風のトポスノート221-230

(2000.6.22-2000.7.24)


221●唯物論的魔法の呪縛

222●ドラッグ

223●クルマの色

224●黒

225●星の王子さま

226●化け物の進化

227●「なる」存在としての人間

228●最も不完全な存在としての神

229●2001年1月1日

230●プランナー

 

風のトポスノート221

唯物論的魔法の呪縛


2000.6.22

 

「人間は動物だ」。「人間は遺伝細胞構造の機能にすぎない」。「死は死であってそれ以上のものではない」。「誕生以前の人間は霊的存在であるという観念は、宗教の教義に支えられているにすぎない」。こうした主張のすべてが冷笑的な声の調子で発されるのは、いったいなぜなのでしょうか?暴力的な調子でも、感傷的な調子でもないことに注意してください。こうした暴力的な調子や感傷的な調子に今日いたるところで出会うではありませんか。それなのに、動物でないもの、唯物的でないものが、人間に存在していることを否定する人々は、冷笑的な調子で語るのです。なぜよりによって冷笑的な声の調子を使うのでしょうか?

 彼らも心の奥底ではよくわかっているからだと、私は思います。声に棘を含ませて何かを言わせまいと必死になっているかのようです。公然とそれに触れる機会を抹殺したいと願っているかのようです。何かを沈黙させようと、躍起になっているかのようです。なぜなら、それに触れられると、彼らは困惑してしまうのです。たぶん現代の教育方針が彼らの耳を遠くしてしまったのでしょう。

(L.F.C.メース著・佐藤公俊編訳「シュタイナー医学原論」平凡社/P11-12)

人間は動物だというように=(イコール)で結んでしまうことと、人間には動物的要素があるということが、なぜかなし崩し的に混同されていることがよくある。永い時間をかければ動物も進化して人間のようになるとさえ言われたりする。それがさも「科学的」であるかのように語られたりもする。

ふたつの存在に共通部分があるということで=(イコール)になるというのは、どう考えても無理があると思うのだけれど、たとえば人間は裸のサルだということになってしまう。そのくせ、一方では、人と人との間の「差」が、人種差別や階級の差ということなどで、強調されてしまったりもする。たぶん、人種差別や階級の差を語る人も心の奥底ではそういう差別的な部分のことをわかっていて、わかっているからこそ、それにすがらずにいられないのだろう。

人間はサルと同じだと思い、誕生以前も死後も存在し続けるというのを宗教的迷信として笑いながら、そのくせ、墓地を購入したり先祖供養をしたりする。神社に行って願い事をし、葬式に出席して祈ったりする。人間は平等でなければならない、差別はいけない、人を殺してはならない、などなどそういう「べきである」「してはならない」という理念を掲げる唯物論者もいる。そういう理念はいったいどこからやってくるのだろう。愛や勇気や希望やそんなものは、いったいどこからやってくるのだろう。物質が相互作用をしてそうした目に見えない理念を次々と生み出すのだろうか。

ごくごく単純な論理でも理解できることをわざわざわからないふりをしながら生きなければならない、というのが現代的な道徳になっているかのように見える。それはまさに教育されてしまっているのだ。しかし、教育を受け入れるほうもそれを拒否しようとはしない。ちょっと立ち止まって自分の顔を、自分の考えを鏡に映してみるだけで疑問を感じることができるにもかかわらず、それがまるで禁じられてしまっているかのように。おそらく、我々は魔法にかけられてしまっているのだろう。むずかしいのは、魔法を解くのは自分しかできないということである。

 

 

風のトポスノート222

ドラッグ


2000.6.26

 

 「マリファナはアルコールほど棄権ではないそうですね。もしそうなら、両方とも日常生活の単なる刺激とみなせばよいではないですか」という声をよく聞きます。

 これに対する私の答えは、他の悪と比較することによってある悪を贔屓目に語ることはできないということです。今日の世界をよく見てみましょう。政治であれ、社会状況であれ、教育であれ、農業であれ(空気と水の汚染!)、科学技術であれ、どんな領域であれ、いたるところで私たちは人間によって、つまり私たちによって、解く必要のある最も深刻で緊急な問題に出会うことになります。もちろん、このためには知性と能力を備えた人々が必要ですが、何よりも結局、目覚めている人々こそ必要なのです。そうなのです。私たちはなんとしても目覚めていなければならないのです。

 まさにこの点こそ、マリファナとアルコールの両者が破壊的に作用するところなのです。

「人は目覚めていなければならない」と言うとき、これはもちろん個人的意見を表明しているだけです。個人的確信の表明です。さらにこう繰り返し申し上げておきましょう。人間一人一人の内に新たな実在への憧れがまどろんでいます。それだけではなく、活動に対する憧れもまどろんでいます。私たちが前述した育成の道を知るようになるとき、私たちは覚醒と活動のうちに、高次の世界の認識を十全な意識で育成することを愛し始めることでしょう。

 その選択をするのは一人一人に任されているのです!

