風のトポスノート361-370

(2001.12.12-2002.1.12)

361●歩くこと
362●上達し続ける技
363●道という陥穽
364●<勝つ>から<創る>へ
365●学問と不問
366●もの
367●悪意と愛
368●天皇
369●匂と韻
370●ゲニウス・ロキの変容と復活

 

 

風のトポス・ノート361

歩くこと


2001.12.12

 
         一体歩くというのは、あんまり普通の行為であって、誰しもこれに文化的な
        色合いなど感じることはありません。けれども、たとえば現在の日本人が、現
        在見られるような歩き方をしていることは、明治維新以後欧米から取り入れら
        れた服飾、家屋、医療、軍事訓練、体育教育その他の要因と密接に繋がってい
        る。明治期の日本人は、いつの間にか西洋人のスタイルで歩くことを身に付け
        たと思われ、その学習はおそらく今でも続いているのでしょう。明治以降の日
        本の社会で「よい姿勢」をして歩くとは、すなわち西洋人のスタイルで闊歩す
        ることを意味しています。「胸を張って、腕を振って」歩こうとする。
        (…)
         言うまでもありませんが、四肢を持った哺乳動物の運動は、歩行がその基礎
        になっている。人類の直立歩行は、手の自由のためにこの基礎を根っから不安
        定なものにしてしまいました。後は、この不安定自体を、いかに習慣化してい
        くかです。習慣は、絶え間なく分裂していく文化の歴史のなかで作られる。け
        れども、どのような分裂のなかにあろうと、この習慣が目指していることは、
        直立歩行がもたらした不安定を軽減させ、忘れさせることにほかなりません。
        この目的こそ人類の歩行文化に普遍のものでしょう。言い換えると、直立歩行
        の形態はさまざまな文化のなかに組み入れられましたが、歩行することそれ自
        体は、依然として自然のなかの営みであるほかない。生命を維持し、展開し、
        有効な行為を為す動作の基本であるほかない。
        (…)
         私たちが、一種の歴史的記憶のなかから懸命に呼び起こそうとしていた剣術
        は、このような運動の一般法則を、まず歩行において根底から破る発明として
        出現したに違いありません。歩行において破れば、他の一切の動作はそれに従
        う。刀を斬り下げ、撥ね上げることも、身を沈め、回転させ、浮き上がること
        も。これは、直立歩行の不安定を補う諸々の文化的なやり方ではありません。
        作用/反作用の生物的回路から抜け出して、人間の身体が運動のもうひとつの
        次元を開くまったく新たなやり方です。
        (甲野善紀・前田英樹『剣の思想』青土社/2001.10.30発行/
         前田英樹から甲野善紀へ/P9-12)
 
ずっと前に水前寺清子という人の歌っていた
「三百六十五歩のマーチ」というのがあって、
たしか、「腕を振って足を上げて、ワン・ツー・ワン・ツー」とか
歌っていたと記憶しているのだけれど、
その最後に「休まないで歩け!」とあって、
子供心にも、やだなあ〜、たまんないなあ、と思っていた。
なぜ、そんなに頑張って行進し続けなければならないんだろう、と。
 
その歌が流行る前から、どうも、学校で行進させられたりするのが、
どうにもいやでたまらなかった。
やっと最近になって、こういう行進とかいうものは、
明治期以降、いきなり導入されてきたものだということを知って、
けっこう納得させられた。
もちろん、それまでのナンバとかう歩き方がいいとか
そういうことを思ったわけではなくて、
ただ、みんなで足をそろえて元気よくいっしょに行進するとかいうのが
どうにも不自然でたまらなかったというだけなのだけれど…。
 
それはともかく、自分の歩き方、つまり、
なぜそういうふうに歩いているのか、を意識してみると、
そのあたりまえのように思えることが
とても不自然な感じになってくる。
 
小さい頃を思い出してみても、
その行進させられながら、
ふだんの自分の歩き方とのあまりものギャップに、
まるで自分の足を意識してしまって混乱した百足のように
手足がばらばらになってしまうことがよくあったのを記憶している。
いわゆる「かけっこ」とかいうのもそうで、
早く走れないこともなかったのだけれど、
なぜ早く走らなくてはならないのか、
なぜみんなでヨーイドンしなくちゃいけないのかもわからなかったし、
それよりなにより、いっしょに走っている子たちの足とか手とかを見てて
それに合わせようとしたりしているうちに、
なにがなんだかわからなくなってくることが往々にしてあった。
 
その後、少しだけ剣道をしたときに、
竹刀でなぐりあうのはあまり好きになれなかったけれど、
すり足というのはけっこう気に入って、
ふつう歩くときにもやってたりしていた。
エーテル的に過去の日本人の血が甦ったのだろうか(^^;)。
 
で、何がいいたいのかというと、
ふつうあたりまえのように歩いている歩き方にしても、
それは洗脳されたというか、慣習になっているというか、
それだからそのように歩いているのであって、
そのことを意識してみると、
歩くことそのもののなかにある制度のことや
それにともなって自分が縛られているさまざまのことを
意識してみることも可能になってくるのではないかということである。
 
で、そのように歩かないやり方や、
そのように感じないやり方、そのように考えないやり方を
いろいろと試してみることで、
それまでとは異なった世界とかも開けてくるのかもしれない。
そんなことを思った次第。

 

 

 

