風のトポスノート141-150

(1999.2.25-1999.3.13)


風のトポスノート 141●オリジナリティ

風のトポスノート 142●自発・自然

風のトポスノート 143●アンケート

風のトポスノート 144●宗教と宗教性

風のトポスノート 145●倫理と道徳

風のトポスノート 146●精神性と集団性

風のトポスノート 147●世代論という主観的同情

風のトポスノート 148●メメント・モーリ

風のトポスノート 149●なぜを問う道

風のトポスノート 150●オリエンタリズムとアイデンティティ

 

 

風のトポスノート 141

オリジナリティ


1999.2.25

 

佐治●だから、いままでのいろんな仕事を振り返ってみて、純粋に私がひとりでやった領域というのはとても少ないですよね。本当に不思議なんですよね。突然、何年かぶりかで彗星のように私に接近して、パッと何かおみやげというか情報を置いていってくれる。そういう人がたくさんいるんですよ。

松岡●それがタダシイんですよ。ぼくは、最近は言わないんですけど、昔はそのことを言いすぎて、何を言っているのか、みんなわからなくなったことがあるんですね。それは何かというと、「ぼくが考えていることは、日本語で話している以上、ぼくがつくったものの八割はぼくではない」と言い始めてしまったために、わからなくなってしまった人が多かったんです。「しゃべっているその中に自分ではないものがある」と一生懸命に言うから、何を言おうとしているのか、みなさん、混乱してしまったようです。ようするに、ぼくが何を話したところで、その中の大半の日本語はぼくがつくってはいない。それからアクセントもつくったことはないし、文法もつくってない。それから概念も、わずかにいくつかつくりましたけれども、それはガンジス河の真砂分の一とか二くらいの量です。だから、ぼくの話していることは、「編集」でしかないのだとね。それがあまりに人に伝わらないもので、「エディットしてます、編集と言いましょう」と言ったら、多少わかりはじめたんですけれどね。

 最初は、「ぼくはオリジナリティなんてないんだ」「オリジナリティにこだわるのは嫌いだ」ということから入った。すると、オリジナリティがないのなら、出ないでくださいという感じの反応なんですね(笑)。

(松岡正剛・佐治晴夫「二十世紀の忘れもの」雲母書房/1999.1.18/P154-155)

 松岡正剛のエッセイのなかで、喫煙についてのものがあった。喫煙だけ悪くいうのはおかしい、ほかにも人に迷惑のかかることはたくさんあるのだから、自分はそんなことを気にかけたりはしない。そういう内容のものだったと思う。禁煙主義とでもいうべき喫煙そのものを罪悪とみなすようなファッショは行き過ぎた側面もあって、おそらくそれに対するアンチという意味なのだろうけど、上記のオリジナリティについての考え方にもそれに通じるところがあるように思った。

 たしかにオリジナリティを全面にだすというのには辟易するところがある。あの「著作権」というのものにしても何がなんだかわからないようなところがある。本人が生きている間というのならまだわかるが、死期50年というのも不可解であるし、オリジナリティそのものに対する見境のない権利の主張が見られるのが見苦しい。それに、オリジナリティに対する権利が主張されてしかるべきであるならば、その与える影響に対する責任ということにも十分注意が払われるべきではないか。そんなことをいろいろ考えたりもする。

 それはともかく、すべては編集されているという考え方はぼくとしてもとても納得のいくもので、松岡正剛の「編集」という考え方にはずっと共感を覚えてきた。ぼくも「オリジナリティにこだわるのは嫌い」なのだ。もちろん、その場合の「編集」ということを単なる「編集作業」的な組み合わせ&切り張り的なイメージでとらえるとその「編集」ということにはあまり魅力がない。むしろ、「宇宙におけるすべての現象はすべて編集されたもの、編集されている最中である」とでもいうイメージがいい。

 しかし最近になって少し考え方が変わってきたのは、すべては編集されたているというのならば、いったいだれが編集しているのだろうという視点が必要だということにあたりまえのように気づいたからだ。シュタイナーがカント・ラプラス理論についていった話のようにいったい誰が星雲の渦巻きを生じさせたのだろうという視点が必要なのだ。自己組織化、オートポイエーシスなどという言い訳もあるけれど、やはり「だれが編集しているのか」という視点は外せない。

