風のトポスノート331-340

(2001.8.15.-2001.9.20.)

331●魂魄
332●マブイ
333●10歳ということ
334●サクリファイス
335●むすぶ技術としての恋愛
336●いばりんぼさん
337●ギャンブル・ゲーム
388●ゼロ・数字・計算という謎
339●惑溺
340●歌えない「イマジン」のために

 

風のトポスノート331

魂魄


2001.8.15
 
長屋和哉の3枚目になるニューアルバム『魂は空に 魄は地に』(ame-003)は、
「人の死ののちの魂の行方」がテーマになっている。
ノートにこうある。
 
        私たちがタマシイと呼んでいるものは、陰陽道では魂と魄との二つから成る
        とされている。そして、魂は陽の気で精神を司るもの、魄は陰の気で肉体と
        五感を司るものとされ、ひとたび人が死ぬと、魂は天に帰り、魄は地に戻る
        という。
        
        魂は、崇高な天の神性。
        魄は、愛や憎悪や肉欲を生じる地の性。
        そして人とは、天の性と地の性を抱えて生きる者。
        
        魂は空に、魄は地に
        
        これは私の至上の呪文である。
        やがて私のいのちが尽きて、虚空に霧散する時、叶うならば私の魂も天に還り、
        そして私の魄は一切の我執と悲痛を解き放って、水のひと雫のように、
        雪のひとかけらのように、この地に溶け込むように還ってほしいと思うのだ。
 
この「魂魄(こんぱく)」というとらえ方は、儒教の死生観からくるもので、
『儒教の本(学研/2001.3.22発行)』には次のように述べられている。
 
         儒教における死とは何か?
         儒教では、まず人間を精神の主宰者(魂)と肉体の主宰者(魄)に分ける。
        この魂と魄が一致している状態が生きている状態であり、分離した状態が死で
        ある。人が死ぬと、魂は天上に行き、魄は地下へ行く。逆にいえば、死後であ
        っても天上から魂が戻ってきて魄と一致すれば、死者は生き返ることになる。
         では、この一致した魂魄はどこに依り憑くべきか?
         それは神主(木主)である。日本仏教でいう位牌は、それを取り入れたもの
        である。儒教における墓とは、魄の保存場所という意味をもつのである。
         ここでは当然、仏式の火葬などということは考えられないし、墓を作る際に
        も最新の注意が払われることになる。そして、それにうまく噛み合ったのが、
        風水の陰宅(墓相)思想だった。
         先祖の肉体(骨)をよりよい状態で保存するためには、墓が風水的に良好な
        土地でなければならない。
         土中で腐らずに永遠に残る肉体(骨)こそが、一族の永遠のつながりと繁栄
        を意味するからだ。(P78)
 
儒教が先祖崇拝を基本としているのは、
この「魄」が先祖から継承されているということから、
「魂」もその流れのなかでとらえているからだといえるように思う。
 
目に見えるもの、確かめやすいものから、自分の来し方行く末を考えようとすると、
やはり自分を生んでくれた親、そしてそしてご先祖様から、
自分は発しているというふうに考えられやすい。
ある意味では、古代的な意味での唯物論の現われだということもできるのではないか。
 
儒教は輪廻転生というとらえ方はしていないようで、
あくまでも先祖から自分は発しその流れのなかに自分がいるととらえるために、
火葬を拒み、先祖の肉体を保存し礼拝する墓を大切にするという発想になる。
 
シュタイナーの『神秘学概論』のなかに、
先祖崇拝というのがどこからでてきたのかということについて
述べられているところがある。
 
        月が分離したあと、人間は、はじめは肉体上の祖先と集合自我を通して結びつ
        けられていると感じた。けれども、子孫と先祖とを結ぶこの共通意識は、世代
        の移りゆく中で、次第に失われていった。次第に子孫たちは、あまり遠くない
        先祖に対してしか、この肉体的記憶しか保持しなくなった。もはや、昔の先祖
        にまで帰っていくことができなくなった。
        睡眠に似た特殊な状態の中で、人間は霊界と接触することができたが、この状
        態のもとでのみ、さまざまな祖先への思い出も生じた。そのとき人間は、自分
        を祖先と一つであると見なし、祖先が自分たちの中に再び現われたと信じた。
        これは輪廻転生の誤った考え方であった。この考え方は、特にアトランティス
        の末期に生じた。輪廻転生の真の教えは、秘儀参入者の学堂内でのみ学ぶこと
        ができた。秘儀参入者は、肉体から離れた状態の中で、人間の魂がどのように
        して転生を続けていくかを見た。そして彼らだけがそれについての真実を生徒
        に教えることができた。
        (シュタイナー『神秘学概論』高橋巌訳/ちくま学芸文庫/P273-274)
 
輪廻転生という考え方を受け入れているかどうかによって、
自分のアイデンティティのとらえ方が
どのように異なっているかなどを見てみると面白いかもしれない。
 
個的な自我ではなく、むしろ集合自我が強く働いているところでは、
自分のアイデンティティをその集合自我において確認しやすくなるのは理解しやすい。
自分のなかに先祖の記憶が甦ってくるのだから、
自分をその流れにあるものとしてとらえることで、
自分が何者であるかということを確認することができる。
それを唯物論的にとらえると、先祖の墓を祀るということになるだろう。
もはやその先祖の記憶が自分の中に甦ってくることはないとしても、
自分はそこから生み出されたのだから、ということで、
自分をそこに位置づけて安心立命することができる。
        
ところで、肉体を保存するというとらえ方は、エジプトのミイラもそうだし、
キリスト教においても、「復活」ということの誤解から、
死体を保存するようなことになってしまっている。
エンバーミングというような死体保存方法が考え出されているが、
これは「先祖」から自由になった儒教のようなイメージもある。
錯誤は繰り返されるということだろうか。
おそらく、現代では、遺伝子を保存しておいて、
自分のクローンを永遠に再生させることができるということに
なりかねないところがあるけれど、
その場合のアイデンティティというのは、
肉体を自分を同一視するということからくるわけで、
「魂魄」のなかの「魂」はもちろん抜け落ちてしまうことになる。
 
