっているのだから。
年功序列というのは、すでにまるで意味をもちえないのだ。
年を経ることを意味深いものとするためには、
時間をかけてじっくり成熟させていかなければならない。
 
「時間を喜ばせること」がどれだけできるか。
時間を喜ばせないままただ年だけを経ても、
それはただ若さを失うという否定的な要因しか残らない。
若さという価値は、時間という触媒を経て、
それを叡智とでもいうものに変容させていかなければ、
ただのノスタルジーとしての意味しか持ち得なくなる。
 
時間というのは意識であって、
その意識が空間のなかで物語を構築していく。
「時間を喜ばせること」というのは、
その物語がどれだけ豊かに戯れることができるかにかかっている。
その戯れのなかで、しっかり織られてゆくタペストリーは、
時間を経れば経るほどに叡智の織物となっていくのだ。
 

 

 

風のトポス・ノート383

もったいないからやね


2002.2.17

 
        糸井    アメリカに渡って、いい演奏してる人がいたら、
           「入っていいですか」と言って
           一緒に演奏したりしてたんだよね。
           そういうのも、もったいないから飛び込むんだ?
        綾戸 そうよ、もったいないからやね。
        糸井 ぼくには想像つかないんだけど、
           綾戸さんがすごいミュージシャンと
           セッションしたりしてたのって、
           普通に考えるとあり得ないことでしょう?
           よく飛び込めたよねぇ。
        綾戸 それはね、みんなは、
           結果ばっかり考えてるからや。
        糸井 ふつうは、
           結果にしか頭がいかないんだよね。
        綾戸 「この人に嫌われたらどうしよう」とか、
           「歌手になりたい」とか。
           そういうのをわたしは、姑息者と呼んでる。
           そんなもん、歌手どころか
           大統領になるかもしれん、
           ホームレスになるかもしれん、
           わからへん、答えなんか。
           だれにも保証できへん。そやのに、
           「ここにあれがあるからこうしよう」なんて、
           あんまり姑息なこと考えると
           ろくなことはないとわたしは思うてるから。
        糸井 マイルス・デイビスにしても、
           「マイルスはんでっか」というかんじ?
        綾戸 「マイルスさーん」て、
           敬称をつけて呼ぶようには、してるんです。
           「この業界にいて、アホか」言われると困るから。
           けど、腹の中では、「それがどうした」。
           たしかに偉い人や、いろんなことをやりはった。
           ウワーッって思うけど、
           べつにわたしがヘーコラすることは、ない。
           すばらしきゃ、パチパチーって拍手する、
           フレーフレーってエールは送るけど、
           わたしが謝ることも、ビビることもない。
           反対に、
           「そんな偉い人やったら、爪の垢でも投げてんか」
           ぐらいの気持ちでいくな。
        糸井 そのとき、綾戸さんの気持ちとして、
           「すごいミュージシャンが
           自分の何かを見出してくれるかも」
           と、期待したりすることは、あった?
        綾戸 ない。
           こっちの勝手やからね、飛び込むのは。
        糸井 ほんとに何も考えなかったの?
        綾戸 考えないねぇ。
           ほかと比べたり、
           やることの意味を考えたりとか、しない。
                (「ほぼ日刊イトイ新聞」2/17これでも教育の話?
                 綾戸智絵・第4回「なぜ結果ばかりを気にするの? 」より)
 
そういえば、ぼくがシュタイナーに関連して
ネットでこうしてあれこれやっているのは
「もったいないからやね」ということに尽きるのかもしれない。
 
これだけすごいシュタイナーのテキストやらがあって、
それを知ってしまったら、そのままではいられない。
せっかくだから、なにかしてみよう。
そういうことでネットで会議室なんかをつくってみたのが
10年以上前のこと。
 
そのときから、自分に参考になるもの、すごいと思うものは
自分なりにどんどん取り入れようとしてきているけれど、
いまだにシュタイナー関係のどんな組織とかも無関係でいるし、
誰かを先生にしているということもない。
なにかを権威にしてそこから何かをしようとも思っていない。
とくにこうしたことで何か結果を出そうとか、
なにかを教えるようになりたいとかいうことを
まるで考えていないということでもある。
 