風のトポス・ノート362

上達し続ける技


2001.12.21

 
         これだけスポーツが普及し、理想化されると、日常の振る舞い全体が、スポ
        ーツの動作体系を基礎音として組織されるようになる。電車に乗り遅れまいと
        走っている日本人の恰好には、間違いなく陸上選手が乗り移っている。今、日
        本人は駕籠かきのようにも、人力車夫のようにも走らず、スポーツ選手のよう
        に走る。それが最も自然な、普通の走り方だと思っているわけです。
         スポーツの世界的な普及には、もちろん政治的な原因があり、この事情はた
        とえば英語の普及などと似通っているでしょう。けれども、スポーツという動
        作体系の普及は、実は一言語の普及などよりもはるかに広汎で根深い。それは、
        意識されない日常のすみずみにまで浸透してきている。この浸透力は、スポー
        ツ自身がその内部に持っている特質からくると考えていいでしょう。その特質
        とは、何でしょうか。それは、作用と反作用の相関で成り立つ運動の一般法則
        を、最も効率的に、純粋に引き出してくるところにあるのではないでしょうか。
        逆に言うと、スポーツと無関係に成り立っている動作体系には、まだこの運動
        の一般法則を逸脱する要素が含まれている、別の要素の混入を許す余地が多分
        にある、ということなのでしょう。
        (…)
         スポーツ選手の頂点は、残酷なほど若い時にやってきます。酷使して、あち
        こち壊れかかった体を残して現役を退いた時には、彼らは後進の指導とかいう
        もの以外、スポーツに対してもう何をしたらいいのかわからない。こういう人
        々が、資本の流れや国家の枠組みのなかで利用され、誉めそやされ、捨てられ
        ていくのだとしたら、この時代にスポーツのリアリズムを心から渇仰するなど
        とはおめでたい話ではありませんか。私が誉めそやしたい技術は、もっと別な
        ところで、おそらくは黙々と生きている技術です。年齢の積み重なりと強く関
        わり、それによってのみ少しずつ可能となってくるような技術なのです。こう
        いう技術は、組織的にはほとんど利用することができない。利用するには、い
        ささか手間がかかり過ぎる。待つ時間が長過ぎる。けれども、ほんとうに上達
        する技とは、そうした在り方しか実はしていないものではないでしょうか。
         スポーツの技術は、体を摩耗させ、ごく短期間で限度に達してしまうことと
        切り離せない。それは、この技術が、たとえば職人の手先技などと違って、体
        全体を使って成り立つものだからでしょうか。決してそうではないと、私は思
        う。原因は、スポーツの動作体系そのもののなかにある。この体系が根差して
        いる運動の一般法則が、多量に行なえば身を損じるという、明かな条件のなか
        に置かれていることに因っているのです。しかも、こうした一般法則は、生活
        (生存)のなかでも有用な動作のためにあり、その目的が達せられれば、動作
        はそれ以上の質的な発展や深化を遂げません。あとは、その動作に必要な体の
        強化があるばかりになる。
         しかし、体全体を用いて行なう技にも、本来の上達というものがある。予測
        を超えて上達し続ける技というものがある。そのような技は、多かれ少なかれ、
        自然が動物に課す運動の一般法則を根底から逸脱する要素を持っていると言え
        ます。
        (甲野善紀・前田英樹『剣の思想』青土社/2001.10.30発行/
         前田英樹から甲野善紀へ/P14-19)
 
「本来の上達」のできる「技」がほしい。
肉体の作用ー反作用が最大限に発揮できるような
若いときだけに可能な「技」ではなく、
常に「上達」し続けることのできる「技」が。
 
体をつかう技だけにかぎらず、
人間としての存在すべてにおいて
いくら遅々としたものであったとしても
常に「上達」し続けることのできる「技」が。
 
その「技」は決して
目先の短絡的な目的のために使われるのではない。
おそらく誰も気づかないようなところで、
何の役にも立ちそうもないような在り方で
樹木が年輪を重ねていくように
それとも石柱が長い年月の内にできあがるような
そんな在り方ででしか育っていかないものなのかもしれない。
 
自我をアストラル体に作用させることで
霊我へと変容させていくような、
自我をエーテル体に作用させることで、
生命霊へと変容させていくような、
自我を肉体に作用させることで
霊人へと変容させていくような、
そんな気の遠くなるような時間を必要とする「技」なのだろう。
しかしそれは永遠へと続くための
常に「上達」し続けることのできる「技」なのだ。
そして、それは真の「自由」への道でもある。
 
そのほんの端緒には、
その働きにまかせてしまえば
作用ー反作用のような在り方で、
アクセルだけのある自動車のようになってしまいがちな感情を
ちゃんと操縦するという面倒な作業や、
考えるという、ある意味では生命力を減退させてもしまいかねない
かなり不自然かもしれない作業を怠りなくするという作業が
必要になるように思う。
しかしそれらの作業は、スポーツのように限界も引退もない。
「後進の指導」へとシフトしてしまうこともない。
道は、目の前に永遠なるものとして続いているのだから。
 

 

