風のトポスノート341-350

(2001.9.24-2001.10.15)

341●「みんな仲良く」の落とし穴
342●花窟神社
343●新しい世界へ
344●カッティヴェリア(悪意)
345●見たいと欲する現実
346●自分自身を支配する力
347●黙想的思考
348●月、そのほか
349●サルタヒコ
350●履歴を消す・責任を持つ

 

風のトポス・ノート341

「みんな仲良く」の落とし穴


2001.9.24

         宮台◎…いじめの背後には、これはすでにいろいろな研究が社会学でもされて
        いるのですが、「同調圧力」の問題がある。自分としての自分はいじめたいわけ
        ではないけれども、自分がいじめに参加しないと仲間であり続けることができな
        いとか、いじめえを止めに入ってしまっては、やはり仲間であり続けることがで
        きない。つまり、先ほど述べた「自分らしくある」ということを重視するよりも
        「うって一丸」あるいは「仲間と一緒」ということを重視する価値が、そこで非
        常に否定的な作用を及ぼしているんです。仲間が何と言おうと俺は俺だ、といえ
        るような価値を学校ではむしろ教えていない。これもある機関の調査結果ですが、
        日本の小学校教員の九割以上が、自律=どこでも自分は自分だといえることより
        も、協調性=みんな仲良しが大事だ、と答えてしまっている。日本の小学校教員
        の九割以上が、自分が自分であることよりも、みんな仲良しが大事だと答えてい
        るんです。こういう国は、先進国では日本だけですが、これも実はいじめの背後
        にある非常に重要なファクターです。
        寺脇◎まず自分が自分であって、そして人と仲良くしようというプロセスなのに、
        そこを抜きにしているところに問題がある。「みんな仲良く」というのは大事な
        ことですが、自分が自分であるということを抜きにした「みんな仲良く」は、個
        人の幸福を大切にする社会では、通用しないのです。
         不登校やいじめ、学級崩壊、すべて学校の問題です。しかしそれは、結果とし
        て生まれた問題なのであって、その原因は、社会や時代を意識せずに従来どおり
        やってきた点にあるのではないでしょうか。
        (<対論>寺脇研・宮台真司「学校の役割は終わったのか」
         NHK「日本の宿題」プロジェクト編
        「学校の役割は終わったのか」所収/NHK出版/2001.8.25発行/P240)
 
「みんな仲良く」するに越したことはない。
しかし、「みんな」ということによって
排され抑圧されてしまう「みんな」ではないものができてしまうこと、
そして「みんな」でなければならないように思い込んでしまうこと。
そのことはもっともっと意識されなければならないところだろう。
 
ほんとうは「みんな」違っているはずで、
そうでなければ、存在する意味がなくなってしまうはずなのに、
「仲良く」という枠を、外から(外からとは思えなくなってしまうほどに)
はめられてしまったとき、そしてそれに洗脳されていない場合、
その「みんな」はファシズムになってしまう。
ファシズムにみんな同じ仕方で対抗するというのも、
またファシズムになってしまう。
「平和」を「みんな」の運動にしてしまうというのもまたそれに似ている。
 
和をもって尊しとする、というのは聖徳太子の憲法以来のものだけれど、
その「和」は「違い」を前提にしているはずなのではないだろうか。
「違い」があるからこそ「みんな仲良く」の意味があるのであって、
「みんな仲良く」するために「違い」をなくそうとしたり、
それを見ないようにするというのはやはりファシズムになる。
 
原理主義の危険性というのもまたそこにある。
なにかを「原理」に還元してしまい、
その「原理」から導き出されるファナティズムに酔ってしまう。
 
人は多く、何か外からくるそうした「原理」に従ってしまいやすい。
自分でなにかを考えようとするよりも、
そうした外からくるものに教えてもらって、
それに従ってほうが楽だからだともいえる。
まさにすべてを「そういうもの」に還元してしまう。
 
今や「自己発見」さえも外からくるセミナーになってしまう。
みんなで集まって誰かに「自己」を発見させてもらおうとするのだ。
そこには巧妙なエゴイズムが存在していることを見抜かなければならない。
 
「自律=どこでも自分は自分だといえること」を
日本ではとりわけエゴイズム的にとらえることが多い。
「仲間と一緒」「みんなで」ということを
「実践的」で「無私」の行動だと思いがちなのだけれど、
それらのなかにある巧妙なエゴイズムのほうに
自覚的でなければならないのではないだろうか。

 

 

風のトポス・ノート342

花窟神社


2001.9.26

         祭神、伊弉冉尊が西一、五粁の処に鎮座する産田神社の地に於いて
        軻遇突智尊を生み給いて神去りしによりこの地に葬る。
         日本書紀に「一書曰 伊弉冉尊火神を生み給う時に灼かれて神去り
        ましぬ 故れ紀伊国熊野の有馬村に葬しまつる 土俗此神の魂を祭る
        には花の時に花を以って祭る 又鼓吹幡旗を用て歌い舞いて祭る」と
        あり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は
        増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。花窟神社は古来社殿な
        く、石巖壁立高さ四十五米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣を周
        う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。
        (「花窟神社由来書」より
         鎮座地 三重県熊野市有馬町上土130
         祭神  伊奘冉尊、軻遇突智尊)
 