(L.F.C.メース著・佐藤公俊編訳「シュタイナー医学原論」平凡社/P152-153)

ドラッグは、人に外から働きかけ、強制的にある種の変成意識を誘導する。トランスパーソナル心理学などにおいても、初期の段階ではドラッグが使用される場合があった。ドラッグが使用されなくなった後も、同様の意識状態を誘導するための技法が開発された。

しかしドラッグ的な変成意識は現代の人間の意識の進化段階においては、「目覚めていること」を育成する方向ではないのではないかと思う。一見、アウトプットが似ているように見えてしまう意識状態であったとしても、そこに至るプロセスが異なっていた場合、それはまったく別の意味を持つことになる。試験の解答をまるうつしして全問正解するのと、自分で解くことの違いのようなもの。ペーパーの答えであればまだ実害が少ないともいえるのだけれど、そこに身体性や霊性などが関わってきた場合、プロセスの持つ意味は大きくなる。

ドラッグ的な状況は現代において蔓延しているともいえる。さまざまなレジャーやパチンコ、スポーツなどの娯楽においても事情は変わらないように見える。それらは、「目覚めていること」を育成する方向ではなく、人を眠り込ませてしまうからである。

現代における可能性も悲惨さも、「選択をするのは一人一人に任されている」ということにある。かつての時代にくらべて、人は、経済においても余暇においても、人間関係においても、「目覚める」可能性に向かって開かれている。そして同時に、みずからの選択によってドラッグ的なものに傾斜することも可能になっている。だから、その選択のつけは自分で払わなければならなくなっている。「だって教えてくれなかったんだもん!」という言い訳は通用しない。かつての集合的な意識状態が常であった時代においては、個人の選択というのは、限られたものになっていたが、現代においては個人の選択範囲は著しく拡大しているからである。

 

 

風のトポスノート223

クルマの色


2000.6.27

 

 クルマの場合、色は少なからず購入するさい決定要素になっている。この数十年来、日本では「白」と彩度の低い色が中心である。クルマの色の選択は、根拠と結果との関係が相互に絡み合ってしまっている。「白」のクルマは人気があるので中古車でも売れゆきがよく、その結果、新車購入の際の下取り価格がよくなるというのである。この真相は定かではない。アメリカでrは、T型フォードが黒だったのは、産業社会のストイシズムによっていた。

 白が人気があるのはクルマについてキズが目立たないためだともいわれている。多くの人が下取り価格のことを予見してクルマの色を決定するとすれば、日本ではクルマの市場が下取りを前提にした特有なシステムを構成しているということなのだろう。(…)

 それでも、白以外のクルマを選ぶ人々がいる。1980年代の日本では、鉄色(濃いグレーのメタリック)が流行った。また、90年代に入ると、濃いグリーンや紺色のクルマが少なくない。赤いクルマはいつの時代も一定の人気がある。

(柏木博「色彩のヒント」平凡社新書/2000.6.20発行/P71-72)

なぜその色が選ばれるのか、好まれるのかを見てみるのは興味深い。

たとえば、ここで挙げられているように、日本ではクルマの色のほとんどが白になっているという現象もそこにはなんらかの要員が働いているように思う。

個人的にいえば、白い色のクルマを購入しようとはまず思わない。この春、13年間乗った(約16万キロ走った)クルマを車検を前にして買い替えた。そのクルマの色は、「濃いグレーのメタリック」だったが、今回購入したのは、グリーン系である。最初に乗ったのは、深めの赤(茶系)で、次が黒だった。とくにクルマにこだわりはないのだけれど、色だけは白以外を選ぶようにしていた(バイアスとして、アンチー白という過剰なこだわりがあるかもしれない(^^;))

白が選ばれるという要因として、下取り価格というのもあるだろうが、下取り価格が高いのも、やはり白の需要が多いということは確かだと思う。ちなみに、ぼくは下取りを前提にしたクルマの購入はしようとは思わない。

では、なぜ日本では白い色のクルマが好まれるのだろう。これは、選挙でも相も変わらず自民党が選ばれたり、野球で巨人に人気が集まるのとどこか似ている現象化もしれないが、もちろん、自民党や巨人のイメージカラーは「白」ではないだろう(^^;。

では、「白」は文化的にいってどんな色としてとらえられているのだろうか。本書(柏木博「色彩のヒント」)のなかでは、次のような項目が紹介されている。

●純粋、無垢の色として

●特別な出来事を意味する色として

●天使の色として

●正義や正しさの意味として

●スポーツや季節の色として

●女性の肌の色として

●家電製品の色として

●職業の色として

●年齢を表す色として

●不在、無の色として

●人種の色として

●資本主義の色として

白無垢の意味は、「何色にでも染めてください」という意味だともいわれるが(^^;、日本ではそういう発想がいろんな側面で強要されるところがあるようにも思う。

ともあれ、なぜその色が選ばれるのか、好まれるのか、という目を日常から持てれば、いろんな発見があるのではないだろうか。

 