 オリジナリティということはまるでないと同時にすべてはオリジナリティなのだという矛盾を統合する視点が必要となる。「オリジナリティにこだわるのは嫌いだが、すべてが希有のオリジナリティなのだという視点がないのも嫌い」なのだ。

 松岡正剛の喫煙に対する見解も同じ。喫煙そのものを悪くいうのも嫌いだが、だからといって喫煙の影響を無視していいと開き直るのも嫌いだ。「しゃべっているその中に自分ではないものがある」ならぬ「喫っているその中に自分ではないものがある」のは確かだが、「喫っている」主体は自分以外のものではないのだから。

 

 

風のトポスノート 142

自発・自然


1999.2.25

 

松岡●吉本ばななという作家は、ひとことで言うと大島弓子という少女マンガ家が描いた世界がなければ出現しなかった作家なんですね。彼女のあとに出現することによって文学になったわけです。大島弓子という人も大変な作家で、おそらく、日本の戦後の中で最も「心」を描いた代表的な表現力をもったコミック作家の一人です。その大島弓子から吉本ばななに至った感じは何かといいますとね、いまおっしゃったことです。自分が何かをしようとしたときに、因果律に合わないことをやっていることがある。そのときに、相手もそのことを否定できないことをわかってくれるときがある。「どう?」「うん」「そうでしょ」「そうだよね」みたいな進行ですね。(…)

佐治●ハイパーコミュニケーションというのを、物理の言葉で言い直すと、エネルギーと時間に関する「不確定関係」ですよね。通常、ハイゼンベルク流にいうと、運動量と位置だけれども、この場合はエネルギーと時間ですよね。だから「たまゆら」の一瞬というような非常に短い時間に限れば、エネルギー保存則を破ってもいいということでしょう。エネルギー保存則を破ってもいいからこそ、「無」から新しい物質が生まれてもいいというのが、ハイゼンベルクのエネルギーと時間に関する「不確定性関係」でしょう。

松岡●しかも、「たゆったとき」にそのことがわかる。ここに出席されている方の中にも、「何かと何かが同時に起こって、シンクロニシティがおきているから、かっこいい」と思われている方がいると思いますが、それはどっちかっていうと、あたりまえなんでね、何の発見にもならない。

佐治●それはあたりまえですよね。

松岡●むしろ当惑したり、ためらったり、困ったりしているときに伝わるコミュニケーションのほうが速いんですよ。それが人を救うし、ある意味ではボランタリー・エネルギーになっている。自発的なスポンティニアスなエネルギーなんです。シンクロニシティというのは、やっぱり固定した神の目なんですよ。「これとこれが一緒だ」で終わってしまう。それがぼくにはちょっと不満なんですよ。(松岡正剛・佐治晴夫「二十世紀の忘れもの」雲母書房/1999.1.18/P157-159)

 シンクロニシティはあたりまえすぎるので、もう驚いたり、驚いたふりをするのはやめよう。「すっごい偶然!」なんてのは「すっごい」ことではないのだ。偶然というのはただその必然性を認識できていないということに過ぎないのだから。

 大島弓子のマンガはかなり読んだし、大島弓子が登場し活躍した時代には、その他にも数々のすぐれた少女マンガがあった。吉本ばななの作品もけっこう読んでいるけれど、たしかに、そうしたハイパーコミュニケーションに対する感受性、「たゆったとき」の自分のエネルギーを生かすことはとても大切なものだと思う。そういう感受性がないと、「すっごい」と思うことさえできないしそこから広がるいろんな可能性がそこで閉ざされてしまう。

 けれど、そこで止まってしまわないことが重要ではないかと思う。そうでないと、「サイババってすごい!」で終わってしまいかねないし、悪くするとだれかを拝んだりすることにもなりかけないのだから(^^;。「すっごい」のはサイババではなくて、自分そのものがここにいる!ということこそが「すっごい」ことなのだ。世界がここにある!ということこそが「すっごい」ことなのだ。驚くのはそのこと以外にはない。そこからすべては始まるのだから。