この休日、熊野の地を巡り、思いをめぐらす。
かぎりなくやさしく感じられる地の意味について。
 
火の神を生んで黄泉国へと去った伊弉冉尊。
この物質世界の成立そのものの根源にあったようにも思われる秘儀。
 
なぜこの地が誕生したのだろうか。
おそらくそのためにはまず火を生まねばならなかった。
まるで土星紀の熱のように。
 
火から風へ、水へ、そして地へ。
大地は火のような蛇とともに生まれ、
やがてその体を縫うように水が流れた。
水もまた神霊の宿るところ。
水を集め滝となりて迸る。
 
さて、花窟神社は巨大な岩塊そのものを祀る。
大神神社が山そのものを祀るように。
物質世界は大いなる変容の秘儀そのものだったのだろう。
そこに神霊が宿るというより、
物質世界そのものが神霊達の身体に他ならない。
そしてその身体にさまざまな魂たちが宿りながら、
この大地に生き遊ぶことになった・・・。
 
花で祭る。
それはこの窟にふさわしい祝祭。
太平洋の波打ち寄せる七里ヶ浜に面する
巨大な岩の前でしばし佇み、
神霊達の犠牲によって生まれた世界のこと、
熊野の大地の潔いまでのやさしさを思いながら
潮風を受けて凛と座している清々しさにしばし。

 

 

風のトポス・ノート343

新しい世界へ


2001.9.27

       Leo     Wir alle haben die Kraft,etwas lebhaft zu sehen und zu spueren.
               Die entscheidende Frage ist:
               Haben wir den Mut,neue Welten zu entdecken?
      レオ    私たちはみんな、ものを生き生きと見たり、感じ取る力をもってい
              ます。決定的な問題は、私たちが新しい世界を発見する勇気をもっ
                 ているか、ということです。
        (NHKラジオドイツ語講座2001年9月テキストより)
 
NHKラジオドイツ語講座入門編、新井訓「レオのドイツ語世界」が
今日の放送で最終回を迎えた。
途中から聞きはじめたのだけれど、とても楽しい体験になった。
直前にある英語会話の講座がアメリカンでポップなノリなのに対して、
ドイツ語ならではのちょっとメランコリックな性格もでていて、
それがぼくには楽だったのもあるような気がする。
おそらく講師の新井訓や共同執筆者でもあるWilly Langeの気質も
ぼくに比較的近しいものだったのもあるのかもしれない。
途中でこの講座をつくりあげる苦労の話もあったりして、
「ドイツ語世界」を開こうとするプログラムづくりの
プロセスを想像してみるのも楽しい経験になった。
 
ところで、上記の引用は100番目のスキットの最後の部分から。
なかなかに感動的なエンディングの台詞。
この勇気というのは、まさに精神科学的認識へ姿勢として
不可欠なものだと思う。
 
ともすれば人は、それまで自分がつくりあげてきた世界のなかに生きていて、
そこから出ようとはしないようになる。
ほんとうは何も制限されてなどいないのに、
自分で自分を縛ることで安心を得ようとし、
その「安心世界」のなかに他者をも引き込もうとさえする。
「みんなで見なければ恐くない」とばかりに。
 
精神科学的認識の基本姿勢は、
こうした過去の亡霊から自由であろうとすることにあるように思う。
個人のレベルではまず「自由の哲学」がそれであろうし、
学問Wissenschaftのレベルでいえば諸科学を
拡げるErweiternするということなのだろう。
 
「過去の亡霊」はさまざまな形で私たちの前に現われる。
ときに甘い誘いとして、ときに威嚇のようなものとして、
見ざる言わざる聞かざるとして、
また見えない言えない聞こえないという自己洗脳的なあり方として。
 
そういう「過去の亡霊」から連れ出そうとして、
さまざまなカルマ的連関も現われたりする。
「あなたがつくりだしたのはこういう亡霊なのだ」ということを
体験させるものとして。
 
まさに、「決定的な問題」は「勇気」なのだと思う。
「過去の亡霊」を守ろうとする勇気ではなく、
それから自由になろうとする勇気である。
それはおそらくドラマの勇者のようなヒロイックな形ではなく、
非常に地味にもみえる日々の生きた思考の中にこそあるのではないだろうか。
「ものを生き生きと見たり、感じ取る力」ということだ。

 

 

風のトポス・ノート344

カッティヴェリア(悪意)


2001.10.2

        そして塩野はこう締めくくった。
        「積極的な意味の『悪意』が人間を神に変えうるのだと、
         ヨーロッパ的なヨーロッパ人は思っているのです」
        (松原耕二『ぼくは見ておこう』より/ほぼ日刊イトイ新聞2001.10.2.)
 
