風のトポスノート201-210

(2000.3.16-2000.5.24)


 

201●壊れる

202●呪

203●商品としてのカルチャー

204●天と地の交歓としての物語

205●「私は私である」をめぐって

206●アニメーション

207●虚

208●アイデンティティ

209●被害者意識

210●「わかる」と「わからない」の間

 

 

 

風のトポスノート201

壊れる


2000.3.16

 

壊れる

ということはな

よいことなのだよ

博雅

終わる

ということは

よいことなのだ

炎をくぐって

新しく

生まれ変わるのさ

 

(岡野玲子/原作:夢枕獏「陰陽師9「玄武」白泉社)

 

死に死に死んで

死ぬことで新たに生まれ

生まれ生まれ生まれることで

新たに死ぬ準備をする

 

作ることは

壊れるということであり

壊れるということは

作るための条件となり

始まるということは

終わるということであり

終わるということは

始まるための通過儀礼でもある

 

何かが壊れるということ

終わるということ

死ぬということは

とても辛く

痛々しく

もう立ち直れないかのような

そんな思いを伴うことが

しばしばなのだけれど

そのことで

はじめて可能になるような

創造や始まりや生があることに

気づくときがある

 

人として生まれるということは

生と死という不可避の深淵に

投げ込まれるということでもあり

この肉体という罠のようなものを伴い

痛みや苦しみなどとともに

生き死ぬることでもあるのだけれど

そんな人であるからこそ

可能になることもあるのではないか

そんなことをふと

この身に浸みて感じることがある

 

ときに生が死とともに

怨霊化することもあるのだろうが

その天に昇りきらない

魄の哀しみも

ただの迷いというのでなく

ある可能性とともにある

影のようなものでもあるのではないか

そんなことを思ったりもしてみるのだ

 

 

 

風のトポスノート202


2000.3.19

 

「これを見ると、言葉が呪であるなら、その言葉を記す呪もまた呪である

ということがよくわかります」

「あなたの言い方をするなら、雨も泡(うたかた)も、本然は同じ水。見

た目の違いは、ただかけられた呪の違いにすぎぬということですね」

「ええ」

晴明がうなずいた。

(・・・)

「この世は、事物の本性たる仏と、そして泡のような呪とによってできあ

がっていると、そういうことでしょうかな」

謎をかけるように、寛朝が晴明に問うてきた。

「仏という存在もまた、一種の呪ではありませんか?」

(夢枕獏「陰陽師 生成り姫」朝日新聞社/P10-12)

 

言葉は数だという。数霊。言葉は呪であり、名も呪であるとすれば、呪とは数霊の魔術だということになる。

世界はマーヤであるというのも、世界は呪であるということをいうのかもしれない。世界はすべて数霊魔術の舞台そのものだということだ。

宇宙というのは時空のこと。時間と空間はほんらい別のものではないのだけれど、時間と空間という呪によって宇宙は展開されることになる。

古代においては、本当の名前は隠されていた。ほんとうの名前を知られてしまえば、その名前という呪を操ることができるからだ。呪術は呪という存在=認識の魔術なのだから。

式を使うというのも、事物に対してその呪を用い、それを存在化させるということにほかならないのだろう。

石が何かの形に似ている、植物の根っこが何かの形に似ている。そうした似ているということも、呪という観点からいえば、大きな意味をもってくる。

さて、「KAZE」というのも、ひとつの呪であり、もちろん「KAZE」の本名というのもまたひとつの呪である。「私」そのものではなく、ひとつの呪なのだ。「私」は名づけられない。名づけられないということによって、呪を免れる。名づけられるということは、呪にほかならないのだから。

私の名を呼んではならない。私はありてあるものなのだ。というのは、私の名を呼ぶなというのではなく、私は名前をもたない。私を偶像化してはならないということ。名前で呼んだとたんそれは呪になってしまうのだから。

そういう意味で、仏というのも「一種の呪」であり、アントロポゾフィー、アントロポゾーフというのも「一種の呪」である。そう呼ばれることで、「呪」となってしまう。シュタイナーはアントロポゾフィーという名称は毎日でも変えたい、といっていたということだが、おそらくはそういうことなのかもしれない。

