風のトポスノート11-20

(1997/8.1-1997/10.10)


11●学問

12●医療システム

13●健康という病

14●バイエル

15●父性の創造/「個」

16●水の如し

17●ミステリー

18●いま生きているということ

19●魔物(敵)との闘い

20●声

 

 

風のトポスノート 11●学問


(1997/8.1)

 

いったい学問のおもしろさとは何か。こう訊けば、ものを知ることだという人もいるでしょうね。たしかに、ものを知ること自体、楽しいことです。だから、ものを知ることが大好きな人もいますよ。そういう学者も、いてもいいとは思います。

しかし、私はそういうふうに考えないんです。学問というのは何か。それは発見なんです。では、発見とは何か。新しい仮説の提供なんです。仮説をつくることですよ、学問というのは。

定説なんてないんです。ニュートン力学でも、アインシュタインの相対性理論でも、ボーアの量子論でも、しょせんは仮説にすぎないんです。仮説なんだけど、その仮説は十分に実証できる。その仮説にもとづいて現象を説明すると、よく説明できる。非常に明晰で、その仮説によって、いろいろな現象を説明すれば見事に説明できる。そういう仮説は真理性が高いといわねばならないけれど、だが、やはりそれを真理であるとはいえないんです。

(中略)

それで、私のやってきた方法を述べますと、やっぱり、まず疑うんです。常識を疑っていく。いままでの通説を疑っていくわけです。といっても、わざと疑うのではないですよ。自然に、常識や通説で説明すると説明できないところが出てくるんです。ちょっとこの説明は無理だぞと、そういうことを感じてくる。どうもおかしい。そういう素朴な疑問、疑いが、学問にはまず大事なんですね。どんなにいままでに多くの人に信じられ、どんなに偉い人に語られてきたとしても、おかしいものはおかしいんです。おかしいことをおかしいと思わなくては、学問にはなりません。

(中略)

それは頭がいいというだけではできないんです。いや、むしろ頭のいい人にはできないといってもいい。とくに世渡り上手な人にはできない。なぜならば、常識を疑うということはたいへんなことだからです。これは孤立することなんです。いままでの学問と違った前提の上に立つわけです。いままでの学者をみんな敵にすることなんですよ。

(梅原猛「少年の夢」小学館ライブラリー102/P35-37/1997.8.20発行)

 「そういうものだ」という常識を身につけることを学問であると混同してはならない。しかし、逆に「そういうものだ」を知らないで勝手をすることが学問でもない。「そういうものだ」を理解しながら、あえて「それはおかしい」、「こういう考え方のほうがずっと説明できる」ということに勇気をもって取り組むのが学問でなければならないと思う。つまり、創造性や発見のないものは学問ということはできないし、権威だけによって何かを教えたり教わったりすることを学問しているとはいえない。

ぼくは、学問がしたいと思う。本当の学問がしたいと思う。そのためには、一人から出発するしかないとも思う。大学などで隔離されたかたちでのほほんと学問をしているなどと錯覚するのではなく、きわめて「そういうものだ」に取り囲まれているさなかにありながら、あえて一人で歩んでいくことそのものを学問をしていると言いたいと思う。

 もちろん、その「一人である」ということは、「孤独を恐れない」ということであってただ孤立することを意味するのではない。「一人である」者でしか、共同するということができないということなのだ。最初から群れながら、その群のなかで、生きやすさのための常識を身につけ、そのなかから離れないということを至上目的としているあり方では、決して「共同」ということは不可能なのだ。

 学ぶことは発見の連続だ。その本来の意味を、ぼくは、シュタイナーの神秘学を学んでから実感した。シュタイナーは、自分で考えることをなによりも重要視した。シュタイナーはみずからを権威化するようなあり方を何よりも嫌った。「噛みつくような疑念」をこそ不可欠のものだとした。「自由の哲学」も、外的倫理性を排したところから出発せんとした、シュタイナーの学問に対する、あらゆることを対象とした学問に対する声高らかな宣言であるとぼくは思っている。

 

 

 

風のトポスノート 12●医療システム


(1997/8.13)

 

