風のトポスノート281-290

(2001.2.11-2001.2.28)


281●心と気持ちの問題

282●リアリティのゆくえ

283●天使主義の錯誤

284●絆

285●個と孤

286●複雑と矛盾

287●染め

288●時間と人間

289●却来

290●握一点開無限

 

 

風のトポスノート281

心と気持ちの問題


2001.2.11

 

 「気持ち」というのは厄介なものである。仕事を進める上で何か障害が生じたときに「しかし気持ちというものがあるだろう」とか言われて、なんだかそれが正当な理由みたいにされると「じゃあこっちの気持ちはどうなるんだよ」とか逆ギレしたりしてしまう。その対立は結局、なんにもならない。不毛である。「気持ちをわかってくれよ」とか言われても、その前にこっちの気持ちを理解してもらわないことには向こうを理解しようって気も起きねーだろーが……などとますます感情的になって、話がまったく進まない。不毛である。大抵どっちかが「あなたの気持ちはとてもよくわかります」などと思ってもいないことを言ってなんとかするだけで問題はそのままなのである。実はこれはすごいスケールのデカイことを喩えて言っているのだが、同時にそこら辺の日常のことでもあるのだった。

 人が何かをするとき、そこには必ずある種の「心」を残していくと思う。「これには心がこもっていないよ」とか言われるようなものでも、それは「どーでもいいよこんなの」という心が残っているのである。機械だけでされることに「これには心がない」とかいう人もいるが、あれにもその機械を作った人やらなにやらの「心」はちゃんと残っているのである。心のないことなど、人に関連したすべてには存在しないと思う。そして、その前提に基づけば、あることが素晴らしいことだけのように見えても、その途中にあった「心」にはあんまし気持ちよくないこともあって、それが人をして「しかし、気持ちの問題がーー」などと口走らせるのではないだろうか、とか思う。だが、その場合の問題というのはその「気持ち」にはやっぱりなくて、その大元になっている「心」の中にあるのではないかと思う。人の気持ちなんてものは移ろいやすく、別のことへの憤りを転嫁したりするようなアテにならないものである。自分で自分の気持ちすら把握することも難しい。でも、人から気持ちをなくすことも絶対にできない。だったらその気持ちの積み重ねである「心」ぐらいはしっかりと把握しておかなくてはならないのではないか。自分にはどんな「心」があるのか、そしてそれは人とは違うもので、他の人にはどんな心があるのか、それを掴むことは決して不可能ではない、と思う。さまざまな問題を解決するには、実はそれしかないのかも知れない、と思うのだ。ーーしかしひるがえって我が身を見ると、やっぱり「俺の気持ちはどーしてくれるのか」とか嘆いて問題ばかり起こしているよーな気もしてしまうのだがーーうー。

(上遠野浩平「ブギーポップ・パラドックス/ハートレス・レッド」メディアワークス・電撃文庫/2001.2.25発行/P284-285)

 「気持ちがおさまらない」というときが往々にしてある。たぶん「気持ち」というのはいちどどこかから沸き上がってくると実体化し、その落ち着き場所に行くまでその形を失いにくいのだ。そして落ち着き場所にくると、その実体は別のエネルギーに変容することができる。しかし落ち着き場所に行けないと、そのエネルギーは解放されないで、むしろ台風のように増強されながら進軍していこうとする。(これは政治や宗教の舞台などでもよくみられることであったりする)

 その台風をどうすればいいのか、しばしば困惑してしまうことがある「気持ち」は現に今こうしてふくれあがっているにもかかわらず、状況を冷静に考えれば、その気持ちはおさめたほうがいい。もし台風をまともにぶつけたとしたらかなりまずいことになる。「キレる」というのも、そのひとつである。

 その「気持ち」を意志の力で徹底的に抑圧してしまい、ひとにはそれをおくびにもださないということもできるが、おそらくそれを続けていると、その「気持ち」は怨念のようになってしまうに違いない。怨念にまで変容してしまった「気持ち」のエネルギー体は、まさに怨霊化してその「気持ち」を出した本人さえも変容させてしまう。そしてやがて祟るようにさえなる。菅原道真などもそうだったのだろう。たぶん日本人が祟るなど人を祀って神社などをつくったりもするのは、日本人が「気持ち」を抑圧しやすいからなのだろう。

 「気持ち」をそのように抑圧させないで、しかも爆発させないで済む仕方はないだろうか。大変むずかしいことには違いないが、まずその「気持ち」がなぜでてきたのかに、ちゃんとつきあってあげることが必要なのだろうと思う。その出所に意識がむいていないと、供給エネルギーはますます増大するわけだから、少なくともその供給源をなんとかしないといけないのだ。しかし一度でてしまった「気持ち」は収めるさやが必要だったりする。

 ここで人がそういうことになっている場合を想定してみよう。相手が「気持ち」の「さや」を探して苦悶しているとする。(いくら隠していても、ちゃんと注意深く観察していれば見えてくる)そのとき、相手の「さや」をそっと出してあげると、その「気持ち」はなんらかの代償としての「さや」を見出すことができる。そういう仕方は、いわばオトナの対処の仕方なのだけれど、そのことを相手にさせてしまうとしたら、とても情けなくなってしまう。自分は相手に「さや」を用意させてしまうほど愚かなのか!と。しかも、その「さや」の出し方があまりにもわざとらしかったとき、その情けなさは、少しでも自己意識があるならば、「穴があったら入りたい」ほどになってしまうかもしれない。だからそういう仕方はたとえさりげなく配慮されたにせよ、そういうことをさせないで済めばそれに越したことはない。そういうのはあまりにも「恥ずかしい」のだから。そう、「恥ずかしい」のだ。

