風のトポスノート211-220

(2000.5.28-2000.6.20)


211●雅という遊戯

212●合成着色都市の不安

213●歌詠み

214●マーケティング

215●あなただったら何をしましたか?

216●パブロフ人間からの自由

217●道具に使われるのではなく使うこと

218●方法に使われないこと

219●脱ー群れ社会の発想

220●自分を宇宙の中心に据える

 

 

風のトポスノート211

雅という遊戯


2000.5.28

 

「目的を達しようとする人は、目的を達したとき初めてほっとする。満足する。そうではないかね」

「的に矢が当たったとき、嬉しいと思います」

「それだ。目的に達したとき、人は満足し自分や周囲を見回す余裕ができる。もはやがつがつしないですむ。おしゃれもしたくなる。おいしいものも食べる気になる。花見にもいってみようと思う。だが、がつがつしていたら、こうはならない。余裕があったとき、初めてこの世を楽しもうという気になる。この楽しもうと思う心が雅なのだ。雅とは余裕の心のことだ。分かるかね」

「そこまでは分かりました。でも、分からないのは、どうして矢が的に当たることより、雅であることが大事か、ということです」

「それは、目的に達して満足した人が、かならずしも花を楽しみ、雅であるわけにゆかないからだ。目的に達しても、またすぐ次の目的ができる。たとえば在地領主が一番荘を手に入れる。すると、二番荘がほしくなる。そしてそれが目的となる。そこで二番荘を手に入れる。こんどは三番荘が目的となる。こうしてつねに目的にむかって息せき切って走っていて、決して満足するときがない。満足とは留まることだ。自分の居場所に気づくことだ。この世を楽しむには、まず留まることが必要なのだ。矢を射るとき、的に当てることだけを考える人は、目的を追う人だ。だが、矢を射ることそのことが好きな人、当たれば嬉しいが、当たらなくても嬉しい人、そういう人こそが、留まる人、つまり雅である人だ」

(…)

「だからその雅から見ると、当たる当たらないで一喜一憂するのは下卑た態度なのだ。本当の弓矢の花を生きていないことになる」(…)

「そこなんだよ、私が思案するのは。矢が当たるか当たらないが、別々のことだとすれば、どうしてその別々のことを同じように楽しめるのか。それは、当たる当たらないに共通した矢を射るという事実があるからだ。この矢を射るに注目するので、当たる当たらないは気にならない。もしそうだとすれば、生きることと死ぬこととが、決定的に違っていても、両方を、同じように楽しむことができるのではないだろうか。当たるを喜び、当たらないを悲しむのが雅でないのなら、生を喜び、死を悲しむ態度も雅でないはずだ。雅であるためにはーーこの世の花を楽しむには、生を喜ぶと同時に死を喜ばなくてはいけないんじゃないだろうか」

(辻邦生「西行花伝」新潮文庫/P85-110)

目的主義は、どこまでも留まるところがない。目の前に人参をぶらさげられて走り続ける修羅のようなもの。その修羅は、いつも「今ここ」にいない。「今ここ」を楽しむことができない。

常に、自分はその目的地にいようとするズレのなかに生きている。そのズレという懸隔のなかにはまり込んで、達成感という酒に酔いながら、または達せられなかった悔恨に涙する。

走ることそのものがズレのなかにあるのではなく、走ることそのものを生きない限り、ズレは埋まらない。ピントの合わない写真のような生を生きることになる。

しかも、走らないことそのものを恐れるようになる。走らないことへの不安から、常に走らなければならないと焦る。走ることと走らないことを対立的にとらえてしまい、そのどちらをも楽しむことができなくなる。

走ることをただただ楽しむために走り、走らないことをただただ楽しむために走らない。走ることを別の目的のためのものにしてしまったり、走らないことができないいいわけのために走ったりするのでなく。

「留まる」ということはどういうことなのだろうか。それは、走る走らない、当たる当たらないにかかわらず、それらすべてを「遊戯」できるということではないだろうか。達成感に酔うやら悔恨やらしているる自分も、そういう意味では「遊戯」している自分なのだ。

この世はすべて夢幻、マーヤであるとしてもいいではないか。この世だけの世界であるとしてもいいではないか。すべては「遊戯」なのだから。悲しいのは、自分を「遊戯する人」として見ることができないこと。