風のトポス・ノート363

道という陥穽


2001.12.28

 
         明治になって、剣術が剣道、柔術が柔道になったのは、やはりこの時期に
        対面した西洋文明を意識してのことでしょう。我が国にも、こういう立派な
        独自の伝統的体育がある、ということが言いたかった。で、「道」の字を付
        けた。ここでの「道」は、江戸期の公的な儒学が、武家の師弟に向かってさ
        んざん定義し、教え込んできた形而上学の観念です。この観念のもとの内容
        は、御存知の通り宋学に由来する。…
         しかし、武術、剣術、という言い方が、江戸期になって世間に広まったも
        のであることもまた明らかです。剣術に諸「流儀」が発生した戦国末期から
        江戸初期にかけては、剣術は兵法、刀法、もしくは剣法などと呼ばれるのが
        一般でした。上泉伊勢守は、新陰流兵法を名乗っている。宮本武蔵の時代も
        まだ剣術は兵法でした。…私が自分のやっていることを「剣術」とかわいら
        しく呼ぶのは、「兵法」に対するまったくの卑下、畏れ、遠慮からである、
        けれどもまた、それは近代の「剣道」に向かったいささかの矜持からでもあ
        る、ということになるでしょう。
         …「術の小乗を脱して、道の大乗に」という嘉納治五郎の発想は、極めて
        旧幕的な教養を背景としたものにほかなりません。「柔道」の観念に近代ス
        ポーツの健康思想が無理なく接ぎ木されたのは、こうした教養の曖昧さのお
        かげだったのかも知れない。術を脱して道に行く、その「道」の中身が、朱
        子学の説く「天地自然の理」から近代オリンピックの博愛精神になり替わっ
        たところで、別にどうということはない。江戸期を通じて、「術」はすでに
        その中身をなくして広まっていき、ついに柔道式の乱取り稽古を生んでいた
        のですから。
         これは面白いことですが、剣術、柔術の呼び名が一般化していった江戸期
        は、剣術であれ柔術であれ、「術」と呼ばれるに足る中身を根本からなくし
        ていった時代でした。反対に、兵法の呼び名が一般であった時代には、数々
        の恐るべき術があり、我が術の正否に日々の命を託して生きるほかない人間
        が限りなくいた。兵法が生み出されたのは、このような「術」からです。言
        い換えれば、「法」は、「術」が「術」に克たんとする激しい願いから念じ
        られていた。…
         ですから、私は自分の理想とする剣術が、特定文化を突き抜けた普遍性を
        持つものであると同時に、日本の戦国期の徹底して特異な、異様な状況から
        生まれてきたものであることを、いつも忘れまいと心がけています。…
         「法」は、おそらくあらゆる「術」を「術」たらしめるものの唯一の核心
        を射抜くことによってしか達することはできないでしょう。術を捨てて赴く
        「道」などは、詐欺同然のまやかしに過ぎません。
        (甲野善紀・前田英樹『剣の思想』青土社/2001.10.30発行/
         前田英樹から甲野善紀へ/P48-51)
 
柔術を柔道と呼ぶようにしたのは、嘉納治五郎で、
それは「術の小乗を脱して、道の大乗に」という発想かららしい。
「道」をつけて呼ぶとどこか高尚なものであるようにみえるために、
すべてに「道」というのをつけることを好むようになったことを、
明治期以降の西洋コンプレックスの一現象として
とらえてみるといいのかもしれない。
 
「道」といえば、「老子」で、その最初に
「道の道(い)う可きは、常の道に非ず。
名の名づく可きは、常の道に非ず。」
とあるように、「道」と名づけられることで
その「道」は、その真の名を失ってしまうことになったのかもしれない。
 
シュタイナーが、人智学という名称に対して、
その名称の固定化を避けたがっていた話もあるが、
どんな名にしても、固定化したかたちを指してそれだと言ってしまうことで、
その実が失われてしまうことに対する危険性に対する繊細な感受性を
持つ必要があるのだろう。
 
「術」と呼ぼうが「法」と呼ぼうが同じことではあるのだけれど、
とくに「道」という名に付着している
ある種の固定化してしまった空疎なまでの特権意識のようなものには
注意が必要であるように思われる。
 
日本では、儒教的な道徳観が
知らぬまに忍び込んでいることが多々ある。
おそらくこの「道」もそのひとつで、
「術の小乗を脱して、道の大乗に」というのも
儒教の影響を受けた仏教用語が用いられているように見える。
 
そういう意味でも、老子的な観点を常にもちながら、
その「名」によってみずからの内において
固定化・権威化されてしまいがちなものを
常に検証してみることが求められる。
 
夢枕獏と岡野玲子の「陰陽師」に「呪(しゅ)」というのがでてくるが、
「名」で呼ぶこと・呼ばれることで、人も物も「呪」にかかることになる。
そのために、古代において真の名は隠されることが多かった。
真の名を知られることで、まさに「呪」にかけられてしまうかもしれないのだ。
 
「道」もまたひとつの「呪」であり、その「呪縛」ゆえに、
「道」は名づけることのできるものに堕することになるのである。
 

 

 