 だから重要なのは、その「すっごい」自分が何をしたいのかということをいかに自覚するかということ、そのための模索・努力を惜しまないことではないかと思う。何をしたいかわからないから闇雲になにかをしてみるというのも一つの方法だしだれかについていけば何か教えてくれるのではないかというのもまた一つの方法だけれどやはり、何もしたくないならとりあえず何もしないで自分の深みを見つめてみることから始めるのがいいのではないか。何かがしたいのだけれどそれが何なのかわからないというのであればその「何か」を自覚するというところにエネルギーを向けてみるのがいいのではないか。その「何か」に対する衝動をいかに自覚できるかということ、もちろんその表面的な衝動ではなく、その限りない深みにある衝動がいかに自分に作用しているのかを、盲目的にではなく、みずからの然らしむるところとして、自然としてわき上がってくるのかをしっかり見届け、それが「熱」となるのを感じることが重要だと思う。

 おっ、すっごい偶然!でもなく、あっこの感じ、わかるねこんなの、うん、だけでもなく、この感じなぜかな・・・ということを見つめていく作業が大事だと思う。

 

 

風のトポスノート 143

アンケート


1999.2.28

 

臓器

提供「しない」37%

昨年10月時点の総理府世論調査「する」を上回る

(1999年2月28日付 朝日新聞 一面)

 

 日本人はアンケートが好きで、それを発表するのも大好きだ。人がどう思っているのかを気にする人が多いものだから、大新聞社はそれを一面を使ってたびたび掲載する。

 今回の一面トップ記事は「法的判定、1回目は「脳死」」。例の高知赤十字病院の臓器移植問題。その下に、アジテーションされているのがこのアンケート。一見、アンケート結果を報告しているだけの記事だけれど、臓器提供の美談などを掲載したりすることの複線なども少し前からいろいろ張られている。

 この手の技法は極めて稚拙な方法だけれど、有効なのだ。上記の「臓器 提供「しない」37%」というのは、だから「まだそんなヤツのほうがたくさんいる」ということを意味している。新聞を読む場合は特に、そういうことをちゃんと考えて読まないと、とんだ読み方を強要されているのに気づかないことがある。気がとがめるのか、教育問題や倫理問題を主要で論じている紙面の記事下にはエロ記事ネタの週刊誌報道は遠慮しているようだけれど、同じ新聞でそうしたわけのわからないこともたくさんあって、そうしたばかばかしさ探しをするのも新聞の読み方ではあるけれど、そんな暇があるなら別のものをちゃんと読んだ方がいいような気もする。

 ともあれ、アンケート。いつも思うのだがアンケートのほとんどは無意味である。仕事柄、住宅屋さんが展示場などで実施するアンケートなどをつくったりもしているのだけれど、こうしたビジネス系のものは、だれが見ても目的が明確なので特に害も少ないのだけれど、一見目的の明確でない、つまり利害の隠されているアンケートは始末が悪い。

 もちろん、隠れた意図が明確にあって、それを誘導して結果を出そうとするような、そんなアンケートもあって上記のような臓器提供などについてのものはそれは見え見えなのだけれど、善意で実施するアンケートというのも(学術ものもそう)始末が悪い。どちらも、悪意というのではなく、おそらくその時代の底流にある無意識にある集合意識をアンケートのQ&Aに仕込んでしまうのだ。そして、それが%で示されたりすることが多い。

 マーケティングなどでも以前はそういう%信仰というかそれをガイドにすることも多かったようだけれど、事実に関するデータと感想や意見に関するデータは別物で、前者はかなり有効データとなるが、後者は参考程度にしかならない。感想や意見に関するデータは少なくとも個別面談による聞き取りのような形でないと、データ結果が質問の仕方やそのときの気分に作用されるからだ。

 アンケートのQの仕方やその質問の順番でたとえば、上記の臓器提供についてのアンケート結果などもおそらく結果が異なるのではないだろうか。

 たとえば、ちょっと極端にはなるけれど、最初にこんな質問をするとどうなるのだろうか。

あなた自身は「脳死者」の臓器を提供されて生きたいですか?