走るときには走る言い訳をし、走らないときには走らない言い訳をするのではなく、走りたいから走る、走りたくないから走らない。しかも、それぞれ懸命にする。走ることを喜び悲しみ涙し、走らないことを安らぎかつ鬱々とする。そうしたすべてに懸命にする自分を見る自分を持つ。そういう「自由」のなかで生きること。

そういう雅を私は生きたい。そういう雅を生きるとき、私はこの世の花のなかにいるのだろう。

 

風のトポスノート212

合成着色都市の不安


2000.5.29

 

 染料が高かったり、黄金や翡翠や大理石の色彩が宝石などに固有のものであった時代には、色彩の世界に高級、低級という格差が存在した。けれども、合成の色彩が、自然界に存在しないものまでを含めて、すべての色を平等化した。世界から固有の色彩が失われ、色彩は人間によって添加されるものとなった。所与のものから、人為のものへと大きなパラダイム・シフトが起こったのである。こうして、現代の都市は「色彩心理学」の空間となったわけだ。安さをイメージさせる黄色や、食欲をそそる赤などが異様なまでの頻度で溢れているという事実は、マツモトキヨシ、マクドナルド、コカ・コーラ、風俗店やテレクラの看板などといった具体例を思い浮かべればあきらかだろう。それらすべての色彩が人びとを操作しようと競い合っているからだ。しかも、都市のどこをとっても自然そのままの色彩などは存在しない。自然界にもあるとされる赤や黄にしても、その強度、光沢、塗られ方の一様性、街全体に占める割合がいびつなことからそれはあきらかである。しかも、これら一貫性を欠いた刺激の連鎖、すなわち合成された色彩のジャングルは、個々の店舗や商品の狙った効果を超えてしまう。個々には、独立した心理効果を狙ったものが、複合的な集合体となることで、メタ次元で人びとの心理に本来の意図とは別種の未知の影響を与えることになる。それが、現代の都市の色彩空間なのではないだろうか。それを、人工色彩空間の眩惑と呼んでみてもいいかもしれない。

 そして、最後に一言付言するならば、こうした人工的着色の時代とは、裏を返せば人間がすべての色彩を決定しなければならない時代だということを意味している。しかも、個々の色彩の決定は、確固とした根拠を欠いており、いずれの決定にもつねに不安が伴っているはずである。とすれば、合成の色彩の氾濫の陰には、不確かさや不安がつねにつきまとっているということになるだろう。

(遠藤徹「プラスティックの色彩論」美術手帳2000.6 特集「現代色彩辞典」より/P144)

コンピューターでは、今や1,670万色の中から色が選べることになっている。もちろん、そんな色数は識別できるわけもないのだが、今使っているMACのモードでも、256色、32,000色、そして1,670万色のモードが設定されていて、RGBという3つの光の色かCMYKという4つのインクの色の組み合わせで、色の設定がモニターの画面上で可能である。

今では、半ば当たり前のような感覚になってしまっているこうしたコンピューター上での色選択だが、このように選択自在のように見えてしまうデジタル的な色というのは、いったい何なのだろうかと思う。数値上でデジタルにつくりだせる色とはいったい・・・。

現代では、「世界から固有の色彩が失われ、色彩は人間によって添加されるものとなっ」てしまったのだが、それに大きく寄与したのは、「プラスチック」だという。簡単に色を付加できるプラスチックが街にあふれることによって、私たちの生活感覚は、おそらく大きく変貌してしまったのではないかと思う。プラスチックはモノの表面を製作者の意図に従って染め上げることができる。そしてそういうモノたちに囲まれて私たちは日々生活を送るようになっている。

かつて、私たちは、「世界」の「固有の色彩」を感じ取り、その色彩感覚に基づいて生きていたわけだし、今でも、人工的な色彩のほとんど見られない自然の中で過ごすと、その「世界」の「固有の色彩」を体験することはできる。たとえば、春から夏にかけて、緑が萌えてくる色彩の無限の変化を体験することで季節の変化、いのちの変化の摩訶不思議とでもいえるものを実感することができる。

しかし、そういう色彩体験はほとんどないままに、人工色彩空間によって育っていくとしたらどうだろうか。「世界」の「固有の色彩」を感じ取りながらそれに基づき、世界に人工的な色彩を施すというのをさらに進めて、そのときどきの感覚の赴くままの色だけが体験されるようになると、私たちの色彩体験はいったいどうなってしまうのだろうか。