 

風のトポスノート224


2000.6.27

 

 白や灰色と同様、黒もまた無彩色なので、私たちが中学校で習う色彩学では、「色」ではないということにされている。無彩色でも灰色とは異なって、白と同様、曖昧な色ではない。いっさいの色彩を否定してしまう色である。と同時にあらゆる色の集合としても考えられる。(…)

 黒は日が暮れるという言葉を語源とし、日が明けることと対立する。今日では白と対立させられるが、古代においては黒と対立させられたのは赤だという。それは「明ける」という言葉と関わっているのではないか。

 一般的には黒は墨と酸化マンガンでつくられてきた。墨を使うという文化は中国を中心としており、しがたって、当然、日本も中国文化圏に属している。中国における墨の色は無限の色彩を意味する。

 また、中国の絵画の中心におかれる「気」という概念は墨によって表現される。墨によって書かれる文字は図像と区別されない。

 玄は黒を象徴する。かつては、黒の字は玄の字が一般に使われていた。四神のひとつ玄武(黒帝)は亀と蛇の組み合わせで表現される。玄武は北の神であるところから、玄は北の方角をさし、冬を示す。陰陽五行では北と冬をさし、十二支の時刻では夜(午後十一時)になる。

(柏木博「色彩のヒント」平凡社新書/2000.6.20発行/P73-74)

RGBをすべて100%にして合わせると白になり、CMYKをすべて100%にして合わせると黒になる。光は白になろうとし、物質的な色は黒になろうとするのだろうか。

色ではないとされる黒を分けていくと、そこにすべての色が隠されている、光の白を分けていくと、そこにもすべての色が隠されている、というのは象徴的な感じがする。光と物質。同じ色で呼ばれても、光と物質の色は、同じ色ではない。光の天使が堕天使になることで、物質の色になるのかもしれない。であるとすれば、物質の色は、人間によって解放されなければならないのだろう。おそらくそれは、深い色彩体験が関わっているのではないかとも思う。

古代においては、白ー黒という対立ではなく、赤ー黒という対立だったというのは面白い。明けるー暮れるというのもうなずける。古代においては、現代のような照明だらけの世界ではなくて、闇というとほんとうに真っ黒で、夜が明けはじめるというのは、それこそ鮮烈な体験でもあったのではないかと思う。

赤ー黒という対比でいえば、黒い十字架につけられた7つの真紅の薔薇のイメージが浮かんだりもする。真紅の薔薇からはなにが「明ける」のだろうか。

黒は玄、そして玄武(黒帝)は亀と蛇の組み合わせだというが、亀といえば、大地を支える存在でもあり、蛇はある意味では、天から地にくだって地を這う存在。それが、北であり、北天には北極星、北斗七星がある。大地の根源がそうした北天にあるということだろうか。シュタイナーの神秘学でも、第一ヒエラルキーは物質に関わっている。もっとも高次の存在がもっとも大地に関わっている。大地は高次の神々の身体であるということもできるかもしれない。だから、山を御神体としたりもする。

さて、柏木博「色彩のヒント」のなかでは、「黒」は次のような色として紹介されている。

●死の色として

●凶色として

●無の色として

●情念の色として

●悲しみ、孤独、メランコリー、ニヒリズムの色として

●不正の色として

●不浄、汚れを表す色として

●恐怖の色として

●おとな、男を示す色として

●精密機械の色として

●厳格さや格式を表す色として

●禁欲の色として

●エレガンス、ダンディズムの色として

●制服の色として

●音楽のジャンルの色として

●政治的な色として

 

 

風のトポスノート225

星の王子さま


2000.6.29

 

わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でも、それには、ちゃんとした言いわけがある。そのおとなの人は、わたしにとって、第一級の親友だからである。もう一つ、言いわけがある。そのおとなの人は、子どもの本でも、なんでも、わかる人だからである。いや、もう一つ言いわけがある。そのおとなの人は、いまフランスに住んでいて、ひもじい思いや、寒い思いをしている人だからである。どうしてもなぐさめなければならない人だからである。こんな言いわけをしても、まだたりないなら、そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)

(サン=テグジュペリ「星の王子さま」岩波少年文庫0001)

サン=テグジュペリは、1900年6月29日に生まれました。だから、今日は、生まれてからちょうど100年めということになります。

「星の王子さま」は、たしか高校の英語のテキストのなかに、その最初のぶぶん、ゾウをのみこんだウワバミの話がでていたので、それを知ったのですが、そういえば、それ以外を読んだことはありませんでした。