 

 

 

風のトポスノート203

商品としてのカルチャー


2000.4.16

 

「ーーだから、今や新しいミュージシャンやカルチャーというものは、彼女たちにとって一種の投機なわけですよ。いかに早く、雑誌やTVで話題になる前に誰も知らないお洒落なものにつばを付けるかという点に彼女たちは最大の労力を割いているんであって、決して対象にのめりこんでいるんじゃない。そういう新しいものを見つけた自分というものが中心にある。映画や音楽のプロモーターをやっている連中に聞くと、まだほとんど紹介されていないような、海外のマイナーな歌手や俳優を連れてくると真っ先にやってくるのはそういう新しいもの好きの女の子たちなんだそうです。完全に『商品』として、『これがいけそうだ』という目でやってくる。かくて、流行は周期が短くなる一方で、ますますみんな飽きっぽくなった。だから、ヒット曲という点で言えば昔よりも簡単にメガヒットというものが出やすくなった。みんなが『今はこれが買い』『これはカラオケで使える』という視点でいっせいにシングルを買うからです。しかし、そのアーティストを愛しているというのではなく、使いやすい曲によって取捨選択がなされる。みんな、おいしいところしか取らない。自分の欲しいところだけをつまみだして、そこだけ食べ散らかす」「いろんなものが選択できるってのは悪いことじゃないんじゃないの」「あら、現代ってむしろ選択肢が少なくなっているんじゃないかしら。『ぴあ』が出てきたあたりから一気に文化の画一化が進んだわよ。あらゆる情報が提供されるようになって、手軽にいろんなものを見られるようになったのは確かだけど、昔はほんとうに好きなものを求めていくことによって情報は得られたのに、今はアングラというものがなくなってしまった。みんな普通の好奇心だけの人が土足でやってきて、なんでも大衆消費のレベルにひきずり降ろしてしまっては、ひきずり降ろしたまんまですぐにさようなら。日本人の『民主主義』の一番履き違えているところよ。昔は分相応って言葉があったけど、今や『俺たちは平等だ。そんないいものがあるんなら俺にも見せろ、俺にも食わせろ、俺にも買わせろ』でしょ。理解できる目も舌も背景もないくせにさ。みっともないったらありゃしない」

(恩田陸「三月は深き紅の淵を」講談社/P28-29)

 これはミステリーからの抜粋だけれど、ミステリーのなかには、こうした科白などで、けっこう穿ったものがあったりするので、見逃せなかったりもする。表現が平易で、註釈付の研究論文ではないからこそ、ぴりりと辛口だし、しかもこういう科白は、ストーリーのなかに埋め込まれていて、決してそのまま教育的な言辞にはならない。常にその批評的観点そのものへの意識があるので臭くならない。

 それはともかく、昨今の音楽業界での「メガヒット」現象は、不可解きまわりないものである。音楽が素晴らしいとかいうのではもちろんないようだし、それがある種の、重要な時代の響きとなっているようでもない。(もちろん内容のなさという意味ではある種の「響き」なのだろうけど)

 引用にもあるように、『これはカラオケで使える』的なノリで、常にMDやCDなどを聞きながら街を歩いているわけである。とっても『民主主義』的な風景・・・。お茶の間のゴシップのためのテレビ番組や週刊誌ネタ、ブランド買い漁りの欲求などのエトセトラも、基本的には、同じ『民主主義』的な風景にほかならないような気がする。まさに、『俺たちは平等だ。そんないいものがあるんなら俺にも見せろ、俺にも食わせろ、俺にも買わせろ』、ついでにいうなら、「俺にも口を挟ませろ」。

 今ではすべてが「商品」になってしまっているということである。「商品」であるということは、「買える」ということであり、「買える」ということにおいて『民主主義』的であり、しかもそれらの「商品」もそうした態度によって支えられている。今では多く、「知識」や「学問」も商品化を免れてはいない。たとえばポストモダンも多くファッショナブルな知的ツールになっているし、最近では「哲学」さえもがそういうツールとして商品化されている。