こうした錯誤から自由になるためには、
この「魂魄」ということをあらためて認識しなおすことが必要になるように思う。
単に、自分は本来「魂」なのだから、「霊」的存在なのだから、
肉体も物質も低次のもの、汚れたものだからどうでもいいのだ、
というようなとらえ方だけではなく、
肉体というのはいったい何なのだろうか、
物質というのはいったい何なのだろうか、
ということをも考えていかなければならないのではないだろうか。
 
「人が死ぬと、魂は天に帰り、魄は地に戻る」というときの、
「魂」とはいったい何で、
「魄」とはいったい何なのだろうかということ。
そして、天と地が結ばれることで存在している「魂魄」としての人間とは
いったい何なのだろうかということである。
そういう意味でも、シュタイナーの精神科学が、
そのトータリティにおいても非常に重要になってくるのだと思うし、
「復活」ということにおける「キリスト」理解ということも
欠かせないポイントになるように思う。

 

風のトポスノート332

マブイ


2001.8.18
 
八十年代の後半だったろうか、坂本龍一のツアーに参加していて、
その後沖縄の女性ヴォーカルグループ、ネーネーズで活躍していた
古謝美佐子の『天架ける橋』(DM002)というアルバムが
発売されているのを知った。
 
「人のいないスタジオでマイクを前に唄うのが嫌いなの。歌は人の前で歌うもの。」
ということが理由らしく、ネーネーズを離れてから、
ライブ以外ではその声を聴ける機会はなくなっていたそうで、
プロデューサーで夫でもある佐原一哉の説得から、
今回のアルバムが発売されることになった。
 
まさに、沖縄!を感じさせる古謝美佐子の素晴らしい唄の力。
その唄はいったいどこからくるのだろう。
おそらく日本ではすでに失われてしまいかけている
その力の源にはいったい何があるのだろう。
そんなことを思いながら、
この夏は沖縄関連のものを思いつくままに見ていたりした。
 
そんな折り、以前から気になっていた石垣島出身の作家、
池上永一の『風車祭(カジマヤー)』が文春文庫で発売になっていたので、
お盆休みを利用して、愛すべき登場人物たちが繰り広げる
その物語世界を彷徨ってみることにした。
 
その物語のなかでは、
マブイ(魂)ーイキマブイーシニマブイ
という沖縄独特のテーマが扱われていた。
物語のなかで語れるマブイについていくつかひろいだしてみる。
 
        「摂理に外れて生きていることを鬼というんだ。人間にはマブイがあるって
        ことをしってるね。マブイにもふたつあってイキマブイとシニマブイがある。
        イキマブイは時々、主が驚いたときや、寝ている隙に肉体を離れて、外出し
        てしまう癖があるんだ。なあに落としたってすぐにマブイ籠めをすれば、戻
        ってくる代物なんだがね」
        (…)
        「しかしマブイ籠めをしても、戻ってこない場合がある。そのマブイはやが
        てシニマブイとなって彷徨い続けるのさ」
        (P242)
        
        「マブイというのはね。人の種みたいなもんだよ。おまえは一見自由で勝手
        に生きているように振る舞っているけど、それはマブイの前では動いていな
        いのと同じさ。先祖から子孫へと、身体だけでなく家や慣習まですべてを引
        き継いでおまえがいるんだろう。それはおまえがこの世に生を受けたときに、
        望むと望まなくても備わったものだ。身体を選んで生まれることができなか
        ったように、おまえは同時に家の支配下に入ったんだ」
        (…)
        「マブイと魂は似ているようで実は性質がちょっと違うんだ。マブイは生き
        ている人の霊で、魂は死者の霊とでもしとこうか。おまえがマブイで悩んで
        いるのは魂と混同しているからだよ」
        (…)
        「生きている者は縁があって存在しているというのはわかるね。親や兄弟や
        家、もっと遠くの意識しない先祖たち、自分が自分とわかるための人や物や
        記憶とかだよ。これがなくなったら何を基準に自分を考えたらいいか迷って
        しまうだろう。それは生きている間だけに生じる関係さ。そして正当な手続
        きでこの島に生きているという証明。マブイはそのためにある」
        (…)
        「マブイはその人の性格を含んでいるけど、それは現世でできた便宜的な色
        の違いにすぎないんだよ。マブイの本質は人格を超えた巨大な宇宙さ。時代
        や場所が変わっても、おまえとおまえの家系に流れている永遠の空間だよ」
        (P249-250)
 
沖縄に伝わっている世界観というか宇宙観については、
松居友『沖縄の宇宙像/池間島に日本のコスモロジーの原型を探る』
(洋泉社/1999.10.2.発行)
が比較的わかりやすいガイドだと思うのだが、
そこで紹介されている死生観でも、
死とはイキマブイがシニマブイに変わることで、
マブイはまるで蛹から蝶が生まれるように変容していくとされている。
 
しかしその変容は一気に起こるのではなく、
死後すぐのマブイはイキマブイに近い状態で、
完全にシニマブイにはなっていない。
完全なシニマブイになるためには、
死んでももはや肉体には戻れないという自覚が必要で、
その自覚がない場合は、自分が死んだことがよくわからないまま
マブイがこの世をさまよってしまうことになる。
 
その死を自覚させるのが葬儀と引導渡しで、
「ヴァンミヤ シディナリバ ジャメンゲタイワ カマノユーイキオトイ
ハヴィトオーンナマユンディ カンダイナウジソヨー」
(あんたはもう亡くなったから、あの世に行って、
皆(あの世の祖先神たち)の前に神になってくれよ」という。
チベットの『死者の書』にあるようなものだろうか。
 
その死の自覚の後、死者はとりあえず、
グショウと呼ばれるあの世への旅立ちを準備するための仮の宿りである墓にすみ、
そこから祖先神のいるグショウに通いながら、
やがて本格的にグショウ(カマノユー/あの世)に移り住むことになる。
 