 テクノロジカルな医学の背後には、巨大産業、制度がひかえています。けれども、それは燃料が切れかかっている大きな機械のようなものです。本当に崩壊しつつあるのです。経済的にあまりに不効率なので、機能できなくなっているわけです。(中略)

 病院が、死ぬための最高の意識状態を持つためにふさわしい場所だとは思いません。特にホスピスに関していえば、多くの人が間違いなく死んでいくにもかかわらず、医者は、患者を死なせないことを目的としている場合がまだ多いのです。このような状況では死について話すことは難しくなります。(中略)

 私が強く感じているのは、自分を健康の鏡として、患者さんに教えられることが、医者としての最高の姿であるということです。今の医学生は、健康なライフスタイルについて教えられていないばかりか、医学を身につけるまでのプロセス全体が、健康なライフスタイルを阻害しています。医学生は、睡眠不足で、ひどいものを食べ、運動不足でストレスをため込んでいます。ようやく医学部のシステムから出ると、彼らは最悪の状態になっているのです。そんな人間たちが他の人たちに健康について教えるんですよ。ですから、学生自身が健康なライフスタイルを身につけられるようにすることは、私たちのプログラムの中でも重要なことなのです。

(アンドルー・ワイル×永沢哲「近代医学を超えて」

シリーズ身体の発見「パラドックスとしての身体/免疫・病い・健康」

(TASC[たばこ総合研究センター]『談』編集部=編著

(河出書房新社/1997.7.18より P24-28)

 日本では昭和36年に国民皆保険制度が発足し、昭和50年前後で、健康保険の制度がほぼ確立したということですが、それに伴って、医療システムは限りなく膨張し始め、現在では国家財政を危機に陥れるまでになっています。

 こうした「死なせない」ための薬漬けや手術による医療システム、「健康」という規準の標準化による検査づけ等というのは、いわば「死」を隠蔽するシステムであるといってもいいのではないでしょうか。それと平行して、その「死」に対する意味付などを安易に与えてくれる新興宗教の類も成長を続けているといってもいいかもしれません。冠婚葬祭といったセレモニー産業の成長というのも、生と死について見据え、理解することを放棄したがゆえのものだといえます。

 古代より「不老長生」ということが探求されてきたのだといえますが、「死ぬ」「老いる」ということに対する恐怖は、今や、巨大産業の大きな栄養源になっています。けれど、そのシステムそのものが、その内側から崩壊しようとしているのだといえます。

 「死」から目をそらすのではなく、それを見据えていくこと。そのことによって、「生」そのものをもとらえなおしてみること。そこから出発する必要があるようです。

 「病気」や「健康」に関しても、そこからとらえなおしてみることで、いわば自働機械のようになっている医療システムとそれを根底からささえている医療システム依存症候群から脱していく道も発見されてくるのではないでしょうか。

 そうすることで、医者という職業も、病気を治療するマシーンのような存在からともに病気を分かち合う存在へと変容することも可能になるではないかと思います。

 

 

 

風のトポスノート13●健康という病


(1997/8.13)

 

異常がない状態というのは、行動や思考が他者と違わないことでもあります。健康な社会というのは、画一化された社会なんです。みんなが同じ基準で生きるということですね。自分とは何かとか、自分はどう生きたいのかという問いかけがなければ、きわめて安定した関係を保てるわけです。ところが自分自身を問いはじめると、他者との違いが浮かび上がってきて、排除されることになります。だから健康の問題でもう一つ考えなくてはならないのが、健康は単に身体の問題ではなくて、それが人間のオールラウンドな存在に広がってきているということなんです。身体の問題から精神的な問題へ、あるいは態度とか口のきき方とか服装の問題にも及んでくる。そうしたことも健康という同一基準で決められてしまう。(中略)

いわゆるいじめの問題にも繋がっている。健康な社会になればなるほど異質が目立ちますから、個性を抑えつけようとする動きが出てきますね。

近代は効率化の社会ですから、目標を達成するためには規格化が必然です。みんなが規格化されたシステムの中で作動するわけです。そうすると、まず起こるのは身体の規格化です。そこから始まって口のきき方、服装、髪の毛と、規格化が進んでいく。