とくに生誕100年ということは知らずにいたのだけれど、それとは別に、先日でたところの「シュタイナー医学原論」(L.E.C.メース)のなかでサン=テグジュペリと「星の王子さま」のことがでていたので、そういえば、まだちゃんと読んだことがないことに気づき、そのうち読んでみようかなと思ったのでした。メースは、「シュタイナー医学原論」のなかで、「星の王子さま」のことを「人において進化しつつある、生まれたばかりの、天使の要素である」と述べています。

それははともかく、それとはまた別に、岩波の少年文庫という、たとえばドリトル先生シリーズやナルニア国ものがたりなどがでている文庫の新版がでていて、そのなかに、寺田寅彦の「科学と科学者のはなし」がでていたのを見つけたのでそれ見ていたときに、ちょうどその岩波少年文庫の新版の0001のナンバーででていたのが、この「星の王子さま」なのでした。やっと、縁がでてきたのかもしれないと思って、読んでみることにしました。

ストーリー的にはとくに面白いというほどのものでもないのだけれど、読みながら、一貫して不思議な「かなしみ」の香ってくる空気のようなものがあって、それがおそらくその魅力になっているのかもしれないと思っいました。

上記の引用はその献辞のようなものなのだけれど、そのなかに「どうしてもなぐさめなければならない」とあるように、本書はたぶんその人にかなしみをのりこえてもらうために、勇気凛々の本ではなく、こんな悲しい本を書いたのだという気がしました。

ところで、「おとなは、だれも、はじめは子どもだった」というそんなあたりまえのことが、なぜ多く忘れられてしまうのでしょうか。ぼくはとくに子どものことについては、あれこれここで書いたりはあまりしないのだけれど、それは、ただ、「はじめは子どもだった」というどころか、ある意味では、自分のことを最初から子どもと呼ぶこともできず、年を重ねた今でも大人と呼ぶこともできないと思っているからなのでした。

だからこそ、サン=テグジュペリが言っているように「そうだ、年取ったのがいけなかった。まったくそうだ。ぼくは子供のときこそ幸福だったのだ」ともまったく思えずにいるわけです。

むしろ、ぼくとしてはこう言いたいくらいです。「だれでも、はじめは、子どもでもおとなでもなかったし、それいぜんに、ぼくはさいしょからぼくだった」と。そしてさらにいうならば、(しかし、そのことを忘れずにいる子どももおとなも、いくらもいない。)ということもいえるかもしれません。だいじなのは、子どもだとかおとなだとかいうことではなくて、自分が自分であるということなんだと思うからです。

 

風のトポスノート226

化け物の進化


2000.7.6

 

 自然界の不思議さは原始人類にとっても、二十世紀の科学者にとっても同じくらいに不思議である。その不思議さを、昔われらの先祖が化け物に帰納したのを、今の科学者は分子、原子、電子へ持っていくだけのことである。昔の人でも、おそらく、当時彼らの身辺の石器土器を「見る」のと同じ意味で化け物を見たものはあるまい。それと同じように、原子や電子を見た人はいないのである。それで、もし昔の化け物が実在でないとすれば、今の電子、原子も実在ではなくて、結局一種の化け物であると言われる。原子、電子の存在を仮定することによって物理界の現象が遺憾なく説明し得られるから、これらが物理的実在である、と主張するならば、雷神の存在を仮定することによって雷電風雨の現象を説明するのとどこが違うかという疑問が出るであろう。もっとも、これには明らかな相違の点があることは、ここであらたまっていうまでもないが、しかしまた共通なところもかなりにあることは争われない。ともかくも、この二つのものの比較は、われわれの科学なるものの本質に関する省察の一つの方面を示唆する。(…)

 しかし不幸にして科学が進歩するとともに科学というものの真価が誤解され、買いかぶられた結果として、化け物に対する世人の興味が不正当に希薄になった。いまどき本気になって化け物の研究でも始めようという人は、かなり気が引けるであろうと思う時代の形勢である。(…)

 不幸にして科学の中等教科書は、往々にしてそれ自身の本来の目的を裏切って、被教育者の中に芽生えつつある科学者の胚芽を殺す場合がありはしないかと思われる。実は非常に不思議で、だれにも本当はわからないことを、きわめてわかりきった平凡なことのようにあまりに簡単に説明して、それでそれ以上には何の疑問もないかのように、すっかり安心させてしまうような傾きがありはしないか。そういう科学教育が普遍となり、すべての生徒がそれをそのまま 素直に受け入れたとしたら、世界の科学はおそらくそれきり進化を止めてしまうに相違ない。

