風のトポス・ノート371
個性化への道
2002.1.12
両立し難いものを両立させるイメージを創出し、異次元の高さを表現す
ることは、人類がそれぞれの文化のなかで成し遂げてきたことである。キ
リスト教文化圏では、娘と母の両立(性的体験なしでの)するイメージと
して聖母マリアをもった。これは女性の理想像として強い力をもったが、
女性が自分の性を考えるときには、まったく無力な象徴であった。(…)
妻と娼との両立をはかったイメージとして聖娼がある。それは誰をも受
け入れ、誰とも交わるが、誰にも従属しない。浮舟が妻と娼との葛藤に悩
み、それを超えるためには、聖娼の儀式と同様に、死と再生の体験をする
必要があった。再生した彼女は「出家」をすることになるが、それは藤壺
や女三の宮の経験した「出家」とは次元を異にしていた。彼女は男性との
関係を深く体験し、苦しんだ末に、男性にまったく従属しない女性の生き
方を見出したのである。個として生きる(one for herself)道は、もち
ろん孤独である。しかし、それは関係を切り捨てたあげくの孤独ではなく、
関係を深めたあげくに知ったものであり、誰とも関係がないといっても、
あるといってもよかった。紫式部は自分の個性化の道を歩む上で、まず光
源氏という男性像を設定することによって自分の心のなかの女性像を明ら
かにし、ついで、匂宮と薫という分裂を共に体験し苦悩する浮舟のイメー
ジを提示した上で、男性によらない個として彼女のイメージの完成へと向
かったのである。(…)
紫式部は自分の到達した世界が、当時の男たちには理解不能であること
を示して、彼女の長い物語を締めくくっている。
(河合隼雄『物語を生きる』小学館/2002.1.1発行/P202-204)
河合隼雄さんの『紫マンダラ』は、
現代の女性の「個性化」の極北を示唆したものとして注目に値する論考である。
これはもちろん、女性だけの「個性化」を意味しているのではなく、
男女、同性愛者を問わず、すべての人の「個性化」、
つまりは、女性性と男性性の錬金術的な統合の
ひとつのガイドとなる「マンダラ」なのではないかと思う。
この「マンダラ」の素晴らしいのは、
「マンダラ」というだけあって、
排除型ではなく、まさに統合であるというところである。
どうしても自分に異質なところというのは
自分をどこかの部分に純化させ矛盾を排除することで
安心を得ようという傾向は世の常なのだけれど、
娘や母や妻や娼といった枠のなかのひとつを選択するのではなく、
孤独に「個として生きる道」を歩むことによって、
「関係」を超えた魂の統合が可能になる。
そうした在り方は、紫式部の時代ではもちろんのこと、
現代の日本においても、ほとんどの場合理解不能のまま、
男女問わず、多くが自分をどこかの役割に規定し自足することで、
自分のアイデンティティを得ようとしているように見える。
男女別姓の議論にしても、別姓にすることで、
自分のそれまでの「家」の性を名乗るだけのことにすぎず、
そうしたことで「個性化」がはかれるとは思えない。
さて、今日のラジオドイツ語講座の応用編のテーマは「ドイツのイスラム女性」。
ドイツに移住してきた伝統的な考え方をするイスラム教徒も
第一世代から第二・第三世代のイスラム女性になってくるに従い、
二つの文化の間で引き裂かれるようになってきているというものだった。
伝統的なイスラム文化においては、
内的な女性性、男性性の自覚とかいうのは
ほとんど問題になりさえしなかったのかもしれないが、
ドイツの労働力不足に伴って多くのイスラム教徒などが移住してくることで、
そうした問題に直面せざるをえなくなってきているのではないだろうか。
おそらく、昨今ともにイスラム圏に注目が集まり、
混乱がさらに拡がっているところがあるのも、
そのイスラム圏において、そうした「個性化」の道が
もっとも閉ざされているとうことがあるのではないだろうか。
混乱は今後ますます大きくなるだろうが、
大きな「マンダラ」を描くためにはその道は歩まれなければならないのだろう。
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