風のトポス・ノート364

<勝つ>から<創る>へ


2001.12.28

 
         徂徠は「聖人」という歴史の出来事の真の一回性を、後世の儒学者たちが
        ほとんどまったく理解していないことに心底驚きました。同じことは、上泉
        伊勢守のような剣の「聖人」についても言える。このような人物が百年の乱
        世の果てに行なった根源の作為は、歴史中ただ一回限りのものであり、私た
        ちはもう二度と「太刀(かた)」の出現を見ることはない。だから、太刀を
        反復させる・これが、剣術修行における私の固い信条なのです。
         ところで、伊勢守のこうした作為の後に、一体何が変わったでしょう。斬
        り合えば人が死に、勝者と敗者ができる。支配する者と服従する者が生まれ
        る。このことの何を伊勢守の新陰流は変え得たでしょう。私はこう思います。
        彼の兵法は、<勝つ>ことに替えて<創る>ことを、<奪う>ことに替えて
        <与える>ことを本質とした。何が勝つことであるかを決めるのは、所詮は
        世の出来合の価値でしかない。人から何か(たとえば命、地位、金銭)を奪
        おうと望むのも、そういう価値に従ってでしかない。けれども、もっと別の
        道がある。出来合の価値を絶え間ない柔らかな創造に替える道、何ものも支
        配せず、みずから創造する新たな価値を与え続ける道がある。伊勢守晩年の
        兵法が、敵ではなく味方を、敗者ではなく無数の共鳴者を作り出した理由が
        ここにあります。
        (甲野善紀・前田英樹『剣の思想』青土社/2001.10.30発行/
         前田英樹から甲野善紀へ/P178-179       )
 
「勝つ」ということはいったいどういうことなのだろう。
そのことが子どもの頃から大きな疑問だった。
勝つというのは、人に勝るということでもある。
では、人に勝るというのはいったいどういうことなのだろうか。
人に勝ることで、いったい何が得られるのだろう。
 
賞金が得られるというのもあるだろうし、
名誉が得られるというのもあるだろうし、
また勝つ者のみが得られる権利もまたあるだろうが、
それらの価値の依るところのものを見定めないかぎり、
得られるさまざまはその価値に呪縛されることになってしまう。
 
もちろん、勝者であることによってはじめて、
その勝つこと、勝ることから自由であるための
可能性を得るということもある。
その点を見過ごすことはできないだろう。
そこに、この地上を生きる困難も、
また可能性もあるのだということは重要なことだと思う。
 
ぼくは、現在の生において、
「勝つ」ということとずっと無縁のままでいるので、
勝つことによって勝つことを超える道が
いったいどういうものなのかはわからないのだけれど、
わからないなりに、自分のおこなっているさまざまが
いったい何を創造し得るものなのだろうか
ということについて考えることがある。
 
自分のおこなっているさまざまというのは、
その言葉どおり、あらゆる行動や言葉や思考等のことで、
それらはたしかに「出来合の価値」に縛られがちなのではあるけれども、
それらをいかにすれば「絶え間ない柔らかな創造に替える」こと
「何ものも支配せず、みずから創造する新たな価値を与え続ける」ことが
できるのだろうかということを考えるのだ。

 

 

風のトポスノート365

学問と不問


2001.12.30

 
福沢諭吉に『学問ノススメ』という有名な著書があり、
ようやく最近になってはじめて読んでみたのだが、
そのはじめの部分にこうある(中央公論社・日本の名著より)。
 
        『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
        されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
 
とはいえ、福沢諭吉のススメている「学問」の「実」というのは、
「日用の間に合」うためのもののようである。
 
『学問ノススメ』は
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
ではじめられているが、
福沢諭吉がその著書で問うたのは
「一国の自由独立」のための「学問」の必要性であって、
それゆえに、「学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、
和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず」とし、
「日用の間に合」うことが言われているわけであるが、
明治維新のような西欧に追いつけ云々が課題ではもはやない現在、
その「日用」とはいったい何かが問われる必要があるのではないか。
 
ぼく自身としては、かなり素朴に、そして興味の赴くままに
「これはいったい何だろう?なぜなんだろう」という発想から
いろいろ調べてみよう、考えてみよう、としているだけなのだけれど、
そのなかでいつもぶつかることになるのが、
ある意味では、「学問」と「日用」に対する疑問、
そしてその両者の関係づけであるといえるかもしれない。
 
「学問」に関していえば、ごく素朴にとらえると、
その文字のとおり、学ぶことと問うことであるはずなのだけれど、
多くの学問的な著作等を読むにつけ、その専門範囲を超えたところに関しては、
すぐに「学問」が「不問」へと姿を変えてしまうことに
否応なく気づかされてしまう。
先日も、とても面白い民俗学の本を読み進めていて、
はたと気づくと、過去の説明以外の何ものもそこにはないことに気づかされ、
どうにも居心地の悪い思いになってしまったりした。
なぜその先を問うことを禁じ手のようにして、
それを当然のようにしてしまうのだろうか。
 
広辞苑をひいてみると、こうある。
【学問】学び習うこと。学芸を修めること。
【不問】問わぬこと。問いたださぬこと。すておくこと。「ーーに付す」
 
これを見て気づいたのだけれど、
これでは「学問」は、なにかすでにあることを
「学び習い」「修める」というように、
新たな「なぜ」に向かうものではなく、
「学問」と「不問」がメビウスの輪のようにつながってしまいかねない。
専門を超えたところを不問に付すのが学問になってしまうわけである。
 
「日用」ということにしても、
それを目先の役に立つことというだけの意味に限定しまうことで、
そのための「学問」はすぐに「理論と実践」というような
分裂状態・対立状態になってしまうことは必定なのではないか。
 
おそらく「日用」というのを
もっとみずからの生きる(死も含めて)ための
あらゆることの根源にまで向けてとらえる必要があるように思えてならない。
あまりに限定されてしまった「日用」は、
あらゆるものごとを「そういうものだ」としてとらえるようなものであり、
ゆえにそのなかでの「学問」も、
「そういうものだ」の修得以外には向けられなくなってしまう。
 