ところで、祖先神は沖縄ではマウカンと呼ばれ
この世の裏側に存在する美しい世界であるニッラに住むが、
それは神々の世界ではなく、祖先神が下の国へ向かうのに対して、
神々は天界へと向かうというように、方向が異なっている。
アイヌ民族の宇宙観でも、アイヌ(人間)とカムイ(神)は必ずしも一緒ではなく、
アイヌとカムイは帰る国が異なっているとされ、
東に向かって送られたカムイの魂は天界に昇るのに対して、
人間の魂は西に向かって送られこの世の裏側の世界へ入る。
もっとも、人が死んで時間が経つとカムイになるだというのだけれど、
とりあえず祖先神たちは、下の国に向かいそこで住んでいるというわけである。
つまり、人は死後とりあえず祖先神のところに向かうが、
やがて神々の一員になるということなのだろう。
 
        太陽が沈むでしょう。そこがカマノユーという話はあるさ。カマとはあちら、
        ユーは世。太陽はカマノユーに沈んでまた上がってくる。それと同じように
        人間の魂というのは死んだら西のほうに行ってそこからカマノユーにおりて、
        生まれかわってくるときにはまた下から東の太陽の出てくるところから生ま
        れてくる。
        これは子ども時代十五、六歳の頃に父方のカカランマでユタをしていたお祖
        母さんからよく聞いた。お祖母さんも死んだら太陽神のところに行って、ま
        た下の世界から生まれ変わってくる。カマノユーに行って、向こうで住んで、
        また歩いてこの世に生まれかわるんだという。お祖母さんの話からすると、
        東は生まれかわった人が来る方向だね。
        (松居友『沖縄の宇宙像』P137)
 
人は死後、太陽神の導きにしたがいながら、
祖先神のいる理想郷に向かい、やがて神々の世界に行き、
そうして東から生まれ変わってくる。
その世界観では、「祖先神」といわれるように
「家系」において継承されるもの、土地に根づいたものが重要視され、
そのことで「マブイ」を守り育てていこうとする。
 
        「あたしは生まれてこのかた島を離れたことはないから、世の中がどんなに
        広いかしらないさ。学問も積んでいないから無学だと笑われたって仕方ない。
        だけどね、あたしはただの一度として自分が何者なのか迷ったことはないね。
        おまえたち若い者は、どこかに行けば本当の自分があるって、のこのこ外に
        出ていくだろう。あたしにいわせれば愚の骨頂だと笑わせてもらうね。そん
        なことをすればせっかくのマブイがなくなってしまうのにさ。マブイ落ちと
        は違うよ。自分の身体にマブイを保ちながら、その存在を無視してしまうっ
        てことさ。外に出ると決めたら自分を探してはいけない。自分を捨てて新し
        いマブイをその土地に根づかせないと意味がないのさ」
        (池上永一の『風車祭』P251)
 
人間存在は天と地の弁証法的存在であるともいえるのだけれど、
地に結びつくことによってよってしか、
「マブイ」を守り育てていくことができないのだろうか。
 
おそらく、仏教の成立の背景には、「出家」というのが重要視されたように、
血縁・地縁から離れた存在を指向していくことがあったのではないだろうか。
だから、本来、仏教では、死後も死体を拝んだりはしない。
とはいうものの、日本の多くの仏教はわけのわからない現象になってしまっている。
そして、キリスト教の成立は、おそらくそれをも受けながら、
人間存在を新たな段階の進化へと導くための衝動があったのだと思われる。
仏教やキリスト教の聖職者の多くが、妻帯をしないというのも、
血縁から自由であることを求める必要があったからなのではないだろうか。
 
もちろん、現在のように、あまりに「地」を軽視してしまうことで、
環境破壊等が進んでしまうことになることもあるが、
重要なのは、「地」への深い認識に裏付けられながらも、
「地」から自由でありうる人間存在の可能性の追求ではないかと思う。
 
心身症だといわれるものやさまざまな原因不明の病の多くは、
「地」から切り離された「マブイ」ゆえのものなのかもしれないが、
だからといって、「地」に自らを縛り付けてしまうのは逆行なのではないだろうか。
「地」の働きを認識しながら、
その「地」から独立を得るための自我の力とバランスを保つ方向を
模索していく必要があるように思う。
 
そうでなければ、
「いのち」の大切さという抽象的なことばに表現されてしまうような
臓器移植や遺伝子の継承などのように
「地」の働きが倒錯されたかたちで現われる
実際のところ即物的な世界観だけが
無自覚のままに跋扈することになってしまうのではないだろうか。

 

風のトポスノート333

10歳ということ


2001.8.25
 
         10歳の子どもたちには、親の影が薄くなるんですよね。お父さんとお母
        さんのことを千尋はとても大事な人だと思っているんです。それがそのうち
        にこんがらがっていくわけですけど、でもその気持ちを僕は中途半端な途中
        の過程だと思いたくないですね。やっぱりその子のお父さんは立派な人であ
        ってほしいし、お母さんはやさしい立派な人であってほしい、そう子どもた
        ちが思っているんだと思うんですよね。そういう子どもたちに見てもらいた
        いと僕は思ってます。それで親の正体を見抜けとか、そういうつもりで作っ
        た映画ではぜんぜんありません。むしろ僕はお父さんならお父さんのつもり
        で見てもらいたくないんですよね。お父さんもかつては10歳だったはずだ
        から、お母さんも10歳だったはずだから、その自分で千尋の側に立ってこ
        の映画を見てもらいたいとほんとに思っています。
        (宮崎駿「自由になれる空間/『千と千尋の神隠し』を語る
         /完成記者会見にて」ユリイカ8月臨時増刊号/P32)
 
10歳というと、シュタイナーが9歳と10歳のあいだについて、
次のように語っていることが思い出される。
 
        9歳と10歳のあいだ、9歳すぎに、ひとつの小さな区切りがあります。9歳す
        ぎに、子どもは自分を周囲の世界と区別するようになっていきます。そうして、
        自分が一個の自我であることに気づきます。
        (「シュタイナー教育の実践」イザラ書房/P115)
 
ぼくの場合も、9歳ころに「区切り」のようなものがあった。
今でもよく覚えているし、母にとっても印象的だったようだけれど、
「もうこれから甘えないから今日だけは甘えさせて」と
母の布団に潜り込んだ。
 