(上杉正幸「健康の逆説」シリーズ身体の発見「パラドックスとしての身体/免疫・病い・健康」(TASC[たばこ総合研究センター]『談』編集部=編著(河出書房新社/1997.7.18より P253-254)

 会社では毎年、健康診断が義務づけられている。そこで測定されたデータがいわゆる基準値に収まっていない場合、「異常」であると見なされ、再検査と治療が求められるということになる。そこでは、「健康」はまさにそのデータによって、「診断」される。つまり、「健康」の基準が標準化されているということだ。そして、その標準化が疑われることは稀であり、その「数値」によって一喜一憂することになる。

 これは、「身体」における「健康」だが、「健康であること」がさまざまなところで要請されているのだといえる。つまり、「異常がない状態というのは、行動や思考が他者と違わないこと」であるということに行き着くのだ。

 ある流行があると、その流行にいち早く迎合しそれを身につけることも「異常」でないためには、必要なことなのだ。しかし、流行という現象に乗り遅れないようにする若者たちは、学校や過程からはともすれば、その「異常」さが指摘される。けれど、若者にはその「世間」があり、「村八分」にされなくないわけである。

 そこでは、流行現象を批判する「世間」も流行を身につけて安心を勝ち取りたい者たちの「世間」も、結局はある画一化したあり方を目指しているところでは変わりがない。

 「シュタイナー教育」をブランド化しているような向きも、その「画一化」と無縁ではない。現代教育の単なる「アンチ」を「シュタイナー教育」に投影することで、教育が変わるなどという幻想を持つことのほうがむしろ危険なことだといえる。

 「自分自身を問いはじめると、他者との違いが浮かび上がってきて、排除されることにな」るにも関わらず、「自分自身を問いはじめる」ことこそが重要なのだといえるのではないか。

 

 

 

風のトポスノート14●バイエル


(1997/8.15)

  

私たちは、楽譜に対する知識を豊富にする勉強を続けると同時に、楽譜をとおして、その中に秘められた音楽の深い神髄にふれることができるように、教養を高める必要があります。ただピアノをひいて練習するだけでなく、他人の良い演奏をきき、声楽や弦楽、管弦楽などの演奏にも関心を持ち、できれば文学、絵画、建築、舞踏などの他の芸術にも接する機会をつくることは、より一層音楽を理解することになり、それが良いピアノ演奏をする助けにもなり、ひいては立派な個性をつくりあげる一助にもなるのであります。

(BEYER 全訳バイエルピアノ教則本/全音楽譜出版社 より)

 少し前に、ピアノを弾いてみようと思い立って、バイエルを教本に、相棒にピアノを教わりながら、少しずつ練習をするようになった。

 聴くほうの専門で、これまでこうしたレッスンなどまるでしたことがないのだけれど、とても弾くのが楽しい。それに、バイエルというそれまでは名前だけしか聞いたことがなかったのだけどそれがとてもよくできているということに驚いている。それよりなにより、ほんとうに単純な曲なのに、とってもいい曲が多くて、弾きながら体全体がそのシンプルな旋律に共振してしまうことも多い。

 こういうテキストは、通常はピアノをはじめた子どもが最初に取り組むことがほとんどなのだろうけど、ぼくのような歳になってからこうしたテキストに向かい合うというのも、それなりに意味深いのではないかと思うし、むしろ子どもの頃は、こうした楽器よりも、もっと自分で音を作り出せるような楽器のほうがいいのではないかとさえ思う。

 さて、このバイエルのテキストはほんとうによくできているし、上記の引用にもあるように、あたりまえのことをきちんと書いてある。ピアノの練習に限らず、すべてのものは、それだけしていればいいわけではなくて何かをするということは、他のさまざまなことから刺激を受けながら、理解を深めていかなければ薄っぺらなものになってしまう。だからいわゆる専門バカというのは、その名の通り、その専門においてさえ、薄っぺらなものでしかない。日本ではよく自分の専門分野以外のことに取り組んでいると、批判されたりする傾向もあるが、そんな馬鹿げたことははやくなくさなければならないと思う。