それでこうしたことが、
だれかの参考になればそれに越したことはないし、
参考にならないとしたら、それはそれでいい。
要は、こんなに素晴らしいものがあるのに、
それを自分で味わえないとしたら、
そんなもったいないことはないので、
セッションやライブのように、
いっしょにそれを楽しめる人がいればそれでいい。
ブーイングする人がいてもそれはそれでいい。
 
綾戸智恵のようなすごい表現はできないけれど、
どんなに人にも、自分なりにできることは必ずあって、
それをだれかに認めてほしいとか、
自分が権威になって教えたいとか、
そういうのさえ考えなければ、
その豊かさを自分なりに味わうことはできると思う。
 
少なくとも自分で味わわないで、
味わっている人のそばでそれを見ているというのだけはしたくない。
スプーンが人にスープを運んでいるけれど
スプーンはスープを味わうことができない、
というたとえがあるけれど、そういうのはやはりつまらない。
 
ということで、いまだにぼくは、
「ほかと比べたり、やることの意味を考えたりとか、しない」で
いろいろ戯れたりしているし、
これからもずっとそうなんだろうなと思う。
それもこれも、シュタイナーという存在があまりにすごいので、
それをほんの爪の垢でも味わえなければ「もったいない」から。
 

 

 

風のトポス・ノート384

名づけられないもののなかで


2002.2.18

 
        だけど、ぼくがいちおう自分の肩書きにしている
        「コピーライター」なんていう職業などは、
        登場してから時間の経っていない新参者なのに、
        なんだか、もう、ピンとこないものになりつつある。
        もともと日本では「広告文案家」というような
        言われ方をしていたものが、アメリカの言い方に倣って、
        「コピーライター」というようになったらしい。
 
        しかし、事実、「文案を書く」ってことが、
        それだけを取りだして独立した仕事になるなんてケースは、
        とても珍しいんだと思うんだよなぁ。
        「文案」を「書く」ことで報酬を受け取る
        ということになってるけれど、
        実はそれまでに考えたり取材したり打ちあわせしたり、
        そういう時間や、労力のほうが、ずっと多いし、
        そっちで方向が見えてなかったら「文案」もできない。
        となると、自分の仕事のほとんどの部分が、
        「コピーライター」と呼びにくくなるんだよなぁ。
 
        (…)
 
        かと言って、いまの自分がやっていることを、
        ぴったり表してくれるような肩書きも見つからないし。
        まった新しい名前をつけても怪しげなばかりだし、
        なかなか難しいなぁと思っている。
 
        だいたい、
        「コピーライター」という職業がなくなるからって、
        誰がそれを惜しんでくれるのだろうか。
        いや、惜しんでもらいたいってわけでもなかったか。
        他のコピーライターの皆さんは、
        どういうふうに考えているんだろうなぁ。 
 
                (「ほぼ日刊イトイ新聞」2002-02-18-MON
         ダーリンコラム<消える肩書き>より)
 
ぼくはたまたま偶然のように広告会社に入って、
(広告にとくに興味があったわけでもないし、
コピーライターっていうのをまったく知らずにいたりしたし、
電通っていうのを電電公社だと思っていたくちだ(^^;)
なんだかんだと仕事をしていくうちに、
コピーを書いたり、企画書をつくったりするようになったけれど、
自分が日々やっている仕事をどのような「肩書き」で表わしたらいいか、
正直いってよくわからなかったりする。
実際のところ、人にうまく説明できたためしがない。
 
いちおう、広告プランナーです。
とかいってたりもするのだけれど、
コピーは書くし、CMもつくるし、
デザインのディレクションをすることもあるし、
マーケティングも扱うし、イベントのディレクターとかもしている。
 
ので、コピーライターという職業がなくなっても、
とくに哀愁のようなものを感じたりはしない。
以前、コピーライター養成講座とかいうのを
受けたこともあるけれど、ずっとピンとこなかったし…。
それに、自分をコピーライターです!って言えるような人って
どうもあまりよくわからない。
自分をコピーライターの権威だっていっている人もいたりするけれど、
どうもあまり信用できない感じもしたりする。
(この人ってそれ、ほんとうに信じちゃってるんだろうか、とか)
その点、こういう糸井重里のようなスタンスはほっとする。
 
でも、そういう肩書きのよくわからない職業っていうのが
気が楽だというところもあるような気がするのも確かだ。
自分は○○○○○だ!っていえて、
それがみんなにわかるような職業をもっていたりすると、
なんだか閉じこめられたような感じがする、かもしれない、とか。
 