 それ以前に、こんな質問も必要かと思う。

あなたは「脳死」がどういうものか詳しくご存じですか?

あなたはアメリカ等で生じている

臓器提供に関する諸問題についてご存じですか?

 事実に対するQ&Aでない場合は、その質問の仕方やそのときに支配的な周囲の意見などにかなり作用されるわけだから、アンケート結果も、それなりに大きく変わってくるのだということは少なくとも念頭に置いておかなければならないと思う。

 

 

風のトポスノート 144

宗教と宗教性


1999.3.3

 

 私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは信じることなく考えるからである。私は考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言われているかを考えることのほうが、先のはずだからである。人類はそこのところをずうーっと、あべこべに考えてきたのだ。これは、驚くべき勘違いである。(…)

 新しき宗教性は、だから、今や「宗教」という言葉で呼ばれるべきではない。それは「宗ー教」ではない。教祖も教団も教典も要らない、それは信仰ではない。それは、最初から最後までひとりっきりで考え、られるし、また考える、べき性質のものなのだ。だからその新たなる名称は、

垂直的孤絶性、とか

凝縮的透明性、とか

 そんなふうな響きをもった、何を隠そうその名は、「哲学」なのである。

(池田晶子「残酷人生論」情報センター出版局/P106-107)

 シュタイナー教育での宗教ということが話題になることもあるが、勘違いされがちなのは、それを「キリスト教」だと考えるからである。その勘違いは、「キリスト」と「キリスト教」を同じだと見なしていることからくる。「キリスト者共同体」の問題もそれに絡んでくるのかもしれない。シュタイナーは、これは人智学ではないと念を押した上で、求めに応じて、キリスト者共同体へのアドバイスを行った。精神科学は宗教ではないというのはごくごくあたりまえのことなのだけれど、そこが勘違いされてしまうのではないかと思う。「宗教」と「宗教性」が混同されてしまうのだ。

 大本教という巨大教団をつくった出口王仁三郎は、なぜか宗教はなくなってしまわなければならないということを言った。おそらくその時代のなかでの教団という形態の必要性とそれが本来はいらないものだということとの間での苦悩があったのではないか。

 多く人は「宗教」と「宗教性」を混同しがちだ。ぼくも宗教はいらないと思う。けれど「宗教性」は必要だと思う。宇宙と自分との関係について認識しようとする態度は不可欠だからだ。けれど、「教祖も教団も教典も」「信仰」も不要なのだ。そういう意味で、人は「垂直的孤絶性」を必要とする。「孤絶性」というとなんと寂しいことだろうとイメージされがちだがそうではない。天上天下唯我独尊から発する宇宙的連関そのものにみずからが存在していること、そこにこそ深い宗教性があるのでなければならない。

 さて、池田晶子の「自分で考える」哲学は、「あたりまえ」に満ちている。その「あたりまえ」はそのあまりの自明性ゆえに、一般には自明ではない。自明であることを自明であると認める恐怖が社会を支配しているからだ。その自明であることを認める勇気が必要なのではないかと思う。まずはそこから出発しなければならない。

 とはいえ、池田晶子の「哲学」は出発点でしかない。そこには「自然学」が欠けている。姿勢としての「垂直的孤絶性」「凝縮的透明性」である「哲学」に「自然学」、ノヴァーリスのいうところの「来るべき自然学」を統合する必要がある。そしてそれが「精神科学」なのだ。

 

 

 

風のトポスノート 145

倫理と道徳


1999.3.4

 

 たったのひとこと、倫理とは、自由である。そして道徳とは、強制である。

 あるいは、倫理とは自律的なものだが、道徳とは他律的なものである。倫理的行為は、内的直観によって欲求されるが、道徳的行為とは外的規範を参照して課せられる。(…)