 「恥ずかしい」というのはひょっとしてひとつの鍵かもしれない。「恥」は、「心の耳」と書く。つまり「心」をちゃんと開いて聞ける状態に置くということだろう。たぶん、「気持ち」の落ち着き場所を探して右往左往するというのは、「心の耳」がちゃんとひらいてないということなのかもしれない。音楽をちゃんと聴くように心の耳をす〜っと開ける・・・。もちろんそのときに必要なのは深くて広い認識力ともいえるから、とてもむずかしいことには違いない。

 ところで、もちろん自己意識の希薄な人は、「気持ち」なんて、はなから収めようとなんかしない。それは「出すものだ」とごくごく単純に思っているのだから。過剰な同情とかお節介なんていうのもたぶんその一種だろう。それらは破壊的なエネルギーとはいえないだろうが、アメーバのように相手に過剰な感情を浸蝕させ成長しようとする。「恥ずかしくない」のだ。これには困ってしまう。そういう直接的でレアな感情のエネルギーを日々食物のように食べて生きている人は気にならないのだろうが、少なくともぼくのようなタイプは、そのレアさは消化不良を避けられない。やれやれ……(^^;)。

 

 

風のトポスノート282

リアリティのゆくえ


2001.2.12

 

 リアリティとは身体が生々しく感じるものでしかないのだろうか。リアリティを感覚する器官は肉体だけなのか。もしそうだとすれば、存在するのも生きるのも悲しいことだ。ありきたりの日常生活にリアリティが欠けている場合、人間は常に刺激的で、破壊的で、破滅的な生活を送るしかないのだから。だからといって、精神だけがリアリティを感じるものなのだろうか。もちろん、そうではないだろう。

 生々しいリアリティを求めずにいられないこと。これは「実感」を基準にする発想と重なってくる。生々しい実感が得られない場合、抽象的思考にその代償を求める人も出てくるが、リアリティはそのどちらかにしかないと考え、その一方を選択しようとする傾向は、丸山真男が指摘したように、日本的思考の根に潜んでいるのかもしれない。そうだとすると、刹那的な激しい身体的刺激を求める狂騒と、真理の啓示にあふれた、難解なテキストへの沈潜は、具体性と抽象性という両極端の対立、そして媒介しがたい距離があるように見えるが、両者は同じ根をもつ持つものであって、親近性を有しているのだろうし、だから案外そこに一挙の飛躍が起こりうることになる。丸山のよく知られた一節、「文学的実感は、この後者の狭い日常的感覚においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて、瞬間的にきらめく真実の光を<自由>な直観で掴むときにだけ満足される。その中間を介在する<社会>という世界は本来あいまいで、どうにでも解釈がつき、しかも所詮はうつろいゆく現象にすぎない」(丸山真男『日本の思想』)という指摘は、今なお耳を傾ける価値がある。

 肉体の具体性と思想の抽象性を対立させ、その一方のみを選択しようとして、結局一方から他方へと無媒介的に飛躍すること(天使主義的飛躍)は、媒介の欠如に基づいて生じる。媒介がいかなりものであれ、人間が人間として生きるのは本質だけによってではない。媒介を通して、媒介において、媒介として生きるしかない。(…)

 現代は「電子的グノーシス主義」、別の面から言えば、「天使主義」の時代だ。両者がどう関わるかは、後に触れるが、もし現代がグノーシスの時代であるなら、そしてグノーシスを乗り越えたければ、グノーシスと格闘した教父、グノーシスを越えて成立した中世に戻る必要があるのではないか、ということだ。

 中世は、天使や奇蹟に溢れた時代に見えるし、それを否定しようとするのではないが、最近の中世史研究が明らかにしているように、神について語り、知ること(テオロギア)ばかりでなく、現世の営み(オイコノミア)を重視し、現世との関わりで天上を語る時代でもあった。いつの時代でも人間にとって最も関わりがあるのは、やはり人間のはずだ。謎めいた言い方になってしまうのだが、中世は基本的に内在か超越かの一方を選ぶのではなく、「内在的超越」の時代であったといえる。

 私としては、媒介が経験の「前」や「後」にあるのではなく、「中」にあること、あえて言ってしまえば、リアリティは<見えないもの>と<見えるもの>のいずれのうちにあるのでもなく、その間にあることを述べていたのが、中世の実在論だったと思う。リアリティは直接与えられるものでも、目の前にあるものでもない。たぶん、後ずさりしながら、未来に向かうとき、背中に背負っているものなのだろう。重みを感じながらも、見ることができないために得体の知れなさに不安を感じながら、自分の重みとして引き受ければ、その足跡に陰を見出すことができるようなものかもしれない。このようなヴィジョンは、近代以降の哲学に皆無ではないが、大部分、中世哲学から与えられたものだ。リアリティとは、常に指先の一センチ先にあって、つかめそうになりながら、必ず取り逃がしてしまうものではない。そして、視線を遮る背後にあるものでもなく、常に視線の手前にあるがゆえに、見えないものにとどまるものではないか。

 見ることの手前、語ることの手前、「自分」ということの手前にリアリティがあると述べるのが、実在論ではなかったのか。

(山内志朗「天使の記号学」岩波書店/2001.2.7発行/P2-7)

 バーチャルリアリティが語られる時代、現実感、リアリティはいっそう希薄なものとなっているように見える。リアリティはいったいどこに求めればよいのだろうか。もしくは、リアリティを求めるということはいったいどういうことなのだろうか。

