風のトポスノート241-250

(2000.9.16-2000.10.24)


風のトポスノート241●選択

風のトポスノート242●形の不思議へ

風のトポスノート243●星の部

風のトポスノート244●循環無端

風のトポスノート245●最大公約数

風のトポスノート246●天使と悪魔

風のトポスノート247●噂

風のトポスノート248●自明性の崩壊から

風のトポスノート249●恐れ

風のトポスノート250●大学なんかいらない

 

 

 

風のトポスノート241

選択


2000.9.16

 

ハリー、自分がほんとうに何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ

(J.K.ローリング「ハリー・ポッターと秘密の部屋」静山社/P489)

一瞬一瞬の選択で無数の世界が分岐していく、そんなパラレルワールドのイメージで、世界をとらえてみる。そうすると、無数の選択が積み重ねられた結果として、今この私がここに存在しているのがわかる。

今この私になにができるのかということも、その選択の積み重ねの結果でもあり、それそのものが、私が何者なのかを表現しているのだといえるだろう。

選択の自由と創造の自由ということがいわれるが、その両者は別のものではないことがわかる。それはともに、私が何者なのかについての個性の表現である。

宇宙は、無数の「私」の織物である。その個性の表現である選択と創造によって、宇宙が織られて、常にその模様は変化し続けていく。

どんな模様を織りたいか。そのことをどれほどイメージできるようになるか。そのために選択と創造をどのように駆使していくか。それは、生の、そしてもちろん死の豊かさになっていく。

 

 

風のトポスノート242

形の不思議へ


2000.9.26

*「つどいの森」10月号用原稿(9月の十二面体ワークショップに参加して)

コンパスや定規を使って図形を描くのが好きで、いつまでも描いていたいと思っていたのを今でもよく覚えている。同心円をいくつもいくつも描いて飽きなかったし、円と直線の出会いはまるで魔法のようでもあった。

正多角形が円に内接するのもどこか不思議だった。n角形のnが大きくなればなるほど限りなく円に近づくという、あたりまえのことのように見えることも、とても不思議に思えた。

やがて、その不思議は、平面から立体へ向かうことになる。プラトン立体である。正四面体、正六面体(立方体)、正八面体、正十二面体、正二十面体。正多面体が球に内接するのは、この五種類だけだという。しかも、その面は、正三角形、正四角形、正五角形だけ。なぜだかわからないが、そこに形の不思議、宇宙の謎が集約されているような、そんな気がしてならなかった。

今回、「つどいの森」でつくったのは、正十二面体。どうやってつくるんだろうと思っていたのだけれど、ポイントは、辺となる木片を切り取るときの角度と辺を接着するときの土台ともいえる立体型の型紙だった。型紙が必要になるのは、面が正五角形であるため、それを立体的に接着していく際、非常に不安定になるからである。

時間が少しあったので、ついでに正八面体も作ってみたが、もちろんこの場合は、型紙は不要で、木片の切り取る角度だけをちゃんと考えていれば、辺と辺の接着は比較的スムーズにできた。正二十面体でも、特には型紙はいらないということである。これは、面が正三角形であるため、それを立体的に組み立てていくときにも、比較的安定した状態で進められるのである。

ところで、普通五角形を描こうとすると、円の中心角の360度を五等分して72度ずつに分度器で作図すると簡単に描けるのだが、いわゆる幾何学で作図をするときには、分度器は御法度で、コンパスと定規だけで作図しなければならないらしい。これはけっこう難しい。この難しさは、正十二面体をつくるときに型紙が必要になるということと似ている気がする。

さて、作った正十二面体と正八面体を眺めているうちに、あらためて正十二面体という形のもつ特異さを感じた。正六面体(立方体)の面が正方形であるというのはわかりやすいし、正四面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の面が正三角形であるというのも、なんとなく納得がいく気がする(理解しているわけではないけれど)のだけれど、なぜ正十二面体の面だけが、正五角形という不思議な形なのだろう。正五角形という形には、何か秘密がありそうだ。