 シュタイナー教育でも、教育に関するとされるほんのわずかなことだけにしか関心をもたないのだとしたら、教育についてさえまるで知らないのと同じなのだ。教育は、子どもの全人格に及ぶものなのだから、教育に関することを学ぶということは、あらゆることを学ばなければならないということなのは当然のことなのではないかと思う。だから、ぼくは、教育者になるなどという途方もないこと考えもつかない。

 シュタイナーは「一般人間学」のいちばん最初にこのようなことを言っています。 

私たちは教育者であるばかりではなく、最高の意味での文化的な人間でなくてはなりません。私たちは今日の時代に行なわれているすべてに対して、生き生きとした興味を持てなければなりません。そうでなければ、この学校にとって悪い教師になってしまいます。教育という私たちの特定の課題だけに取り組むのでは不十分なのです。世界中の出来事に生き生きとした関心を寄せる時にのみ、良い教師であります。学校教育という私たちの課題が必要とする熱意は、世界への関心を通して獲得されねばなりません。そのためには精神的な態度の柔軟さと私たちの仕事への帰依とは必要です。

 これは、なにも教師だけに必要な態度ではないのは当然です。上記の引用の「教師」のところに「人間」を置き換えてもいいと思うのです。それが、「一般人間学」と題されたもう一つの意味でもあるのではないでしょうか。シュタイナー教育を云々する前に、あらゆることに関心を持ち、それを学ぼうとする姿勢こそが重要なのだと思います。

 

 

 

風のトポスノート15●父性の創造/「個」


(1997/9.10)

 

 今月の文芸春秋のなかに河合隼雄さんの興味深い話があった。 

 「父性の復権」というが、日本には「復権」するような「父性」は、ほとんどなく、ほとんど「母性」に包まれていたのだといえる。もちろん、現代の日本には「父性」が必要とされており、そのためには、「父性」を創造していかなければならない。「父性」とは、「個」の確立につながるものである。それに対して「母性」はなんでも包み込んでしまう原理だといえる。

 立ち読みしただけなので、引用紹介はできないのだけれど、こういう内容が盛り込まれていたと記憶している。

 もちろん、「父性」「母性」というのを、そのまま男性、女性、父、母であると理解するのは早計だろう。「父性」「母性」「男性性」「女性性」等は、各個人のなかにあるものとしてとらえる必要がある。

 「父性の復権」ではなく「父性の創造」であるというのは深く頷ける。「父性」が、「古き良き日本」とやらにかつてしっかりあった、などど誤解したところからは、なにもはじまらない。それどころか、そこからは、封建道徳的、儒教的な、家庭を守る貞淑な妻・・・といった馬鹿げた、「外」からのお仕着せとしてのあり方しかでてきはしない。

 各個人が、魂の叫びのなかから「個」として立ち上がってくるところからしか何もはじまらないといえる。

 河合隼雄さんの話は、14歳の少年の事件に関連した特集の一環として書かれたものなのだけれど、今、子供たちは、その時期に創造されなければならない「自我」の大きな危機に陥っているのだと思う。そもそも、親や教師などの「大人」を見ても、雛形とすべき「個」としての「父性」を見つけることができない。

 だから、それを自分で築き上げなければならない。そういう極めて厳しい課題に直面しているのだといえる。もちろん、それは子供たちだけの話ではなく、すべての人にとっての最重要の課題でもある。

 そして、それはシュタイナーが「自由の哲学」で述べていることと深く関係しているテーマでもある。

 つまり、いかなる外的権威や類型化などをも排した「個」から、つまり、みずからがみずからを創造した自由意志としての道徳性を導きだしていかなければならないということ。

 シュタイナー教育の「自由への教育」ということも、そこから理解される必要があるように思う。そして、日本においてシュタイナーの考え方を生かすには、そもそも父性のない母性に包まれたところにあり、そこから「父性」を創造していかなければならないという課題を深く認識するところからはじめなければならない。

 

 

 

風のトポスノート16●水の如し


(1997.9.24)

  