(寺田寅彦エッセイ集「科学と科学者のはなし」池内了編岩波少年文庫510/2000.6.16発行/P113-118

化け物を否定して科学を信仰する態度は、おそらくその人のなかに恐るべき化け物を生んでいるのではないだろうか。

寺田寅彦のような本物の科学者のなかには、芸術も宗教も阻害されて化け物にならずちゃんといっしょに住んでいて、だからこそ、科学が信仰になってしまわないでいる。

多く科学者を自称する者は、自分のなかの芸術家や宗教家を阻害するがゆえに、芸術や宗教というシャドーが生じ、それらが育たないまま稚拙な化け物になってしまう。芸術家や宗教家にも、同じことがいえるのではないだろうか。あまりに芸術性の欠如した宗教家を宗教家と呼べるだろうか。たとえばオウム真理教の危なさを直観するには、あの芸術性のなさを見るだけで十分だっただろう。芸術性を解さないがゆえに、オウム真理教に入信などするわけである。同じように、芸術性を解さないがゆえに「科学」に入信するのも愚かだと思う。

化け物といえば、日本ではその復権の功労者として水木しげるがいる。いわずとしれた「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である。テレビマンガにでていた「おい鬼太郎!」という目玉の親父の声などが物まねされたりもする(ちょっと声を裏返せば、ある程度だれでも物まねできる(^^))。

それはともかく、ぼくなども、「ゲゲゲの鬼太郎」などでいろんな妖怪たちの名前を覚えたりした。面白いことに、水木しげるは日本列島の根っ子かもしれない島根県の境港市の出身でもあるらしい。そういえば、先週、松江〜境港〜米子あたりをドライブしたところ。ちなみにHPもあるので、化け物好きな人はぜひどうぞ。

http://www.japro.com/mizuki/

化け物がいいのは、それが実に不思議だからだろう。わからないことをわかったふりすることができない。科学が危なくなってその技術だけが暴走していくのは、ほんとうはわからないにもかかわらず、わかった気になることだと思う。わかった気になることで、「おそらくそれきり進化を止めてしまう」にもかかわらず、科学が進歩したように思い込んでしまうわけである。進歩(しんぽ)するにはそこに神秘(しんぴ)を感じ取れるだけの感性を必要とするということなのに、そこから神秘が不思議さが、そして驚きが排されてしまうと、そこにあるのはレミングの大暴走のような思いこみの進歩なのだと思う。

科学がほんとうに進化するには、化け物を見る目も進化しなければならないということだろう。つまりは、科学が精神科学的に拡張されなければならないということでもあるように思う。

ところで、ぼくは寺田寅彦のファンで、高校の頃初めてその随筆にふれて以来、寺田寅彦のもっている科学への姿勢を自分のひとつの指針としているところがある。ちなみに、引用に使った岩波少年文庫の「科学と科学者のはなし」を編集した池内了さんも、「寺田寅彦の随筆との出会いが科学者となる重要なきっけとなった・・・初めて寺田寅彦の随筆集を読んだのは高校生の頃です」と述べているが、ぼくの場合は、寺田寅彦の随筆との出会いが科学者を断念したきっかけになったといえるかもしれない。それは、寺田寅彦からイメージできる科学と実際の科学とのあまりの隔たりを感じたからである。

 

 

風のトポスノート227

「なる」存在としての人間


2000.7.11

 

人間を単なる動物とみなす人々は、責任、道徳、自由といった理念を放棄しなければなりません。首尾一貫している現代の人類学者の多くが、まさしくそうしています。

別の立場を採る者にとって、この見解は私たちの真の人間性を否定しています。真の人間性はまだ発達を始めたばかりなのです。そういう立場を採る者にとって、人間存在は地上における神的進化の啓示なのです。(…)

ある存在が自己意識を有しているときにのみ、その存在が自らにある使命を課すことが可能なときにのみ、使命について語ることができます。百年前に適合思想(目的論)のすべてが植物学と動物学からすでに除外されました。これは正しい選択でした。なぜなら、自己意識存在だけが本当に使命、目的をもつことができるからです。

今述べたことが、何か発展途上にあるものにしか当てはまらないことは明らかです。それゆえに、人間存在はかく行動するものであるとか、人間存在はこれこれのものであるとか言うことはできません。人はあるものではありません。人はなるものです。目に見える終末はありません。進化は決して限界をもつはずがありません。人間とともに、自らの内に環境と直面する何かを担う存在が初めて出現します。動物を含む、自然の生き物は自らの環境に直面しません。彼らは環境を経験するだけです。人は自分を取り巻くものについて考えることができます。それは「イメージ」を呈示し、原則として人を自由のままに残します。(…)

人間存在に当てがわれた使命とは何でしょうか。それは、自分でイエスと言うことができる使命であるはずです。環境と自由な関係が確立された後初めて生まれてくるものであるはずです。まさにそのとき、私たちは人間性の歴史に意図を発見し始めるのです。鉱物、植物、動物はでき上がった事実です。創造的事件の結果です。それらは、人間性とは違って地上に出現しない創造的存在たちの業を表象しています。それゆえに進化から除外されています。すでに見たように、それらは進化のイメージを呈示するにすぎません。進化は、地上で、人間存在において生じます。(…)