正五角形は、いわゆる五芒星(ペンタグラム)。かつてピタゴラス派はこの五芒星をシンボルにしていた。この形は完全な形で黄金律に支配されている。辺の間の比が、φ=1.618から割り出すことができるのである。五芒星の中には正五角形があり、その対角線を結ぶとそのなかにまた小さな五芒星が現われる。縦と横の長さの率が黄金律になっている長方形は黄金矩形と呼ばれ、その中にまた正方形と黄金矩形が現われ、それは無限に繰り返される。その対角線に沿って直線を結ぶと対数螺旋ができるが、これを自己相似形といい、フラクタル図形もこの特徴を持っている。プラトンも、「ティマイオス」のなかで、正五角形で構成される正十二面体を「神の立体」とし、ケプラーも、その宇宙モデルのなかで、地球の起動を正十二面体に内接するとしていたりするが、黄金律に支配された正五角形によってできる正十二角形は、まさに黄金立体とでもいえるように思える。

さらなる不思議は、プラトン立体相互の関係である。正十二面体には、正二十面体が内接する。またさらに、正二十面体には正六面体が内接し、その正六面体には正八面体が内接し、正八面体には正四面体が内接、正四面体には正六面体が内接し、正六面体には正八面体が内接し、正八面体には正十二面体が内接する。つまり、12→20→6→8→4→6→8→12→20という流れができる。「6→8」という流れと「12→20」という流れの中心に「4」があるのもわかる。つまり、正四面体がプラトン立体の中心に位置しているのである。もちろん正八面体には、正四面体と正十二面体が内接可能なので、正四面体を除外して、12→20→6→8→12→20→6→8という内接関係をつくりだすこともできる。これはひょっとしたら、宇宙構造の二つのタイプなのかもしれない、などと妄想を広げてみたりもしてしまう。

こういうことを考え始めると、数と形の関係、そしてそれがいったい何を意味しているのかが気になって仕方がなくなる。その神秘の世界への誘いとしても、今回の「正十二面体」づくりは、いいきっかけになるのではないかと思えた。このシンプルさのなかにある永遠の神秘の予感がうれしくなってくるとでもいおうか。それよりなにより、やはりこの形はいくら見ても見飽きない魅力をもっている。

 

 

 

風のトポスノート243

星の部


2000.9.28

 

鏡 西洋占星術の世界では、ものすごく合理的な側面と、マジカルな側面が、パッチワーク状に繋がっているんですね。そのパッチワークの境界にどうもくっきり線がある。魔術的な占星術をやっている人と、宇宙を機械と見なして、科学的でマニュアル的な占星術をやっている人と、かなりはっきりとした潮流の違いがあると感じています。ところが、改めて『陰陽師』を読んでみると、魔術的な面と科学的な側面が、わりと渾然一体となっている。「天の理を知る」だけじゃなくて、それに対してはたらきかけをすると応答してくるっていう感じ。それがすごく面白かった。

(…)たとえば西洋占星術では、この地球の世界、月より下の世界と上の世界は完全に分かれているんです。月より上は完璧な秩序の世界。月より下は、物が滅んだりする可変的な世界。不完全であるがゆえにグシャグシャになっている。不完全だから予測は不可能にしても、天の動きを見ればなんとなくわかるんじゃないかって感じなんですね。だから占星術のメインストリームからすると、星の神々に向かってこちらからはたらきかけることは、できないんですよ。(…)

岡野 唯一彼(安倍清明)の残した「占事略決」には「こういう卦が出たら、こう読みなさい」とか、本当にマニュアル的なことしか、書かれていないんです。だから実在の安倍清明が星との交流を考えていたかどうかはわからない。ただ、当時の神楽には、天皇が神遊びをする時間があるんですよ。その神遊びのシステムの中では、交流があったと思いますね。神を下ろして、神遊びをして、送り返す。その「送り」の部分は「星の部」と呼ばれているんです。

ーー神楽は天の秩序を糺すために行なわれるんですか?