「汝の内なる道徳律が、普遍的に妥当するよう行為せよ」いかなる条件もなく、いきなり道徳それ自体を欲求せよ、と命令するカントの定言命法は、したがって大ウソである。いや、この哲学者が基本的に大変な善人であることはよくわかるのだが、それでもこれはウソなのである。絶対に無理なのである。道徳は、「べき」とか「せよ」とか「ねばならぬ」としか言えないから、しょせん、道徳なのである。

 善を為すことを喜びと感じるよう努めよ

 この心理上の困難は、なんひとも自身が最も理解するところであろう。道徳の無能は、それが人を強制しえないからではなく、人がそれを欲求し得ないからなのだ。

(池田晶子「残酷人生論」情報センター出版局/P158-159)

 どんなにすばらしく思えることでも、自分がそれを内的に意志することなくしては意味をもたない。むしろ、そのすばらしいことが外から強制されるとしたら人はそのウソをほんとうは見抜いている。

 なぜ人を殺してはいけないのか。なぜ売春をしてはいけないのか。

 そうした問いかけに答えようとするとき人はしばしば表面的な答えに終始するかそうでないとしたら答えを失ってしまう。それは道徳的にいけないことだからしてはいけないのだ、というのはウソだということを知っているから、その説得で援助交際をやめたりはしない。開き直った評論家は、そのウソという現実を肯定しさえする。

 ウソに従うのは強制でしかない。それとも打算。「みんながそうするから」というのも同じ。

 「頭ではわかっているんだけれどもできない」というのも、その「わかっている」というのは、ウソである。それを内的に意志するのであれば「できない」ことはない。「できない」のではなく、「する気がない」「イヤ」なのだ。

 倫理を強制することはできない。しかし人は他律的強制的な道徳を倫理にすり替えようとする。そのウソを見抜かなければならない。もちろん、自分のなかにある「ウソ」をこそ見抜かなければならない。

 これは、シュタイナーの「自由の哲学」の「倫理的ファンタジー」のテーマそのものに関係してくる。

 自分がほんとうに内的に意志しているのであれば、そのことにおいて人は自由なのである。そしてその自由は最初からあるものではなく、一人ひとりが創造していかなければ存在しえない。

 

 

風のトポスノート 146

精神性と集団性


1999.3.5

 

 金銭に執着するのは教団を運営するためだというのなら、私は問いたい。なぜ教団が必要なのか。精神的なものを極める、すなわち悟りを得るために、なぜ大勢で一緒にそれをする必要があるのか。人が自分を精神であることを認め、かつ自分を他の誰かではない自分であることを認めるならば、今この場でたったひとりで、それはできることのはずではないのか。なぜ精神性を極めるために集団になる必要があるのか。精神性と集団性、これは呆れ果てた絶対矛盾である。(…)

 だから、考えなければだめなのだ、ひとりきりでどこまでも考え抜きましょうと、まあくどくどと私は繰り返すのだ。他人に考えてもらっても、他人が考えたことをもらっても、それは自分で考えたことには決してならないのは、自分の代わりに死んでもらうわけには決していかないのと同じことなのだ。(…)

 私には、宗教者が「救済」と説くその言葉の示すところのものが、どこまで考えても最後のところで、どうしても納得できない。納得できないからこそ、納得できないこの宇宙を、すっかり破壊し尽くしてしまいたい凶暴な衝動に駆られもするのだ。

(池田晶子「メタ・フィジカル・パンチ」文芸春秋/P61-63)

 なぜ宗教教団というものがあるのか、そしてそれがこれほどまでに多いのかがわからない。「赤信号みんなで渡ればこわくない」というようなものか。集団であれば自分で考え自分で行動する必要はないからか。もちろん、それは宗教団体に限らないのだけれど、そこに問題点が集約されているということはいえるように思う。

 人は救われたいのだろうか。だとしたら、「救い」とはいったい何かを考えなければならないだろう。それは、抱えている負債をチャラにするようなものではないだろうから。いや、宗教者のいう「救い」とはひょっとしたらそういうものなのかもしれない。だから「免罪符」やら「戒名」やらいう子供だましが流行るのだろう。