むずかしいところだ。
 
そういえば、ここでこうやっていることでも、
人智学のHPですか、とか、MLですか、といわれても、
シュタイナーはメインテーマにしているけれども
そうでもないところがあります、とか言いたいし、
では、何ですか、ときかれても、
ええと、あの、風のトポスで、
それから、神秘学をお遊戯するところ、
とかいうことにしていますけど…、としか答えようがない。
 
こういうところをつくっているというのも、
実際のところ仕事とはまるで無関係ではあるけれども、
どこか名づけきれないもののなかにいたい、
というようなあたりで、共通するところがあるのかもしれない。
 
面白いのだけれど、
ときどき、いろんなHPを紹介しているHPをつくっている人から、
「神秘学遊戯団」を紹介させてくださいとかいうメールをもらうんだけれど、
先日も、そのジャンルが「哲学」だということになっていた。
そういえば、MLでも哲学系MLになっていたことがある。
三浦梅園のとなり、だったりして(^^;。
 
で、やっぱり、思想・哲学系とかいうのだと、
そんな感じかな、とも少しは思うのだけれど、
でも、知らないうちにリンクをはってもらったりするなかに、
精神世界系のHPなんか、けっこうあったりして、
ちょっとヤダな、とか思ったりもすることもある。
精神世界リンクの輪に入りませんか、とかいうメールもあったけど、
やっぱり、ちょっと違うと思うんですけど、とか返事してしまう(^^;。
でも、ほんとうに違うと思うんだから仕方がない。
むしろ、先日ここでご挨拶していただいた八坂さんの
パプアニューギニアや絵画のページのほうが近い気がする。
 
ぼくはぼくだし、
「神秘学遊戯団」は「神秘学遊戯団」なんだけど、
やっぱりそれをなにか特定のもののなかに
入れてしまおうとするのに抵抗があるんだろうなという気がする。
シュタイナーは毎日でも「人智学」という名称を変えたい!
といっていたそうだけれども、
その気持ちがわかるような気もする。
 
谷川俊太郎の詩に、こんなのがある。
詩集「定義」のなかにある「りんごへの固執」という詩だ。
 
        紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。 
        丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。
        酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなの
        だ。高いということはできない、値段ではないりんごな
        のだ。きれいということはできない、美ではないりんご
        だ。分類することはできない、植物ではなく、りんごな
        のだから。
 
世の中の常としては、むしろ、
自分を、そして世界をどんどん定義していくことで、
安心していく方向だけれども、
やっぱりそういうのは、好きになれない。
ベケットに「名づけられないもの」というのがあるけれど、
それを読んだときに受けた衝撃なんかも今もよく覚えていたりする。
 

 

 

風のトポス・ノート385

再帰表現


2002.2.20

 
今週のNHKラジオドイツ語講座の入門編のテーマは
「再帰代名詞」と「再帰動詞」。
いちばん最初にこの「再帰」的な表現に出会ったとき、
かなりとまどった、というかどうにもピンとこなかったことを覚えている。
 
再帰代名詞はReflexiv、再帰動詞はreflexives Verb。
まさに反射的、反省的な表現で、
sich setzen,sich fuehlen,sich freuen,
sich erinnern,sich duschenのように表現される。
sichは英語ではoneselfにあたる代名詞。
sich setzenだと自分を座らせる=座るという意味になる。
 
もちろんこれはドイツ語だけにあるのではなく、
英語でもなくはないのだけれど、
ドイツ語ほど多用されることはない。
文法書などでも、ドイツ語では再帰的な思考傾向が強い、
これは哲学的傾向にも見られることで、
言語が思考に与える影響ということがよくわかる。
 
あらためて考えてみると、
この再帰的表現は主語が自分(代名詞)に働きかけるということであり、
主語と代名詞が同じではないということもいえるように思う。
シュタイナーは自我がアストラル体、エーテル体、肉体に働きかけて
霊我、生命霊、霊人をつくりだすということをいうが、
主語も自分に働きかけてある状態を起こさせるのである。
 
ところで、最近、「日本語に主語はいらない」という本がでている。
ちゃんと読んでないのでその内容を詳しくは知らないのだけれど、
日本語表現は「述語的」「場所的」である傾向があるようで、
再帰的表現のように、主語が自分に働きかけるという表現はなじまない。
 