人間だけが、創造されたものについて思考することができます。実際、思考は進化の新しい要素を表象しています。それは人間存在に自立した霊の生(精神生活)を与え、道徳的特質を発達させることを可能にします。道徳は責任と結びつけたとき初めて道徳的特質がその意義を獲得します。

(L.F.C.メース著・佐藤公俊編訳「シュタイナー医学原論」平凡社/P280-286)

生まれてきた子犬や子猫を見て、この子犬は子猫は大きくなったら何になるのだろう、とは問われない。人間の場合は、生まれてきた子どもを見て、人は「この子は大きくなったらどんな人になるのかねぇ」と問うことができる。この違いは、人間が「あるもの」ではなく「なるもの」であることを示している。

子どものときだけではなく、人はつねに「なるもの」であるが、人間を動物と同一視することによって、人は「あるもの」に閉じこめられる。それは、「責任、道徳、自由といった理念」が放棄されるということである。

人は自由であるかと問うことはできない。人は「あるもの」であるときに自由の可能性は閉ざされている。人は自由を獲得することができるかと問わなければならない。人が「なるもの」であるかぎり、人は自由に向かって開かれている。シュタイナーが「自由への教育」を示唆したのは、その可能性ゆえなのだと思う。守破離のように最初に「型」が畏敬の念として重要な場合があるとしても、それは「破」られねばらならず、さらにその「破」というアンチからも自在な「離」という自由が獲得されなければならない。

人はみずからに問いかけることができる。その問いかける自己意識ゆえに、みずからの方向を定めることができる。そういう自己意識が希薄な場合、人は「あるもの」である思いこみの牢獄のなかで、宿命を生きることになってしまう。「人間はこういうものなのだ」「私はこういう人間なのだ」、さらに、「あなたはそういう人間なのだ」「世の中はそういうものなのだ」云々。しかしそれにしても、人はみずからをそのように創造している。

人がみずからを創造する「なる」存在であるかぎり、「あるもの」に閉じこめようとするのはとても悲しいことではないかと思う。

 

 

風のトポスノート228

最も不完全な存在としての神


2000.7.11

 

神は想像しうる限り最も不完全な存在であると考えてみることも可能でしょう。この思念が抵抗を呼び起こすのも当然と言えましょう。なぜなら、私たちは、不完全を悪と、完全を善と等しいと考えがちだからです。これは私たちの意図するところではまったくありません。私たちは、神性を無限の発展に開かれたものとして眺める可能性を示唆しようとしているのです。そしてそれは、この発展が人間進化において継続していると考える可能性を提示します。「なんと不遜な!」と言う人もおられるでしょう。私ならこう言いたいと思います。「なんという責任か!」この責任を正当なものとするのが、実際人智学の務めなのです。

(L.F.C.メース著・佐藤公俊編訳「シュタイナー医学原論」平凡社/P288)

神を完全であると考え、そこから神の存在証明が多く試みられた。完全であるのになぜ「悪」があるのか。完全であり全知全能でありすべての(第一)原因が神であるならば、「悪」という不完全(とされるもの)を生み出したのも神であることになる。その矛盾(のようにみえること)は多くの神学者を悩ませ続けたに違いない。

また、完全であるということと無限の可能性というのは矛盾してしまう。完全であるということを不変であるととらえてしまうとすれば、変化が前提となる可能性ということは無意味になってしまうからだ。無限の可能性は、かぎりない不完全さが前提となる。

人間は暗い森のなかで踏み迷う存在として描かれることがある。だから、絶対者としての神への信仰で迷いをうち破ろうとする。しかしそれは、みずからが可能性に向かって開かれていることを否定することになる。可能性に向かって開かれているということは、「責任」そのものだから、その「責任」が人間には許されていないことになってしまう。

人智学の不遜さは、その「責任」を人間に帰するところにあるが、その不遜さとみなされがちなことこそが、人間の可能性そのものでもある。「神は想像しうる限り最も不完全な存在である」というのは、同時に人間は神に向かおうとするならば、「想像しうる限り最も不完全な存在」としてみずからを「無限の発展」に向けなければならないということでもある。

 

 

風のトポスノート229

2001年1月1日


2000.7.22

 

2001年1月1日という意味深い日について記しておきます。

六十干支の【甲子】という初日がキリスト歴二十一世紀の

初日となるのです。この日が、二十一世紀という新しい時

代の初日となることを知っていた聖人が日本にもいます。

やはり、聖徳太子です。

(友常貴仁「聖徳太子の『日本が沈む日』/秘書『未来記』の真相」三五館 2000..8.6発行/P168)

聖徳太子の「未来記」の写本が、本書では全文公開されている。最近では、飛鳥あきおによるその紹介本もあった。やはり、時代が新しい節目を迎えようとしているというのだと思う。

