風のトポスノート331
魂魄
2001.8.15
長屋和哉の3枚目になるニューアルバム『魂は空に 魄は地に』(ame-003)は、
「人の死ののちの魂の行方」がテーマになっている。
ノートにこうある。
私たちがタマシイと呼んでいるものは、陰陽道では魂と魄との二つから成る
とされている。そして、魂は陽の気で精神を司るもの、魄は陰の気で肉体と
五感を司るものとされ、ひとたび人が死ぬと、魂は天に帰り、魄は地に戻る
という。
魂は、崇高な天の神性。
魄は、愛や憎悪や肉欲を生じる地の性。
そして人とは、天の性と地の性を抱えて生きる者。
魂は空に、魄は地に
これは私の至上の呪文である。
やがて私のいのちが尽きて、虚空に霧散する時、叶うならば私の魂も天に還り、
そして私の魄は一切の我執と悲痛を解き放って、水のひと雫のように、
雪のひとかけらのように、この地に溶け込むように還ってほしいと思うのだ。
この「魂魄(こんぱく)」というとらえ方は、儒教の死生観からくるもので、
『儒教の本(学研/2001.3.22発行)』には次のように述べられている。
儒教における死とは何か?
儒教では、まず人間を精神の主宰者(魂)と肉体の主宰者(魄)に分ける。
この魂と魄が一致している状態が生きている状態であり、分離した状態が死で
ある。人が死ぬと、魂は天上に行き、魄は地下へ行く。逆にいえば、死後であ
っても天上から魂が戻ってきて魄と一致すれば、死者は生き返ることになる。
では、この一致した魂魄はどこに依り憑くべきか?
それは神主(木主)である。日本仏教でいう位牌は、それを取り入れたもの
である。儒教における墓とは、魄の保存場所という意味をもつのである。
ここでは当然、仏式の火葬などということは考えられないし、墓を作る際に
も最新の注意が払われることになる。そして、それにうまく噛み合ったのが、
風水の陰宅(墓相)思想だった。
先祖の肉体(骨)をよりよい状態で保存するためには、墓が風水的に良好な
土地でなければならない。
土中で腐らずに永遠に残る肉体(骨)こそが、一族の永遠のつながりと繁栄
を意味するからだ。(P78)
儒教が先祖崇拝を基本としているのは、
この「魄」が先祖から継承されているということから、
「魂」もその流れのなかでとらえているからだといえるように思う。
目に見えるもの、確かめやすいものから、自分の来し方行く末を考えようとすると、
やはり自分を生んでくれた親、そしてそしてご先祖様から、
自分は発しているというふうに考えられやすい。
ある意味では、古代的な意味での唯物論の現われだということもできるのではないか。
儒教は輪廻転生というとらえ方はしていないようで、
あくまでも先祖から自分は発しその流れのなかに自分がいるととらえるために、
火葬を拒み、先祖の肉体を保存し礼拝する墓を大切にするという発想になる。
シュタイナーの『神秘学概論』のなかに、
先祖崇拝というのがどこからでてきたのかということについて
述べられているところがある。
月が分離したあと、人間は、はじめは肉体上の祖先と集合自我を通して結びつ
けられていると感じた。けれども、子孫と先祖とを結ぶこの共通意識は、世代
の移りゆく中で、次第に失われていった。次第に子孫たちは、あまり遠くない
先祖に対してしか、この肉体的記憶しか保持しなくなった。もはや、昔の先祖
にまで帰っていくことができなくなった。
睡眠に似た特殊な状態の中で、人間は霊界と接触することができたが、この状
態のもとでのみ、さまざまな祖先への思い出も生じた。そのとき人間は、自分
を祖先と一つであると見なし、祖先が自分たちの中に再び現われたと信じた。
これは輪廻転生の誤った考え方であった。この考え方は、特にアトランティス
の末期に生じた。輪廻転生の真の教えは、秘儀参入者の学堂内でのみ学ぶこと
ができた。秘儀参入者は、肉体から離れた状態の中で、人間の魂がどのように
して転生を続けていくかを見た。そして彼らだけがそれについての真実を生徒
に教えることができた。
(シュタイナー『神秘学概論』高橋巌訳/ちくま学芸文庫/P273-274)
輪廻転生という考え方を受け入れているかどうかによって、
自分のアイデンティティのとらえ方が
どのように異なっているかなどを見てみると面白いかもしれない。
個的な自我ではなく、むしろ集合自我が強く働いているところでは、
自分のアイデンティティをその集合自我において確認しやすくなるのは理解しやすい。
自分のなかに先祖の記憶が甦ってくるのだから、
自分をその流れにあるものとしてとらえることで、
自分が何者であるかということを確認することができる。
それを唯物論的にとらえると、先祖の墓を祀るということになるだろう。
もはやその先祖の記憶が自分の中に甦ってくることはないとしても、
自分はそこから生み出されたのだから、ということで、
自分をそこに位置づけて安心立命することができる。
ところで、肉体を保存するというとらえ方は、エジプトのミイラもそうだし、
キリスト教においても、「復活」ということの誤解から、
死体を保存するようなことになってしまっている。
エンバーミングというような死体保存方法が考え出されているが、
これは「先祖」から自由になった儒教のようなイメージもある。
錯誤は繰り返されるということだろうか。
おそらく、現代では、遺伝子を保存しておいて、
自分のクローンを永遠に再生させることができるということに
なりかねないところがあるけれど、
その場合のアイデンティティというのは、
肉体を自分を同一視するということからくるわけで、
「魂魄」のなかの「魂」はもちろん抜け落ちてしまうことになる。
こうした錯誤から自由になるためには、
この「魂魄」ということをあらためて認識しなおすことが必要になるように思う。
単に、自分は本来「魂」なのだから、「霊」的存在なのだから、
肉体も物質も低次のもの、汚れたものだからどうでもいいのだ、
というようなとらえ方だけではなく、
肉体というのはいったい何なのだろうか、
物質というのはいったい何なのだろうか、
ということをも考えていかなければならないのではないだろうか。
「人が死ぬと、魂は天に帰り、魄は地に戻る」というときの、
「魂」とはいったい何で、
「魄」とはいったい何なのだろうかということ。
そして、天と地が結ばれることで存在している「魂魄」としての人間とは
いったい何なのだろうかということである。
そういう意味でも、シュタイナーの精神科学が、
そのトータリティにおいても非常に重要になってくるのだと思うし、
「復活」ということにおける「キリスト」理解ということも
欠かせないポイントになるように思う。
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