塩野というのは、塩野七生。
昨年9月に出た『ナンバー』の別冊、
ヨーロッパサッカー特集号に掲載された
『塩野七生、サッカーを語る』から、ということ。
 
ここでいう『悪意』は『カッティヴェリア』(Cattiveria)。
日本語のニュアンスとはちょっと違うという。
 
        「カッティヴェリアは単なる悪意ではない。
         言い換えれば究極の自己中心主義で、
         自分のためにプレイしているのだけれど
         結果はチームのためになるというやり方。
         チームの利益になるか否かには関係なく
         自分のためのみを考えるという利己主義とは
         まったく違うのです」
 
ヨーロッパ的なヨーロッパ人ではなく、
日本的な日本人は、
なにが人間を神に変えうると思っているだろう。
『悪意』だとは決して言わないだろう。
むしろ、『善意』だというかもしれない。
それとも『私心のなさ』『無我』『至誠』といったもの。
あるいは『感謝』かもしれない。
 
その違いはどこにあるのか・・・。
いうまでもなく、「自我」についてのとらえかたの違いにあるだろう。
もしくは「個」についてのそれ。
 
面と点の比喩でいえば、
日本では個という点は世間という面なしには存在しにくいが、
西洋では、個という点が集まって社会が存在していると
とらえているところがあるのだろう。
『善意』や『至誠』は、その面至上主義であろうし、
『悪意』は自分という個あっての面だ、
自分がいないと面は成り立たないだろう、という
強烈な自我意識そのものであるように思う。
 
だから、日本ではかつて、
『至誠』にも関わらず無念の死を迎えた存在などが
怨霊となって祟ることも多かった。
そしてその怨霊を鎮めるために神社に祀ったりもした。
まさに、そういう『至誠』でも神になる!
こういう現象は、日本独特のもののようで、
これはやはり自我のあり方に原因があるのではないかという気がしている。
 
日本では、「自己中心主義」は嫌われ、
滅私奉公が賛美されがちである。
「自己中心主義」にはある種の『悪意』があるからだ。
『悪意』は『私心』であり、自分は自分のやり方で
自分のやりたいことをやっているんだ!という意識だといえる。
しかしそれがそのまま全体に寄与していこうとする意志である場合の
『悪意(カッティヴェリア)』についても考えてみる必要があるように思う。
その場合、『善意』『至誠』という名に酔ってしまうような
隠されたエゴイズムからは少なくとも自由であることができるのだから。

 

 

風のトポス・ノート345

見たいと欲する現実


2001.10.9

        「人間とは、見たくないと思っているうちに実際に見えなくなり、考えたくな
        いと思い続けていると実際に考えなくなるものです。・・・
         ユリウス・カエサルの言葉に、次の一文があります。
        「人間なら誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見た
        いと欲する現実しか見ていない」
         この句を、人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし、と言って自作の
        中で紹介したのは、マキャヴェッリでした。ユリウス・カエサルは古代のロー
        マ人、マキャヴェッリは、それよりは一千五百年後のルネサンス時代のフィレ
        ンツェ人。カエサルの言を“再興”した中世人は、一人も存在しません。つま
        り中世の一千年間、カエサルのような考え方は、誰の注意も引かなかったとい
        うことでしょう。
         この一例が示すように、ルネサンス人は、人間の肉体の美を再発見しただけ
        でなく、人間の言語も再発見したのです。
        (塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮社/
         2001.4.15発行 第一部「フィレンツェで考える」P58-59)
 
求めよ、さらば、開かれん。
というのは、求めなければ開かれないということ。
 
人がある建物のなかに住んでいるとする。
その建物は不思議な建物で、
そのままだとその建物の外が見えない。
自分が開けたいと思った窓があれば、
その窓が現実化されその窓から外を見ることができる。
 
人は生まれてくるときにも
そうした建物のなかにいるのだけれど、
この地上世界では、ある程度は、
外からいろんな窓を開けてくれていて、
そこから世界のいろんなものが
あれを見なさい、これも見なさい、と言ってくる。
 
ほんとうは、生まれてくる前に、
自分である程度その窓の設計を自分でしていて、
その窓からどんなものが見えるのかを想定しているのだけれど、
生まれたときにはそれを設計したのが自分だということを忘れてしまっていて、
こんな窓、いやだな、と思ったりもする。
で、窓があるのにその窓をなかったことにしてしまったりする。
開かずの窓がそこにできる。
 
今そこから見たいところの窓だけを開けて
そこから見えるものだけを現実だと思いたがる。
開かずの窓から見えるものは見えなくなる。
自分で自分を目隠して
自分がそこからいなくなったことにしようとしたりもする。
 
人は多かれ少なかれそういうところがあるのだし、
「現実」というのもそうして構成されてしまうところがあるのだけれど
(共通して「世界」として現象しているのも
みんなでそういう窓をつくっているということ)
少なくとも、自分が見たくないと思っていることを意識できるのであれば、
いやがらずに見てみることも必要なのではないか。
ひょっとしたら開かずの窓がそこに見つかるかもしれないのだから。
あとは、勇気、だろうか。

 

 

風のトポス・ノート346

自分自身を支配する力


2001.10.9

         最後に、このレオナルドの書き遺した言葉を一つ、あなたに贈りましょう。
         ーーー人間は、自分自身を支配する力よりも大きな支配力も小さな支配力も、
        もつことはできない存在であるーーー
         日本語の一語に換えれば、おのれにうち勝つという意味で、克己、でしょう
        か。私にはこの一句が、レオナルドによるルネサンス宣言に聴こえるのです」
        (塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮社/
         2001.4.15発行 第一部「フィレンツェで考える」P109-110)
 