「自然(じねん)」という自ずから然からしむる、というように
私は自分を座らせる、私は自分を喜ばせる…、というのではなく、
私は座る、私は喜ぶ、ようにある動作や状態のなかに
私がいるという感じの表現がふつうである。
「自然(しぜん)」にしても、それは人間に対立するものではなく、
自ずから然からしむるものとしてとらえられる傾向がある。
しかしそれは「再帰」的なところが欠けているがゆえに、
ある対立するものとへの自覚がともすれば欠けてしまうことになる。
よくいえばイントゥイション的だともいえるのかもしれないが、
つまり、「私」が屹立しないぶんだけ、プロセスが欠落し、
それが無意識から働きかける傾向があるところがある。
我をださないということがむしろ強烈な我になる、というところ。
 

 

 

風のトポス・ノート386

野良犬からも学ぶ


2002.2.20

 
        糸井    まわりが全部、教えてくれる教室なんだ。
        綾戸    全部。もう24時間。
                アホ見ても、賢いの見ても(笑)。
                野良犬から学んだこともあるしね。
                (「ほぼ日刊イトイ新聞」2/19これでも教育の話?
                 綾戸智絵・第5回「野良犬からも学ぶ」より)
 
綾戸智恵の声をはじめてきいたのは、
郵便局のボランティアシンポジウムをするときに、
会場で流れていたテーマ曲のEverybody Everywhere。
そのときまでほとんど綾戸智恵ののことは知らなかったし、
そのときにはシンポジウムの仕事のほうが大変で、
その歌声のほうにはあまり気が向かなかったし、
どんな人なのかもよく知らなかった。
 
しかしその後、CDではあるけれど、
まともにその声を聴くようになると
もういけない。
くせになってしまう。
よく説明できないのだけれど、本物だと思った。
 
そういえば、yuccaは
本物とそうでないものを
びっくりするほどよく聴きわけるので、
どきりとさせられることが多い。
ジミー・スコットのときもそうだったし、
この綾戸智恵のときもそう。
 
で、本物とそうでないのが
どうちがうかということを考えてみると、
やっぱり、そこに、
ただきれいなものだけじゃなくて、
そうじゃないものもたくさん入っていて、
そうしたたくさんのものが
ひょっとしたらカオス的な混乱もあったかもしれないのだけれど、
それらすべてが排除されないで、
「いい味」をだしはじめるようになると、
そういうのが本物なのかもしれないな、とか思う。
 
そのためには、やっぱり
「野良犬からも学ぶ」ということが
欠かせないんだろうなと思う。
 
この神秘学遊戯団をはじめた10年以上まえに
いちばん最初に掲げてみたコンセプトというのも
「何からでも学べる」というものだったのもあって、
綾戸智恵が「野良犬からも学ぶ」といってくれたりすると、
かなりうれしかったりする。
 
なので、ルシファーなんかが変容すると
キリストの前を燈火を掲げて歩む、
というのもそういうのと近いような気がしてしまう。
ものすごい悪党だったりした人が、
やってきたいろんなことを
まるごと変容させたうえで回心したとしたら、
やっぱりものすごいことだから。
 

 

風のトポス・ノート387

絶対値の展開


2002.2.26

 
	 綾戸	算数で絶対値の授業があってね。
			  マイナス2の絶対値は2。
              そう聞いた瞬間に、
              もう算数の先生の声が聞こえへんようになって(笑)。
               映画でいうたら、遠くになってるねん。
              もうどないした、算数が。
	糸井    心ここにあらずになって。
	綾戸    もう、絵かきだしてる。
              ゼロから、2、5、
              マイナスが多いほど絶対値が大きい。
              2階へ上ろう思うたら、
              地下2階から走ったら2階へ上る。
              5階へ上ろう思うたら、
              地下5階へ下りたら5階へ上れるんや。
              (「ほぼ日刊イトイ新聞」2/25 これでも教育の話?
               綾戸智絵・第7回「マイナス40のおかげで、プラス40飛べる 」より)
 