 「君子の交は淡として水の如し」といわれる。茶を味わうときにも、まず第一煎で甘みを味わい、第二煎で苦みを味わい、第三煎で渋みを味わうといい、さらにその味わいをつきつめると無の味となるという。老荘では味の至れるものを無昧といい、その味を「淡」と表現する。だからこそ、「淡として水の如し」が最高の「交」だというわけである。

 先日、究極の酒づくりといわれる試みを取材した。これは、ある酒屋のご主人が10年ほどまえから試みていたものを、今年は極限まで追求したらどうなるかということで、加東郡産の山田錦という最高の酒米を精米歩合25%まで磨き上げ、つくりあげた酒の話なのだが、そのご主人にいろいろ話をお聞きすると、酒の味が極められると、まさに「水の如し」になるということなのだ。

 高級な酒をそう度々飲むわけではないが、たしかに酒の味が「水の如し」に近づけば近づくほど、味わいが極まっていくというのは体験的にも理解できる。特に飲みくらべてみたときの味わいの違いは歴然としている。ぼくは、通常ほとんど酒は飲まないが、機会があれば、酒などの味わいを体験してみることにしている。先月金沢を訪れたときにも北陸の酒の、端麗辛口なものをいくつか試してみた。やはり、「水の如し」はほんとうに最高の「淡」かもしれない。

 さきの取材で、常に5〜6度に保たれている地下の蔵に蔵されている全国各地の名酒についていろいろうかがったが、その帰りにご主人の好意で「越乃寒梅」をいただいたので、ひさびさ味わってみたが、「水の如し」とまではいかなくても、端麗辛口な味わいは格別だった。

 ところで、話は別に酒の話ではない。この「水の如し」は、「君子の交」にしろ、酒にしろ、また、話を飛躍させれば、絵画や音楽にも最高の味わいなのではないか。バッハの音楽などもある意味でそういう「水の如」き音楽なのではないか。そういう話なのである。

 

 

 

風のトポスノート17●ミステリー


(1997/9.27)

 

 最近、ミステリーをよく楽しむようになっている。ミステリーと一言でいってもその意味するところは、さまざまで、ここからここまでがミステリーだなどとはなかなかいえないわけだが、基本的に「謎解き」をテーマにしたものだとはいえるように思う。いわゆる探偵小説というのが「謎解き」の筆頭には挙げられるだろうが、その「謎解き」の射程は広範囲に渡っていて、今回それをあらためて実感しているところである。

 よくよく考えてみれば、「謎解き」や「推理」というのは、あらゆることにあてはめられることで、そのスリリングさというのは、もちろん「神秘学」にまであてはめて考えることができる。シュタイナー教育は、子供という存在の「謎」を解こうとする営為である、ということもできるわけだから、シュタイナー教育は最高の意味でミステリーだということもできるわけだ。

 もちろん、最近楽しんでいるという意味でのミステリーは、通常のジャンル分けをされているものとしてのミステリーなのだけれど、正直いって、ぼくはこのミステリーというジャンルに半ば偏見を持っていた。で、その結果、あまりこのジャンルのものを読む機会はあまりなかったわけだ。ずっと以前に、シャーロック・ホームズやルパン、江戸川乱歩のシリーズを読み、あとはハードボイルドのチャンドラーやパーカーのスペンサー・シリーズを読んでいるくらいにすぎなかったのである。ミステリーとされるジャンルでの読物が、ここ10年ほどの間に百花繚乱のように咲き乱れていることに、あまり気づかずにいたのである。そして、そのミステリー特有の「読ませる」というエンターテインメント性があるが故の豊かさということにも。

 作家の宮部みゆきさんは、北村薫さんの「秋の花」(東京創元社)の解説でこんなことを書いている。 

何故ミステリを書くのか。なんのために、何を目指して書くのか−−そういう問いかけを投げかけられると、たとえば私は、うーんと考えてから、「やっぱり好きだからです」などと答えてしまうし、それはそれで実に単純素朴な真実ではあるのです。そして読者としてひとつの作品に向かい合うときも、何故これを読むのかと問われたら、同じように「だって好きなんです」と答えるしかありません。でも、そこにもうひとつ、何かがある。見ようとしていつも見えるものではないし、聞こうとしていつも耳にすることのできるものではないけれど、いつも心もどこかで引っかかっていて離れないもの−−それが、人にミステリーを書かせたり読ませたりするものなのではないか、と思います。