 人は悟りたいのだろうか。だとしたら、「悟」が「心」と「吾」とでできているように自分の心が問題になる。自分のまわりがみ〜んな悟っている人ばかりだとしても、この自分には何の関係もないはずだ。ひいていえば、それは教えてもらえるようなものでもない。仏陀のそばにいようが、イエスのそばにいようが、それは「そばにいる」という以外のものではない。自己満足にはなるが、悟りにはならない。そんな自己満足は、百害あって一利なしだろう。

 寄らば大樹の陰。それは、大樹に寄ることで「利」を得たいということだといえる。それが、利権やら名誉やらということであれば、そういう「利」は目に見えるものとして確かにある。もちろん、そんなのは嫌いだからぼくには関係がないが、そういう目に見える「利」を「精神性」にも求めようとしているのはどういうことなのかと思う。しかし想像力の貧困はそういう現象をも生んでしまう。想像力の貧困が「集団」を形成してしまうことになるのだ。

 こうした精神性と集団性という矛盾を矛盾と思わないことで人はつかのまの安心を得た気になるのかもしれない。けれどその「つかのまの安心」は自分で自分に目隠しをしているわけだから、ひょっとしたら、目の前の一歩には断崖が待ちかまえているかもしれない。オウムの事件もあったのに、オウムの人たちも、そうでない人たちも、結局のところ自分には無関係の事件だったと思っているふしがある。

 

 

風のトポスノート 147

世代論という主観的同情


1999.3.5

 

 人は、「自分は○○世代に属している」と言うことで、違和感を覚えるより安心を覚えるらしい、それが私には以前から不思議だった。幼児期に見たアニメ映画、

「知ってる?」

「知ってるゥー!」

人々、手を取り合って喜ぶ。知ってはいるがそれがどうした。私は感じる。何らかの体験を共有するということが、共感を覚えることになる理由がない。(…)

 一般に人は、「自分」というものは、もろもろの体験やら環境やら時代的な影響やらによって形成されると思っているが、それは間違っている。いや、間違ってはいないが、それは片面の真理にすぎない。確かに「自分」は、もろもろの体験やら環境やら時代的な影響やらによって形成される。しかし、そのようにして自分は形成されたと思っているところの自分は、それではいったい「誰」なのだ。これこそ大問題なのだ。(…)

 確たる世界認識は、自分の死を知るその明らかさと引き換えに獲得されるものだ。ひとたび死んで無になった自分だからこそ、世界の全てを自分と知るのだ。認識は自在だ。どの時代におけるどの誰かも、全て「私」だ。私は戦争を知っている。爆弾を抱えて敵艦に突っ込んだことがある。幼い部下にそれを命じたこともある。戦争の愚劣を知りながら、しかし愚劣を真率に生きるよりしようがなかった人間の悲しみを知っている。「戦争を知らない世代」と自ら名のるなど、恥ずかしいことと思った方がいい。

 生死という絶対的形式において人は、個人も時代も超出し得る、これが我らの普遍である。個人の体験内容を個人の体験内容たらしめているところの普遍的形式である。したがって、戦争を知っている、実際に体験したというそのことだけで、戦争を知らない、実際に体験していない人々と自分とを分け隔てしようとする人々にも、私は言いたい。なるほど、体験した、しかし、その何が偉いのか。たまたまその時代に遭遇した、遭遇したからには否応なくそれを生きた、そのことの何が偉いのか。個人的体験を普遍的形式のもとに対象化し得ずに特殊化するとき、それは、生活上の不安を人生の一大事と悩んでいる戦後の人々と、態度としては同じである。

 だから、世代論なんてものはつまらない、つまらないうえそれは一種の害悪であると私は言うのだ。

(池田晶子「メタ・フィジカル・パンチ」文芸春秋/P81-86)

 環境のせいにする人がいる。環境の影響がなかったというのではないけれど、その環境に影響されて形成された自分とそう思っている自分とが実は異なっているのだということに気づいていないらしい。