 リアリティの不在は、さも現代的な病のようにもいわれるが、たとえば一切空だとか無だとかが語られるとき、この世はすべてマーヤだとされ、この世のリアリティの不在こそが称揚されたりもした。それは、素朴実在論的にこの世の現実に浸り込んでしまうならば、快楽的に世を生きるか、もしくはこの世の苦に絶望するるかないことへの解答のひとつでもあったのかもしれない。

 そういう解答への現実的対処として、ひたすら苦行三昧に耽ることで悟りを得ようとしたり、常に感覚的刺激を求めるということがなされるのは、過去も現在も、その姿は違え、そう変わりはないようにも見えてくる。

 仏陀が説いたのは、中道だった。苦行主義によっても、快楽主義によっても、悟りは得られない。弦を張りすぎても弛めすぎても美しい音色が奏でられないように、道は中にあるというのである。そして、空、仮、中の三諦円融を説いたのは天台大師だった。

 丸山真男の指摘した「日本的思考の根」はうがっている。日本人に見られる現世主義(世間主義)と空・無による悟りを得ようとする傾向などにおいて、極端な振幅を有し、三諦円融とはなりがたいところがある。天台教学が権威あるものとして継承されておりながら、実際にはそこを脱した僧侶による教義が流布されることになるというのも、そのことを物語っているといえるのかもしれない。

 ところで、西洋の中世哲学が面白く、このところ、中世哲学史などを拾い読みしていたりもするのだが、たしかに、「グノーシスを乗り越え」るためには、「グノーシスと格闘した教父、グノーシスを越えて成立した中世に戻る必要がある」というのは実感されるところである。

 そういう意味でも、今回岩波書店の「双書・現代の哲学」に収められたこの「天使の記号学」は、非常に興味深いものである。

現代は「電子的グノーシス主義」、別の面から言えば、「天使主義」の時代だ。

 というのもまさに実感されるところであるし、だからこそ、精神科学的な認識の方向性が急務になっているともいえるわけである。

 こうしたインターネットの世界においても、「生々しいリアリティ」の不在から、インターネットそのものを危険視したり、たしかにこうしたメディアが「天使主義」を助長したり、ということが見られるようになって久しいように思える。おそらくその傾向はこれからますます増大していくことだろう。

 ネットにおける匿名性の問題で、本名でないと無責任になるというようなごく単純で短絡的な意見はよく見られるが、本名であればリアリティがあって責任ある姿勢であって、匿名であるとそうではないという対立で語れるほど、リアリティは単純ではないように思える。それは、グノーシスではだめだから、現世主義だ!というようなものなのだから。そこでも、空、仮、中の三諦円融のような発想は最低限必要になろうし、引用にもあるように、「見ることの手前、語ることの手前、「自分」ということの手前にリアリティがある」というようなとらえ方を少なくともおさえておく必要があるのではないかと思う。

 

 

風のトポスノート283

天使主義の錯誤


2001.2.12

 

 人間は本来、穢れない存在、天使のような存在なのだろうか。赤ん坊のように穢れない姿、エデンの園の無垢な状態が本来の姿なのだろうか。天使の状態に戻ることができるとしても、天使が人間の理想状態なのか。

 天使のように、欲望を持たぬ、清らかな存在になりたいと願う人間はたくさんいるかもしれない。しかし、天使になろうとしたとたん、人間は奈落に落ちていく。たとえ天使が清らかであっても、天使になろうとする欲望は清らかではないからだ。人間や自分が穢れたものとする発想は、浄化につながるどころか、淫らな欲望により深くはまりこむ効果の方が大きい。それにまた、人間が人間以外のものになろうとするのは、哲学においても人生観においても、ロクなものにはならない。人間は人間以外の何ものでもないからだ。(…)

 一般に受肉することは、穢れたもの、堕落したものに陥ることである。しかし、穢れた現実・世界を拒否し、失われた純粋性を希求し、そこに回帰しようとするのは、傲慢の罪であろう。受肉への呪詛は、世界の存在への呪詛となるからだ。「私は生まれてこなければよかったのだ」、「私は存在しないほうがよいのだ」という思いは、自己の破壊・他者の破壊・世界の破壊のいずれかに帰着する傾向を有している。自暴自棄こそ、「だからみんな死んじゃえ」という思いにつながる罪悪だ。たぶん、世界の破壊衝動を持たない自暴自棄・自殺は存在しないのだろう。

 天使への憧憬、「透明な存在」への憧憬は、失われた全能状態へのノスタルジー、そしてこれと表裏をなす、途方もない呪詛を源泉にしている。私には、母親の胎内への環帰願望、失われた始源としての純粋性への希求は、現実への呪詛に発していると思われる。そして、この呪詛は誤った天使主義に由来している。過去を取り戻そうとする不可能を願望することは、不可能を希求するものであるがゆえに、そして不可能が知られているがゆえに、破壊的なものか、せいぜい退廃・無気力しか生み出さない。

 天使へのあこがれは、人間の言葉のあり方を見逃してしまうばかりか、危険な傾向を含んでいる。私としては、天使の言葉への希望が、表面上の清らかさと裏腹に、呪詛に満ちた、穢れたものであること、そしてそこから逃れる鍵が意志と偶然性であることを確認できればよいのだ。言葉の不透明性は、排除できないし、排除されるべきでもない。たとえ、悪しき言語使用への居直りの口実となるにしてもである。それはちょうど修辞の使用が言語の多義性を引き起こす危険性とともに、豊かさの源泉であることと類比的だ。誤った天使主義において、人間にとって最も危険で、有害で、絶命されるべきものは肉体を持った人間なのだ。もちろん、ここで正しい天使主義を標榜しようというのではない。正しい天使主義があるとすれば、人間主義と重なるはずだから。ここでの私の結論はいたって単純素朴である。人間の内にある<悪>を認めないことも、絶滅させようと夢見ることも、<悪>から離れることではなく、もっと深い<悪>への墜落であるということが言いたいのだ。