ぼくがシュタイナーの神秘学(精神科学)に惹かれるのも、
それは「不問」に付してしまうような「学問」ではない
というところにある。
「自由の哲学」の最初のところにもあるが、
認識の限界を設けるか設けないかということにも
不問に付す学問と不問に付さない学問との違いが明確にでているように思う。
そして、不問に付す学問における日用は
「そういうものだ」の内に安住し、
不問に付さない学問における日用は、
世界のあらゆることへの関心を自分とは切り離さないで
それらすべてが自分との関わりのなかで探究される必要がある。
 
そうしてみると、日々我々の関わっている
クリスマスやお正月やそうした行事に関しても、また葬儀にしても、
「みんながするからわたしも」「そうするものだ」という発想ではなく、
それらひとつひとつに、その意味を求めざるをえなくなる。
そうしなければ、そられひとつひとつが、
我々を呪縛する「呪(しゅ)」となって、
それらの奴隷になってそれに気づかないでいることになる。
 
そういう奴隷状態であるかぎり、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
とはなりえず、あらゆる奴隷的思考のもとに
上と下を絶対化してしまうか、
そのアンチのもとに「賛成の反対」を叫ぶか、
という不自由さから逃れることはできない。
そういう意味でも、あらたな時代のための
『学問ノススメ』としての精神科学が必要なのではないだろうか。

 

 

風のトポス・ノート366

もの


2001.12.31

 
         「物語」という「もの」は、いったいどのような意味をもっているのだ
        ろう。これに対しては、折口信夫の「ものは霊(モノ)であり、神に似て
        階級の低い、庶物の聖霊を指した語である」によってえ、「もののけ」の
        「もの」と考えられるようである。このような考えを背景に、梅原猛は
        「『ものがたり』というのは『もの』が『語る』話なのである」と述べて
        いる。
         「もの」が霊である、というのは面白い発想である。現代人は「もの」
        と言えば「物質」と思うのではないだろうか。と言っても現代人も、相当
        広い範囲で、この「もの」という言葉を使っている。「ものごころ」、
        「ものになる」などと言うし、「そんなものじゃない」と怒るときもある。
        あるいは、単に「知りたい」と言わずに「知りたいものだ」などと、「も
        の」をつけて表現する。これに、古語の用例も加えると、実にものすごい
        範囲をカバーして、「もの」という語が存在していることがわかる。かつ
        て哲学者の市川浩が、「み」という語を丹念に調べ、それが「身体」を表
        わすのみならず、それを超えて、心や魂まで含む、実に広い範囲に及ぶ用
        語であることを明らかにした。「もの」は「み」に匹敵する言葉と言える
        だろう。
         「もの」は従って、物質のみならず人間の心、それを超えて霊というと
        ころまで及ぶ、と考えられる。その上、梅原猛は、物語というのは「『も
        の』が『もの』について語る」と述べているが、これも「誰かの『もの』
        について語る」という考えも成り立つわけで、拡大解釈をしていくと、
        「物語」というのは、実に多くのことを含んでいる。
        (河合隼雄『物語を生きる』小学館/2002.1.1発行/P18-19)
 
「もの」が霊である、というのは、まさにそのことばどおりで、
「もの」を物質だととらえるときにも、
物質は霊的なもののひとつの特殊な表現であるとしてとらえなければ、
おそらくは決して物質とは何ががわからなくなってくるのではないだろうか。
 
それはまさに「身」についてもいえることで、
単に身体を物質としての肉体としてのみとらえてしまうときに、
いかにそれらが貧しいとらえ方しかできないか、ということがわかる。
(市川浩の『身体論集成』/中村雄二郎編・岩波現代文庫が
先日ちょうど編集・刊行されたところなので、興味のある方は参照されたし)
シュタイナー的な観点からいっても、身体というのは、
肉体、エーテル体、アストラル体からなっていて、
そのなかで自我が働いているものとしてとらえられている。
 
「もののけ」にしても、
「もの」を即物的な意味での物質的な側面からとらえるのではなく、
そのさまざまなあらわれのなかでとらえていくことで、
それが「もの」の「化」としてとらえることもできるのかもしれない。
 
実際、日本では、なぜか、さまざまなものを供養することが行なわれていて、
それはいわゆる生命のあるものだけにかぎらず、
人形や針などのようなものをも供養されているように、
「もの」つまり「霊」は、あらゆるものに宿っている
と思われているところがある。
 
大物主という神も存在していたり、
山や岩などが御神体になっていたりするように、
「物」「もの」というのは、
むしろ神々の顕現したひとつの姿であるように
古代においてはとらえられていたのではないだろうか。
それはおそらくシュタイナーが、
第一ヒエラルキアが物質に働きかけているということを
示唆していることに通じていることのように思われたりもする。
つまり、大地は神々の身体のひとつの現われでもあり、
もちろんのこと、私たちの身体そのものも、また
そのひとつであるとしてとらえることもできる。
 
その「もの」が語る。
「もの」が即物的になってしまったとき、
やはり物語もそれに応じて貧困にならざるをえないだろうが、
「もの」の働きを多次元的にとらえていくことによって、
その「物語」もまたそれなりの広がりを得ることができるだろうし、
その「もの」が私たちに働きかける仕方も
それに応じた広がりを見せてくれるのではないだろうか。
 
しかし、「そういうものだ」というとき、
ひとは「もの」に屈服させられている。
というより、むしろ「もの」を閉じ込め貶めている。
そうではなくて、「もの」のはたらきを
さまざまなところで真にとらえようとし、
「もの」が「語る」のをききとることで、
それらを解放していくことができるのではないだろうか。
それは、「もの」としてこの地上に現われている
私たちそのものの解放であるということもできるだろう。