「人間がすべての色彩を決定しなければならない時代」・・・。コンピューターの前に座りながら、数値化され選択される色たち。それは、色の亡霊達とでもいえるのかもしれない。そうした色の亡霊達に囲まれながら生きることで、自らも亡霊化してしまう現代人たち。流行であるという以外の根拠をもたないで、自らを装飾し彩色していく現代人たち。プラスチックの色やテレビゲームのモニター画面の色しか知らない子どもたち。カブトムシを機械仕掛けのオモチャとしか感じられないように、色は本来それ自体が生命をもったものなのだということがわからなくなってゆく。

コンピューターによって自在に音をつくりだすことができたと信じられていた時代があったが、そういう信仰は、今では、よほど脳天気でなないと持ち得ないと思う。脳天気な音楽世界も存在はするが、むしろそのことによって、そうでない音世界も発見されているところもあるのではないか。色についても同じことがいえるのだろうか。

少なくともこうはいえるだろう。音や色を深く体験する可能性にみずからを開かなければならない、と。デジタル化した音と色だけしか体験できなくなったとき、人は、みずからを屍化したことになるのだから。

 

 

風のトポスノート213

歌詠み


2000.5.30

 

この世の花は虚妄の花でございます。この世の月も虚妄の月でございます。それを知らずに月花を歌に詠んでみても、虚妄な文字をそこに加えるにすぎません。歌詠みはこの世の花が虚妄に咲き、この世の月が虚妄に輝くことを知りぬかなければなりません。すべては虚空の中に、はかなく漂うにすぎないのでございます。それを思い窮め、虚空を生き切るのでございます。すると、そこに、漂うものとして、この世が見えて参ります。花があり、月があり、雪があるのが見えて参ります。これはただの雪月花ではございません。懐かしく、やさしく、この世を慰めるものとして現出れてきた真如不壊の実在でごいます。歌詠みが花と言い、月と言うとき、それは真如の花であり、真如の月なのでございます。

(辻邦生「西行花伝」新潮文庫/P226-227)

なぜ歌うのだろう。おそらく、言葉は歌うことからはじまった。歌は訴うともいうが、それよりも歌はすべてを愛でるためにあるのではないかと感じるようになった。

枕詞というのがあり、それはやがて、ある言葉につけられる決まり事になってしまったが、おそらくそれは、ある場所を愛でるための賛嘆の歌だったのではないか。

そこに、石があり花があり、樹がある。そこに人が関わる。人が関わるということはどういうことなのだろうか。自然科学の対象として、石や花や樹を分析するのではなく、それを賛嘆し、みずからと一になる喜びを歌う。そのことで、石は花は樹は、「浮かばれる」。浮かばれるといえば、成仏するという意味でもあるが、それを解放されるといってもいいし、変容させられるといってもいいだろう。

人を歌うのも同じ。人を、人の心を、人のいのちを歌う。浮かばれない人、祟る人を奉り鎮魂するのも同じ。歌うことによって、解放される御霊がある。それだけではなく、人を真如に導くためにも歌は詠まれ、歌われる。管弦の調べも、人を真如へと響かせ導くために奏でられる。

そういう、愛で鎮魂する歌を忘れてしまったとき、モノたちは闇に閉じこめられ、石も花も月も虚妄になる。人はみずからの闇のなかで、わけもわからず祟る魑魅魍魎と化すのではないか。

この世は虚妄であるが、その虚空から去るのではなく、その中にありながら、虚空と重ね合わせの真如を歌うこと。そのための、言葉を、歌を、音楽を。みずからの深い内からわき上がってくる、萌える緑への、凛々しい岩塊への深い賛嘆を。

 

 

風のトポスノート214

マーケティング


2000.6.14

 

成長より生長

変化より進化

速度より即度

知識より見識

行動より情動

(清野裕司)

先週から今週にかけて缶詰状態でマーケティングの話を聞いた。講師はマップスの清野裕司さん。上記の言葉は、その最後に聞いたキーワードだった。マーケティングがテーマなので、キレイゴトはないにもかかわらず、その言葉のなかには、話し手の内的倫理が生きているように感じた。そしてなによりも、講師の真摯な姿勢に感動を覚えた。

仕事でへとへと状態のなかでの研修ということで、最初は抵抗もあったのだけれど、長年やっているプランナーの仕事のある意味での再確認ということもあって、聞いているうちにいろんなことをあらためて考えさせられた。初耳の内容はほとんどないのだけれど、同じ知識内容もある程度トータルな体系のなかで、しかもかなり実践的な観点から語られたことで、今までかなりぼんやりしていたことに光が照らされたところがあった。