「たかが小説じゃないか」はい、そうなんです。そのとおり。でも−−その「でも」のあとについてくるものがある。その「でも」を、時にはひそやかに、時には燦然と光輝かせるもの。それこそを求めて。私たちはミステリを書いたり読んだりしているんじゃないかな……と思います。

そして、北村薫さんの作品には、確かにその「でも」があります。ページを閉じたときに、私たちの内側から、その「でも」を呼び起こしてくれる、静かな力が。(P215)

 確かにそうだなと思う。上記の引用は北村薫さんの作品のもつ不思議な魅力についてのものであって、ぼくも最近はその作品にけっこう傾倒しているので、まさにそうだと思うのだけれどさらにいうと、「いつも心もどこかで引っかかっていて離れない」ような人生の謎、宇宙の謎へと迫ってくれるものだから、「だって好きなんです」と「でも」のあとに輝くものを求めて、シュタイナーの神秘学などを調べたりもしているわけなのだ。

 

 

 

風のトポスノート18●いま生きているということ


(1997/9.27)

  

「私達って、そんなにもろいんでしょうか」

・・・

「もろいです。しかし、その私達が、今は生きているということが大事なのではありませんか。百年生きようと千年生きようと、結局持つのは今という一つの時の連続です。もろさを知るからこそ、手の中から擦り抜けそうな、その今をつかまえて、何かをしようと思い、何物かでありたいと願い、また何かを残せるのでしょう」

「でも−−」と私はいっていた。「明日輝くような何かをしようと思った、その明日が消えてしまったら、どうなのですか。その人の《生きた》ということはどこに残るのです」

・・・

「それでも、その意志が残ると思います。絵が残る音楽が残るというのも、僕にはどうもその絵その音楽だけのことではないような気がするんです。例えばモーツァルトの楽譜も記録も演奏も総て消えてしまい、この世の誰一人彼の作品も存在自体も知らなくても、それでもモーツァルトの音楽はどこかに残ると思うのです」

・・・

「絵は、小説が、詩が、焼けても消えても残る。舞台でも我々の芸でも、またこの世に生きている皆の生活の中の、言葉でも動作でも、あるいは一瞬の表情ひとつでも、それが本当にいいものならば、どこかに永遠に残るような気がするのです。

(北村薫「秋の花」東京創元社/P203-204)

 私たちは諸行無常のなかに生きている。生老病死などの四苦八苦のなかでさまよっている。

そういう意味で、私たちはとても「もろい」存在である。

 その「もろさ」から逃げようとして、人はお金に執着したり、その業績や名誉などを追い求めようともする。「何かをしようと思い、何物かでありたいと願い、また何かを残」そうとする。しかし、その「結果」に執着することの悲しみを人は多かれ少なかれわかっていてだからこそその悲しみから逃れようとして、さらに執着を深めていく。

 すべてが諸行無常であるならば、人は何のために生きているのだろうか。仏教はその虚しさをこっぴどいまでに説きながら(脅しながら^^;)、その彼方にある涅槃の世界、彼岸を説いたりもする。それが仏教についての一般的な見方であるが、また一切は空であり、空は即色であり、色は即空であると説いたりもする。前者のとらえ方は、此岸−彼岸の対立を方便として説いたものであり、後者のとらえ方は、その対立を弁証法的に統合したものだともいえる。

 そうした「とらえ方」についての説明はともかくとして、人は、《生きた》という実感を欲している。たとえ、一時間前にかぎりない喜びを体験したとしても、それが過ぎ去ってしまったならば、それをもう一度得ようとするわけだし、もし、それが「明日」はもう得られないと思ったならば、深く絶望してしまうことになるのかもしれない。そこに通常、「流れる」というふうに表現されイメージされている「時間」の無常性があるといってもいいと思う。そして、そこに「永遠」との間に超えられぬ溝をつくってしまう。