 だからこそ、「考える」ということを商品化の憂き目から脱させるために、つまり、商品化されてしまった「考える」ことのマニュアルから、「考える」を生きたものとして復活させるために、たとえば池田晶子などの「考える日々」があったりもする。

 要は、『民主主義』というのは、その多くの構成員にとっては、「画一化」欲求の手段になってしまっているということだ。もちろん、始末の悪いことに、「画一化」は巧妙化され、「自分だけは一歩進んでいる」という、不毛な『これがいけそうだ』欲求によって、常に、見かけのネタの違いゆえに、「画一化」が一見隠されてしまう。隠されてはいないのだが、自分が画一化されているという自意識を感じなくて済むわけである。こうして、「わたし(またはわたしたち)だけはちょっと違うのよ」という意識の画一化が加速していくことになる。まさに、「考える」ことがそこでは風化してしまっている。

 ニューエイジなども同様で、「考える」ことが多く風化してしまっていて、さまざまなマニュアルやツールなどが跋扈することになっている。だから、「自由の哲学」が必要になってくるというわけなのだが・・・。

 

 

 

風のトポスノート204

天と地の交歓としての物語


2000.4.17

 

近ごろは入れ子式になった小説というのがはやりだそうで。一つの物語のなかに、幾つもの話がほうり込まれ、最後に包括されるという形式のもの。私は、これは現代の我々の生活が巨大な入れ子であるという状況が影響していると考えています。TVドラマを見て、ドラマのストーリーや人物のキャラクターが商品や記号として語られる。たくさんのゲームソフトの中で、架空の戦争と複数の選択肢が消費される。スイッチを切ったとたん、箱の中の物語は終了。我々はその外側の生活を生きる。新聞を読めば、我々の日常生活はまた、現実という海に多数漂流する小さな箱の一つでしかない。その外側には得体の知れない悪夢のような世界が広がっているというわけです。その昔は、人間がマクロな視点というものを獲得するにはそれなりの努力というものが必要でした。命をかけて大航海をするか、宗教や、哲学といったものから学んでいくしかなかった。しかし、現在はいとも簡単にマクロな視点が手に入る。航空地図でも、青い地球の写真でも、みんなが神の視点を手に入れたわけです。そのことによって広い世界を獲得した人がいるかもしれないが、実際にはそれほどみんな幸せにはならなかった。自分の存在の卑小さだけが身に迫り、他人との差別化に血道をあげることになる。ゆえに、他人の生がジェットコースターにように展開され、自分の掌に収まるフィクションが好まれるということになる。自分の人生が他人に消費されているということを否定し、他人の人生を自分が握っているという錯覚に陥ることを望む。自分は外側の世界にいたい、という気持ち。それがこんなに多くの入れ子式構造の物語を産んだ背景ではないでしょうか」

(恩田陸「三月は深き紅の淵を」講談社/P56-57)

 もしこの地上に産まれてこなくても、この地上で生きる体験によって得られるものが得られるとしたらば、こうして産まれてくる必要はないだろう。人は産まれてくる必要があるから産まれてくる。おそらくそうなのだと思う。

 だから重要なのは、自分が自分の生を生きるということであって、その上で、自分のそうした生を見る目を得るということなのだ。最初から、自分の生を外側から見ることでもなければ、ましてや他人の生を見て、それを評価・判断することではないだろう。

 私は世界の内側にいて、そこで血を流し、涙を流す。その世界の物語がたとえマーヤであるのだとしても、そこで私は苦しみ、人に共感し、ともに笑い合う。そのことを貫いて、貫くことではじめて、それらすべての物語を見る視点を得なければならないのだろう。

 テレビやゲームで体験される物語の数々。それは、おそらくは、もう一人自分がこの自分の物語を体験しているようなものなのかもしれないが、テレビやゲームでの体験とは異なり、この地上体験には、身体性、そして魂そのものが関わっている。その関わりこそが、重要なのではないだろうか。