この絶対値のアナロジーを考えてみる。
 
中心点からどこに向かおうと
その中心からの距離が同じであるということ。
上に向かおうと、下に向かおうと、1は1、5は5。
 
そうであれば、
同じ平面上で
中心点からの距離が同じところを
すべてうめつくしたとき、
それは円になる。
それを立体で考えると、
それは球になる。
 
もうひとつ。
上なるものは下にされ、
下なるものは上にあげられる。
物質世界に働きかけることのできるのは、第一ヒエラルキー。
ある意味で、そこには絶対値的な在り方が成立している。
 
小さな善人と小さな悪人、
大きな善人と大きな善人。
小さなどおし、大きなどおし、
どちらも似ているのかもしれない。
役人や政治家なんかも同じかも。
 
で、絶対値も同じ方向に制限されるんじゃなくて、
平面なら円、立体なら球になったほうがいいかな、とか思ったりもする。
 
たぶん、この世界というか宇宙があるのも、
その意味を考えてみるならば、その創造というのは、
円や立体になろうとするんじゃないかな。
悪の役割というのも、その推進力のようなところがあるんだろうな。
そういうのも、宇宙の自己組織化的な在り方なのかもしれない。
 

 

 

風のトポス・ノート388

反射作用の認識とシナジー


2002.2.26

 
         わたしはものごとを考えるとき、よく二通りの手段をもちいる。それは、
        過去の偏見やパターンにとらわれないための重要な方法である。
         そのひとつは、われわれが強烈に条件づけられた反射作用をもっている
        ことを、ともかく無条件に認識することだ。たとえば「上」と「下」とい
        うことばがある。だれもがあらためて考えることなく使っているこれらの
        ことばは、われわれは無限に横方向にひろがる平らな世界に住んでいると
        いう、何百年もの歴史をもつ“誤った概念”に都合がいいようにつくりだ
        されたものである。ひとつの平面に垂直なすべての直線は互いに平行でな
        ければならないから、意識は二方向、つまり「上」と「下」にしか行きよ
        うがなかった。
        (…)
         第二の考え方とは、「シナジー」に関するものだ。それは旧式の思考パ
        ターンから自由になる手助けをしてくれる。しかし、このことばを知って
        いる人はほとんどいない。シナジーとは「それぞれの部分の働きを個別に
        見ていては予測もつかない、全システムの働き」を意味する。
        (バックミンスターフラー『バックミンスターフラーの宇宙学校』
         金坂留美子訳/めるくまーる/P5-7)
 
何かを考える、というとき、
それを少しでも前に進めるためには、
自分がどういうものにとらわれているかを
少しなりとも見つけておくことが大切である。
 
でないと、樹海を彷徨っているように、
または山で道に迷って同じ所をぐるぐるまわっているように、
または自分の髪をつかんで自分を持ちあげようとするように、
おそろしい徒労に終始してしまう可能性が高い。
 
それが徒労だと気づくことが
後にでさえできればまだいいのだけれど、
悪くすると、自分ではまっすぐに目的地に向かっていると思い込んだまま、
ずっと歩き続けることになってしまう。
 
その一つが「強烈に条件づけられた反射作用」であるといえるだろう。
これは、「上」と「下」というように、
二項対立的なものを疑わないところからくる。
世の多くの観念は、ペアで成立している。
右と左、北と南、東と西といった空間感覚も、
過去と未来といった時間感覚もそうであり、
美と醜、善と悪といった価値判断のようなもものそうである。
 
それらをガイドにしながら人は日々を生きているが、
それらの二項対立的なものに人は縛られていることに気づきにくい。
老子にもそのような美が醜を生んでしまう、
というようなことへの示唆がたくさんある。
シェークスピアの「マクベス」にも、
「きれいはきたない、きたないはきれい」というような科白がある。
しかし、日常性のなかで自動化されて生きていると、
そうした、よくよく考えてみれば気づかざるをえないことに
目隠しをしながら生きているのだ、ということがわかる。
 
また、シナジーという生きたシステム思考も非常に重要で、
ある意味では、それがもっとも総合的なかたちで提示されているのが、
シュタイナーの精神科学だということもできるように思う。
 
シュタイナーの示唆は、
それがたとえ特定の分野に関するものであったとしても、
常に全宇宙がそこに前提とされている。
シュタイナーのわかりにくさというのも、
おそらくはそこにあって、
部分だけを切り離そうとすると、
とんでもないような錯誤がそこに生まれてしまいかねない、
というか、精神科学とはいえないような代物になってしまう。
 