もとより神秘学的な話ではない。いかに売るか、売れるためのプランをつくれるかという話である。しかし、いつもいつも思うことなのだけれど、こうしたすぐれたプランナーの話を聞くと、むしろ、神秘学的な精神の根幹をそこに見たような気になる。そしてそこに、自由の芽のようなもの、内的倫理に貫かれた精神の在りようの可能性のようなものをかいま見ることがある。しかも、すぐれたプランナーは、組織に関わりながらも、自分では組織から常に自由なスタンスをとることが多いように思う。そして、そこからこそさまざまな影響をぼくは受けているように感じる。

ぼく個人のスタンスの問題なのかもしれないのだけれど、宗教的な方や精神世界的な人などなどにはむしろそういうところが極めて希薄なように見えてしまう。なぜだろう。人智学などの組織にもほとんど関心が向かないのも、そうしたところがどうしても感じられないからというところがある。「普遍アントロポゾフィー(人智学)邦域協会設立総会のお知らせ」とかいうのもいただいたりもしたのだけれど、どうにもその意味がわからないままだった。いったいその組織で何がなされようとしているのかが見えない。

なぜ広告屋なのにシュタイナーなのか。そんなことを指摘されたりもするのだけてど、おそらくはこうした仕事をしているからこそなのだと思う。

わざわざなにかを組織的に囲ったり、精神世界とかいうことを特化してしまったり、教育や保育だとかいうことに、わざわざ「実践」という名札や「シュタイナー」とかいう権威的なレッテルを貼ったりしないと気が済まないひとたちは、いったい何がしたいのだろうと思ってしまう。それでなにかの可能性が開かれるとでもいうのだろうか。それは、むしろ可能性の否定的自己限定のようにも見えてしまう。

あらゆる可能性に向けて開かれようとする態度において、おそらくシュタイナーの精神科学は生きてくるのではないかといつも思う。あらゆる事象のなかに、あらゆる可能性を見なければならない。もっとも身近にいる人とほんとうに話そうとしているか。そのことを抜きにして精神科学は成り立つのだろうか。自分をとりまいている自然の秘密に近づこうとしているか。日々自分が生きている経済行為や消費行為がいったい何なのかということを見ようとしているか。そのことを抜きにして精神科学は成り立つのだろうか。

今ここにいる自分の総体を見ようとすること。その秘密の塊にあらゆる角度からアプローチしようとすること。そうしたことのなかにこそ、精神科学の可能性を見たいと思う。

もちろん、マーケティングは、精神科学ではないし、経済事象の「役に立つ」視点以上のものではないのだけれど、それは、単なる「研究」行為でもなければ、「実践」という名札をわざわざつけなければならないようなものではない。そして、すぐれたプランナー、マーケッターのなかに、自由に裏打ちされた内的倫理のようなものをかいま見ることがある。マーケティングの舞台は日々の生活現場そのものに関わるものだから、常に送り手(生産者など)と受け手(消費者など)との間のきれい事ではない、リアルタイムで切実なダイナミズムを見、そのなかから見えてくるものを模索することが求められるのである。少なくともぼくはそこからさまざまな影響を受けているし、これからも影響を受け続けていくように思う。

 

風のトポスノート215

あなただったら何をしましたか?


2000.6.16

 

「では、あなたは場所を作るために、『あんたとあんたとあんたは送り返されて死ぬのよ』と言ったわけですか?」

 ハンナには、裁判長がその質問で何を訊こうとしているのか、理解できなかった。「わたしは……わたしが言いたいのは……あなただったら何をしましたか?」

 それはハンナの側からの真剣な問いだった。彼女はほかに何をすべきだったのか、何ができたのか、わからなかった。そして、何もかも知っているように見える裁判長に、彼だったらどうしたのかと尋ねたのだった。

 一瞬、法廷は静まり返った。ドイツの刑事訴訟で、被告人が裁判長に質問するなどというのはあり得ないことだった。しかし、いまや質問がなされ、みんなが裁判長の答えを待っていた。彼は答えなければならなかった。その質問を無視したり、非難するようなコメントや拒絶的な反問でやり過ごすわけにはいかなかった。そのことはみんなにも彼自身にも明らかだった。なぜ彼がうろたえた態度を抜け道として使っているのか、ぼくには理解できた。彼はその態度を仮面代わりにしていたのだ。その仮面の背後で彼は少し時間を稼ぎ、答えを見つけることができた。しかし、大した時間は稼げなかった。長く待てば待つほど、聴衆の緊張と期待は高まり、それだけいい答えが要求されるのだ。