岡野 糺すというより、一緒に遊ぶという感じですね。歌の中に「ましも神ぞや、あそべや あそべ」というフレーズがあって、「猿も神だ、あそぼう」といっているんだけど、私にはみんな一緒に神となって遊ぼうといっているように聞こえるんです。

鏡 まさに「交感」しているんですね。

岡野 ええ。その時使われる音階は、歌うと人間の七つのポイントに響くんですよ。

(岡野玲子+鏡リュウジ「西洋東洋、占星術比べの儀」鳩よ!10・2000・No198 マガジンハウス P24-26)

「○○の星の下に生まれる」という表現がある。おそらく人は生まれるときに、自分で星の糸を紡いだ衣を着て生まれてくるのだろう。しかしその衣は目にはみえないもので、私たちの内なる世界に着られている。

占うというのは、裏をなうということ。裏だから表には見えないけれど、しっかりとなわれている。そして私たちをその裏から操っている。けれどその操っているのも自分という不思議。そしてある意味では、その内なる衣は、カルマでもある。

カルマは、預言が預言を回避するためのものであるように、そこから学ぶものであり、それに対しては、その原因となっている否定的な感情のエネルギーを許したり、それをしっかり果たさせてあげるということが重要だという。その際に重要なのは、自分がどんな内なる衣を着ているのかをしっかり見ようとする認識姿勢なのだろうと思う。そのしっかり見ようとすることが、「星の神々に向かってこちらからはたらきかけること」なのだろう。

内なる衣は、星がちりばめられた楽器でもあり、私たちはその楽器を奏でている。そして、その演奏技術が問われているともいえる。私たちを使って素晴らしい演奏をしてくれるのは「神」で、それを「神遊び」というふうにいうこともできるかもしれない。

しかしふつう私たちは稚拙な演奏技術でみずからを演奏している。楽譜さえまともに読めないかもしれないし、最初に演奏しようとした曲とは次第に別の曲を演奏してしまうようになるかもしれない。あまりにむちゃくちゃな演奏になってしまうときには、それに気づかなければならないので、警告が発せられたり、「裏ない」で、あなたは本来こんな楽器で、こんな曲を演奏するために生まれてきたのですよ、と示唆してもらわなければならない。そして、自分の楽器の本来の響きに耳をすませてみようとする。そうすれば、ひょっとして、どこかから、「神遊び」で奏でられるはずの調べが聞こえてくるかもしれない。

 

 

 

風のトポスノート244

循環無端


2000.9.28

 

岡野 雅楽のなかの特に音律、それと天文学、暦はほとんど一緒に発生しているんですね。

芝 これはね、話すと大変なことになってしまうんですがね。中国の三皇五帝にまで話がさかのぼっていっちゃうんです。それから易学、占いのほうへ行って、それが発展していって、陰陽五行説になって日本に入ってきているらしいんで、大変なこっちゃなあ(笑)。(…)

岡野 今読んでいる本によると、易の筮竹を二七一本合わせると、正六角形になるんですって。そこから音律を計算してということなことが書いてあって……。(…)

とにかくみんな数学なんですよね。

芝 そう、すべて数学です。

岡野 そして音律と一緒に暦がある。

芝 当然ですね。古い中国には三という数字を駆使して音律を求める計算があります。九寸の竹を使うのですが、弦でやる場合もある。九寸の竹で得られる音である黄鐘(古代中国音名。西洋のC)を三等分してひとつ(三)をとると六寸になる。つまり五度上の音(G)ができる。六寸をまた三等分して、今度はひとつ(二)足すと八寸になる。つまり四度下がる(D)。こうした計算を繰り返して一オクターブの十二音を求めていくのです。漢の時代からそういう計算がすごく発達するのです。ところがこの計算でいくと、本来一対二であるはずのオクターブに微妙な差が生じる。だから何度も繰り返していくと、半音のあいだにものすごくたくさんの音が得られるわけです。陰暦に合わせて三六〇個の音を計算して、すべてに名前をつけていった暇人もいるらしい。