今ここに私がいること。
そのことを認識しようとするながらば、
現実を真に認識するための思考の働きからはじまって、
人間の全構成要素の過去から未来までが
宇宙進化論的に問題になるわけだし、
私たちの関わっているあらゆることがら、
農業や医学や芸術や社会組織や、
それらがすべて精神科学の展開として検討可能になってくる。
 
世の混乱は、あまりに物事が細分化、専門化され、
それらの根底で働いているものがわからなくなってくるところから
くるのではないだろうか。
そういう意味でも、精神科学はそれらすべての根底で働いているものを
どんなときにも問題にせざるをえないものである。
 

 

 

風のトポス・ノート389

隠蔽する表現


2002.2.27

 
        語るっていうことは、
        業(ごう)の深い行為だな、と思う。
        それで、二つのことを思った。
 
        ひとつは、程度の差はあっても、
        表現する以上、何かを開いたら、
        何かは閉ざしているわけで、
        それを過度に恐れたり、逃げたりしては
        何もできなくなる、ということだ。
        だから、引き受ける、という感覚が必要なのだろう。
        (…)
 
        そして、もう一つは、
        では、人を開く表現とは、どんなものか?
        探りながら、それに近づいていこう、ということだ。
        目下の私のテーマでもある。
 
        自分のことながら、
        人を閉ざしてしまっているなあ、と感じることはときどきある。
        (…)
        相手より自分の方に、
        経験や知識があり、
        何か、揺るぎない自信がある、と感じられるときほど要注意だ。
        相手が無抵抗に受け入れざるをえない状況で、
        とうとうと語る自分ほど、
        自分で気づいてうんざりするものはない。
 
        私が、何か、自分の得意の領域を見つけ、
        得意で勝負していこうと思うなら、
        思うほど、
        自分の得意領域について、人に、どう語るか?
        心得ていかなくてはと思う。
 
        自分が未知の分野で、
        恥かきながら、汗かきながらの「語り」には、
        「恥」という税金を支払うためか、
        隠蔽の罪にはとわれない。
 
        しかし、自分が、
        得意としているような分野の「語り」のときに、
        隠蔽の罪は、音もなく忍び寄っているのではないだろうか? 
 
        (ズーニー山田先生の「おとなの小論文教室」
         Lesson85「隠蔽する表現」/「ほぼ日刊イトイ新聞」2002.2.27より)
 
表現するということは、
たぶんどこかに向けて窓をあける、
ということでもある。
 
その窓の開け方を考えてみると、
全方位に向けて開ける開け方もなくはないけれど、
やはり窓から外を眺める、
窓から外に向けてなにかを発する、
ということを行なおうとすれば、
一方向の窓だけを開けていることのほうが多いだろう。
 
そうなると、やはり、
気づくと気づかざるとにかかわらず、
別の窓を閉めてしまっていることは
たしかにあるように思う。
 
けれど、それはそれで
仕方のない部分ではあって、
できればその閉じていることについても、
自分なりに「引き受ける」というか、
そういうことをしていきたいものだ。
 
考えてみれば、
この地上世界というのも、
「一」なるものが、物質的方向に向けて、
窓を開けて表現しているようなもので、
おそらくは「一」なるものにとっても、
そこでは何かが閉ざされてしまっているのだともいえる。
それはまたひとつの方法論でもあって、
そこでとらえがたいもののことをも
神秘学というか秘教という形で
隠されたかたちではあれ
表現の可能性を模索してきたのかもしれない。
 
ところで、上記の引用の第二の点になるが、
たしかに自分の得意分野や専門分野などに関して、
それについて語るにあたって、
たしかに、
「とうとうと語る自分」に、
「自分で気づいてうんざりする」ことはよくある。
(仕事でプレゼンテーションとかしていたりしても、
反応のないときなんか、とくに痛切に感じたりもする)
 
こうしてここで書いていることにしても、
決して専門でもないし、
得意だということではないにしても、
自分で開いている場でもあることだし、
そのことで「人を閉ざして」しまっていることは、
少なからずあるのだと思う。
(たぶんそう感じられている方も
けっこう多いのではないだろうか(^^;)
 
