風のトポスノート321
冒険について
2001.5.22
冒険家の河野兵市さんが、北極海で消息を絶ってしまった。
北極点から故郷の愛媛県瀬戸町までの6年間、
1,5000キロにわたるはず旅が、ついこの3月に始まったところだった。
昨年、今回の「リーチング・ホーム」の旅について、
若干ではあるけれど関わることがあっただけけに、残念。
しかも、ぼくと同い年ときている。
今回の企画にあたっての河野兵市さんの言葉があって、
なぜかこの「帰る」というコンセプトそのものが、
どこか今回の結果を思わせるようなところがあるので、紹介してみる。
やはり、冒険は「帰ろう」となったときに、
ある種の終わりを迎えるのかもしれない、と。
やはり、冒険はイケイケドンドンでなくては・・・。
思えば、この国を飛び出したのは二十歳のときでした。
深く考えていたわけではありません。
はっきりとした“こころざし”があったわけでもありません。
ただ、これまでの「縁」を断ち切り、身ひとつで生きていくということに
どうしようもない「明るさ」と「喜び」を感じたらからです。
それから僕は地球という星をさまよいました。
灼熱の砂漠、氷の大地、スコールに煙るジャングルの一本道、
文明を貫く孤独なアスファルト、ロッキーの峰々、モンゴルの草原……。
あるときは自転車で、あるときは徒歩で、またあるときはソリを曳き、
100キロ、100キロ、500キロ………。
その先に何が待っているのか、わからないけど。
「焦げつく青春!!今日一日を焦げつきてしまえ、河野兵市」
そんな思いで旅を重ねて、気がついたら20年たっていました。
地金はふるさとの暮らしの中で自ずと培われていたのでしょう。
父がそうであったように
母や兄もそうであったように
僕も物心つくころには、摩天楼のような岬の段々畑でみかんを運び、
火照った体を海に放って、貝や魚を追いました。
北極を歩いた1997年春。
僕は極寒の60日を歩き抜き、日本人としてはじめての北極点に立つことができました。
果てしなく続く孤独と寒さ、そして恐怖のなかで、
ただただ僕の体を前へ前へと押し進めてくれたものーーー
それは多くの方々に寄せていただいた「心」と、目蓋に浮かぶ「ふるさと」の風景でした。
20年におよぶ僕の旅は、ふるさとからどんどん離れて、
ついに北極点まで来てしまったけれど、
今回はそんな僕の旅の総決算として、
北極点という地球の原点から、母の暮らすふるさとの家を目指したいと思っています。
海を渡る鳥たちのように。
すべての生命をこばむ不毛の大地から、「ふるさと」という生命の源へ。
「リーチング・ホーム」ーーーーさあ、帰ろう。
河野さんは、なぜ冒険を繰り返すようになったのか
それをいくら問うてみても、答えがあるわけではないだろう。
今回のことであらためて思ったのだけれど、
冒険には、冒険そのものへ駆り立てられる河野さんのような場合と、
たとえば謎の解明のために冒険という手段を選ぶ場合とがあるように思う。
後者の場合は、やはり謎にどれだけ迫れるかということが重要になるが、
前者の場合、おそらく冒険そのもののなかに目的があるのだろうから、
ある意味で冒険家はいつどこで挫折しても、
そのプロセスそのもののなかに「喜び」があるのではないだろうか。
また、冒険には、こうした外なる世界への冒険と、
一見冒険のようには見えないかもしれないが、内なる世界への冒険とがある。
ぼくは、河野さんのように、外なる世界への冒険に駆り立てられることはないが、
「謎」へと向かう冒険については、
常に自分のなかに燃える炎のようなものを感じている。
そしてそれは、謎への挑戦であると同時に、
そのプロセスそのものが冒険であるということがいえる。
・・・というほど大げさなものでもなく、ほんとうはものぐさ太郎なのだけど(^^;、
ものぐさ太郎にはものぐさ太郎の冒険がある、ということはいえると思う(^^)。
ともあれ、河野さん、残念。
しかし、本人に悔いはないのではないかと思う。
昨年、この広島で冒険行のパネル展と講演会を開催できなかったことは、
ぼくにはちょっと残念だったけれど・・・。
さて、河野さんには、北極点単独踏破の際の著書があるので、
ご紹介しておくことにしたい。
●河野兵市「北極点はブルースカイ」(愛媛新聞社/1997.8.7発行)
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