 

 

風のトポス・ノート367

悪意と愛


2002.1.5

 
        「悪意じゃないとすると?」
        「『く』を抜いてみろよ」
        「え?」
        「悪意から『く』を除けば愛でしょうが。
        好きな人のものって欲しくなかったか?
        好きな人の名前を見るとどきっとしなかった?」
        (恩田陸『黒と茶の幻想』講談社/P211)
 
愛と憎しみというのも
コインの裏表というところがあったりするが、
悪意のなかには、
そのなかに愛が織り込まれているんだろうと思う。
 
善が現われ出るためには、
その双子でもある悪が必要になるが、
悪意が現われ出るためにも、
その出所でもある愛が不可欠なのだろう。
 
悪意には、善意には決してないような類の
まさに「愛」ゆえのさまざまが、
そこには複雑に織り込まれているのではないだろうか。
ユダがイエスを売ったその「愛」、しかり。
だから、悪意は不思議な魅力を湛えながら、
屈折した愛の光を乱反射させ、興味が尽きない。
 
自由は悪意さえも許容する。
そしてみずからの悪意の葛藤のなかから
わずかに紡ぎ出される愛の光の繊維で織られた衣のことを
想像したりもする。
まるで、闇に紛れ込んだ光の元素を語る
マニ教の神話のように。

 

 

風のトポス・ノート368

天皇


2002.1.8

 
         (王朝時代)において、最も実際的な権力を握っているのは、天皇の外
        祖父であった。天皇ではなかった。これが摂関政治の特徴と言えるかもし
        れない。天皇は形式的には最高の地位であったが、それより偉いのが天皇
        の母である。国母と呼ばれた。そして面白いことに、国母の父親、つまり
        天皇の外祖父が一番偉いのである。これは、完全な父兄による権力の授受
        の構造とまったく異なっている。そのような考えに従うと、父ー息子とい
        う軸が最も大切で、ここには男性のみの系列があり、女性の入り込む余地
        はない。
         これに対して、日本では父ー娘、母ー息子という軸がうまく重なって、
        祖父ー母ー息子という三幅対が重視される。このために、平安時代の権力
        者は最高位を狙うためには、まず素晴らしい娘をもつこと、その娘を天皇
        に差し出し、そこに男の子が生まれることが前提条件となる。その男の子
        が天皇になれば、万事めでたしということになる。
        (河合隼雄『物語を生きる』小学館/2002.1.1発行/P55-56)
 
藤原氏の摂関政治の背景には、
天皇の外祖父であるということがあった、
(自分の娘に天皇の子どもを生ませるということ)
ということは日本史には必ず出てくるが、
それがどういうことであるのかについては、
以前からよくわからなかったのだけれど、
その背景には血の継承としての母系の発想があったのだ、
ということに気づいたのは、神武天皇以後、
その皇后が饒速日系であることを知ってからのことだった。
つまり、次のようなこと。
 
        「『古事記』の神武紀に、神武天皇の皇后は美和之大物主神の娘、伊須気
        余理比賣(イスキヨリヒメ)」だとある。桜井市の三輪神社には大物主が
        祀られてある。ここでの大物主の名前は、大物主櫛甕玉命となってるんだ。
        櫛甕玉とは饒速日系をさす。籠神社の祭神が天照国照彦火明櫛甕玉饒速日
        命とあるようにな。つまりな、饒速日は大和朝廷の女系の皇祖神となるん
        だ。そしてその後九代開化天皇までの皇后が、饒速日の血縁から上がって
        くる。そしてその後も饒速日の神裔氏族出身の皇后から生まれた皇子のみ
        が、皇位継承権を持つ皇太子となった。これが古代天皇の実態だ。つまり、
        饒速日の母系が重要なんだ」
       ( 中山市朗・木原浩勝『捜聖記』角川書店/P424)
 
この天皇の皇后ということには、おそらく深い意味があって、
皇后であるということは、いわば神託を受ける巫女であり、
その巫女の託宣を聴いて、天皇は政を行なっていた、
ということがあったようである。
それは、古代の次のような政の形態を受けて
そうした形になっていたのではなないかと推察される。
 
        『古事記』の中に出てくる国々は、先程の吉備津彦や吉備津媛のほかに、
        例えば、宇佐神宮の所には宇佐津彦と宇佐津比売という二人の男女の君主
        がいますし、薩摩の方には鹿葦津彦と鹿葦津媛という二人の男女の君主が
        政をやっております。ですから『古事記』に収録された時代は、日本列島
        の中のたくさんの国が男と女と二人の君主を戴く国家組織を持っていたろ
        うと思われますが、その人達はどのようにして国を治めていたかというと、
        妹である巫女が、自分達の部族が一番大事に思っている神様に祈って、そ
        の神様の託宣を聴いて兄に伝え、その兄がその神様の思召しの通りに政を
        して国を治めていた、そういう形であったろうと思われます。
        (綛野和子『日本文化の源流をたずねて』
         慶應義塾大学出版会/2000.4.10発行/P62)
 
皇室に女性ばかりが誕生している昨今、
女性の天皇の可能性ということが公に語られるようになっているが、
面白いことに、天皇の興味深い発言があった。
桓武天皇が百済から皇后を迎えたということから、
韓国と皇室との深い関係を感じる、という趣旨だったと思う。
 