ちょっと言い訳のようにはなるのだけれど、
閉ざさないために、とも思って、
ぼくなりの方法論として、
テーマを限定しないで、
自分で得意だということだけについて扱わないで、
なんでも目に留まったものについて
常に素人&門外漢からのもの、
だれにでも開かれていることについて
語るようにしているということはある。
できるだけ「恥かきながら、汗かきながらの「語り」」、
であるように務めているわけである。
そもそもシュタイナーについて語るときにも、
どんな権威やらもそこにないということは、
権威社会的な日本では、けっこうな「恥」かもしれないし(^^;。
 
ま、こうして書いているのも、
けっこう受けない「語り」のようなので、
けっこうな「恥」をばらまいているのだ、
という自意識(自覚)だけは忘れないようにして、
「お後がよろしいようで」、で
お囃子が聞こえる感じにしたいものだとは思っている。
 

 

風のトポス・ノート390

ムダをしとかんと


2002.2.28

 
        綾戸    この前も、友達の息子で、
                18くらいになる子がうちに遊びに来た。
                その子、ニューヨークのバークレー音楽院に
                行きたいと言う。
                そのことをわたしに相談に来たわけよ。
 
                「なんでバークレーに行きたいの?」
                と聞いたら、
                「いや、ぼくはバークレー音楽院に
                 とにかく行っとこうかなと思って」
                と言うんよ。わたしが、
                「あ、『行っとく』の?
                 あんた、高いで、あの学校。
                 お父ちゃんおれへんかったら、
                 『行っとこう』も言われへんで。
                 まあ、したいことしとき、いまのうち」
                と言うと、その子はちょっと考えて、
                「ああ、そうですよね。
                 『とにかく行っとこう』は、だめですよね」
                「いや、だめなことないねん。
                 『行っとこう』もええねん、行けるんやったら。
                 でも、お父さんの経済状態考えたら、
                 あんまりむだなことせんほうがええで」
                「いや、やめます」
                「で、どうするの?」
                「負担にならないように、バークレーはやめます。
                 でも、やっぱりニューヨークには
                 行きたいんで、行ってみます」。
        糸井    なるほど。
                とにかく「ニューヨーク」っていう
                気持ちがあった子なんだ。
        綾戸    「あ、そう、いいがな」
                「綾戸さん、ぼくに
                 向こうで何するのって聞かないんですか」
                「いや、聞かんよ。
                 あんた、向こう行ってムダするんやろ?
                 早いうちにムダをしとかんと、
                 わからんようになるしなぁ」
                こう言うたら、
                「目からウロコでーす」
                って、ルンルンして帰りよった。
                (「ほぼ日刊イトイ新聞」2/28 これでも教育の話?
                 綾戸智絵・第8回「親は言えないけど、大切なこと 」より)
 
「早いうちにムダをしとかんと」
たしかに「わからんようになるしなぁ」、というのはいえる。
 
最初から、目的を固定して、
できるだけ効率的に結果を出そうとばかりしてしまうと、
その特定の目的以外のところになると、
どうしようもなくなる。
 
コップをいっぱにする量の水があったとしても、
バケツをいっぱいにすることはできないけれど、
植木鉢の花に水をやることができるかもしれない。
けれど、コップをいっぱいにするという目的だけしか
学習できずそれ以外のことを考えたことがないと、
もしコップが目の前にないと
どうしていいかわからなくなる。
 
ナイフ一本もって、
野山や海川にでかけて
その都度出会った状況で遊べる豊かさは
最初から目的や結果を限定しないからこその豊かさで、
そういうのを「早いうちに」いろいろやっとくと、
何かが「わかる」のかもしれない。
もちろん、何が「わかる」のかはわからないけれど(^^;。
 
また、固定された意味のあることばかりに関わっていると、
やっぱり人間は、ナンセンスなことのほうに逃げたくなるのだけれど、
そうしたナンセンスのよさというのも、
それを通じて「意味」が重層的になる
ということもあるのだと思う。
 
ところで、いまだにぼくは、
小さい頃そうだったと同じように
ほとんど「ムダ」ばかりで生きているように思う。
世の中の人がこだわっているような目的や結果に
あまり興味がわかないというのもある。
 
こうしてネットをやっているのも、
その「ムダ」のひとつかもしれないけれど、
まあ、そのうち
(死んだ後かもしれないし、
死んだ後もそうならないかもしれないけれど)
まあ、なにかが「わかる」かもしれないのが、
楽しみだとはいえる。
 

 


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