この「自分自身を支配する力」というのは、
まさに「自由」のことだと思う。
みずからの存在理由もそこに集約される。
 
シュタイナーの、人間は自由でありうるか否かという問いからはじまる『自由の哲学』は、
シュタイナーによるルネサンス宣言だったのかもしれない。
それは人間讃歌!
その展開として精神科学、人智学がある。
 
シュタイナーが『自由の哲学』に関連して、
「神秘主義と現代の世界観」(水声社)で述べている
次のような言葉も思い出される。
 
        人間の行為すべてが自由の性格を帯びているのではない。細部にわたるまで自己
        観察に貫かれた行為のみが、自由な行為なのである。
 
        人間は自由でも、不自由でもある。(……)不自由な意志を自由の性格をもった
        意志へと変化させるのが、人間の個体的な上昇、進化である。自分の行為の法則
        性をみずからの法則性として貫いた者はこの法則性の強制と、不自由を克服した
        のである。自由は人間存在の事実として最初から存在するのではない。自由は目
        標なのである。 
 
そういう意味でも、「自分自身を支配する力」というのは、
自己意識の力、自分を見つめる力ということでもある。
「意識魂」の形成という課題もそこからでてくる。
感情におぼれないで自己認識を貫こうとすることからはじまる
自分で何をしているのかを意識しようとする魂の働き。
 
今私は何をしているのだろう。
何をしようとしているのだろう。
なぜそうするのだろう。
その自問自答の繰り返しそのものが私であるといえる。
それ以上でも以下でもない。
そのことを意識するところに「私」のルネサンスが可能になるのだろう。

 

 

風のトポス・ノート347

黙想的思考


2001.10.11

         今、あなたは自分が巨大な大聖堂の中をゆっくりと歩きまわっている、
        と想像していただきたい。暗闇の中で光を放つ無数のステンドグラスの窓
        は、人類がその歴史を通じて発展させ続けてきた様々な崇拝様式や理解の
        仕方を表わしている。いくつかの窓は神の存在をその人格的形象や属性に
        よって描き、求道者たちはこれらの窓の前で献身の祈りを捧げる。他の求
        道者たちは知恵の道のほうを好み、なんら人格的ではない、根源的な調和
        と統一性を思い起こさせる単に秘教的な模様を表わしているステンドグラ
        スの窓にじっと見入る。献身と知恵は<悟り>への交互の道である。聖な
        る伝統のうちのいくつかはその両方の道を織り交ぜている。
         我々が大聖堂のこれらの窓を熟視するにつれて、何が起こるだろう?実
        は、夢想的な職工たちによって個々におよび共同で創りあげられてきた複
        雑な背景を通して拡散する<光>を我々は体験しているのである。で、我
        々はまた、人間の思考というこの大聖堂の外へ踏み出すことはできない。
        なぜなら、我々は何らかの個人的ないし文化的な媒介に頼らなければなら
        ないからである。何らかの思考プロセスなしには、我々はいかなる経験も
        ーー自分自身に対してさえーー明確に言い表わすことができない。これは
        監禁ではなく、何か特定の媒介を通してのみみずからを経験として表現す
        るという、<光>または<リアリティ>に備わった性質なのである。
         我々はがっかりするかもしれない。あの外側にあるもの、個人的・文化
        的な解釈の窓の向こう側にあるものに我々が直接遭遇することは決してで
        きないのだろうか?我々は<リアリティ>をただ間接的にしか体験できな
        いのだろうか?この<光>の源は何であり、またどこにそれはあるのだろ
        う?こうした問いは我々をさらに深く黙想的思考へと導いていき、そして
        我々の黙想が強まるにつれて、驚くべき視点の逆転が起こる。これが<悟
        り>の体験であり、それを通して我々は、自分自身のことをもっぱらこの
        精神(心)という大聖堂の内側に閉じ込められているものとして思い描く
        ことをやめる。我々の意識の本質は、これらの無数の窓を照らしている
        <光>の本質にほかならないということに気づく。<意識>は、すべての
        現象を構成している<光>であるということを悟るのである。我々は常に
        大聖堂の外側で輝いているのだが、しかしその外には見えるものは何もな
        く、ただあるだけである。そこはただ我々の<真の本性>ーー<聖なる輝
        き>あるいは<究極的意識>ーーだけがある。特定の体験は特定の窓を通
        してのみ起こりうるが、しかし我々はまさに、この巨大な大聖堂を築きあ
        げてきた人間の精神がそのすべての言葉やイメージを通して屈折させる
        <明光(クリアー・ライト)>そのものなのである。
        (レックス・ヒクソン『カミング・ホーム』コスモスライブラリー
         2001.4.25発行/P1-2)
 
先日の風のトポス・ノート「見たいと欲する現実」で、「窓」のことにふれた。
そして、「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」ことを述べた。
 
人は自分の望む「窓」しか持ち得ない、
望む「窓」のみからしか「現実」を見ようとしない、と。
 
しかし、ここでそれをさらにすすめていくとすると、
その「窓」の外にあるという「現実」とは何か、ということに至る。
「窓」から見える「光」の像たち。
 
一見、私がここにいて、
建物のなかに閉じ込められていて、
そこから「外」を見ているイメージでとらえられるのだけれど、
ほんとうは、私は建物の中にいるのではなかった、
ということに気づくことができる。
 
私はまさにその「窓」から見えると思っていた
その「光」そのものだったのだ!
 