岡野 音がどんどん螺旋を描くわけですね。

芝 これを「循環無端」と呼んでいます。

(岡野玲子+芝祐靖「安倍清明と楽との関わりを探ること」鳩よ!10・2000・No198 マガジンハウス P32-33)

エッシャーの有名なだまし絵に、階段をのぼるうち、いつのまにかもとに戻ってしまうのがあるが、音階のだまし絵ならぬ、だましオクターブの連鎖のようなものがある。ドレミファソラシド・・・とその音は常に上昇しつづけるように聞こえる。が、実際は倍音を巧妙に使用していつのまにか最初の音に戻っている。

これは、視覚や聴覚の錯覚を利用した巧妙な仕掛けなのだが、ドレミファソラシド・・・は、ほんとうにドレミファソラシド・・・なのだろうか。平均律というのがあるが、これは1オクターブを閉じたものとしてとらえ、その各音をかなり恣意的に分割したものである。決して自ずと12音が決まるわけではない。

しかも、1オクターブは、倍音が生じるように閉じていながら、同時に、閉じてはいないのだ。オクターブごとが少しずつずれながら、無限の螺旋を描き、下降し上昇している。この倍音的なオクターブと常にずれを内包しながら無限螺旋を描いているオクターブ。その両者の、矛盾のようにみえるものをどうとらえればいいのだろうか。

倍音というのは、人を癒やすのに適しているともいうが、なぜそういう調和的に響く音だけではなく、常にずれ続ける螺旋状のオクターブも存在しているのだろうか。ひょっとしたら、この矛盾そのものに人間の謎が隠されているのかもしれない。

もし調和だけが存在しているのだとしたら、そこに自由というものは存在しえないのかもしれない。自由ゆえに、オクターブにはかすかなズレがあり、上昇の可能性と下降の可能性が生じてくる。

ひょっとしたら、空間にもこういう調和とズレという二つが矛盾的に存在しているのかもしれない。そして、そのかすかなズレをかいま見ながら私たちは生き、そこに生じたズレによって、空間性が時間性に転化していくのかもしれない。東洋の円還的な世界観と西洋の直線的な世界観というのもそのふたつの典型的な現われなのかもしれない。・・・と勝手な妄想にかられたりもする。

ともあれ、螺旋状に上昇する音はいったい何処に向かい、下降する音はいったい何処に向かっているのだろう。ひょっとしたら、その上昇する音と下降する音は、メビウスの輪のようにつながっているのかもしれない・・・。

 

 

 

風のトポスノート245

最大公約数


2000.10.2

 

この土日、缶詰状態でクリエイティブ研修とやらを受けてきた。その基本的な視点は、市場環境、商品、消費者をしっかり分析したうえで、広告制作を行なわなければならないというものだった。

個人的な考えでいえば、広告制作をまるで芸術表現のようにとらえるのはまったくのエラーであると思っているのだけれど、だからといって、広告効果を事前に予測するために、消費者への調査をデータ化したものに依存しすぎるのもどうかと思う。

調査の仕方がどういうものかにもよるのだけれど、その調査において問われることというのは、一見、客観的を装っているにもかかわらず、多くは調査をする側のもっている「常識」の域をでるものではない。その「常識」からする問いの組み立て方によって、調査対象の選定の際、その「常識」があてはまる対象かどうかにもよるが、どちらにしても最初から結果はほとんど決定されているといってもいいと思う。

広告効果に関する調査というのは、基本的にアメリカ型であることが多く、アメリカの場合、日本とは異なり対象となる人たちの差異が大きいため、最大効果をあげるための最大公約数の特定がきわめて重要になってくるが、日本の場合は、アメリカほどの差異を前提にする必要はないはずである。つまり、「最大公約数」を予測するのは、比較的易しいということである。皮肉なことだが、ほんとうに調査が必要な内容というのは、調査しえず、調査のあまり必要ない内容ばかりが調査にかけられることになってしまう。

