風のトポス・ノート385
再帰表現
2002.2.20
今週のNHKラジオドイツ語講座の入門編のテーマは
「再帰代名詞」と「再帰動詞」。
いちばん最初にこの「再帰」的な表現に出会ったとき、
かなりとまどった、というかどうにもピンとこなかったことを覚えている。
再帰代名詞はReflexiv、再帰動詞はreflexives Verb。
まさに反射的、反省的な表現で、
sich setzen,sich fuehlen,sich freuen,
sich erinnern,sich duschenのように表現される。
sichは英語ではoneselfにあたる代名詞。
sich setzenだと自分を座らせる=座るという意味になる。
もちろんこれはドイツ語だけにあるのではなく、
英語でもなくはないのだけれど、
ドイツ語ほど多用されることはない。
文法書などでも、ドイツ語では再帰的な思考傾向が強い、
これは哲学的傾向にも見られることで、
言語が思考に与える影響ということがよくわかる。
あらためて考えてみると、
この再帰的表現は主語が自分(代名詞)に働きかけるということであり、
主語と代名詞が同じではないということもいえるように思う。
シュタイナーは自我がアストラル体、エーテル体、肉体に働きかけて
霊我、生命霊、霊人をつくりだすということをいうが、
主語も自分に働きかけてある状態を起こさせるのである。
ところで、最近、「日本語に主語はいらない」という本がでている。
ちゃんと読んでないのでその内容を詳しくは知らないのだけれど、
日本語表現は「述語的」「場所的」である傾向があるようで、
再帰的表現のように、主語が自分に働きかけるという表現はなじまない。
「自然(じねん)」という自ずから然からしむる、というように
私は自分を座らせる、私は自分を喜ばせる…、というのではなく、
私は座る、私は喜ぶ、ようにある動作や状態のなかに
私がいるという感じの表現がふつうである。
「自然(しぜん)」にしても、それは人間に対立するものではなく、
自ずから然からしむるものとしてとらえられる傾向がある。
しかしそれは「再帰」的なところが欠けているがゆえに、
ある対立するものとへの自覚がともすれば欠けてしまうことになる。
よくいえばイントゥイション的だともいえるのかもしれないが、
つまり、「私」が屹立しないぶんだけ、プロセスが欠落し、
それが無意識から働きかける傾向があるところがある。
我をださないということがむしろ強烈な我になる、というところ。
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