ハムレットは、胡桃の殻の中に閉じ込められても
自分を無限の天地の主だと語ったが、
自分が閉じ込められいるというのこそがひとつの幻想で、
求めよ、さらば開かれん!の、その求めることそのものに
錯誤があったということでもある。
 
人は、求めよ!といわれれば、
自分の外にある何かを求めようとする。
「窓」の外の「現実」がしかり、
大聖堂のステンドグラスから差し込んでくる「光」しかり。
 
シュタイナーのいう「一元論」としての「思考」は、
そういう「窓の外」にある「現実」という発想から自由であり、
まさに「思考」そのものをそうした「光」としてとらえている。
ここではそれを「黙想的思考」として述べているように思う。
 
「思考」が理解されがたいのは、
それそのものが「現実」だということがあまりに近すぎて、
むしろ、近すぎるゆえに、
「思考」が「現実」を遠ざけてしまうように
錯覚されてしまうのではないだろうか。
 
この『カミング・ホーム』の第一章「黙想的思考」で
レックス・ヒクソンは、ハイデッガーとクリシュナムルティを
とりあげているが、その思考の近さについての
ハイデッガーの言葉を引用している。
 
         深い思考の単純さ、その人間臭い性質、およびその近づきやすさを力説
        しつつ、ハイデッガーは続ける。「瞑想的思考は、なんら大げさである必
        要はない。身近にある事柄に思いを凝らし、最も身近にあるものについて
        瞑想すれば、それで充分なのである……。今ここで、まさにこの一区画の
        我が土地で。」(P5-6)
 
         深い思考は、我々自身の土地から、我々自身の庭から、単純な種子から
        有機的に現われる。それは決して抽象的ではなく、きわめて実際的であり
        続ける。というのも、それは個人的な実践であり、自分自身のために野菜
        を栽培するような、自己信頼の道だからである。しかしながら、その末頼
        もしい性質はまさにそれ自体の持つ単純さによって覆い隠されてしまう。
        ハイデッガーが示唆しているように、「多分、我々が探し求めている答え
        は手元にあるのだ。あまりにも近すぎるので、我々は皆、いともたやすく
        見逃してしまうのである。なぜなら、身近なものに至る道は、我々人間に
        とって常に最も遠い道であり、それゆえに最も困難な道だからである。こ
        れが瞑想的思考の道なのである。」(P6-7)
 
人は自分の顔を直接みることができないような困難さで、
そのあまりの近さゆえに思考の光からみずからを阻害していく。
まるで禅の十牛図において、牛を探し求めようとする行為のように。
 
「思考」が「自由」のために必要であるというのは、
まさに、「思考」は、自らの由、レーゾンデートルであって、
それそのものがみずからの現実を形成しているゆえなのだけれど、
人は現実を自分の外にあるものとし、
「思考」をも阻害することによって、
「自由」の創造からも阻害されてしまう。
というより、自分の顔を見るのが怖いのかもしれない。
おばけだったらどうしよう!という恐れ。
 
もっとも近いものがもっとも困難であるというのは、
さまざまなことについてもいえることで、
その近さはすぐに嫌悪感につながってきたりもする。
そして自分から遠くにある何かを目的にしようとしたりする。
ステンドグラスから射してくる光を求めるように・・・。

 

 

風のトポス・ノート248

月、そのほか


2001.10.13

         米同時テロをきっかけに日本でもイスラムへの関心が高まっている。異なる
        文化については、多面的な理解が必要だ。キリスト教とイスラム教の違いも当
        然ある。たとえば、国際的な赤十字の活動を担う組織を、欧米や日本では「赤
        十字」と呼び、イスラム諸国では「赤新月社」と呼ぶ。十字はキリスト教の、
        月はイスラム教の象徴だからだ。
         アラブでは女性をたたえる時に「太陽のようだ」とは言わない。その代わり
        に「月のようだ」という賛辞はある。……
         月の満ち欠けに基づくイスラムの暦には「ラマダン」という特別な一カ月が
        ある。聖なる断食の月だ。日の出から日没まで一切の飲食を慎む試練の月は、
        夜、明け方に至るまでお祭りが続く月でもある。その時期に砲声が響くと大き
        な反発を招く。今年のラマダンは十一月十六日前後から。月の暦は米英の対テ
        ロ軍事作戦でも重要な要素になる。
        (日本経済新聞2001年10月13日付「春秋」より)
 
あの事件はいったい何だったのだろうかとずっと考えている。
キリスト教vsイスラム教のことなど。
キリスト教圏において否応なくイスラム教への関心が
高まっていかざるをえない状況が生まれている。
 