「この世には、関わりになってはいけない事柄があり、命の危険がない限り、遠ざけておくべき事柄もあるのです」

 ハンナと自分自身を引合に出しながらそう言ったのなら、その発言で充分だっただろう。しかし、何をすべきだとかしていけないとか、どんな危険が伴うかなどで言を弄することは、ハンナの質問の真剣さに対して不当だった。自分のおかれた状況の中で何をすればよかったのかをハンナは知りたかったのであって、してはいけないことがあるなんてことではなかった。

(ベルンハルト・シュリンク「朗読者」新潮社/2000.4.25発行/P107-108)

人を裁くことはできない。にもかかわらず裁判で人は裁かれる。裁判そのものの是非が問題であるというのではなく、人を裁けないというのが現実であるということである。しかも、裁く基準をどこに置くのか。そのことにも無自覚であってはならないだろう。同じ行為であったとしても、その場所や基準が変われば、その評価はまったく変わってしまう。

裁くというのではないにしても、なにかを価値判断するときに、人は(意識的にせよそうでないにせよ)みずからになんらかの基準を設け、その場所で価値判断をする。その価値判断とはいったい何なのだろうと思う。自分の下した判断にしても、後で考えるととんでもないものであることもある。

もちろん、価値をただただ相対化すべきだというのではない。おそらく人はこう問うことが求められるのではないかということ。「自分だったらいったいどうするだろう」と。人は自分ではないから、そのままその人のところに自分を置くことはできない。そして、その時と場所という結果だけが問題なのではなく、そこにいたるプロセスをも問題にしなければならないだろうが、その問いをみずからに問いかけてみることで開かれてくるものがあるようにも思う。

そうすることで、裁くというのは、みずからを裁くことであり、価値判断をするというのは、みずからを価値判断するということであることがわかる。自分だったら……、というのはよく問われはするのだが、重要なのはそのことなのかもしれないと思う。

仕事などで人の行動に対して判断を下すことがよくある。その際、その判断がどういう視点からなされているのかを自問自答してみる。そうして、その判断はこういう視点でしているということをできるだけ人にも伝えるようにしている。これは、個人的に云々というよりも、こういう視点からすれば、こういう結果を導きだしてしまうだろう、だからこう考えるのだと。そして、状況が違えば、あなたの判断が正しい場合もあるかもしれないが、今回の状況において、自分はこういう見方に立っているのだ・・・。

それは、まさにみずからがそのときと場所において、どのような価値基準において判断、行動しているのかということをみずからに問うということにほかならない。人に対してくだした判断ではなく、みずからへの問いかけなのだ。

「この世には、関わりになってはいけない事柄があり、命の危険がない限り、遠ざけておくべき事柄もあるのです」

しかし、問題は、「関わりになって」しまったとしたら、「遠ざけておく」ことができないとしたら、という問いをあえて自らに問いかけてみることなのだと思う。

おそらくその問いかけを提示することにおいて、人は人を裁いたり、価値判断したりするというよりも、その人がみずからを裁き、価値判断するということ、そのことに自覚的であるための地平が開かれるのではないかと思う。

 

風のトポスノート216

パブロフ人間からの自由


2000.6.17

 

 知識はいくらあっても邪魔になることはありません。ですが、知識のみで行動を執ったとき、人はその知識に縛られ、感じることができなくなっていくように思います。グルメ雑誌に五つ星が書いてあることにより、そこのお店がおいしいと思い込むようなものです。

「あなたがどう思うのか、どう感じるのか」

 それこそが重要なのに、だれかが感じたことを自分が感じていると勘違いするのです。知識の使い方をまったくもって勘違いしているとしかいいようがありません。

「自分がどう感じ、考えているのか」そこの部分をごまかす人がいかに多いか。そのごまかしから抜け出られたとき、人は今までの自分のパターンを認めながらも、少しずつ先に進めるのだと思います。

「まず気づくこと」

 自分がどうして今の自分になっていったかということ。その気づきに被害者も加害者もありません。

「自分が何をされたときどう思ったか、どう感じてきたか。そして、そのパターンが今の自分にどう影響しているか」ただそれに気づくことが癒しの第一歩といえるでしょう。

(日木流奈「伝わるのは愛しかないから」ナチュラルスピリット/P10-11)