もちろん、ある商品を最小限のリスクでペイライン以上に乗せようとすれば、そのリスク回避のための調査が必要であるということは理解できる。つまり、ある広告表現のもつ予測不能のリスク部分をできるかぎり避けたいということであり、それによって、その商品をある一定以上売ることができるようになる。つまり、減点法による合格点の最低ラインのクリアが目的であって、加点法という発想はとりにくくくなる。つまり、売りたい人たちの持っている傾向性を最大公約数的におさえようとするきわめて民主主義的な広告表現になるということなのだ。つまり、フツーであるということ。

ぼくとしても日々の業務においては、その「フツー」をできるだけちゃんと伝えるということを念頭におきながら、広告を制作しているのだといえる。そして、これは広告制作においては、非常に重要なことなのだ。けれど、その「フツー」は、「フツー」のレベルを決してこえないし、決して超えてはならないのである。そこにある驚きや斬新なようにみえる内容や表現に関しても、その「フツー」に理解できないようなそれであってはならない。

しかし、そうした広告的な最大公約数は、きわめて皮相なそれであって、たとえば、「真理」とかいう高次のそれを意味することができない。それは、「自由」によって獲得されねばならないからである。もちろん、「真理」などというものをつくってしまうと、そうでないものが存在してしまうことになり、現実がスポイルされてしまうという逆説的な発想も必要だけれど、ここでいうのは、なにもしなくても与えられている状態の安易な最大公約数的な共通項はだれでもわかりやすいけれど、人間が人間であろうとするために必要な深い共通項(の可能性)は、獲得されねばならないがゆえに、とてもわかりにくいということである。

現代では、あまりに皮相な民主主義的慣習がまかりとおっているがゆえに、自分がわかりにくいことは、わからせてくれないのが悪い、とかわからないならそれを自分にわかりやすいように説明してもらうのが当然だ、というように思っている人も多いのではないだろうか。しかし、人が問えること、疑問に思えることというのは、その人の認識範囲を超えることはできないという逆説がそこには存在している。だから、テレビや新聞、雑誌などで扱われるものというのは、その内容をみればわかるように、最大公約数的な共通項を超えることは稀であるし、一見そうは見えないとしても、問えば答えてくれるように見えるものである。そして人は安心してその答えを聞き、自分が獲得しなければ認識しえないことはそこにはまったく存在する余地がない。

しかし、現代という時代は、そうした最大公約数をふまえながら、いかにそこになんらかのものが衝動として与えられなければならないか、という課題をもっている時代なのではないかという気がする。その衝動をあたえるために、さまざまな事件も起こり続けているといえる。そしてそれらの事件は、自分の外で起こっているのではなく、常に自分の内において起こり続けているといえるのだろう。

 

 

 

風のトポスノート246

天使と悪魔


2000.10.16

 

 あるひとがあるとき、私にむかって「あなたは天使だ」と言った。その同じひとがまたほかのとき、「あなたは悪魔だ」と言った。その言葉に矛盾はないと私は思う。同じ一人の人間が天使にもなれるし悪魔にもなれる。

(谷川俊太郎「クレーの天使」講談社)

もし自分は天使だとだけ思っているひとがいたら、それほどの悪魔はいないだろう。もし自分は悪魔だと思いこんでいるひとがいたら、超弩級の悪魔でないとすれば深いところから光を湛えている天使そのものだろう。

人間が人間であるということは、そこに自由というむずかしい魔法の宝物を抱えながら、天使と悪魔が同居しているということ。いつでも天使になることができるし、天使になったとたんに悪魔に変貌することもできる。