(山内志朗「天使の記号学」岩波書店/2001.2.7発行/P9-33)

 今でもよくおぼえているのだけれど、小さな頃、ぼくは、「私は生まれてこなければよかったのだ」、「私は存在しないほうがよいのだ」、ということをいつも思っていた。それは決して「失われた純粋性を希求し、そこに回帰しよう」というのはなかったと思うのだけれど、あまりに苦しい環境から逃げ出したい、逃げ出せなければ、死んでいなくなるしかないのだ、ということを切実に思っていたのである。

 おそらくそこには、「自己の破壊」へ向かうだけではなく、この引用部分で述べられているような「他者の破壊・世界の破壊」に「帰着する傾向」もなかったとはいえないだろう。「だからみんな死んじゃえ」という破壊衝動・・・。

 かなり小さな頃からの記憶からしても、ぼくは「欲望を持たぬ、清らかな存在」などとはほど遠く、そういう「破壊衝動」さえ持ちうる存在だった。そういう存在が、この歳になって、「生まれてきてよかった」と思えるようになったのは、とてもうれしい。その喜びは、「人間であること」の喜びであり、ある意味誇りでもある。そしてそこに行き着けるまでには、かなりの紆余曲折が必要だったし、自分なりに、自分のなかの「悪」を見つめるという作業が不可欠だった。

 さて、ある宗教団体の出している本のなかで、母親または母親になろうとする人に対し、「天使を生む」「天使を育てる」とかいうことが述べられていた。天使は霊的ヒエラルキーが高く、その母になるということ、そしてそれを育てるということは素晴らしいことだ、というような類のことなのだと思うのだが(^^;)、これはいったいどういうことを意味しているのだろうか。

 まず、天使への憧憬があるのだということがいえるだろう。(でなければ、そもそも天使に関わろうとなど思わないだろうから)さらに、天使と穢れなき子供とをだぶらせてイメージしているということ、そしてその天使の母になるという血縁的な意味での優越性、天使に関わるということにおける自尊心の満足から、自分と天使とをだぶらせてイメージできるということなどがあるように思う。

しかし、人間は天使でないから人間である。しかも、血縁というのは地上的なものにもかかわらず、天使と血縁にこだわっているというのは、やはりそこに天使になろうとする「天使主義」があるように思えてしまう。

 自分を天使だと思うことはどんな欲望なのだろうか。人間ではなく天使だと自分のことを夢想する欲望。すでに人間であるさまざまな穢れから自由であるという夢想。少なくともふつうの人間よりは優越しているという夢想。

 おそらくそのとき陥りやすいのは、自分の内にある「悪」を見ようとしないことではないだろうか。堕天使でないかぎり、天使は悪とは無縁である。悪でないがゆえに天使なのだから。そのとき、「悪」は外化されたものとして現われることになる。「自分は悪ではないのだから、おまえが悪なのだ」という単純図式。宗教団体でも、自分たちは悪ではないのだから、自分たちと対立したり自分たちを批判したりするのは、すべて悪というレッテルが貼り付けられることになる。

 けれど、「人間の内にある<悪>を認めないことも、絶滅させようと夢見ることも、<悪>から離れることではなく、もっと深い<悪>への墜落である」ということを知る必要があるように思う。そういう意味では、自分を善だとし天使だとし、人類を救済する、とかいうことを教義にするとすれば、やはりそれは人類を絶滅させようというのと同義であり、「もっと深い<悪>への墜落」であるということがいえるのではないだろうか。

 

 

風のトポスノート284


2001.2.12

 

 言葉は常に語り手を裏切る。これは表現という行為の避けられない特質だ。表現(expression)行為は、確かに、自分の内面にあるものを外側に押し出す行為だ。しかし、外に出された途端、表現されたものは、取り戻すことのできない、そして自分では制御することのできない出来事として、表現者を裏切る。自分の思いが、思いのままに伝わることを夢想すること、表現されたものが表現者の手の内にあると考えるのは楽天的なことだ。(…)

 見境もなく、心に思うことを外側に吐き出すことは、決して「言葉」を使用しているとは言えない。内なるものを外に出すだけでなく、外の世界で働くことが言葉の生命なのだから。したがって、言葉を使用するということは、いかに内面と対応しているかという「真理の尺度」によってよりは、状況にいかに適合しているかという「適切さ」という曖昧な尺度によって計られねばならないのだ。透明な天使の言葉を夢想することは、世界から切り離された自分を夢想することに等しい。世界から切り離されてあることが可能であるならばいざしらず、世界の中にいることが事実であって、世界から独立することが不可能な場合、天使主義者は世界を消滅させる、もし消滅させられなければ、世界との「絆」を破壊することを夢想する。(…)