 人は、産まれ、四肢でリズムを刻むことで、数を覚え、考える能力を育てていくのだという。四肢で大地を踏みしめ、天に向かって歌う(訴う)。そうした地と天の交歓によって生み出されるエッセンス。

 物語は、その地と天の交歓のなかでこそ生み出されていかなければならないのではないだろうか。おそらく、メルヘンやファンタジーが生きたものになるか死んだものになるかも、そこに鍵があるように思う。

 

 

 

風のトポスノート205

「私は私である」をめぐって


2000.4.26

 

 人間主体が「私」と言って自分を差しつつ、自分に返るその方向を否定によって翻して、他者とともにある場所に自分を開き、そのつどの相手に向かって「私」と言う。この動的な全関連が「私」ということであり、その動性から「私」を「私は、私ならずして、私である」という自覚と見た。その際、他者と「私」とともにある「場所」が「私」を構成する一つの基本的契機であるが、この「場所」が「世界」になってゆくのである。(…)

 世界が包括的意味空間、人間存在にとっての意味の総枠であるとするならば、世界はそういうものとして一つのまとまりがあり、限りのある「開け」にほかならない。すなわち世界は有限である。世界が有限であるとすれば、世界はその有限性において「限りない開け」に超えつつまれている。あるいは、世界は「限りない開け」のうちにある。意味の総枠としてまとまりをもった世界には限りない余白があり、世界であるところの意味関連の織物には底なき行間があると言うことがでいるであろう。

(上田閑照「私とは何か」岩波新書/P18-20)

 「私は私である」という。ここに主体としての私がある。そして、「私である」と他者にむかって自らを開く。つまり、他者ゆえにこそ「私である」ということが可能となる。

 私は「開く」ことによってこそ「私である」のである。そして「世界」が成立し、それが「一つのまとまり」を持つがゆえに、「限りのある「開け」」が成立する。

 私は、その限りある「意味関連の織物」であるがゆえの「世界」のなかで、その折られた経糸と緯糸の交わりとそのつくりだす絵模様を読み味わい、さらにそれらの限りない余白である「底なき行間」を見出してゆく。その「行間」の見えないがゆえの可能性を見出してゆく。そこに自らの由としての「自由」を見出し体現してゆく。

 音楽を聴くとき、その「間」の無限を聴くことこそが聴くことの自由への可能性であるように。見るときに、その見えないものの無限を見ることこそが、見ることの自由への可能性であるように。

 私は、私であるということによって、「私ならざる」ものへとみずからを開いてゆく。その開くことによって、私は自らの由を創造してゆく。

 

 

 

風のトポスノート206

アニメーション


2000.5.4

 

 今日(5月4日)、NHKの「にんげんドキュメント」で、宮崎駿とそのスタジオジブリの若き原画監督のドキュメントを見た。

 わずか5秒から7秒ほどのシーン、たとえばただ春巻きを豪快に食うシーンのなかに、その作画者のすべてが表現されてしまうすごさ。

 アニメーションは息を吹き込むという意味だけれど、まさに、息を吹き込むためには、いのちのすべてをそこに込めなければならない。

 神は細部に宿りたもう。日々なにげなく見ているひとつのシーン、あるいは自分が行っているひとつの動作。そこにすべてが映りこんでいることに気づくこと。ぼくが歩く、話す、笑う、不安を感じる。そうしたひとつひとつのなかに、ぼくのすべてがあることに気づくこと。

 グルジェフのワークが、ロボット化した自分を脱して、自分のすべてに意識を吹き込むものであったように、アニメーションを描くということは、ぼくがぼくであるという秘密に迫ることでもある。自分に気づけない限り、決して描けない。描いたもののなかには、自分のすべてがそこに映り込んでしまうから。

 アニメーションを描くということは、自分自身と全身全霊で格闘するということなのだ。アニメーションに限らず、なにかをなすということは、自分自身との格闘なのだと思う。そうでなければ、そこに息を吹き込まれたものはない。