イスラム教が生まれ、その文明を高度に発達させていた頃、
ヨーロッパは中世と呼ばれている時期にあたり、
その後、西欧は十字軍という
聖戦のためのかなり野蛮で狂信的な軍団を送り込みながらも、
それを通じて、イスラム文明の影響を受け、ルネサンスを開花させ、
その後の発展の基礎をつくっていったともいえる。
 
イスラム教国のなかでも、
アフガンはその矛盾を体現しているような国でもあり、
またアメリカは現代の資本主義的な矛盾の上で
独善を謳歌しているようなキリスト教国でもある。
その両者が対峙している。
 
対峙しなければ関心が生まれないという悲しい現実。
十字軍のような愚かさとテロの愚かさが生む副産物。
対峙により何が生まれるのか。
関心の欠如しているところからは何も生まれないがゆえに、
関心の種が蒔かれたのではないかとも見える。
 
月のことがなおざりにされている。
日本の神話でも、ツクヨミはあまり登場しない。
太陽と月。
アマテラスとツクヨミ。
目から生まれたアマテラスとツクヨミに対して、
スサノオはその間の鼻から生まれる。
海を治めよといわれたスサノオ。
スサノオは黄泉の国の母に会いたいと泣き叫びアマテラスを困らせ、
ツクヨミ(オオゲツヒメとも)を殺す。
そして、その身体から穀物が育っていく。
 
日本の暦はかつて月の太陰暦であり、
欧化政策により、現代のような太陽暦が導入される。
日本の大地の根底にある月の働きのことを思う。
殺されることで生まれてきたもののこと。
 
欧米では、月といえば、
ルナティックというように狂気とも結びつく。
狼男は満月を見て変身する。
そういえば、萩原朔太郎に『月に吠える』という詩集があった。
 
世界には、国旗に月の入っているものが数多くある。
もちろん日本の国旗は、梅干し弁当のような白地に赤い太陽。
そして、その日本の太陽神としてのアマテラスの由来には
複雑な事情があるようだ。
女神はほんとうは男神であったとか・・・。
 
西欧は、十字架の上に、
今や月をくくりつけようとしているのだろうか。
ならば、日本はどうなのだろうか。
 
太陽について、月について、
そして十字架について考えてみなければ・・・。

 

 

風のトポス・ノート349

サルタヒコ


2001.10.13

         猿田彦大神は複雑な神である。複雑多様というよりも、複雑怪奇といったら
        いいほどに不思議な複雑さをもっている。…
         まず第一に、神名である。… 
         いわゆる国つ神とされる神々の中で、「大神」の尊称をもって呼ばれる神は
        猿田彦大神だけといっていい。…
         第二に、その異形の姿形である。猿田彦大神が猿の姿で描かれることは、記
        紀神話にもそれ移行の神像・図像にもない。むしろ、天狗姿の巨体像に描かれ
        ることが多い。記紀には、その眼は八咫鏡のように光り、赤ほおずきのように
        赤く照り輝き、身の丈は七尺、鼻の高さは七咫という長大さで描かれている。
         …第三に、『古事記』に「…の八咫に居て、上は高天原を光し、下は芦原中
        国を光す上」と記された太陽神としての面影である。八咫鏡は三種の神器の一
        つに与えられた名称であり、それは天照大神の「御魂」として天孫降臨に際し
        て奉持せられた神鏡である。その八咫鏡のような眼をしているというのである。
         …興味深いのは、天孫降臨に際して、天宇受売命が天つ神の先兵として、国
        つ神の猿田彦大神に直面する場面で、「面勝つ神・目勝つ神」として天宇受売
        命が眼を光らせ、猿田彦大神に対して女陰を開顕していることである。つまり、
        天宇受売命は。神々の前で二度女陰を露わにしているのだ。一度は、天照大神
        を呼び出すために、もう一度は猿田彦大神を屈服せしめるために。
         この両神ともに太陽神であるが、旧い太陽神が猿田彦大神であり、古代律令
        制確立期に尊崇されるようになる新しい太陽神が天照大神であると私は考える。
         第四に、結びと道開き、先駆けの神徳である。猿田彦大神の複雑怪奇さは…
        この神の活動内容、はたらきにも由来する。猿田彦大神はみずから国つ神と名
        乗りを上げるが、天の八衢にいて天孫一行を待ち受け、筑紫の日向の高千穂の
        くし触峯に道案内する。…
         ここで、猿田彦の大神は、天と地の境界にいて、天つ神と国つ神を結びつけ
        る役割を果たしている。異質なもの同士、両極にあるものを結合する結びの神
        としての神徳はここに由来する。また、異なるものを相互に結びつけるだけで
        なく、新しく道を開き、先駆けとなって道案内する道開きの神徳をもつ。ある
        意味ではこの働きは、世界の新次元を切り開き、再創造するはたらきであると
        いえるだろう。…
         第五に、これに関連して、猿田彦大神のルーツを沖縄の「先導・先駆け」を
        意味する語「サダル」に結びつけ、宮古島の先導神サダル神とする説がある。…
         第六に、猿田彦大神を祀る神社の地理的分布である。全国に猿田彦神社とい
        う名称の神社は六十六社、猿田彦大神を祭神とする白髭神社が二百十八社分布
        している。さらに、全国で猿田彦大神を祭神として祀る神社の総数は、本社と
        境内社をあわせて、三千三百三十四社もの多数にのぼる。…
         第七に、道祖神・境界神として祀られる信仰をもつことである。…
         第八に庚申信仰の神としてである。
         以上のように、多様多面な貌(顔)をもつ猿田彦大神は、神仏習合以前の神
        神習合文化の面影を宿す、きわめて日本的な神といえる。その神が比良夫貝
        (シャコ貝)にはさまれて海中に没したという結末(『古事記』)も、実に意
        味深長で、暗示的である。
        (鎌田東二『ウズメとサルタヒコの神話学』
         大和書房/2000.8.8発行/P6-10)
 