 また、世界との「絆」を破壊するとは、「絆」の最たるものが「言葉」である以上、「言葉嫌い」に陥ることでもある。「絆」の破壊が、世界からの離脱の思いに由来するとすれば、そこでは、「言葉嫌い」と「人間嫌い」とは事実上一致する。媒介のない直接的な世界との結合、世界との癒合的関係は、親密さ(インティマシー)を含んだものであるよりも、破壊性を孕んだものだ。直接的関係・癒合的関係を確立しようとすることは必然的に挫折に帰着するが、その挫折への呪詛から、関係一般の破壊衝動が導かれるからだ。これは、絆を求める者が絆から排除されることによって、あらゆる絆を破壊しようとすることに似ている。「誰もオレのことを分かってくれない」という叫びは、自分のすべてを分かってもらいたいという甘えばかりか、絆への幻想、幻想の必然的帰結としての絆への絶望、ついには絆の破壊衝動を含んでいる。そこには、自己・他者・媒介への呪詛、世界の破壊衝動が潜んでいる。

 絆とは、壊れやすい不安定な自己を保護し、守ってくれるものではない。絆の確立とは他者を無毒化することではない。むしろ、他者の有害性が直接侵入してくる通路を開くことだ。その通路は、抵抗も障碍もない通路ではなく、検閲と抑圧に満ちた通路だ。しかも、通路を往来する内容とは無関係に、通路そのものが、慣習・規約・規則に満ちた制度的存在である以上、通路を開くこと自体が自己を危険に晒す。しかし、危険に身を晒さなければ、自己を守る免疫も成立しない。誤った天使主義は、いかなる病気からも免れて無菌状態にとどまること、それどころか自己の内臓に棲む細菌をも消滅させることを夢想することに似ている。

 もちろん、安全な「絆」が可能だと考えるのも、安直でしかなかろう。私と世界との間には、共通の尺度など存在し得ないこと、顔の表情の背後にあるものに踏み込むこともできぬまま、顔と顔とを対峙させたまま存在するしかないこと、断絶しかないこと、こちらのほうが現実味を帯びている。この共通の尺度が存在しないことを、共約不可能性(incommensurabilitas)と呼んでもよい。

(山内志朗「天使の記号学」岩波書店/2001.2.7発行/P20-23)

 ぼくはこうした電子的なネットワークで、「絆」を創ろうとしているのだろうか。そのことを自問自答してみる。

 然りとも、否ともいえる。

 こうして書いている言葉を通じて、「自分の思いが、思いのままに伝わること」を夢想してなどいないし、おそらくは、それを「裏切る」かたちで伝わったりすることのほうが、むしろずっと多いのではないかと思っているくらいである。

 しかも、こうしたことで生み出される「絆」というのは、「他者の有害性が直接侵入してくる通路を開く」ことでもある。こうした「通路を開くこと自体が自己を危険に晒」すことにもなる。実際、「おまえはなんでそんなことを言うのか、気に入らない」と思っている人も多いだろうし、そういう人の「思い」も、実際に言葉にするかどうかは別として少なからずいるだろう。

 そういう人の常として、個人メールを送ってきたりするときもあるが、そういうときの多くは、ぼくとしてはそれに対応する気持ちはなかったりもする。なぜ対応する気がないのかといえば、そういう人は自分を安全圏に置いたままであるからだということもいえる。

 こうして書いていることは、ほんとうに無防備なのだ。相手の姿が見えないまま無防備に周囲に身体をさらしているようなもの。多くの人が投稿することにおそらくはかなり抵抗があるだろう理由も、その要因があるのだろうといえる。

 それならば、こういうMLやHPなど開かなければいいのに、ということもいえるだろうし、少しはぼくもそう思っていたりもするのだけれど、こうした「絆」によって、自分のなかにあるさまざまなものに、予測のつきにくいものを「感染」させてみることを通じて、むしろ「自己を守る免疫」を成立させることができるだろうということもいえる。

 パソコン通信を始め、「神秘学遊戯団」という場をつくって足かけ10年になるし、インターネットでそれを続けてからも足かけ4年になるが、なぜそれを始めたのかといえば、おそらくそれは、「人間嫌い」をやっと克服しかけたということがいえると思う。

 おそらくそれまでのぼくのなかには、少なからず、「誰もオレのことを分かってくれない」「自分のすべてを分かってもらいたい」という甘えや「絆への幻想、幻想の必然的帰結としての絆への絶望」、「絆の破壊衝動」そして、「自己・他者・媒介への呪詛、世界の破壊衝動」が潜んでいたのだろう。それがやっと少しは克服されかけた頃に、やっとこうした場の可能性に対して、自分を開いてみようという気になることができたのだと思っている。

 わかりやすくいえば、それまでのぼくにとって、「絆」とは一方的に「慣習・規約・規則に満ちた制度的存在」であり、その危険性に自分を晒すことを避けようとしていたが、「誰もオレのことを分かってくれ」なくてもいい、むしろそのことによって免疫を高めてみよう、そのなかでこそ「慣習・規約・規則に満ちた制度的存在」でない「絆」の可能性も開けてくるのではないか、ということを思うようになったということだ。

 語ることは騙ることだ。人は騙らずに生きてはいけない。だとしたら、騙ることを通じて、自らを開いていくしかないではないか。二十歳の頃そう思ったことを、それから十年以上経ってやってみようとしたということでもある。

 

 

風のトポスノート285

個と孤


2001.2.14

 