ぼくは、5歳のころ幼稚園をすぐに登園拒否したり、
なんとか通い始めた小学校の1年の秋には、
腎臓炎になって死にかけたりするようなことがあって、
非常に不安定な時期を送っていたのだけれど、
そういう不安定さというのを自分でもいつも意識するようになっていて、
実際は半ばかなり不安定な家庭環境からくるところもあったのだけれど、
自分なりに「これじゃあだめだ」ということを思ったひとつの「区切り」が
この言葉に集約されているような気がする。
 
おそらく、この時期をどう乗り越えるかというのは、
子どもにとって非常に重要なことで、
「親の影が薄くなる」というふうに宮崎駿が言っているのも、
その「区切り」のことが頭にあるのではないかなと思う。
 
上記の講義でシュタイナーはこうも言っています。
 
        9歳から12歳のあいだ、子どもは外からイメージととしてもたらされるもの
        すべてに対して敏感です。9歳ころまでは、子どもはイメージとともに生きて
        います。イメージが対象として子どもに向かってくるのではありません。教師
        がおこなうことと子どもがおこなうことが全部でひとつのイメージとなるよう
        に、子どものそばで、いきいきと活動しなければなりません。(P133)
 
映画を見ている視点としては、
やはりぼくにとっても10歳の自分で、
実際に自分が10歳だったらどういうふうに見るのだろうかということを
自分を二重化しながら見てもいて、
おそらくこの時期あたりに世界に対するイメージというのが、
固定化してゆくのではないかとかも思ったりした。
 
上記のインタビューで宮崎駿はこう述べている。
 
         たぶん、こんなに周り中、テレビ映画だのマンガだのアニメーションだのあ
        りとあらゆるものがひしめいて、こっち見ろ、こっち見ろってところで育った
        子どもたちは、たぶん次の映像の担い手にはならないと思いますね。「ああそ
        れテレビで見た」「ああそれ映画で見た」、あるいは景観もなにも含めて全部
        がテレビゲームでやってみた、とかね。やった気になっている。こういう現実
        をつくりだした文明のありようっていうのは、どっかで収支決済、ツケを払わ
        されると思います。それを予言してもしょうがないですから、それでいて、こ
        ういう映画をやっているわけですから、ひどくジレンマを抱えながらやってい
        ます。
        (…)
        さっきも言ったように、ジレンマも矛盾もあるんですけれど、僕はやっぱりフ
        ァンタジーは必要だと思います。ただ、魔法の力が信じられないとか言う人た
        ちはいます。…SFの人たちは、これは四次元波動でなんたらかんたらでエネ
        ルギーがどうのこうのという、あんなものは「魔法」の一言でいいわけですよ
        ね。『天空の城ラピュタ』を作ったときに、「飛行石の正体がわからなかった」
        っていう人がいたんですけれども、魔法ですよ。なぜ猿飛佐助が消えるのだ、
        なぜ忍術を使えばガマになるのか、それはガマになればいいんであって、それ
        を受け入れられなくなったってことは精神の衰弱だと僕は思っているんです。
        僕はファンタジーはいると思っている。
        (P28-29)
 
エンデにファンタージエンの物語があったけれど、
ファンタジーの能力を失うか失わないか。
9歳、10歳あたりにその鍵があるのではないかと思う。
だから、その能力を失う方向に行けば、
現実がそこから固定化に向かっていき、
現実が外からやってくるものになってしまう。
とくに、科学技術に裏付けられた即物的な世界観に浸透されていくと、
まさに自由が失われてゆき、ファンタージエンが消えていくことになる。
世界は自分が創造していくのだということが
単なるおとぎ話でしかなくなってしまうことになる。
 
自分がどれほどイメージする力を持っているか。
そのことを自問自答してみたいと思う。
自分は10歳なのだ。
そのとき自分にとって世界とは何だったろう。
そしてどのような世界をつくりたいと思うだろう。
まさに、今のこととして・・・。

 

風のトポスノート334

サクリファイス


2001.8.25
 
1985年に行われたタルコフスキイの、シュタイナーに関するインタヴューが、
佐藤公俊さんのHPで紹介されている。
タルコフルキーといえば『サクリファイス』が有名だが、
「犠牲」ということに関した内容となっている。
 
「サクリファイス」という言葉は、小さい頃から、意味のわからないまま、
父が大学時代に書いたレポートの題である
「サクリファイスの倫理的意義」を繰り返し耳にしていた。
実際、父は決して「サクリファイス」とはほど遠い性格だったのだけれど、
おそらく魂のどこかに、その必要性を感じていたのかもしれない、と
父の亡き今になってようやくわかる気もしてきた。
 
さて、佐藤公俊さんも「後書き」で引用しているが、
自己犠牲ということの陥穽ということについて。
 
         例えば、「いや、未来の世代がよりよく生きることができるように、自分
        を犠牲にするとき、あなたの生は無意味ではないのだ」と言われますが、そ
        れは馬鹿げているし不誠実なことです。なぜなら、肉体的に自己を犠牲にす
        る人々がより高次の目的のために生きる権利を持っていないという意味にな
        るのからです。他者のために自己を犠牲にするのは素晴しいことですが、そ
        れで充分というわけではありません。霊的に進歩することのほうが、次代の
        肥やしになるよりも重要なのです。
 
自己犠牲ということは、
日本人が好んで美徳として使う
「無私」「我を空しくすること」「無我」
とも深く関係しているように思う。
 
シュタイナーもSelbstlosigkeit(無私であること)の重要性を
示唆していることがよくあるのだけれど、
それはエゴイスティックになりがちな西欧自我に対する警鐘でもあって、
無私であるという感情に溺れることではないことに注意する必要がある。
無私であって自己犠牲しているという自分の感情に酔ってしまうことで
そこから認識が抜け落ちてしまうことになりかねないからだ。
認識が欠けた無私は、裏返しのエゴイズムになってしまう。
 
紹介されたインタビューの最後では、
「善良であること」についても語られている。
 
        福音書に施しの話があります。施しをするときには誰にも見られるべきでは
        ない、それについて誰にも知られるべきでない。でも、ここにも慢心があり
        うるのです。人はこう考える事もできるでしょう。「見よ、私は貴方に施し
        をし、それについて誰も知られていないが、そのことは私を喜ばせる。だか
        ら私は道徳心の高い人間なのだ。」善良であることはまったく容易なことで
        はありません。善良に見せかけるのは容易ですが、真に善良であることは恐
        ろしく難しいことです。
 