「自分がどう感じ、考えているのか」からではなく、「どうすべきなのか」というように、「べき」から始めたり、世間ではどうなのか、から始めたりすることと、そこに「自ー由」はない。そこにあるのは、「他ー由」であって、「他」の「由」であるから、自分が被害者になったりできる。

知識も、それを「他ー由」にしてしまうと、それに縛られてしまい、知識そのものを加害者にしてしまうことになる。だれかの書いた観光マップ、ガイドだけをみて観光しようとするように、それは「他」の目をなぞっているだけ。そういう場合、そこで「な〜んだ、つまんない」とか思ったり、「ひどいめにあった」とか思ったりすることがあったとしても、それらはすべて「他」のせいにできることになる。しかし、少なくともそれを選んだのは自分であるということからはじめればいいのだけれど、多くはそうはならないようだ。

「自分のパターン」を見てみるというのは、かなり面白い「遊戯」になる。そのパターンは、かなり根強いもので、なかなか変わらないところも面白い。パターンにはまってほとんどパブロフの犬のようになってしまっている自分に気づき、それを自分で笑えるようになれればいいのだけれど、なかなか笑えずに、硬直してしまうこともある。けれど、自分のパターンがいかに滑稽なものか、まるで他人ごとのように見てみることができれば、最高のエンターテインメントになるのではないだろうか。

パターンにはまってしまっているということは、「自分がどう感じ、考えているのか」を「他ー由」とすり替えてしまっているということでもある。「自分がどう感じ、考えているのか」は生きていて、硬直化するようなものではないはずなのに、パターンのなかにいると、それはほとんど死んでいる。

たとえば、自分は常に被害者だと思い込んでいる人にとって、すべての現象は、自分を害するために存在しているわけだから、その思いこみ通りに、その人は被害者になってしまう。そういう場合、どんな知識も「被害者」という色に染められて、それ以外の見方、感じ方ができなくなってしまう。

パブロフ犬ならぬ、パブロフ人間にならない方法を模索してみたいものである。

 

 

風のトポスノート217

道具に使われるのではなく使うこと


2000.6.17

 

書物という道具、インターネットという道具、それらは使ってやらねばなりません。人がそれに使われてはいけないのです。人の進化もまた否定するものではなく、その方向性を見定め、すべての道具に使われるのではなく、使っていくことこそ重要です。

(日木流奈「伝わるのは愛しかないから」ナチュラルスピリット/P12)

インターネット人口が今年に入り爆発的に拡大しているようである。2000万人を越えたとか。ITとかe-businessとかいうことも、うるさいほど耳にする。家電量販店でも売り上げでも、約半分がパソコン関連になっているという。パソコン+インターネットというのが、まさに定番の「道具」となりつつあるということだろう。

しかし、「道具」は使うためにあるはずなのに、ほとんどの場合、それに使われてしまうようになるのはどうしてだろうか。単純な話、「使う主体」が不在になっているということなのだろう。グルジェフに、「生は<私が存在し>て初めて真実となる」という著書があるが、まさに、「使う主体」としての「私」が存在していないということ。

もちろん、操り人形でも二人羽織でも腹話術でもないのだけれど、よくよく見てみると、「使う主体」がなにか亡霊のようなものに操られているのがわかるのではないだろうか。レジャーだとかいって、みんながテーマパークに行ったりするようなときも、ほとんどレジャーを楽しむ「主体」が不在なことに容易に気づくことができる。アリストテレスは「レジャー(閑暇)」と「観想」「幸福」の内的連関を示唆したが、みんな遊びに行くとされているところに自分も行く、というのをレジャーだと思っているのは、「主体」ではない。そこには、「私が存在し」ていないから、「生は」「真実」とはならない。

インターネットという道具も「私が存在し」ていないならば、そのテーマパーク的なレジャーとなんら変わるところはなく、そこに「使う主体」はなく、単なる「気晴らし」の手段でしかなくなる。

インターネットを遊びの手段だから評価しないという学者もいるし、インターネットに否定的な人智学的セクトもあるようだけれど(^^;)、そういう態度は、結局のところ、「使う主体」の不在を高らかに唱っているということでしかないのだろうと思う。そして、主体の不在からは何も始まらない。