 あまりにも自分の暮らしに慣れ親しむと、内界に目を向けることがむずかしくなる。惰性の暮らしに新しい興味や、冒険心をそそる発見は求むべくもない。ところが、人は生涯の旅に必要なすべてをあらかじめ与えられている。半影に包まれた魂の世界が大いなる謎であるのはそのためだ。人は仄暗い魂の光についてもっとよく知らなくてはならない。自身の内面と、希望に満ちた孤独に目覚めるための第一歩は、ほんのしばらく、奥深い魂の世界で自分は異邦人なのだと思ってみることだ。自分を人生の渚に降り立ったばかりの、右も左もわからない異邦人と見るのは慢性を打破する知恵の実践である。この考えは、独善と馴れ合いの首枷から人を解放する助けとなる。異邦人の立場に身を置くと、やがて内界の神秘を感じられるようになるだろう。人は自分が袋小路の人生の無力な主権者ではなく、自身では創り出すことも育てることもかなわない祝福と可能性に恵まれた行きずりの客であることを知るはずである。

(ジョン・オドノヒュウ「アナム・カラ/ケルトの知恵」角川21世紀選書/2000.8.30発行/P82)

 日本語表現ではあるが、個と孤が同じ音であることは興味深いことだ。

 個は決して自明のものではなく、むしろ人は自らを自らにとっての異邦人として見出すことで、はじめて個の萌芽となりうるという側面があるように思える。

 孤独であるということにおいても、人は自らが自らにとって異邦人たることを発見せざるをえなくなる。

 外的に対する人の間にあって、しかも惰性化された生活のなかで、人は自らを自らにとっての異邦人として見出すことは稀であろう。人は多く自らを見知らぬ者として見出すことはむずかしい。そこにおいて、自と他というのは自明のものであるように現われる。

 自明性という闇にむしろ光が当てられ、はじめて出会うものとして対することができるために、孤独であるということは大いなる光であるということができる。孤独から目を避けようとすることは、自明性を疑わないということだ。

 同様に、個であるということは、類であるという自明性のなかでみずからを見出そうとする闇への光であるということができるのではないだろうか。

 孤であり個であるということにおいて、人は常に旅人であり、決して惰性化されない神秘を生きる存在であることを知ることができる。

 

風のトポスノート286

複雑と矛盾


2001.2.15

 

 複雑さにもいろいろな形態があるが、中でも興味深いのは矛盾である。我々は、矛盾を魂に具わった建設的な力として再発見しなくてはならない。(…)

 人格が包含する多様な特性の交流を促すために、人は忍耐をもって内界の矛盾と向き合わなくてはならない。矛盾は目に見えぬ光と強烈なエネルギーを秘めている。エネルギーのあるところには、生命と成長がある。禁欲的な孤独は内界の矛盾をくっきりと浮き彫りにする。矛盾の持つエネルギーをあくまでも信じるなら、やがて人はあらゆる矛盾を突き抜けて、その向こうに精神の諧和を見出すはずである。その時、人は新たな勇気を得て、危険と暗黒を孕む人生の深淵に臨むことができる。

(ジョン・オドノヒュウ「アナム・カラ/ケルトの知恵」角川21世紀選書/2000.8.30発行/P99-100)

 創造的な単純さのなかには驚くべき複雑さが内包されている。限りなく動的でありながら静として現象しているともいえるだろうか。

 複雑であるということは限りなき矛盾を抱えているということである。矛盾を見出しそれに向き合う勇気を得ることができるならば、宇宙はその統合への道を開示してくれるのではないだろうか。求めよ、さらば与えられん。とはいえ、矛盾を生きるということは、「危険と暗黒」に身を投じることでもあり、「求める」ことは非常な困難に身を置くことにもなる。

 しかしながら、矛盾を避け、静的な単純さのなかを歩もうとするならば、そこにはいかなる創造性の秘密も開示されはしないだろう。創造は常なる生成変化であり、生成変化のためには、矛盾が統合されさらに矛盾を生みまた統合されるということが不可欠だからだ。

 おそらく神はその常なる創造である生成変化の統合された存在であり、ゆえに、限りなき創造そのものでありうる単純さにおいて、もっとも大いなる矛盾を生み出しつつそれらを統合し続けている限りなき存在であるということができるのではないか。

 そういう意味において、神なる完全さというのは、静的な完全さではなく動的な完全さでなければならない。故に、その内には矛盾の主でもある悪をも孕んでいるといえる。

 

 

風のトポスノート287

染め


2001.2.18

 

宇佐見 リルケの(『マルテの手記』の中の)言葉に「詩人になるためには、一輪の花が蕾から花を開く時を、夜通し起きて朝開くまでじっと待って、それを見なければならない」とそういう意味の言葉があります。その言葉に感動したことがありますが、しかし現代の人は、悪口になりますが、せっかちで、気長に自然を見る精神を失っていますね。自然に耳を傾けることをしない。現代はただ無闇と書くこと、自分を主張すること、或いはこういってよければ、自分が馬鹿でないこと、自分も相当のものだということを、人に認めさせよう、そういうことに汲々としているように思われます。謙虚に自然の言葉を聞きとって書いている人、それはわりに少ないですね。

志村 本当にそう思います。染めで化学染料というのは、一挙に濃い紺なら紺にぱっと染められるわけですね。ですけれど藍を染める場合は水浅黄から縹、濃紺と徐々に重ねていって四十回位かかるんです。濃い紺まで。その過程の一つ、一つ、この色も次の色もみな美しいんです。ですからそれを何年か着て洗っているうちに、色が徐々に薄れていって、染め重ねた段階にはげていくんですね。人間が歳をとっていく、段々と老いていく姿と同じように、布も使っていくうちにぼろぼろになりますわね。ですけれど老いながらも布が柔らかくしなやかになり、色もはげるけれど冴えてくるということもあります。ところが化学染料は一挙に染まってしまいますから、一挙にさめてしまうんです。いまおっしゃるような文章でもそういうのがありますね。知識が豊富でいろんな経験を積んでいられて、ぱっと書ける人もあるけれど、非常に花開くのがおそくて徐々に開いていく、本当に藍なんかもそうですね。そして藍染めが四十回で終わるとしても十九回目に気を抜いたら駄目です。茜なんか百回、九十九回目にちょっとほかの色なんかがついたりしてももう駄目なんです。その間の緊張というか愛着というか、本当に糸を愛してしまうんです。もうそうなってくると、この糸が大事で大事でしようがないんですよ。