「善良」であることがいかに「恐ろしく難しい」ことであるか。
自分はいかに無私であって善良であるかに決して酔わないで
真に「善良」であることのいかに難しいことであるか。
おそらく真に「善良」であるためには、
深い深い霊的認識が必要になるのだろう。
自分が今何をしているのかがわかっている、ということが
そこでは前提にならざるをえないのだから。

 

風のトポスノート335

むすぶ技術としての恋愛


2001.8.26
 
         本当に、恋愛は、人間に多くのことを要求します。
         でもそれは、けしてただ性欲なり、何なりの本能のためではありません。
         むしろ、恋愛という他者とのつきあいにおいてこそ、人間の本能ではな
        く、意識の部分が、作為が現われるのです。
         つまりは、人間にとってもっとも面白いこと、そのひとつが恋愛なので
        はないですか。
         冒頭の部分で、人は結局一人で生まれ、一人で死んでいく、孤独な存在
        だと書きました。まったくその通りです。
         こうしている今も、私たちは、たった一人の、孤独な死に向かっていく
        ということだけは否定できない。
         あなたの死は、あなただけの死であって、誰もそれを替わることはでき
        ないし、共有することもできない。
         そのように孤独な人間にとって、恋愛は、つまりは二人の人間がもっと
        も緊密に関係し、お互いに興味を持ち、与え、奪い、支配しようとし、支
        配され、語りあい、求めあう営みです。
         それは、もっとも愉しく、同時に深く、面倒な事業です。
         そう、それは事業なのです。
         もちろん、遊戯ではあるし、快楽であるけれども、またなかなかの難事
        業ではある。
         最高のレストランやホテルのサービスのように、周到に練り上げて、は
        じめて快楽を享受できるような、高度の事業なのです。
         ですから、周到かつ狡猾に組み立てなければならない。
         人生最大の果実は、ただ欲望や好みに任せてつかむことができるような、
        そんな安易なものでも、つまらないものでもないのです。
        (福田和也『悪の恋愛術』講談社現代新書1563 2001.8.20発行
         P178-179)
 
私が私であるということは、
つまり、個でありうるということは、
他者がそこにあらわれるということでもある。
 
この地上に生まれてくるということの意味は、
そこに他者が存在するということでもあり、
故に、愛がそこに生まれうるということにほかならない。
 
愛することができるということは、
相手が他者であると同時に、
その相手との深い関係を求めるということでもあり、
それ故に、ますます自らの孤独を意識するということでもある。
 
そういう意味でも、恋愛は融合ではなく、
かぎりなく意識的な「むすび」なのだと思う。
むすぶというのは、高度な技術であって、
むすびかたをちゃんと学ばなければ、
そのむすびは簡単にほどけてしまうことになる。
 
「あばたもえくぼ」というのは幸せなことだけれど、
永遠に「あばたもえくぼ」を続けるためには、
かぎりない意志と努力が必要になってくる。
だからその意志と努力を放棄することで、
「あばた」が「あばた」へと変容し、
ときにはそこに否定的な意味さえも付着させてゆく。
そして、恋愛が放棄されることになる。
「あばたもえくぼ」の継続こそが「愛」に他ならないのだから。
 
日本では結婚すると女は母に変わり
男は大きな子供になる。
ということがよくいわれるが、
それはひょっとしたら、
「あばた」を憎しみに変えないで、
他者を消してしまうための技術なのかもしれない。
他者を消してしまうということは、
意識的な関係性を放棄するということであり、
故に恋愛は消滅する。
 
以前はそれでも関係が成立することが多かったが、
現代では他者性を消してしまうわけにもいかず、
そこにさまざまな葛藤が生まれてくることになっているように思う。
 
家族関係が壊れてきているのも、
その他者性がかつてよりもきわだつことが多くなり、
人と人が個であり孤であることが
意識されやすくなっているからなのだろう。
 
子供も、小さなころはそうもいかないが、
「10歳」ともなってくれば、
親と子も融合ではなくむすびが必要になってくるように思う。
「作為」なのだけれど愛のあるむすびである。

 

風のトポスノート336

いばりんぼさん


2001.9.4
 
「ほぼ日刊イトイ新聞」の糸井重里のコラムに、
<いばりんぼさん。>というのがあってとても面白かった。
「人間は、なぜ威張るんでしょう?」という問いかけ。
糸井重里は「威張る人がすっごく嫌いなのだ。」そうだ。
たぶん、ほとんどの人は、
「いばりんぼさん」は好きではないだろうと思う。
もちろんぼくもそう。 
 
でも、ほんとうに人はなぜ威張るんだろうと思う。
それで、威張ることの前提にあるのはなんだろうかと考えてみると、
それは人との比較において自分を上位に置いておきたい、
なにがなんでも自分が上だということを誇示したい。
そういうことなのだということはすぐに思いつく。
しかも、威張らなくては、自分が上にいるということが
不安で仕方がないのだろうということも予想がつく。
 
人との比較・・・。
人は比較しないでは生きていけない。
というか、この世は相対の世界なので、
比較というのがこの世で生きる原理になっているのだともいえるから、
比較はいけないといっても、それを止めてしまうということは、
それこそ神という絶対、比較を絶した存在になるしかないから、
できないだろうということもいえる。
 
アインシュタインは相対性原理を提唱し、
シュタイナーはそれを批判してたりする。
私があなたのまわりをまわっているというのと、
あなたが私のまわりをまわっているというのは
相対的に見れば同じことだというのはおかしいというわけである。
私があなたのまわりをまわるときには、
あなたはじっとしているから歩いて疲れたりするのは私のほうだし、
逆だとあなたのほうがエネルギーを消費するのはわかりきっている。
そういわれると、確かに相対性ということで
隠蔽されてしまうところがたくさんあるような気にもなる。
 
ところで、いばりんぼさん。
いばりんぼさんは、いったいどうしたいのだろう。
これも相対論では説明のつかない問題だ。
いばりんぼさんと被いばりんぼさんの関係は相対的なので、
いばりんぼ行為が成立しないことになってしまうからだ。
 