さて、では「使う主体」であるためにはどうすればいいのだろう。もちろん、それを「外」から「べき」で縛ることはできない。そこに「自由」という大きな課題がある。

 

 

風のトポスノート218

方法に使われないこと


2000.6.20

 

 私はドーマン法をやってはいるけど、私の親たちと私の友達という環境があるわけ。そのすべてがそろって私という人間ができたわけよ。で、それぞれの環境があるから、それぞれの子供たちはそれぞれに育つ、同じ方法をやってたとしても。

 これって、あたりまえのことでしょ。でも、みんな意外と気づかないのよ、方法にとらわれているから。方法はとても大事なことなんだけど、それに使われてしまってはいけないわけよ。方法はあくまで人が使うもの。

 その方法に支配されてしまってはいけない。それを活かすも殺すも、すべて人の心次第だと思うの。

(日木流奈「伝わるのは愛しかないから」ナチュラルスピリット/P33)

日本人はとりわけカタチにとらわれることが多いように思う。カタチから入るということが必ずしもおかしいわけではなく、効果論からいってもそれなりの有効性があるのだろうけれど、問題は、カタチから入るがゆえにカタチから抜けられなくなるところにある。カタチに使われてしまうということである。日本の野球がカタチを強要することが多いということもよくいわれる。だから、そのカタチによって個性がつぶされてしまうことになる。個性がカタチを生かすのではなく、カタチが優先されてしまう。

「守ー破ー離」ということがいわれ、「守」を得た後には、カタチである「守」を破り、さらにただの「破」ではなく、自在さとでもいう「離」ということに向かわなければならないとされる。「破」はいまだ「反ー守」とでもいうアンチにとらわれているから、そういうアンチからも自由でなければならないということだと思う。しかし、「守ー破ー離」が強調されるということは、実際のところ、「守」というカタチ、「方法」からなかなか抜けられないということでもあるだろう。ハウツー本がよく売れるということも、カタチさえ得ればその実が得られるかのように安易な錯覚をしてしまうことがあるのではないかと思う。

シュタイナー教育なども、そういう受け入れられ方をしているところが多いのではないかと思える。シュタイナーのおもちゃとかシュタイナーのお人形とか、シュタイナー学校で使われている教材、オイリュトミーなどなど、アウトプットばかりが先行してしまうことで、ほとんどハウツーになってしまい、それに使われてしまうことになる。そしてその根幹にある精神科学のほうは、半ば敬遠されてしまう。ブランドというカタチの大好きな日本人には、そういう行動パターンがらくちんで違和感もないのだと思う。ブランドもブランドに使われることと、ブランドを使うということはまったく違うことなのに、購入できればそれで使えていると思い込んでいるのだろう。シュタイナー教育も、それと同じく、いわばハイソ的な方の需要に対応しているところがかなり多いのではないだろうか。

カタチはカタチとして有効に「使い」ながら、なぜそのカタチなのかということを常に問う必要があるのだろう。それが、カタチに使われず、カタチを生かし、カタチを超えていくための最も基本的な態度なのだと思う。

 

 

風のトポスノート219

脱ー群れ社会の発想


2000.6.20

 

 いろいろな集団がいるよネ。宗教団体だったり、環境保護団体だったり、様々。会社もあるし学校もある。

 いろいろと集団と呼ばれるものがあるのだけど、集団について少し言っていい?私は基本的にはどこにも属す気はないのね。また、自分で団体作る気もないわけ。私は常に個人であることをかなり強く望んでいるの。

 でも何か物事をなしたいとき、目的を掲げて、「これやりたい人、この指とまれ」って感じで人を集めることはすると思うの。でも、そのプロジェクトが終われば、また解散。

 同時進行に別なことしてもいいし、また、それぞれのプロジェクトに同じ人がいてもいいし、違う人がいてもいい。

 私がヨシとする集団というのは、常に皆がスペシャリストで、それぞれできることを提供しあう、そんな集団なの。私はそういった集団は好きなんだけど、初めに枠があって、そこに当てはまらない人を排除する集団というのは、どうも好みに合わないみたい。人が人として最大限に自分の力を発揮できる場でないと、人が集まる意味がないと思うのよ。  

(日木流奈「伝わるのは愛しかないから」ナチュラルスピリット/P69-70)

かつて「宇宙の法」という本に描かれていた「術語的ネットワーク」というコンセプトが、まさにこれ。だれも絶対的な主語ではなく、目的に応じたスペシャリストの共同で集団が術語的に形成され、目的を終えるか別の方法が見つかるかすれば、その集団は必然的に内的必然性をなくして存在を終える。