皇室は、百済系及び新羅系の渡来人であって、
そのふたつの系列の争いが日本の歴史では
深い潮流を形づくっているというのは、
いわば公然の秘密のようなものになっている感もあるにしても、
その発言はかなり注目してもいいのではないかと思われる。
 
女性の天皇ということにしても、
男女平等だからかまわないじゃないか、
というのが、一般の意見なのかもしれないが、
ひょっとしたらそのことや先の韓国との関係や
そうしたことが示唆しているのは、
天皇のシステムそのものが
古代のそれをも射程におきながら、
ある意味で新たな在り方へと変容しようとしているのではないか。
そういうことを感じている昨今である。

 

 

風のトポス・ノート369

匂と韻


2002.1.11

 
         王朝物語には、多くの美男、美女が出てきて、その様子が語られる。そ
        の美しさの形容に「にほひ」が用いられるのは、注目に値する。「にほひ
        やか」という形容詞がある。われわれの子どもの頃は、まだ「にほやか」
        という言葉が生きていたと思うが、今では、おれが美しい女性の形容と知
        る若い人は少ないのではなかろうか。そもそも「にほやかな娘さん」があ
        まりいないのかも知れぬ。「にほひ」は、もともと赤(丹)などのあざや
        かな色が美しく映えることを意味しており、それが転じて、嗅覚で感じる
        「匂」の意味になったようだが、ともかく美しさの形容詞と、嗅覚が結び
        ついている事実は興味深い。
         中国人の日本文学研究者、朱捷は、これに関して次のような指摘をして
        いる。『源氏物語』に、源氏が女性たちについて述べる際に、女三宮は
        「にほひやかなる方は後れて」、明石の女御は「いますこしにほひ加はり
        て」、紫の上は「にほひ満ちたる心地して」と、「にほひ」を連発してい
        る。ところで『源氏物語』の中国訳においては、これらの場面の「にほひ」
        は、「艶麗」、「美麗」などと訳されている。中国語には嗅覚と共通する
        美の形容詞がないからである。ところが、中国では女性の美しさの形容に
        は、聴覚と結びついた「韻」の字を用いるという。「天姿風韻」という言
        葉は、女性の美しい姿(天姿)と、そこから漂う雰囲気としての風韻が大
        切と考える。確かに「にほひ」も、美しい姿そのものよりも、そこから漂
        い出してくる感じを表わす言葉である。
         (河合隼雄『物語を生きる』小学館/2002.1.1発行/P84-85)
 
昨年秋、ちょうど、
朱捷『においとひびき』(白水社/2001.9.20発行)を
興味深く読んだところだったので、
上記引用にある河合隼雄の示唆に驚いた。
 
『においとひびき』には、副題として
「日本と中国の美意識をたずねて」とあるが、
日本が「匂」であるのに対して、
中国が「韻」であるというように、
その美意識がなぜ異なっているのだろうか。
それをまとめてあるところを引いてみる。
 
         源氏物語にみるように、人物を「にほい」でたたえるのは、その人の
        色香、生命力の生々しさや美しさを羨望し、謳歌することである。
         いっぽう、中国語のひびき、「韻」は、調和された音のことである。
        古代中国人の考えた究極の調和した音は、宇宙の「大始」ーー生きとし
        生ける存在の母胎、本源にある。したがって、それはありとあらゆる存
        在を存在たらしめる宇宙のリズムである。
         こうした「ひびき」でもって醸成された人物像には、あの荘子のいう
        「物を自由に駆使しながら物に使役されない」意志が感じられる。…
         すでにみたように、人物評価にもちいられる「韻」はつねに、世俗の
        倫理や価値観、人情などの束縛を受けない自由闊達なイメージを伴って
        いる。人間に「韻」を求め、「韻」の評価を与えるとき、中国人はそこ
        に、あらゆる束縛から自由になることの憧憬を投影している。…
         ひるがえって、日本人が「にほい」で人間をたたえるとき、そこには
        超脱やあらゆる束縛から自由になることへの憧憬などとは異質な美学が
        生きている。薫にとってにほいのすくない男と見られるのは耐えられな
        いことだったことからもわかるように、「にほい」はなによりもまず異
        性の存在を前提にしているため、孤高なものではありえない。そのうえ、
        もともと「にほい」ということばが生命への神秘への感動に由来してい
        るから、「にほい」には、人間存在そのものの不自由さを意識して超脱
        や究極の自由を求めることよりも、授かった生命を美しく生きようとす
        る美意識が強く感じられるのである。
        (朱捷『においとひびき』P214-215)
 
そういえば、日本では
「あらゆる束縛から自由になることの憧憬」とかいうよりも、
移ろひや無常観のほうがポピュラーで、
「にほい」ではないが、それと近しいと思われる
「色」の移ろひを美学にしてしまうところがあるようだ。
花のいろはうつりにけりないたづらに・・・。
 
シュタイナーの十二感覚でいうと
(アルバート・ズスマンの『魂の扉・十二感覚』を参考に)
嗅覚は、魂の感覚、聴覚は霊的感覚である。
(ちなみに、魂の感覚には嗅覚のほかに、味覚、視覚、熱感覚があり、
霊的感覚には聴覚のほかに、言語感覚、思考感覚、自我感覚がある)
日本人は、どちらかというと、
思想的というよりも、生命的で、
そこらへんにもよくあらわれているのかもしれない。
 