でも、むずかしいのは、天使になっているときに、往々にして悪魔のように思われたりもするということだ。そういうときに天使はいちばん悲しいんだけれど、天使のふりをしないのが、天使の天使たるゆえんなのだ。

気をつけなければならないのは、天使の顔をした悪魔だ。とてもやさしいことばと気づかいで悪魔はあなたをしびれさせる。そしてほんのいっしゅんのスキをねらって牙が光る。

いちばんこわいのは、モーツァルトをききながら、そのそばで人をどんどん殺していっても平気になれることだ。そして家庭ではかぎりなくよいパパだったりもする。アウシュビッツだけのことだと思うと間違いだ。それが私たちの目の前に広がっている現実なのだから。

 

 

 

風のトポスノート247


2000.10.17

 

「噂がどうして流行るか考えたことある?それはね、みんなが望んでいるからだよ、それを。そうしたい、そうなってほしいとみんなが願っているからなんだよね。言葉には魂がこもってますからね、例えじゃなくて。セールスマンとかさ、塾とかでもさ、みんな毎日目標を口に出すじゃない?いくらいくら達成するぞー、とかどこどこに合格してみせるぞー、とか。応援とかしてても相手を倒せー、とか叫ぶわけじゃない、それが真実になるように。それが自分のものになるように。たくさんの人間が噂をすればさ、それは大勢で繰り返しジュモンを唱えているようなものだろ?それはだんだん“真実”に、“本当”になっていくのさ。それって凄く怖いことだよね」

(恩田陸「球形の季節」新潮文庫/P142)

世界は思考でできている。思考は現実化するからだ。だから、思いはそれなりの結果を多かれ少なかれ引き起こす。もちろん、現実化する速度はさまざまで、思考のエネルギーの質と量による。

みんなが集中的に同じことを思えば、その現実化は促進される。どうして世の中はよくならないのか、といえば、それはみんながそれを望んでいるというのが事実なのだろうと思う。世の中を良くしたいという抽象は、非常に希薄な思いなのに対して、それと逆行する心のなかのさまざまはおそらくとても強いのだろう。戦争反対!と叫びながら、同時にいろんな身近な人と闘争したり憎んだりするようなもの。

世の中は、今、ほとんど経済を中心に動いている。マスコミで流れるさまざまな情報や娯楽もそれをそのまま反映したものとなる。需要がなければ、現在のようなテレビや雑誌はすぐにその内容を変えてしまうだろう。人は多く「噂」を好んでいる。有名人はその格好の標的だし、もちろん知人なども同じ標的だ。「噂」を呼吸して、自分をその「噂」で変容させていく。

また、だれかを集中的に呪ったりすると、その思いはいわば生き霊のようになって襲いかかる。もちろん、人を呪わば穴二つで、呪ったほうも同じだし、相手がある程度同じ質の思いでそれを受け取らないとしたら、その呪いは出た方に増幅されて帰ってくる。程度の差はあれ、呪いとまではいかないまでも、人の思いはすぐに生き霊になってその相手に届いてしまう。そしてその反作用もまた帰ってくることになる。それを思うと、けっこう怖い。

世界は思考でできている。私の、あなたの思考は世界をなにがしかであれ確かに創造している。その自由において、その怖さにも無意識であってはならないのではないかと思う。

さて、私は、そしてあなたは、なにを望んでいるのだろう?ほんとうは。

 

 

 

風のトポスノート248

自明性の崩壊から


2000.10.20

 

 文字というのは不思議だ。もう、最初に言葉を覚えた時のことなど思い出せない。読めるということがどういうことなのか説明できない。けれど、じっと平仮名を見ていると、だんだんばらばらになってきてなぜ「ね」が「ね」なのか、なぜ「そ」が「そ」なのか自信がなくなってくる。