なんらかの集団は目的に応じて形成されることが多いと思うのだけれど、ほとんどがその目的を終えるかその目的を遂行するのができなくなっても、自己目的化してその姿が亡霊のように存続してしまう。集団のための集団、集団を存続させることがすべての目的になってしまう。もしくは、そのなかの主語的な人物がみずからを中心に置くことが集団の目的になってしまう。

「術語的ネットワーク」の場合、何かに属するということは問題にならない。しかし、そういう在り方は、「常に個人であること」を望まず、団体を指向する人の間では存在することができない。必要に応じて形成される集団の構成員のネットワークという場においては、集団そのものに属することを目的としたり、集団そのものの上に立つことを目的としたりすることは無意味になる。「術語的ネットワーク」は、人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。

なぜ人は群れたがるのだろう。その疑問は物心ついた頃からずっとあった。なぜ集団のルールから人を見たがるのだろう。どうしてそのルールがあるのかを問おうとしないのだろう。偉い人とそうでない人、教える人と教えられる人が絶対化されるのだろう。

そんなあたりまえのことをあたりまえのように問うことさえできれば、今の社会そのものが変わらざるを得ないはずなのに、たとえば、選挙はほとんどの場合、集団によって左右れる。団体票ということが問題になってしまう。その団体票という発想そのものが集団の自己目的化を表現している。

選挙は棄権しないようにしている。50%程度の投票率の投票しない人が投票すれば、少しは政治家も変わるのだろうけれど、半数が投票しないのが前提になるものだから、団体票がますます力をもってきてしまう。

集まりたいから集まる人たちが大勢を占める限り、世の中のしくみは変わらないのだろうと思う。

 

風のトポスノート220

自分を宇宙の中心に据える


2000.6.20

 

 要は、自分を宇宙の中心に据えるってことなの。だれでもヨ。

 だってネ、他人を中心にして物事考えていたら、絶対自分の心を偽ってしまって苦しくなるでしょ。自分を中心に据えてないから、そういうことが起こるのよ、みんな。

 だからネ、ある意味で、地球が回ってるんじゃなくて、宇宙が回ってるのかもしれないヨ。さて、どっちが正しいでしょうネ。

 べつに物理学者を敵に回す気はないヨ、私。自分勝手とは違うのよ、これ。中心にするだけ、自分を。

 よそ様の宇宙に乗っかって動いたってつまらんでしょ。自分を中心に据えて、自分を完璧に信じること、そうしてるととっても気持ちよくなるの。

 自分勝手してる人は大抵ね、「自分が中心」だと勘違いしてるけど、よその人からどう見えるかとか、奇をてらうことばかり考えて行動してるから、「自分を中心」とは、全く違う動きをしているの。だから、すぐわかる。

 これ、似て非なるものよ。この世の中って、似て非なるものってすっごく多いのね。前も言ったけど、これがわかるようになると、現象や状況に振り回されなくなるんだナ。

(日木流奈「伝わるのは愛しかないから」ナチュラルスピリット/P130)

「自分が中心」と「自分を中心」とは、似て非なるもの。前者はいわゆるエゴ、後者は「天上天下唯我独尊」。

エゴの「自分が中心」は、結局、人にふりまわされているだけ。人より偉くなりたい、人を自分の思い通りに動かしたい、云々。人ばかり気にして生きている。

「自分を宇宙の中心に据える」ならば、人のことは人のこと。人の宇宙のことをとやかく気にする必要はない。人の上に立つとか人より下にいるとかいう発想はなくなるし、人が自分の思い通りにならないからといって腹を立てたりすることもない。自分が自分のなかで気持ちよく生きられるならば、それでOK。それはもちろん、他の人もそういう意味で気持ちよく生きられることを認めるというか、それ以外にはありえない。みんなそれぞれの宇宙の中心にいて、矛盾しない。

自分以外のところに中心をもってくるからこそ、人はその別の中心をつくらなければならないし、その中心を気にしながら、そのまわりをくるくるまわってしまうことになる。

集団が好きな人、集団化しないと気が済まない人というのも、たぶん自分を中心に置くということができない人なんだろうと思う。結局そういうのは、エゴの裏返し以外のものではなくなる。集団が容易に狂気になるというのも、おそらくそういうところからくるのではないだろうか。


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