 ぼくがぼくであること。それは、ぼくの歩く、話す、笑う、不安を感じる、そうしたすべてのなかに、ぼくの気づきを注ぎ込んだときに、はじめて可能になる。そこには、すでに愛の不在はない。分離しているというマーヤもすでにそこにはない。

 

 

 

風のトポスノート207


2000.5.19

 

 東洋では、無とは違った意味で、虚っていう言葉を非常によく使います。それで、僕は、虚っていうことを、小説で言っているんですよ。虚のことを数学では虚数って言ってまして、虚数はマイナス一を開くんですよ。ルート。それを虚数っていって、英語ではイマジナリーナンバーっていうわけです。想像数なんですよね。英語の「イマジナリー(imaginary)」っていうのと、東洋における「虚」っていうのは幾分違いまして、東洋の「虚」っていうのは、想像数ではないんです。とにかく「実」じゃないものなんですね。われわれの知っているものは、どこまで行っても実際にあるもの。原子でもなんでも、全てあるものなんです。いくら小さくなっても。(…)

 東洋に虚っていう言葉がありますが、虚っていう漢字に口をつけると、嘘になりますけど、東洋の虚っていう意味は、単に嘘ばかりじゃないんですよね。老子は虚ということを盛んに言ってますけど、虚実っていう言葉は、日本語にも東洋にもあるんですよ。虚と実ですね。実体のあるものと虚。虚はヨーロッパ語にはないんですよ。ヴェイカント(vacant)とかいったって、東洋の虚に当たらない。ヴァーチャルなんとかいう言い方はありますが、こののっぺらぼうとは幾分違うんですよ。

(マリオ・A「カメラの前のモノローグ 埴谷雄高・猪熊弦一郎・武満徹」集英社新書/P20-40 *この引用箇所の語り手は、埴谷雄高)

 虚数が英語でimaginary numberだというのは知らなかった。虚というのが、英語などにないというのも少し意外だった。おそらく虚数はimaginary numberを訳したものだと思うのだけれど、その訳者(おそらく数学者)はなぜimaginaryを虚としたのだろう。想像の数字だから、実がないということで、虚ー実ということを考え、そのように訳したのかもしれないとも思う。

 しかし、虚数と虚数を掛けたら実数real numberになるというのは、以前から不思議だと思っていて、そこに何か必然のようなものがあるようなそんな感じを抱いていた。もちろん実数は、realだといっても、物質のように存在しているわけではないのだけれど、虚と虚の掛け合わせのなかから実が立ち現れるというのは意味深長な気がする。この世界も、虚と虚が掛け合わせられることで、現象化したのかもしれないとか想像する。

 であれば、なおのこと、虚ってなんだろうと思ってしまう。実をいくらいじくりまわしてもそのままでは虚は出現しない。けれど、虚は実へのメタモルフォーゼが可能なのだ。

 勝手な想像をしてみると、東洋に虚があり、西洋に虚がないとすれば、東洋がメタモルフォーゼして西洋になったのだけれど、メタモルフォーゼして出現した西洋はそのままでは虚がでてこない。だから、西洋はふたたび東洋の虚と掛け合わせられなければならない。そういうこともいえるのかもしれない。

 西洋の中心にある大きなものはキリスト教であるが、そのキリスト教は、「個」を誕生させ、外的世界への探究を進展させ、強固な唯物論さえも生み出した。それは、まさに「実」なのだ。そしてその「実」はふたたび「虚」の可能性へと向かう。そういうとらえ方でそのプロセスを見てみるのも面白いのではないか。

 

 

風のトポスノート208

アイデンティティ


2000.5.19

 

<アイデンティティ>という概念は、それ自体いつもフィクションと倒錯を含んでいる。<アイデンティティを守る>というような発想があって、初めてアイデンティティが発生するのだから、このような言い方自体が同語反復を含んでいるのだ<アイデンティティ>は、人がそれを守ろうとするとき、初めて発生する。そのとき同時に、それが過去にすでに決定的に存在したかのような錯覚が生み出される。<アイデンティティ>は、自己と他者とのあいだに亀裂・距離が発生することである。それはいわば自己とのあいだに発生した<エクゾティズム>なのである。