 環境のせいにするということと同じ環境をともにすることで得られる共感というのはおそらく同じ源をもっているのではないかと思う。どちらも環境からの影響が自分を形成したと思っているのだから。確かにそう思っている自分をその形成された自分だと思うならば、人はまさに環境の奴隷となるしかないしその共感によって生きていくしかない。おそらくそのことをシュタイナーは「主観的同情」と呼んだのだろう。そしてそれは決して「客観的同情」にはなりえないだろう。

 広告の仕事をしていていつも思うのだけれど、その表現プランを考えるときに重要なのは、悲しいかなまさにその「主観的同情」なのだ。ターゲットの共感をくすぐるものでなくてはならないのだから。それは「私」ではなく、それぞれのターゲットが感じている「私たち」の「主観的同情」を喚起するものでなければならない。

 そうした観点で広告の仕事に携わり続けていて気づいたことがあるのだけれど、多くの思想もまた似たようなものなのかもしれない。思想が広告化しているのか、広告が思想のある部分をものまねしたのか、ともあれ、商品化戦略のような観点で思想が語れてしまうのはちょっと悲しい。でも、同じ商品化戦略ならば、広告のほうが割り切れていいのではないか、などとけっこう開き直っていたりもする。最初からみんながウソだと思っているもののほうが罪がない、ということか(^^;。

 ぼくにも世代感覚がないといえばウソになるし、自分のなかのその感覚を利用しながら仕事をしていたりもするけれど、同じ世代だからというのは、けっきょくのところ、いろんな類型化にすぎない。「私たち女性は」とは「私たち弱者は」というのと同じである。同じ世代だから理解できて、そうでなければ理解できないうようなものではない。「私」は世代や民族や人種や性別などを問題にしない、問題にしないというよりも、あらゆるそれらを理解可能にするというか、あらゆる「私」である可能性が開かれるとでもいえるのではないか。

 ぼくはどうも「私たち」というのが苦手で、ただ同世代だ、同じ性別だ、同級生だ、出身地が同じだということで「同じ」だと思えたためしがない。同じときに同じところにいることで、むしろ違いのほうが意識されてしまう。たまたま同じということを実感することはあるが、それは、同世代だ、同じ性別だ、同級生だ、出身地が同じだということからではない。同じことを知っているということは同じことを考えるということを意味しない。その当然ともいえることが、通常は当然ではなくなっていることが多い。だからぼくはよく限りなく不義理だというような印象をもたれるらしい。もちろん「縁」ということはあるのだろうけど、それは「共感」や「反感」というものを呼び起こすことがかなり少ない。

 もちろん、こうした場で対話することはそれとは全く違う。それは、自由なネットワークによる主体的なものであるからだ。もちろん、世代、性別、学校、出身地などに意味がないのでへないのだけれど、ぼくにとっては、それらは諸要因のひとつ以上のものではない。それよりも、自分で明確に選択したもの、シュタイナーの言う「客観的同情」をこそ重要なものだと思っているし、そのことを重視したいと思う。

 

 

風のトポスノート 148

メメント・モーリ


1999.3.6

 

 さて、「コミュニティの結びつきとは〈他人の死〉を契機にしたものではないか」という、またまた新しくてラディカルな問い掛けを金子さんからいただきました。実をいえば、この「弱さの思想」の枠内で、しかもそのようなかたちで〈他人の死〉ということがクローズアップされるようになるとは、私は思いませんでした。しかし、考えてみれば、もともと「死と生」とは表裏をなしている、とりわけ、〈自分の生〉と〈他人の死〉とは、生存を相互に依存し合う存在の不可欠な構成要素をなしているので、むしろ通常そのことを忘れたままでいられることのほうが、変であるとも言えるのです。以前に、別のテーマのシリーズ中でも引いたことがありますが、「メメント・モーリmemento mori」(「死を忘れるな」)という銘句が昔から西洋にはありますね。私は、この言葉において「記憶と死」とが結びつけて言われていることをたいへん意味深く思うのです。それというのも、金子さんんもよくご存じのように、「記憶」とは「弱さ(ヴァルネラビリティ)」あるいは「開かれた感受性」を介して「場所」や「共同性」や「永遠」と密接に結びつくものだかからです。近代の産業社会では、「自分の生」が「他人の死」と切り離して、いや「他人の死」と引き換えに成立することが当然にように思われてきました。