陳腐な言いまわしになるが、「なぜ今サルタヒコなのか?」
 
始まりは、1992年7月、中上健二が鎌田東二との対談で、
「国つ神のことを探るならサルタヒコを探れ!
サルタヒコのことがわからなければ日本の神のことはわからないぞ」
と語ったことに発しているそうだ(『言霊の天地』主婦の友社)。
 
その対談の三年後、猿田彦神社の宮司・宇治土公貞昭から
猿田彦神社の遷産祭における「おひらきまつり」のコーディネーターを依頼され、
それらの内容をベースにして、
『謎のサルタヒコ』、『隠された神サルタヒコ』(大和書房)がだされた。
そして、本書の『ウズメとサルタヒコの神話学』である。
 
なぜ中上健二は「サルタヒコを探れ!」といったのだろうか。
熊野にこだわった中上健二…。
 
天と地を結びつけ、道を開く神である猿田彦。
旧い太陽神としての性格をもった国神である猿田彦。
この猿田彦は、佐太(サダ)大神と同一神視されるという。
その佐太大神が生まれたのは加賀の潜戸。
佐太は、「佐田」とも書き、「サダ岬」が示しているように、
「サダ」は「先立つ」「先導」という意味をもっている。
古くは足摺岬も「サダ岬」といっていたらしい。
 
旧くからあった太陽信仰が、
天孫降臨によって新しい太陽信仰となり、
天照大神が信仰されることになる、
そのキーになり、その道を開きながら、
みずからはシャコ貝に挟まれて死んでいく国神、猿田彦。
 
旧い太陽神と新しい太陽神とは
どのように異なっているのだろうか。
そしてそれが交替し、国神が天神に国を譲るというのは
いったいどのようなことを意味しているのだろうか。
 
おそらくそのヒントとなるのは、
シュタイナーの示唆している宇宙進化のプロセスなのではないか。
月に反射した太陽であるヤハウェと
太陽神が肉をもって誕生し、死した後、復活したキリスト。
ヤハウェは、ユダヤの民族神でもあり、
またその集合自我としての顕現でもあった。
それが、個の自我の可能性の種としてのキリストへと刷新される。
 
日本神話では、天磐戸開きというのがあるが、
この物語にも一つのヒントがあって、
天照大神は騙されて天磐戸から出てきたがゆえに、
出てきた天照大神も偽物だというとらえかたもある。
つまり、キリスト事件が招来したキリスト衝動が
どこか欠損した状態、錯誤した状態でこの日本に起こっているということ。
おそらくそのことそのものにも、この日本という磁場の意味も
あるのではないかという気もしている。
 
先日yuccaが、#7473で
 
>そしてルネサンス頃に、
>物質体・エーテル体と、アストラル体・自我が完全に切り離されることで
>内的な自我感情が強まり、抽象思考が生まれた、
>という説明もありますが(GA220など)
>ただ、日本人の場合、一般にエーテル体と魂的なものの結びつきがまだ残っている、
>つまり、エーテル的な影響、あるいはエーテル体を通して影響を受けやすい、
>といったことが言えるのではないか、と思います。
 
と言っていたのだけれど、
日本人には古代的な形での
物質体・エーテル体とアストラル体・自我の関係が残っているままで、
自我を発達させてきているところがあるようで、
天と地がまだ切り離されないままであるがゆえに、
その可能性を使いながら、日本人そのものが現代の「サルタヒコ」となって、
「異質なもの同士、両極にあるものを結合」させ、
「新しく道を開き、先駆けとなって道案内」し、
「世界の新次元を切り開き、再創造する」ための種を宿している・・・のでは。
その種を発芽させ育てていきやがて実らせることが、
が真の意味での、個における天磐戸開きであり、
キリスト衝動の顕現なのではないか、と。

 

 