(宇野邦一「他者論序説」書肆山田 2000.4.30発行P20-21)

 自分は自分だと思いこんでいてそれに気づかないでいる限りにおいて、「アイデンティティ」が問われることはない。自分は自分なんだ!と主張しなければならなくなってはじめてそれは出現する。それは、未知の自分の発見ということでもある。

 おまえはこういうやつだ!と言われて、カチンとくるとする。そのカチンによって、それがそうであるかそうでないかに関わらず、私は私でないと思っているものとの関係性を強いられる。そうであるとしたら、そうであるという未知とつきあわなければならず、そうでないとしたら、そうでないということによってでは自分は何なのだということと対面しなければならなくなる。

 アイデンティティを守ろうとすることが、アイデンティティそのものを生み出し、そのことがアイデンティティを脅かす。その矛盾のなかを生きる。私は私なのだけれど、私が私であろうとするとき、私は矛盾のなかにいる。私という即自と鏡に映された(と思っている)私の姿との裂け目。悪くすると、鏡のなかの自分の顔がゆがみ、怪物化したりもする。

 ところで、国旗や国歌などが法制化される。それは、国の「アイデンティティ」へ向かうものだろうが、そのことによって、国には国でないものとの間に、「亀裂・距離が発生する」ことになる。そもそも国の「アイデンティティ」が問われるということは何であろうか。「アイデンティティ」が問われることで、それが「過去にすでに決定的に存在したかのような錯覚が生み出される」。そして、そこに「フィクションと倒錯」が展開しはじめることになる。国のアイデンティティを見ようと鏡を覗き込んだとき、いったい何が見えてくるのだろうか。すでに、首相はそこに「天皇を中心とする神の国」を見た。はたして・・・。

 

 

 

風のトポスノート209

被害者意識


2000.5.22

 

 前回も少年犯罪について考え、書いた。むろん決定的な議論にたどり着けるはずもなく、今もまだ考え続けている。

 そして必ずぶち当たるのが「被害者意識」である。現在、犯罪を起こす少年のほとんどがこの「被害者意識」を持ち、また利用する。(…)

 おそらく、彼らは真実、学校を憎んだり、社会を憎んだりしているというより、そう言わなければほかに表現しようのない「被害者意識」を強く持たされているのである。(…)

 だとすれば、社会に取り戻すべきは加害者意識ではないか。環境問題を始めとしてだれもが少なからず悪に荷担し、同時に被害者でもあるこの世界で、一方的な被害者の側に立たず、積極的に加害者側を引き受ける背筋が緊急に必要なのだ。

 世の中では、加害の認識を持つ者を「自虐的」と呼ぶことが流行している。僕は逆に「被害者意識」こそが「自虐的」だろうと思う。悪の認識は冷静な内省を導く。だが、「被害者意識」は見境なく力を欲する。世界を殺そうとする。

(いとうせいこう「『被害者意識』から脱却」2000.5.22付朝日新聞「eメール時評」より)

 「だれがあなたをそうさせた?」その問いに答えるのはとても易しい。「〜が悪いからそうしたのだ」の「〜」に何でも入れればいい。

 学校が悪い、世の中が悪い、というような一般論から、具体的に名指しでいえる「この人がこうだから私はこうした」まで、言おうと思えば何でも言える。そして、今の日本では、その「〜」を言うことが奨励されているようにさえ見える。「被害者」になっていれば、それが免罪符とされるものだから、それを自分でも安易な「答え」としてしまう。

 「答え」が安易にでる以上、「なぜそうなのか、そうしたのか」に対し、その矛盾に満ちた方程式を解こうとは思わないのだ。最初から、解答が横に置いてあって、だれが解こうなどと思うのだろう。そして、その解答が「加害者」であって、自分はその解答を書いただけ、なのだから。