 そう言えば、祖父に「なんでも表記できる新しい文字を作ってみろ」と言われたことがあった。最初は簡単そうに思えたが、やってみるととても難しかった。どうしても、平仮名に対応した表音文字を作ってしまうのである。漢字に対応するものはとても作り切れないし、表意文字を作るとほんの一部のものしか表現できず、長い文章を表現することが難しいのだった。祖父は練の作ったものを見て、「これは、文字というより暗号だな」と言った。文字を置き換えて表記を変えただけだというのである。

 マヤ文字を見た時、その時のことを思い出し、これを作った奴も大変だったんだなと同情した。子供の頃は、なんで書なんか飾るんだろうと不思議に思っていた。綺麗な絵を掛けた方が、見て楽しいじゃないか。だが、マヤ文字を見ていると、なぜ人が文字を飾るのか分かるような気がする。文字と絵画の境界は、きっと思ったほど遠いわけではないのだろう。何かを表記したい、残したいという気持ちはいつの世にも存在していたのだ。

(恩田陸「上と外1素晴らしき休日」幻冬舎文庫/P61-62)

 文字をおぼえる前は、そのかたちに違和感をもつのだけれど、おぼえてしまったあとでは、それがまるであたりまえのようになってしまう。

 けれど、ときおり、文字をじっとみているうちに、その文字そのものが意味不明なものをもってくるときがある。それまでのある親密さというか意味をともなった牧歌的なありかたというか、そういうことがどこか疎遠なものとなってくる。それは、文字をおぼえる前の異質さのようなものとは異なっていて、自明のものがそうでない顔をもって迫ってくるような違和感のようなものだ。

 文字だけではない。それまで自明であったはずのものが、その自明性という仮面をはずしてしまうことがある。

 自明のものというのは、ある特定の居場所とかたちをもっていて、安心して対面していられるのだけれど、その決まっているはずのものが、その場所とかたちをはずれてしまうと、その安心がはぎとられてしまい、宙づりにされた状態になってしまう。表現するものと表現されるものの緊密さがゆるむとき、つまり表現するものが表現しなければならないということから離れ、表現されるものが錨をとかれてどこかに飛び去ってしまうのだ。

 人との関係においてもそういうことは、往々にして起こるもので、そういうとき、その人そのものが、それまでその人でしかありえなかったものが、異邦人になってしまうことがあるし、自分そのものが自分にとってそういう異邦人のようになってしまうこともある。「あなたはだあれ」「わたしはだあれ」状態である。

 そして、そういうことは混乱を引き起こすことが多いものの、そのとらえ方次第では、認識そのもののとらえなおしにもなるがゆえに、そういう体験をする際に、その状態としっかりつきあってあげるというのは非常に大切なことのように思う。

 

 

 

風のトポスノート249

恐れ


2000.10.20

 

 みのりは重い足をひきずりながら考える。

 あたしたちは管理された毎日に飽き飽きしている。はるか彼方まで、おそらく死の瞬間まで引かれたレールが、教科書の行間に、テレビのニュースの画面に、朝履く靴の中に見えているのだ。しかし、それ以上に、あたしたちは自由を恐れている。いや、この言い方は正しくない。自由に伴う責任と決断を恐れている。自由にしてやったんだから、さあ決めてみろ。やりたいことがいっぱいあるんだろ?勉強なんか大嫌いなんだろう?じゃあとっとと始めたらどうなんだい?どういう人間になりたいのか、右を歩くか左を歩くか。さあさあ、早く始めたらどうなんだい?何かを決められる人というのは、よほど恵まれている人かよほど選択肢がないかのどちらかだ。けれど、世の中はそのどちらでもない人が圧倒的多数を占めている。

 みのりだって、出来ることなら誰かに決めてほしい。自分が何をすればよいのか、何が一番あたしにとっていいことなのか。ああ、板井さんね、あなたはこれがいいですよ、向いてますよ、一番。誰かにそういってもらいたい。

(恩田陸「球形の季節」新潮文庫/P278)