(宇佐見英治・志村ふくみ『一茎有情ー対談と往復書簡ー』ちくま文庫 2001.2.7発行/P47-48)

 今の自分という色がどれほど重ねられた色かと考えてみると、ほとんど化学染料のようなもので、何かあるとすぐに「一挙にさめてしまう」ようなものでしかなさそうだ。

 最近になってやっと少しだけ感じられるようになった、人の魅力というのがある。それは、おそらく藍や茜のように「染め」が重ねられているであろう人やそうでなくても、なにかをじっと見つめるつづけること、聴きつづけることを、それがいつもはじめての驚きのようにする人の魅力である。もちろん後者のような「染め」が繰り返されることで、藍や茜のようになってくることになるんだろう。

 そうした人の魅力、色を感じ取ることができただけでも、とてもうれしい。自分のいろんな付け焼き刃などのことにも、それに変にしがみつかないでちゃんと「染め」を重ねること、そしてどのような「染め」が美しいかにも気づくことができるから。

 人を愛するためには自分を愛さなければならないともいわれる。自分を愛するということはおそらく、「一輪の花が蕾から花を開く時を、夜通し起きて朝開くまでじっと待って、それを見」るように、自分のことをじっくりと「染め」るということなのかもしれない。それができないとおそらく人の「染め」を感じ取ることもできないのだろう。

 もちろん、人は人であるということだけでも、そこに無窮の宇宙の生成を重ねて続けている存在であるということもできる。その生成はおそらく「染め」にも似ている。だから、こうして生を生き続けているうちに、その重ねられた「色」がはげていくうちに、いろんな色がそこに現われてくるのだろう。もちろんそれと同時に人は常に「染め」をも繰り返している。その不思議・・・。

 

風のトポスノート288

時間と人間


2001.2.19

 

人間は

過去へも

未来へも

行ける

 

記憶

思い出……

 

理想

憧れ……

 

それは

人間の力だ!

才能だよ

 

ぼくにも

クリロ

フィー

きみたちにも

あるんだよ

 

人間は

現実の時間を歩きながら

頭の中で時を

戻ったり先へ

進んだり旅行できる

ってことなんだ!

 

100万光年先の

星も

想い浮かべられるって

ことなんだ

 

なんだか

空想小説

みたい……

 

そう

空想さ

 

空想できるのは

生物の中で

人間だけだ

 

(坂口尚「石の花」1侵攻編/1996.7.12発行/P31-32)

 

 今、ここにいるということ。そのことを悟りだという人もいるように、今、ここにいないことが、人の無明だということもできるかもしれない。無明ゆえに、過ぎ去った過去を悔やみ、これから来る未来を思い悩んだりもする。

 けれど、今、ここにいないということ、過去へ未来へと空想を広げることができるからこそ、人間であるともいえるのではないだろうか。

 心の吾、と書く悟り……。人の心はほんとうに不思議だ。その吾の心が時間のなかを生きている。過去、現在、未来……時間とはいったい何だろう。

 こことそこという空間がある。そしてここからそこに至るためには時間が必要になる。もし、こことそことの時間の距離がなくなって、まったく重なってしまえるとしたなら、空間と時間は同じものになるのかもしれない、とか想ったりする。

 宇宙が原初まったく一点であったとしたら、そのとき時間は空間と同一であったはずだ。それが「多」となることによって時間を必要とする距離が生まれた。

 もし、ぼくがきみのところに行こうとしたとして、地球の裏側まで行かなければ会えないとする。そのためには飛行機をつかったってかなりの時間が必要になる。声だけを届けようとしたってわすかの時間は必要になる。けれど、ぼくの想いがきみに届くためには、ひょっとしたら時間は必要ないかもしれない。そしてそれと同時に、ぼくの思いは、きみとの過去と未来へと自由に行き来することもできる。

 その不思議のなかに、人間は生きていて、愛したり、憎んだり、悔やんだり、夢をもったりする。そしてときおり、今、ここにすべてを感じて至福になったりもする。

 人間という、摩訶不思議……。

 

 

風のトポスノート289

却来


2001.2.21

 

さて、下三位と云つは、遊楽の急流、次第に分かれて、さして習道の大事もなし。ただし、この中三位より上三花に至りて、安位妙花を得て、さて却来して、下三位の風にも遊通して、その態をなせば、和風の曲体ともなるべし。

(さて、下三位というのは、能における「急」の類であり、いろいろ分かれてはいるが、あまり大切な心得もない。しかし、この中三位の芸境から進んで上三花の芸位にまでのぼり、安き位や妙花の境をきわめて、然る後に逆もどりして、下三位の芸にも自由に出入りし、そのわざをするならば、それは、優美さに強さを加味した演じかたとなるであろう。)

却来(きゃくらい)/もういちど、もとに返ること。禅宗では、悟りを達成した後、再び悟る以前の境界にもどる意。

(世阿弥「九位」/日本の思想8 編集・小西甚一「世阿弥集」筑摩書房 1970.7.25発行P293-295)