 しかし、無常なる時間と永遠との間に橋は架けられないものだろうか。いや、そうした問いかけそのものに問題があるのかもしれない。無常なる時間というのはいったい何なのだろうかと問うべきなのだ。時間が流れるのは、私たちの意識においてである、としてみよう。世界が私たちの意識に投影されることで、映写フィルムのようにドラマが展開されていくことになる、と。ビデオでも、通常1秒30フレームのコマでできていて、それを連写することで「時間」を表現しているのだが、私たちの意識もその「時間」をつくりだしているといえないだろうか。いや、私たちの意識そのものが「時間」であるということはいえないだろうか。

 だから、永遠ということを実感するには、まさに「今」ということを深く体験する以外に道はないといえる。そういうとらえ方からすると、その「今」を刻みつけようとすることそのものにこそ意味を見つけることができる。

 谷川俊太郎の詩に「生きる」というのがある。「うつむく青年」という詩集に収められていて、この詩に小室等が曲をつけているものもあったりする。 

生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをするということ

あなたと手をつなぐということ 

・・・

生きているということ

今生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ 

・・・ 

生きているということ

いま生きているということ

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

あなたの手のぬくみ

いのちということ

 「ベルリン天使の詩」という映画があった。そこでは、天使はモノクロの世界として描かれ、人間の世界はカラーの世界として描かれていた。そして、モノクロの世界にいた天使は、カラーの世界へと堕天使になって堕ちてくる。

 人間の世界は諸行無常かもしれない。けれど、その世界で、もろい世界で、《生きた》と実感することは、なによりもかけがえのないものなのではないだろうか。そしてその《生きた》という実感こそが永遠そのものなのではないのだろうか。

 

 

 

風のトポスノート19●魔物(敵)との闘い


(1997/9.27)

  

「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物となることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらをみつめているのである。

(朝日新聞1997.9.27.27面 神戸市須磨区連続児童殺傷事件で神戸家裁に送致された男子生徒の作文より)

 魔物(敵)は自分のなかに住んでいる。そのことを知らなければ、人は自分の外に魔物(敵)をつくりあげ、その魔物(敵)を屈服させようとして闘いを始めることになる。

 しかし、そのことを頭のなかだけで理解しようとしても空論になるし、自らの魂の成長において、その自らの内なる魔物(敵)と闘うためには、それなりの気の長い準備が必要となる。

 人が、生の過程において、外的なことと格闘し続けるのは、まずは、魔物(敵)を外的に対象化する必要があるからだ。自分の中に住んでいる魔物(敵)といきなり闘おうとしても、人は最初からそれに足る力をもってはいない。だから、その影として現われる他人や環境という魔物(敵)と闘うことで、次第に内的な闘いの場で闘い得るような魂の力を育てようとする。

 それは、ファンタジーの名作「影との闘い」に描かれているような物語としても表現できるように思う。「はてしない物語」での「ファンタージエン」というのも、そうした魂の成長の可能性とそのための葛藤の表現であるといえる。そして、その「影との闘い」に破れ、「ファンタージエン」を救うことができなかれば、魂はその「影」の操り人形となり、抜け殻のような世界に生きることになる。

 ゾロアスター的な善悪の二元論は、そうした魂の成長過程として理解できる。そしてそれは、悪を排除し、善を勝ち取るというような勧善懲悪のドラマとしてではなく、善と悪の統合というような、悪の変容を通じて善をも高次の力として変容させうるようなドラマであってこそ意味のあるヴィジョンであるといえる。

 「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」そういうことはある意味でたやすいことである。けれど、そう問いかけるに至るまでのプロセスはたやすいものではない。それが安易な問いかけである場合、それは内なる魔物(敵)の餌食になってしまいかねない。自由への道を見つけることのないまま、暗くて深い森にさまよって、そこで魔物(敵)と出会ってしまうならば、それをいかに自分自身だと知的に理解したところで無力である。

 シュタイナー教育は、「自由への教育」だといわれるが、そのためには、模倣や権威という成長のための礎を築くことが必要となる。礎を気づかないで闘いに臨もうとしても、それは闘いにならない。他人や環境などとの百戦錬磨によって生まれる魂の力が、やがてくる「影との闘い」のための最高の武器となってくれるのだ。