友常貴仁氏の著書はこれまでにも何度か紹介したことがあるが、友常貴仁氏は、「聖徳太子以来のやまとごころを守りつづける名門『大和古流』の二十一代当主」にあたる。その家系の「掟破り」の書が「大和的」。それ以降、何冊か著書を書いている。なぜか、そのHPができたときに、メールでご案内が来たりした(^^;。

で、聖徳太子。

なにかと謎の多い魅力的な人物。「厩戸皇子」という幼名からもどこかイエス・キリストのイメージが・・・。とはいえ、本書では秦氏のことも原始キリスト教徒のことも、そういうことはまったく語られないし、そう面白くて仕方のないような内容でもない。おそらく本書の意義は、「聖徳太子以来のやまとごころを守りつづける名門『大和古流』の二十一代当主」が「未来記」を公開したということにあるように思う。

2001年1月1日という二十一世紀の始まりという「機」と「『大和古流』の二十一代当主」という「二十一」の符合。そして、「六十干支の【甲子】という初日がキリスト歴二十一世紀の初日となる」という日本の暦と「キリスト歴」との会合。友常貴仁の「掟破り」の意味もそこに鍵があるようにも感じる。

 

 

風のトポスノート230

プランナー


2000.7.24

 

プランナーとして成功するために欠かせない能力と個人的資質を定義するのに、たいていの人は以下の点に触れる。もって生まれた知性、好奇心、左脳と右脳を同時に使う能力(…)、そして口頭でも紙の上でも優れたコミュニケーション能力をもつこと。これらはすべて、必要不可欠だと思う。しかし、少なくとも私に言わせれば、同じように重要な別の性質がある。

第一に、慎みと謙虚を併せ持つこと。(…)私はプランナーのことをいつも、アメリカ特殊工作部隊やイギリス空軍特殊部隊のようなものだと考えてきた。任務が正しく遂行されればだれもその存在に気づかない。任務が完了したという事実こそが重要であり、その働きによって一般に認知される者はだれもいない。表向きには、存在さえもしないのである。(…)

プランナーの第二のスキルは、会話において、話すよりも聞くほうに時間を費やすこと。消費者とであれ、クライアントとであれ、代理店の同僚とであれ。そのための良い方法は、会話の中で聞く時間と話す時間の割合は、耳の数に対する口の数と同じ同じ比率であるべきだと考えることである。(…)

三番目の特質は、カメレオン的性質。この性質はプランナーに、とんでもなく多種多様な人たちとの関係を築かせるものだ。(…)かつてこう言ったプランナーがいた。共通言語を持たない三つの異なる人種(クリエイティブ・スタッフ、クライアント、消費者)の通訳のような役割を果たすのが自分の仕事だ、と。そのすべての言語に流暢である必要は必ずしもないが、少なくとも、各集団が互いにコミュニケートできる方法がわかるだけの理解力は必要だ。

最後に、奇異に聞こえることは承知のうえで言うが、ちょっと変人でなければならない。私の知っている優秀なプランナーはほぼ全員、ちょっと普通とは違っている。これは、主に二つの面で現われる。どこか中心からずれたものの見方と、経歴と関心分野がうまいぐあいに混ざっていること。どちらが鶏でどちらが卵かはわからない。それでも、どちらか一方がもう一方のエネルギーになっているとは言えるだろう。それにおそらく、卓越したプランナーにとって両者は相互依存の関係にある、というのが答えだ。

(ジョン・スティール「アカウント・プランニングが広告を変える」ダイヤモンド社/2000.6.8発行 P65-69)

以前から気になっていたことなのだけれど、なぜ広告屋であるぼくがこんな神秘学遊戯団のようなことをしているのか、ということを疑問に思っている方がいるらしい。

こういうのも変だけど、自分でもなぜこんなことをしているのか、わからなくなることがある。なぜ、こんな遊びを考えついて、面倒がらずに(でもないが(^^;)やっているのかということである。

そもそも作文が苦手であり、いわゆる「表現」欲求に乏しい。そんなに根気があるほうでもなく、親切なタイプでもない。しかも、当然のごとく、使命感をもってやっているわけではない。少なくともそんな生真面目なのは自分でも願い下げである。また、別にここで学問をやろうとしているわけではない。もちろん、学問をしたくないというわけでもない。いろんなことに関心があって、できればいろんなことがわかればどれほどいいかと思っている。

では、なぜなのか。なぜなのだろう。

ぼくは広告代理店でプランナーをしているのだけれど(もちろん、「卓越したプランナー」ではなく、ごくごく凡庸なプランナーだが(^^;)ここに挙げられている4つの性質というのは、たしかに重要な気がするし、自分でもこういう性質が備わるようにしたいと願っている。