 なぜ人を殺してはいけないのか。そういう問いが問い直されている。

 これまでは、それは問われるものではなく、いわばモーゼの十戒のような外からくる戒律であり、法律であり、それが「そういうものだ」として疑われることは稀だった。

 そういう自明だと思われていたものが、最近では、問い直されるようになってきている。これまでももちろんそういうことは、問い直されていなければならなかったことなのだけれど、それが切実なことではなかったのだ。

 けれど、「そんなことちゃいけない!」といい放ったとき、「なぜいけないの?」と問われてしまうことが多くなると、「世間様が許さない」「罰せられる」「道徳的でない」とかでは解決できないようになってきているのである。

 そういう問いを自分につきつけることにたえられないと、それをだれかに決めてほしいと思う。だれかが決めてくれると、もしそれが間違っていても、そのひとのせいにできるからだ。

 だから、だれか強力な権威を切望する人がいて、そうできない場合には、依存しあうことで解決しようとする。「共依存」ということである。言葉をかえていえば、一蓮托生的な相互的責任回避術。

 では、どうすればいいのか。それが問題の根底にある。

 

 

 

風のトポスノート250

大学なんかいらない


2000.10.24

 

 これからの大学はどうあるべきか。この問題に対して、いろいろな人がいろいろなことを言っていますが、私の結論は「大学なんか要らない」。あとの章でも出てきますが、大学に行かなくても、自分を大きく伸ばしていった人はいくらでもいます。しかし、「大学なんか要らない」で終わりにしてしまうのでは身も蓋もありませんので、人材の育成という面からこの問題をとりあげてみようと思います。

 今の日本の大学はほとんど崩壊して、二十一世紀にはまったく通用しないというのは確かです。では、大学を考え直すにあたって、何を目指すか。これは人によってちがってくるかと思いますが、私の場合のキーワードは「ノマド」ということになります。

 ノマドとは、もともとは遊牧民を意味するフランス語で、移動すること、したがってノマディズムとは移動主義ということになります。

(山口昌男「独断的大学論/面白くなければ大学ではない!」 ジーオー企画出版/2000.10.20発行/P80)

 かつてぼくのなかにまだあった、大学で学ぶという発想を笑い飛ばしてくれたのが、この山口昌男だったことを思いだした。「いざとなれば街頭で似顔絵描きをやる」といえるほどの人物。

 不可欠なのは好奇心と、やりたいとなったらそれにとことんつきあうという姿勢であって、それがなければ、どうにもならないということを山口昌男は教えてくれた。

 山口昌男のようなエネルギーも機動力もまるでなく、「ノマド」といえるようなライフスタイルでもないけれど、精神において、好奇心においてノマドであり続けたいと思っている。

 そういう意味で、「大学はいらない」というのは、むしろ「これまでの大学はいらない」、つまり受験産業からも管理からも中央集権からも権威からも自由な真の意味での大学がこれから必要になってくるということだろうと思う。「大学不要論」は同時に「大学必須論」ということでもある。もちろん、その意味での「大学」は組織としてのそれを意味しない。重要なのは、その内容のみだということだ。

 デンマークでは、大学は一つしかなく、学問は高等学校でやっていて、しかも入りたい者は自由に入れて、別に卒業しなくてもいいという。そうなれば、興味のある人が興味のあることに生涯を通じていつでもアプローチできるようになる。日本のように、いまだに大学が受験のためにランクづけされているようなそんなあり方はこれからはもう何も生まないだろうと思う。

 受験のための学校教育ということが希薄になってくると、人は学ばなくなるという危惧がもたれるかもしれないが、むしろ逆なのではないだろうか。自分がいったい何をしたいのか。そのために何を知らなければならないのか。そのことを自分に問わざるをえなくなったとき、人は真の意味で学び始めるのではないだろうか。

 そういう意味では、現在の教育システムは、ある意味で根底から崩れてしまわなければならないのかもしれない。中途半端なリニューアルは、負債を増やしてしまうだけのことで、いずれは生保や銀行の倒産のように巨額な負債を抱えてしまうのではないだろうか。

 


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