風のトポス・ノート350

履歴を消す・責任を持つ


2001.10.15

         仏教やシャーマンの教えにおいては、あるいは単に年齢を重ねるだけでも、
        自分のアイデンティティはいずれ消え去らなければならないものであることを
        学ぶことになるだろう。自分の履歴(個人史)はアイデンティティ、あるいは
        あなたがコミュニティや世界で引き受けた役割を示している。あなたは男性、
        女性、母親、父親、妻、夫、パートナー、学生、技師、教師である。あなたは
        プロテスタント、カトリック、ユダヤ教徒、仏教徒、アフリカ人、アメリカ人、
        ヨーロッパ人、オーストラリア人、日本人、インド人である。あるいは、その
        他いろいろな何かであることだろう。あなたは自分の過去、現在追い求めてい
        るもの、自分の才能や自分の問題に執着している。
         こうした自分の履歴は消し去らなければならない。でなければ、あなたは他
        者からどう見られるか、によって操られてしまうのだ。アイデンティティは、
        社会的な役割やコミュニティから期待される型をあなたに押しつけ、あなたの
        境界を定めてしまう。そのため、他者のあなたに対する考えがあなたを操るよ
        うになる。
        (…)
         責任を持つということは、あなたが言うこと、感じること、聴くこと、書く
        こと、見ること、コミュニケーションをとること、それらすべてを自分の一部
        として受け入れることを意味する。自分に降りかかってきた事故や自分の嘘を
        受け入れることは、いわば慈悲の行為と言えるかもしれない。責任を持つとい
        うことは、あなたが病気になったとき、身体が自分のまだ知らない夢を浮上さ
        せようとしていると理解することを意味する。人間関係の葛藤、事故、そして
        世界の問題とは、自分にとって同意できない出来事が起こっていることにすぎ
        ない。責任を持つということは、自分のアイデンティティに都合の良い出来事
        ではでなく、自分が排除したい出来事に対しても、しっかりと自覚を向けてい
        くことを意味するのである。
        (アーノルド・ミンデル『シャーマンズボディ』青木聡訳・藤見幸雄監訳
         /コスモスライブラリー/2001.8.7発行/P59-69)
 
あなたは誰なのか?
そう問われたとき、どう答えるだろう。
多くは自分の属性や役割を答えるのではないかと思う。
 
しかし結局のところそれらは
他者にとってどうなのかを示すにすぎない。
そしてそれを自分もそうだと思い込んで生きていて、
そこから逃れられなくなってしまうことになる。
 
前に、KAZEさんはヘテロだから、といわれたことがある。
そういう表現をはじめてきいたものだから少し驚いたのだけれど、
その方は、いわゆるホモで、
たしかにぼくにはホモであることのさまざまは不案内なのだけれど、
むしろその方は自分の「性」に対して
かなり執着しているのだなあと感じたことがある。
たしかに社会的な意味での偏見などもあって、
それを意識せざるをえないことはわかるのだけれど、
少なくとも、自分の一属性である性的なあり方を
自分の強固なアイデンティティにしてしまっているのではないかと感じた。
つまり、いつも自分をホモだと思って生きているわけで、
そこから逃れられなくなってしまっているということ。
 
いわゆるヘテロだといわれている多数の人も、
いつも異性を意識して生きているわけではないし、
必ずしも性的なパートナーを得ているわけでも
パートナーをいつも探しているわけでもないのだけれど、
ホモというアイデンティティを強固なものにしてしまうと
自分はその奴隷になってしまう。
もちろん、自分を男だとか女だとかいうアイデンティティとし、
そこから逃れられなくなっているのも同じこと。
 
そうした属性や役割はひとを容易にそうしたものの奴隷にしてしまい、
自分がその奴隷になっているということさえ多くの場合気づかれない。
むしろ、それらの看板を掲げ、それにしがみつくことで、
自分のアイデンティティを守っているのではないかとさえ思う。
 
故に、「履歴を消す」ということが重要になる。
これは、カスタネダのシリーズをお読みの方にはおなじみのことだが、
『自由の哲学』では、「個と類」の問題として述べられているところである。
 
ところで、この「履歴を消す」ということは、
責任を放棄するということではないということには注意する必要がある。
むしろ、「責任を持つ」ということそのものでもある。
奴隷は、責任の主体を引き受けないということにおいて奴隷であり、
奴隷状態を脱するということは、責任の主体となるということなのだから。
 
履歴を消すということは、
アイデンティティを自分が自分だと思い込んでいるものとするのではなく、
自分では認めなくないものまで、責任をとろうとするということでもあって、
「言うこと、感じること、聴くこと、書くこと、見ること、
コミュニケーションをとること、
それらすべてを自分の一部として受け入れること」であり、
自分のアイデンティティの境界を限定しない。
 
アストラル体を自我が制御するという基本に、
快ー不快にとらわれないようにするというのがあるが、
なぜ快ー不快にとらわれるのかといえば、
快を自分のアイデンティティのために重要視し、
不快を排除しようとするからで、
それもある意味では自分の「履歴」に深く関わってくる。
嫌なものから目をそらせようとするのも同じ。
嫌なものは自分ではないと思いたいわけである。
 
しかし、それらこそが「盟友」として
私たちの前に現われるそのものでもある。
盟友は、アイデンティティを脅かすものとして襲ってくる。
男らしさを誇りたい人は、それを脅かす形で、
母を誇りたい人は、それを脅かす形で、
ホモもまた同じく・・・・。
 
あのアメリカのテロも、
ある意味では「盟友」だととらえられるのかもしれない。
その関わり方次第で、その人の「盟友」とはいったい何なのかを
それによって自覚するきっかけとなっているのだということができるのだろう。


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