ぼく自身はどうだろうと思い返してみると、
けっこう「匂い」にはこだわるほうなのだけれども、
「聴く」ことにも同じくらいこだわるほうだし、
無常観はぼくのなかのベースにありながらも、
「あらゆる束縛から自由になることの憧憬」は人一倍あるので、
日本と中国の折衷のような指向があるような・・・。
 
しかし、日本には香道というのがあるように、
非常に原初的な感覚が洗練されたかたちで継承されているようで、
そうしたことを物語のなかなどにも見ていくと、
見えてくるものもあるように思う。

 

 

風のトポス・ノート370

ゲニウス・ロキの変容と復活


2002.1.12

 
         物語において、特定の場所が大きい意味をもつことがある。それは、そ
        の場所自体が何らかの重要な特性をもっているようにさえ感じさせられる。
         たとえば、『源氏物語』では、宇治という場所が大切な役割をもってい
        る。京都において、多くの物語が生まれるのだが、宇治の生み出してくる
        物語は、それとは異なる意味合いをもっている。
         特定の意味をもつ場所、トポスという考えは、近代になって個人を中心
        とする考えが強くなるにつれて、急激に薄れていった。個人の在り方、性
        格が大切であり、それがあちこちと場所を移動しようとも、中心的性格は
        変わらない、と考える。ある人物が、ある場所において、何かを感じると
        しても、それは、あくまでその個人の感じることである、と考えられる。
        これに対して、トポスの考えを重視する者にとっては、その場所そのもの
        が、何らかの性質をもつと感じられる。「ゲニウス・ロキgenusu loci」
        (「土地の精神」とでも言うべきか)の存在を信じるのである。近代にな
        るまでは、このような考えは、世界中あらゆるとところにあったと思われ
        る。従って、王朝時代の物語にトポスのことが大きく関わってくるのも、
        当然のことである。
        (…)
         近代は、そのような場所としてのゲニウス・ロキを殺してしまった。土
        地はまったく平板化されて、何も特別な精神や霊などと関連するものでは
        ないようになった。誰もが、どこへでも、好きなように行くことのできる
        「便利さ」を、われわれは獲得したが、何事にも犠牲はつきもので、それ
        はゲニウス・ロキの殺害という犠牲の上に成立していることを、われわれ
        は忘れてはならない。
         現在、アメリカでは、いろいろなワークショップをするときに、「リト
        リート」するのが流行である。人里離れたところに、何日間かすっこんで、
        精神的、心理的な体験をしようとするわけである。それは、なんとかして
        近代を乗り越えようとする努力の現われと見ることができる。たしかに、
        都会のなかでの集まりよりも、それは効果的であることは事実であるが、
        ゲニウス・ロキの大量殺害の後で、それら簡単に復活してくれるのだろう
        か、と思ったりもする。プレモダーンの知恵が、ポストモダーンをどれほ
        ど活性化してくれるのかはともかくとして、われわれは少しずつでも、こ
        のような努力を積み重ねていかねばならないだろう。
         そのような努力の一環として、トポスの知に満ちた物語を心をこめて読
        む、ということがある。主人公が住吉へ行く、というのを、単純に人間の
        移動として読まず、その意味を十分に味わうことが必要である。
         (河合隼雄『物語を生きる』小学館/2002.1.1発行/P152-154)
 
かつて、記憶は場所とともにあった。
その場所に行くことで人は記憶を呼び覚ますことができた。
記念碑が建っているのも、その場所と記憶の深い関係を表わしているといえる。
 
やがて、その記憶は内面化されることができるようになる。
その場所にいかなくても、その記憶を取り出してくることができる。
ある意味ではそれはその場所に結びついていた精霊を殺害することにもなった。
殺害された精霊達を私たちは私たちの内に持つようになったのかもしれない。
内面化というのは、おそらくは自らの外なるものを殺し、
私たちの内なるものに固定化させることでもあったのだ。
私たちの内面には、ゲニウス・ロキたちの死骸が踊っている。
 
ゲニウス・ロキは、土地の精神というよりも、
地霊と訳したほうがその意味が理解しやすいかもしれない。
その場所で人は精霊達の声をきくことができ、
そこにはさまざまな意味深い物語があった。
言葉もその土地の精霊達とともにあったのだろう。
 
しかしやがて言葉は文字として記録されるようにさえなる。
それは魔術、おそらくは強力な黒魔術でもあった。
その魔術はゲニウス・ロキの殺害に拍車をかけた。
思考もそうした魔術の影響を受けて
死を担ったものになっていった。
 
その死は復活を待たねばならない。
その復活は物語の復権でもある。
私たちはみずから物語をつくらなければならない。
恣意的につくりあげる物語ではなく、
私たちの内に横たわっている死骸達を
生き生きと復活させることのできる、そんな物語。
その物語を持ち得たとき、
人は復活したゲニウス・ロキとなることができる。
癒やしというのも、その復活と深く結びつかなければならないだろう。
そのとき、「もの」が変容して復活するのだ。
 
この「トポス」も、そんな「もの」の変容と復活のための場所でありたい。
電子ネットワークというのは、そのままではゾンビの跳梁する
仮想現実時空でしかないが、
かつて殺害されたゲニウス・ロキを変容させる可能性、
魔術をかけられた「もの」を脱魔術化すると同時に
それを新たに復活させることにむけて使うこともできるのではないか。
それは、それまで呪縛されていた時空からの自由の可能性でもある。

 


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