本書を読んでいて、この4つの特質が神秘学徒の特質とどこかで重なっているように思い、ちょっとだけご紹介しながら、そのなぜを考えてみようと思った次第。こういう広告に関する本のなかで、良質のものは、なまじな精神世界風のノウハウ本よりは、ずっと神秘学的な要素に満ちているような気がするし、ぼくにとっても、このトポスでご紹介したする本などよりは、日々よほど親しんでいる部分でもあるわけなので。

さて、仕事柄いちばん閉口するのが、広告を自分の作品であるとし、できれば署名したいとさえ思い込んでいるような「クリエイティブ・スタッフ」である。広告は「任務」が遂行できればそれでよくて、それがいかに芸術的かということはあくまでも二次的なことなのだけれど、そこのところを勘違いしているクリエイティブ・スタッフというのがいて、そういう人ほど、実は広告を離れたところでも芸術的ではなかったりする(^^;。ぼくも仕事では、「表向きには、存在さえもしない」スタッフであり、かつ、ちゃんと任務が遂行できているとき、いちばん満足できる。

いわゆる「精神世界」においても、自分が教祖になりたったり、自分がいかにすぐれた導師であるかをいえばいうほど、信用できなかったりする。もっとも沈黙しているようにみえて、常に働きかけているのは、実は「神」的な存在であるように、その逆はもっともその対極にあるような気がする。芸術においても、名前が先にでるのではなく、そのクオリティにおいてその作品そのものが語っているというのが、やはりその芸術家そのものを語っているのではないかと思う。

第二の「話すよりも聞くほうに時間を費やすこと」というのは、これはいくら強調してもしすぎることはないほど重要なポイントである。仕事のときにいちばん困るのは、プランナーがすべてを仕切れ!というような暗黙の了解のようなことが支配的である場合である。でないと、打ち合わせでも、ほとんど沈黙が支配してしまうことになる(^^;。当然のごとく、プランナーが聞くよりも話すほうに時間を費やすと、往々にしてその仕事は実を結びにくいような気がする。口はひとつ、耳はふたつだから、できれば話すよりは、その倍、ちゃんと聞くようにしないと、いいアイデアは聞こえてこない。雄弁は銀かもしれないが、沈黙は金なのだから。

ほんとうの言葉を聞き取るということも、自分のことをしゃべりつづけるだけの人には不可能だろう。その器に美酒を注ごうとおもっても、自分の酒をすべてだと思い込んでいる(誤解であることが多いが(^^;)とき、その器には注ぐ込めるだけの「空」なる場所が存在しなくなるのである。

第三の「カメレオン的性質」というのは、「ご専門」という垣根から自由であるということにつながる。仕事をしているとき、持ち込まれるほとんどの課題はそれまであまりよく知らなかったテーマである場合が多いが、知らないからといって、仕事をしないでいいということにはならない。また立場が違うからといって、その立場を絶対化するだけでは仕事にならない。とにかく、立場や知識の違い、垣根をできるだけつなげていく作業が必要とされる。

そういえば、シュタイナーは、相手よりも相手を理解して、その人と関わろうとしていたということのようだが、その相手の逆の立場にある人のことも同じように理解しているがゆえに、前者から裏切り者のようにみなされるときもあったとか。そのことを以前ネットで話したところ、そのサヨク(ウヨク)風の方(同じようなものだ(^^;)は、「じゃあ、シュタイナーはカメレオンみたいなヤツだったんだな」とシュタイナーを馬鹿にしたことがあったが、実はそのサヨク(ウヨク)こそが自分を馬鹿にしていたわけである(^^;。

もちろん、プランナーは理想的であたっとしても、まずはシュタイナーのようであることは困難であるが、少なくともいろんな「垣根」を取り払う作業というのは重要になってくる。重要なのは、自分の領分を囲い込むということではなく、課題をいかに解決に向けて導くかということなのだから。

で、結論のようなものだが、たぶん、ぼくがこんな場所をやっているのは、こういうプランナーの理想というよりも、やはり、ちょっと「変わっている」のだろう。そういう意味では、引用の第4番目の特質はものしているかもしれない(^^;。

そういえば、このメーリングリストに登録してくる方は、「シュタイナーに興味がある」ということで来られる方が多いようだけれど、そういう方は、たぶん送られてくるメールを見て、「シュタイナーのメーリングリストのはずなのに、なぜ?」と疑問をもたれる方も多いのではないかと思う。別に、シュタイナーのメーリングリストであるとは言ってないのだけれど(^^;、そういうことでご不満をもたれている方には申し訳ないが、開いている当人が、ちょっと「変わっている」のでご容赦を。

しかし、あえていえば、シュタイナーと名前をださなくても、多くが暗にシュタイナーの精神科学とどこかで関わりをもっている、ということはいえるのではないかと思っているので、ご容赦と同時にご理解を。

 


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