 この時評で言う「被害者意識」と「加害者意識」というのは、(正解かどうかもわからないがそう答えれば○がもらえる)答えの引き写しと間違うかもしれないけど自分でやってみよう、ということの違いなんだろうと思う。

 自分は間違うかもしれないけど、あえてやってみよう。そのプロセスこそが喜びなのだから。そしてそのプロセスの集合が社会や環境となって表現されている。そういう認識態度を、ある意味で自分の「美意識」として選び取るようなあり方が必要なのではないだろうか。

 「あなたはなぜそうしたのか」、または「あなたはなぜそうするのか」。その問いに対して、「私はそれを自分で選んだのだ」「私はその選んだことで、その結果を創造しようとしているのだ」そう答えることができるならば、そこには「自虐」も「被害者意識」も必要とされないだろう。悪を引き受けるとしても、それは自分なのだから。

 

 

 

風のトポスノート210

「わかる」と「わからない」の間


2000.5.24

 先日(5月21日)、広島で毎月開催されている森 章吾さんによるシュタイナー連続講座「つどいの森」に参加した。《算数は子どもの内面にどのように働きかけるか》、その第2回目。

 分数のわり算を子どもに教えるときのことが例に挙がっていたのだが、たとえば、2で割るとか、3で割るとかいうのはイメージしやすいのだが、1/2で割るとかいうことになると、確かにイメージしがたくなる。それをどのように教えるとわかりやすいかということ。

 そのとき自分なりにいろいろ考えていて、自分はどのようにしてそれを理解しようとしたかを思い出してみると、ぼくの場合は、1/2で割るということを1/2を掛けるということと比べながら、その計算の仕方を理解しようとしたようである。しかし、1/2で割るということがそのままイメージできたわけではなく、そのシステムを少しずつ覚えていっただけのようにも思える。

 そういうことを考えていきながら、あらためて思ったのは、数字を、たとえばリンゴが5個あるというような実際にあるモノと比べることを数字を覚えるというのでは、すぐに行き詰まってしまうということだ。

 実際のところ、ぼくは、小学校の最初の算数の時間で、たとえばリンゴ(の絵)が目の前にあるということと数字の関係というのがどうしてもわからなかった。数字は抽象であり、目の前にあるリンゴ(の絵)は具体的なモノである。5ということとリンゴの絵が5個描かれているということの間には、果てしない隔たりがあったのである。

 ぼくがそれを自分なりに納得したのは、「数字はうその世界なんだ」ということだった。うその世界だけれど、ちゃんときまりごとがあって、計算できる。いちおう、なんとかそういうことで自分をごまかしながらやっていた。でも、ときおり数字の世界と現実のモノの世界との関係がわからなくなって、判断停止のようになるときもあった。

 そうしたことを思い出しながら、数字、算数のような抽象的なものを理解するということはいったいどういうことなんだろう、「わからない」から「わかる」へのジャンプはどのように可能になるんだろう、というようなことをいろいろ考えていた。

 あたりまえのようだけれども、「わかる」ということはよくわからない。どのようにして自分はなにかを「わかる」または「わかったと思う」のだろう。それは「教える」ということとも深く関わっていることで、なにかを「わからせる」ことがどのようにしてできるのかを考えると、ほんとうによくわからなくなるのだ。

 なにかが「わかる」「わかった!」ということは、外からくるのではなく、かならず自分のなかからでてくる。自分のなかからでてこないものをいくら外からもらおうと思っても、それは自分の「わかった」にすることはできない。「わかった」への道は、「なぜなんだろう」からはじまる。「なぜ」と思えないもの、問うことのできないものは、自分にとって、存在していないと同じことなのかもしれないのだ。

 自己教育ということの重要性をそのことから考えてみることもできる。というより、人は自己教育しかできないのだ。自分を自己教育することで人の自己教育に影響を与えることしかできない、ということ。

 それにしても、ぼくはどのようにして、たとえば、1/2で割るということが「わかった」のだろうか。その「わかった」ということはいったいどういうことなんだろうか。「わからない」と「わかる」の間は、相変わらず深い闇のなか・・・。


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