先の相対性原理批判を応用していうならば、
いばりんぼさんは、自分と相手との関係を、
自分は動かないで相手を自分の思うとおりに動かそうとしている。
「おれはえらいんだから、おまえのほうが来い!」というわけである。
来いと言われて行かざるをえないのは確かに疲れる。
 
いばりんぼさんは、たぶん
自分を絶対であるかのように見せたがっているのだけれど、
いばりんぼ行為はそれそのものが比較の世界において、
自分のポジションを固定化させようという行為なのだから、
逆に神的様態からどんどん遠ざかっているのだともいえる。
仏教でいう増上慢。
自分が偉いのだ、えへん!というのを恥ずかしく思わないこと。
いばりんぼは、絶対のほうの相対を絶しているほうの方向ではなく、
関係性を固定化するほうの絶対のほうの自分絶対ということなのだ。
 
関係性の固定化といえば、
組織が陥りやすい悪癖の中心にそれがある。
ヒエラルキー構造。
人と人を層的に関係づけるあり方。
いばりんぼさんは、もちろん、その層の上のほうに
自分がいたいといつも望んでいるのだろうし、
上にいると思うことで、下にいる人を自分の思うとおりにできると思っている。
逆にいえば、そういう関係性のなかでしか
自分のアイデンティティを確かめられなくなっている。
 
先にも述べたが、人と人は相対性としてとらえにくいが、
そこになんらかの固定的な関係性を実感できないと、
どうしていいかわからなくなってしまうことが多いのだろう。
ほんとうはそうでもないのだけれど、そういうのがないと、
自分のいる場所がわからなくなってしまうのだろう。
 
ほんとうはわからなくなってしまったところが
出発点でもありうるのだけれど、
そういう恐怖から逃れようとすることで、
人は関係性の固定化に向かい、
ほんとうは固定化していない関係性も
それを永続するものとしたいと願ったりする。
そしてその永続性において自分を上位に置きたいと思う。
いばりんぼさんの誕生である。

 

風のトポスノート337

ギャンブル・ゲーム


2001.9.13
 
         数あるギャンブルの中でも人々を虜にするのは、偶然の運、不運が支配する
        ようなゲームのようだ。実際のところ、かつては勤勉だったアメリカ人の間で
        も燎原の火の如くカジノ・ブームが広まりつつある。1995年9月25日付
        のアイオワ州タベンポート発のニューヨーク・タイムズ紙の記事によれば、ギ
        ャンブルはアメリカで急成長を遂げつつある産業であり、「野球場や映画館よ
        りも多くの集客力のある400億ドル・ビジネス」であるという。タイムズ紙
        は、カジノからの収入1ドルに対して州政府は社会機関や防犯対策のために3
        ドルのコスト負担をしているというイリノイ大学教授の推計を引用している
        これこそアダム・スミスが予見していた事態に他ならない。
         例えばアイオワ州では、1985年まで宝くじさえ認可していなかったが、
        1995年までには10カ所にカジノを擁し、24時間営業のスロット・マシ
        ンを持つ競馬場とドッグ・レース場を開業させている。この記事によれば、
        「アイオワ州のほぼ10人に9人がギャンブルをして」おり、そのうち5.4%
        がギャンブルで何らかの問題を抱えていると報告されている。これは5年前の
        1.7%という数字よりも増えている。1970年代にはビンゴ・ゲームをした
        という理由だけでカトリックの司祭が刑務所に入れられるような州でさえ、こ
        の有様である。最も純粋な形でのal zahrはわれわれの周囲に日常的に存在し
        ている。
        (ピーター・バーンスタイン『リスク・上』日経ビジネス文庫/
         2001.8.1発行/P34-35)
 
*ノート補足
・al zahrとはアラビアでサイコロをあらわす言葉。
・アダム・スミスの予見とは、ギャンブルの動機について
「大半の人間が持っている自らの能力への過大な自惚れと、未来に対する莫迦げた夢」
と述べているもの。
自由市場の恩恵とモラルの感情をバランスさせることの大切さを述べている。
・ちなみに、ケインズは「ある国の資本の発展がカジノ的行動の副産物であるとすれば、
発展は失敗に帰すだろう」と述べているそうである。
 
神はサイコロ遊びをしない、と言ったのはアインシュタイン。
しかし人間はどんどんサイコロ遊びに興じて倦むことがない。
ますますサイコロに自らを委ねようとし、
自分は、自分だけはそのサイコロゲームに勝てるような気になっている。
今や経済活動そのものが「カジノ的行動」そのものになろうとしている。
人間がサイコロゲームをしないようになるのは
いったいいつのことになるのだろうか。
 
後世の人は、アメリカをマネー・ゲームとギャンブルの文化が
栄えた国として語るかもしれない。
もちろん、コーラとハンバーガーとジーンズはいうまでもないが。
それと忘れてはならないのは、正義の名の下での戦争好きの側面。
よく考えてみると、マネー・ゲームやギャンブルも
また戦争にほかならないのだということがわかる。
そして、今やマネー・ゲームやギャンブルが
巨大ビジネスとして成長し続けている。
これはだれが考えても異常な事態なのだけれど、
それを異常だと思わないことのほうがもっと異常なことなのだろう。
 
今の日本でも賭博が多様化しながら
どんどん公のものとなってきている。
マネー・ゲームも公然とビジネスとして成立するようになっている。
コーラとハンバーガーとジーンズはいうまでもなく文化の中心に(^^;)。
おそらくギャンブル以上にわくわくできることが
あまりにも少なくなっているからなのだろうと思う。
 
アメリカのテロ事件もあって、
株がさらに値下がりしているようだけれど、
その株の値下がり云々というのも、
結局のところ、ギャンブル以外の何ものでもない。
 
個人的なことをいえば、
ぼくは小さな頃(小学校の低学年の頃)、
クジや花札、ゲームなどにかなりな執着を持っていて、
当たるか当たらないかということが気になって仕方がなかった。
ほとんど病気のように・・・(^^;)。
その衝動というのは、なかなか説明しがたいのだけれど、
血が騒ぐという形容が比較的近いかもしれない。
そういう状態にさらに悟性的な知恵が加わってくると、
やはりマネーゲームなどにもつながってくるのだろうと思う。
 