 世阿弥のいう「九位」というのは、「下三位」「中三位」「上三花」である。

 そして、その「九位」を習する順序は、「下三位」「中三位」「上三花」の順ではなく、「中三位が初め、次に上三花、下三位の芸は最後」とされる。

 教育においても、そうなのだろうという気がする。中が初めで、次に上、そして下。つまり、幼児教育が最も難しい。そこには、肉体の成長という要素がもっとも重要なものとして考慮されなければならないからだ。その意味はとても深い。

 さて、その「九位」のなかで、世阿弥の「却来」という後期の重要思想が出てくるが、その「却来」で思い出したのはイエスの言葉だった。

 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ福音書)

 高きに至ったものがあえてみずからを低くするとき、その低さこそがもっとも高きものなのだ。故に、イエスは弟子の足を洗う。

 おそらく、学問においても、政治においても、高き「位」を修めれば収めるほどに、「下三位」へと向かうことが要請されるのだろう。その意味は限りなく深いが、それを悟るものは稀なのだろう。我が国の現在の首相も、「天の国」にははるかに遠いだろう。「神の国」の発言などもあったにもかかわらず・・・。

 

 

風のトポスノート290

握一点開無限


2001.2.28

 

志村 …その頃新匠会には、富本憲吉先生、稲垣稔次郎先生と揃っていらして、随分いろんなことを教えていただきました。富本先生が「一度話したいことがある」と手紙を下さって、何ごとかしら、お目玉をいただくのかもしれないと、恐る恐る伺うと、いきなり「あなたは何が好きですか」ってきかれるんです。「本を読むことが好きです」といったら「じゃあそれだ。国文学でも外国文学でも何でもいい、勉強しなさい。織ることなんて、いやでもこれから毎日やるんだから、放といてもいい。それよりほかの勉強をしなさい。私は数学をいまでもやっている。建築も好きで英国に留学したくらいだが、それがいま陶器に役立っている。自分の周囲の工芸家を見ていると、技術ばかりに偏って、内容が希薄になってゆく。何でもいいから潤滑油になるものとして、内容を豊かに育てなさい」といわれました。たった二、三分の話でしたが、生涯忘れません。この頃になってその重みがよくわかります。

宇佐見 二、三日前にある日本の演奏家について絵描きの友達の堀内規次さんがいったんですけど、「日本の演奏家は、文学を、本を読まない」っていうんですね。勿論例外的には詩や文学をよく読む演奏家はいますが。しかし作曲家の人たちはほかのジャンルの人に比べてよく読むと思いますね。作曲家は歌曲を作るのですから、当然生きた言葉に敏感ですし、詩や文学、或いはすぐれた作家、思想家の書物を真剣に読む人が多いですね。(…)日本の演奏家があまり本を読まないというのは、どうしてかわからないんですがーー尤も僕が知っているのは少数の演奏家ですからーー堀内さんのいったことがどれだけ正当かどうかわかりません。ただ、さっきおっしゃった富本さんの「何が好きですか」ってこと、別に音楽に限らないんですけれど、私どもの仕事からいっても同じことがいえますね。

(…)

志村 …機織が、楽器のように思える時があるんです。…経糸が弦のように思えるんですね。主題を繰り返すとか、追いかけるとか、間をおくとか、弦の太いボーンという音を入れたり、こまかくしたり、糸の太細とか色の強弱とか、何だか作曲に似ているみたいです。ですからいつか書いたのですが、「ひとはなぜガラス絵や、玉や、貝殻のように織物をみないのだろう」と。どんな仕掛がしてあるかばかりを気にして。それよりその仕掛から織物をときほぐして、糸のあわいから聞こえてくる音色や、少し光の領域にはみ出しかかっている色のさざめきなどを聞いてみたいって。

(宇佐見英治・志村ふくみ『一茎有情ー対談と往復書簡ー』ちくま文庫 2001.2.7発行/P179-184)

 その一点には、宇宙のすべての可能性が存在している。しかし、その可能性を開示させるためには、その一点に働きかけるあなたそのものに、それが映し出されていなければならない。

 あなたがその一点に注ぎ込まれるとき、その一点は宇宙の創造の焦点となる。

 もしあなたのなかに何も映し出さないのだとしたら、その一点は何も語らない空疎なものでしかないだろう。

 一点に集中するということは、限りなく開くことでなければならない。そのことに気づかないままに、その一点にとらわれてしまうならば、それはまさにあなたがその一点の牢獄にいるということにほかならない。

 たとえあなたが全世界を自由に旅することができたとしても、みずからが開かれていないとしたなら、あなたは牢獄にいる。しかし、みずからが限りなく開かれているとしたならば、「胡桃の殻のなかに閉じこめられても無限の天地の主」であることもできる。

 すべてを音楽のように聴くこともできる。たとえば、あなたそのものが楽器であり、生きることはその楽器を奏でることであるように。

 そのように、すべてのなかに、宇宙のすべての可能性を見出し、そこからなにかを引き出すことができる。イエスが腐敗した犬の死体を見たとき、弟子達がいやがるなかで、イエス一人が「なんときれいな歯をしているのだろう」と賛美するように、どんなもののなかにも宇宙の可能性の一部を見出すことは可能である。

 しかし、みずからが自分の可能性を閉じるとき、宇宙は閉じたまま何も語らない貧しいものになる。「求めよ、さらば、与えられん」故に、求めなければ何も与えられない。求めるということは、その一点において開くということにほかならない。握一点開無限。その一点のなかに無限があり、それを開くのはあなたをおいてほかにはない。

 


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