 いずれ闘いは外的な闘いから内的な闘いへとその場をシフトさせていく。しかし、その闘いの場がシフトされていることに気づかないまま、いつまでも外的な環境や他人を魔物(敵)そのものだと誤認して、ドン=キホーテのような闘いを繰り返す悲喜劇もありふれた姿だ。その悲喜劇から学ぼうとすることは重要であるし必要でもあるが、それをいつまでもすべて外的にとらえてしまうだけだと、それもまた、暗くて深い森にさまよっていることと変わりはない。

 みずからの内的な悪、魔物(敵)を認めるのがいやで、それを排除してみずからを善なる存在として純粋に保とうとするようなそんなあり方は、世界を善と悪に二分してしまうだけである。みずからを善の側に置き、否定したいものを悪の側に置くことである。しかし、そういう稚拙な行為も幼児的な段階としては必要なのかもしれない。そこが魂の成長として非常に難しいところではあるが、幼児的な段階はいずれ脱して新たな可能性へと歩みを始めることが必要となる。

 

 

 

風のトポスノート20●声


(1997/10.10)

  

 私は音楽のなかに、ひとつの「声」が聴こえてくることを待っている。

 「声」といっても、人間の肉声のことではない。器楽やオーケストラ、そして人間の肉声を使った音楽を聴いても、もうひとつの声を聴きたいと願っている。もうひとつの「声」とは、日常どこにでもころがっている素材としての「声」のことではなくて、そういう音素材を通して、その聴覚の向こう側に響いてくる「声」のことである。

 存在しているものの奥に流れているだろう声。存在の深い闇の彼方から響いてくる光の予感。それの聴こえてこない音楽は、たとえそれがどんなきれいな音を持っていたり、華麗な技術に覆われていたとしても、私は退屈してしまう。

 それは単にバッハやベートーヴェンといった芸術音楽だけに聴こえてくるのではなく、世界のさまざまな文化圏の美しい民族音楽の背景からも聴こえてくる。

 また私は、音楽だけではなく、文学や美術にもそういった「声」を求めているらしい。優れた文学を読んでいると、その作品の背後からもうひとつの「声」が聴こえてくることがある。それは言葉が犇めく言語空間のなかから垂直的に立ち上がってくるもので、私には「声」として名づけられないような流動的で音楽的な、ある状態なのである。

(細川俊之「魂のランドスケープ」岩波書店/P2-3)

 音楽を聴くということは、物理的な音を聴くということではない。その背後にある「声」を聴くことだ。

 どれだけ美しい音であっても、技術的にすぐれていても、ほとんど印象に残らないだけではなく、生理的に嫌悪感をもよおしてしまうような音楽は意外に多い。

 ぼくの聴きたいのはそういう物理音ではない。

 ぼく自身の深淵に光を射してくれるような音を聴きたいと切に思う。そういう音はまさに「声」なのだ。ぼくの魂の深みへと呼ばわる「声」。ある意味で、沈黙そのものと等価であるとさえいえる音。

 音楽だけではもちろんない。あらゆるすぐれた芸術や自然、そして人格から、その「声」は聴こえてくる。それは、稀有な体験ではあるが、確実にぼくへと届いてくる「声」なのだ。

 人は人とコミュニケーションしていると錯覚していることが多いけれど、ほんとうに「声」を交わし合っていることがどれだけあるのだろうか。言葉を使うことにあまりにも慣れすぎ、実用的な言葉に慣れすぎて、その空疎なキャッチボールのなかで、言葉はその実を失っていく。言葉だけでななく、存在そのものがからっぽになっていく。

 街角で夥しく見かける携帯電話。いつも誰かと話していないと落ち着かないのだろうか。でもその話はいったいだれに向けたものなのだろう。ほんとうは自分のなかに穿たれたからっぽの穴に、自分の存在を投げ捨てている行為なのかもしれない。

 ほんとうの「声」を聴きたいと切に願う。そうした「声」の試みを怠りなくしていきたいと思う。おそらくそれはみずからの存在の深淵をのぞき込むことであり、未知の世界へと歩み出さざるをえない不安さを常に抱えることになるのだろうが。


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