しかし、幸いなことにその後は
そうしたことはどうでもいいことになっていった。
まるで、火を消したように、という形容がふさわしい。
なぜなんだろうと思うのだけれど、
ひとつには自分のそうした熱に浮かされたような
当たる・当たらないという状態に飽いたということ。
やっぱり、そういう自分を鏡に映すとあまり嬉しくはない(^^;)。
それから、そうしたギャンブル性よりも
ずっといろんなことが面白くなってきた、
ということもあるように思う。
なので、そんなのにつきあおうとはあまり思わなくなったという感じ。
 
宝くじを買おうとも思わないし、投資や金利で生きたいともまるで思わない。
そんなことを気にして生きる暇があればもっと面白いことはたくさんあるし、
できれば少しでもそうしたことに時間を使いたいと思う。
株式の新聞を眺めて過ごしたくはない(^^;)。
もちろん何かの抽せんで当たった方がいいなくらいは思うけれど、
それ以上のものではない。
それだから、決してお金持ちにはならないけれど、
反面、負債を抱えてしまったりもしないで、坦々と生きている。
 
しかし、今でも、あの火照りはいったい何だったんだろうとさえ思えてしまうが、
そうした衝動が理解できるというのは、
貴重な体験になっているように思う。
 
ところで、現在のようなギャンブル社会が
解消されるためには何が必要なのだろうか。
それはやはり、ギャンブルよりずっと面白いことを
大多数の人が見つけるようになるしかないのだろうと思う。
「ギャンブルをしてはいけない」とするのではなく、
したっていっこうにかまわないのだけれど、つまんないので、
ギャンブルをする気にさえならないようになるということ。
ほんとうはそれはとても簡単なことなのだけれど、
おそらくそのためには一度は熱に浮かされたほうがいいのかもしれない……。

 

風のトポスノート338

ゼロ・数字・計算という謎


2001.9.14
 
         紀元前450年頃、ギリシャ人はアルファベットを用いて数を教える方法
        を考え出した。その方法は24のギリシャのアルファベットと後に廃れてし
        まった3文字を利用したものだった。1から9までの各数字は独自の文字を
        持ち、10の倍数も各々独自の文字を持つ。(…)
         このような文字表記による数字は手軽で、より強固な建物を建造したり、
        より長距離の旅行をしたり、より正確に時間を計る上では役に立ったが、深
        刻な限界があった。文字を使っての加減乗除の計算は非常に難しく、おそら
        く頭の中だけで計算することは不可能だった。その計算もアバカスなど他の
        方法で行なわれたものだった。歴史上、最古の計算用具であるアバカスは、
        紀元1000年から1200年頃までにヒンズーーアラビア式の数字体系が
        出現してくるまで、数学には必須の道具だった。
         アバカスでは各列の玉の数が決まっており、足し算の場合には、いちばん
        右側の列が一杯になればそのすぐ左隣の列の玉を動かすというやり方をする。
        「一つ借りてくる」とか「三つ繰り上がる」という現代人の考え方もアバカ
        スから生まれてきたものである。
        (…)
         しかるに、より優れた数の体系も紀元500年まで登場しなかった。この
        年になって、ヒンズー人が今日われわれが用いているような数字体系を作り
        あげた。誰がこのような奇蹟的な発明をし、またそれがどのような環境下で
        インド亜大陸に広まったのかは謎のままである。アラビア人が始めて新しい
        数字に遭遇するのはそれからおよそ90年後のことであり、それはマホメッ
        トが622年にイスラム教を興し、彼の門弟達がインドをも超えて大帝国を
        築いていった時だった。
        (…)
         ヒンズーーアラビア・システムの最大の貢献はゼロの発見である。ゼロは
        インドではシュンヤ(sunya)と呼ばれ、それがアラビア語ではシファー(cifr)
        となった。この用語は後に英語でサイファー(cipher)と転形するようになっ
        た。「サイファー」とは「空っぽ」のことであり、アバカスや算盤式計算機
        の縦の列が空のことを指している。
        (…)
         ゼロは二つの方法で旧来の計算体系に革命を起こした。まず第一は、人間
        は0から0までの10種類の数字を使うだけで、考えられるすべての計算が
        可能になり、また考えうるいかなる数字も書いて表現できるようになったと
        いう点が指摘できる。第二は、1、10、100と数字が並んだ場合、次に
        来る数字は1000だと容易に良そうできるようになった点があげられる。
        ゼロの導入で数の表記体系の全貌が目で見えるようになり、また明瞭になっ
        た。ローマ数字のI、X、CやV、L、Dなどで同じことを考えてみられた
        い。これらの数字の並びの次の数字を想像できるだろうか。
        (ピーター・バーンスタイン『リスク・上』日経ビジネス文庫/
         2001.8.1発行/P60-67)
 
ゼロの発明、そして数字表記は
計算能力を飛躍的に向上させるための革命だったといえる。
 
ゼロという「空っぽ」の創造。
それがヒンズーからでたというのは、
「空」という観念を持ち得たゆえのものなのだろう。
しかし思弁のなかではそれは技術や実用と結びつかない。
ゆえに、アリストテレスが濃厚な感覚を持ったアラビアに流れ込んでいたところに、
その「空っぽ」が結びついたということが重要になる。
 
ところで、計算するとはいったい何なのだろうか。
ぼくは小学校の最初の最初の算数の時間で、
その謎に直面してしまって混乱を来たした。
計算ができないというのではないのだけれど、
その意味がまったくわからなかったのだ。
計算ができないというのであればそれはそれでいいのだけれど、
計算ができてしまうということがまるでわからなかったのだ。
数を足せてしまうという謎。
数を引けてしまうとう謎。
とくに、引き算にはときおり混乱させられてしまった。
なぜ引かなければならないのかという謎・・・。
その後も、数学はともかく、
どうも計算というのは苦手意識が強いままだ。
 
とくに、リンゴなどを絵を使いながら
それを数とすり替えていくときの違和感は大きかった。
で、ぼくのとったのは、「これは嘘なんだ!」と思ったうえで、
数の手続きを単純な機械的なものなのだと割り切ることだった。
 
現代には、まさにコンピューターという計算機が登場し、
その計算によってつくられた世界のなかで、さまざまなことがなされている。
こうして文書を書くということさえ計算と置き換えられて駆けめぐる。
芭蕉の最後の句は「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」だったけれど、
計算世界の中でこうして何かがかけめぐっていく時代になっている。
 
数字という道具を持ち得たことによって
可能になったことと同時に、
その道具によって見えなくなってしまったもののことも
そろそろ考え始めてもいいのかもしれない。
ひょっとしたら、そのことによってはじめて、
ゼロという錬金術的ともいえるような謎の存在のことも
かいま見えてくるのかもしれない。
おそらく現在のような計算至上主義のなかでは、
ゼロが夥しく使われながら、
まさにそのゼロそのものが見えていないような気がする。
私たちが物質世界にこうして存在していながら、
物質世界そのもののことがまるで見えていないであろうように。

 

風のトポスノート339

惑溺


2001.9.18
 
         独立の精神、独立の思考、インデペンデンス・オブ・マインドというのは、
        惑溺からの解放ということです。私も外国の大学で、福沢の話をしたことが
        ありますが、いちばん閉口するのは、この「惑溺」をなんと訳していいのか
        ということです。英語にしろ何語にしろ、うまく言えない。
         独立の精神というものを理解するには、その盾の反面としての「惑溺」と
        いうのは何を言っているのかということを掴まなければならないと私は思う
        のです。惑溺からの解放が独立の精神ですから、一定の場における惑溺のあ
        り方によって、独立の精神的なあり方が決まってくるわけです。
         「惑溺」というのは、人間の活動のあらゆる領域で生じます。政治・学問・
        教育・商売、なんでも惑溺に発展する。彼がよく言うのは、「一心一向にこ
        り固まる」という言葉で言っています。政治とか学問とか、教育であれ、商
        売であれ、なんでもかんでも、それ自身が自己目的化する。そこに全部の精
        神が凝集してほかが見えなくなってしまうということ、簡単に言うとそれが
        惑溺です。うまく定義できませんけれども、また、定義すべきものでもあり
        ませんけれども、自分の精神の内部に、ある種のブランクなところーーその
        留保を残さないで、全精神をあげてパーッと一定の方向に行ってしまう、と
        いうことです。
        (丸山眞男「福沢諭吉の人と思想」/「福沢諭吉の哲学 他六編」所収
         岩波文庫/2001.6.15発行/P181-182)
 
積み木を縦にずっと積み上げていくと
そのうち崩れてしまうまでになる。
高く積もうとするならば、
それに応じた裾野が必要になるだろう。
 
また、シーソーバランスが重要になる場合、
片方にばかり重しを載せるとバランスをとるのはむずかしい。
片方を重くするとそれに応じてもう一方も重くしなければならない。
 
上記の「独立」を「自律」と読みかえてみる。
もしくは「自由」と。
そうしたときに、自らを自己目的化した狭さや偏りは、
むしろそれらをみずからが破壊するものであるともいえる。
 
上記引用と同じ論のなかに、福沢諭吉の「戯れ」「遊戯」について
述べられたところもある。
 
        「既に世界に生まれ出たる上は、蛆虫ながらも相当の覚悟なきを得ず。即ち
        其覚悟とは何ぞや。人生本来戯と知りながら、此一場の戯を戯とせずして、
        恰も真面目に勤め」るのが蛆虫の本文であるーー彼はこう言っています。
         人生本来戯れと知りながら、この一場の戯れを、戯れとせずして、あたか
        も真面目に努める。これは、人生とは何かという認識の問題だけではなくて、
        実践的な生き方と関係してくるわけです。彼に言わせれば、「本来戯と認る
        が故に、大節に臨んで動くことなく、憂ふることなく、後悔することなく、
        悲しむことなくして、安心するを得るものなり。」(P.208-209)
 
すべてを遊戯としながら、
遊戯のなかを懸命に生きてみる。
同じ懸命さにしても、
それが遊戯であるか遊戯でないか。
そこが鍵になるように思う。
 
遊戯というのは自分を仮の舞台上に置くということ。
そこにおいて、ゆえに、
「自分の精神の内部に、ある種のブランクなところ」が可能になる。
 
水が清すぎると魚は住めず、
水を純粋にしていくと電気を通ぜなくなる。
 
遊戯なくして、不純なくして、
むしろ「惑溺」になるという、
一見の矛盾がそこに生じることになる。
 
「メタ」ということもそう。
メタ・フィジックスのメタ。
なにかについてのメタレベル。
そこに意識化と同時に
存在の包括性、統合性のための自由が存在し得るようになる。

 

風のトポスノート340

歌えない「イマジン」のために


2001.9.20
 
        想像してごらん
        今アメリカで歌えないイマジンのことを
        とっても簡単だよね
        報復と祈りがあるだけ
        大地の上に地獄ができると
        私たちの中にも地獄ができる
        想像してごらん
        すべての人間が
        地獄を生きている
 
        想像する必要もないよね
        国境ばかりの世界のことなんて
        命を奪う武器がいっぱいあって
        宗教の違いばかり競い立って
        争いのもとになる
        想像なんてできないかもしれないね
        心のなかに平和がある世界なんて
 
        ぼくは夢見人かもしれないけれど
        孤独なんかじゃないさ
        いつの日か
        みんなが自分で考えるようになって
        世界がつながりはじめる
 
        想像してごらん
        お金がお金を生む必要のない世界を
        あなたにできるだろうか
        欲張り者にはつらいかもしれないけれど
        どこにも飢えがなくなるかもしれないさ
        お金がほんとうにすきとおったたべものになって
        世界をちゃんと隅々にまで流れている
        想像してごらん
        ほんとうにあるみんなのための世界を
 
        ぼくは夢見人かもしれないけれど
        孤独なんかじゃないさ
        いつの日か
        みんながほんとうに自由になって
        世界がつながりはじめる
        
        *参考/「王様」による「想像してごらん」

 


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