 「他人の死」と引き換えに得られる「自分の生」といえば、『人間不平等起源論 』の第二部の冒頭でルソー が、「土地に囲いをして〈これは俺のものだ〉と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるようなごく単純な人びとを見出した最初の者が政治社会(国家)の真の建設者であった」というかたちで「所有観念」の起源を明らかにしていたことが、思い起こされます。そしてルソーは、つづけて、こうも述べています。「杭を抜きあるいは溝を埋めながら、〈こんなペテン師の言うことを聴いてはならない。果実は万人のものであり、土地は何びとのものでもないことを忘れるなら、それこそ諸君の身の破滅だ〉とその同胞に向かって絶叫した者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてやれたことであろう?」現在、近代産業社会と一緒に問いなおされているのは、このような「所有観念」だと言っていいのではないでしょうか。

(インターネット哲学アゴラ・弱さ「第4回 弱さの思想」中村第8通信/中村雄二郎→金子郁容)

 「メメント・モーリmemento mori」、「死を忘れるな」。「死」を想うことは、「生」を想うことにほかならない。

 けれど、「私」は自分の「死」を知ることがない。「死」を想うということは人の死のことであって、その死はその人の外から見られた肉体的な死体現象でしかない。「私」はそのことからみずからの「死」をも想う。自分も死んだら死体になるのだ、と。けれど、「私」は自分の「死」を決して知ることができない。

 観点を変えれば、「私」は肉体の死の後、その肉体を離脱し、自分の「死」に直面することになるということもいえそうだが、そのとき直面するのは、肉体としての死体である。「私」の死ではない。

 では、「私」の死がないのだとしたら、「私」は生きているのだろうか。いやそうではないだろう。むしろこういうべきではないか。「私」には生も死もないのだと。

 「メメント・モーリmemento mori」、「死を忘れるな」。

 「あの人はいつまでも私の心のなかに生きている」そういう記憶によって死者がいまも生きているのだと表現することが多い。「忘れ形見」がいることで、そのなかに死者が生きているのだと表現することもある。「死」を忘れないためには、「記憶」をなんらかのかたちでとどめようとする。墓というメモリアルもそうだろうし、記念碑のようなものもそう。無数の「私」が「記憶」のなかで対象化される。

 今や、臓器がひとの身体のなかで生きるようになった。「あの人は死んだが、臓器は人を生かしている」。逆の視点でいえば、「「他人の死」と引き換えに得られる「自分の生」」。そして、臓器を提供することで、その臓器の所有観念を超えようとする一見、「近代の産業社会」を超えようとする試み。脳死の後の臓器は、もはやだれのものでもない!のだから、 臓器を提供する行為は、いかに多くの悲しみを「免れさせてやれたことであろう?」ということもできる・・・か。けれどそれこそが、もっとも「近代の産業社会」的なものではないのだろうか。

 「メメント・モーリmemento mori」、「死を忘れるな」。

 死者はどこにいるのだろう。生者の記憶の中に。だとしたら、死者は記憶の風化とともに消え去ってしまうことになる。だから生者は自分の記憶を残そうとする。人は必ず死ぬ存在なのだから、その死を永遠の記憶ということで補おうとする。砂上の楼閣。

 その生と死のドラマが歴史になる。そうしてそのドラマを見ている「私」がいる。手に汗握る愛と感動のドラマ。そしてときおり「私」は、そのドラマの登場人物になる。

 「死を忘れるな」ならぬ、「私」を忘れるな。

 

 

風のトポスノート 149

なぜを問う道


1999.3.7

 

「形而上学」、そう私は言ってきた。そんなものはただの方便である。学問は、学問であると自身を規定した瞬間に限界をもつ。生きている我々の、生成する存在の、「現在」、その「何であるか」を認識し明らかな自覚へともたらし得るのは、学問ではない、自ずからなる思考である。考えることである。ただ考えること、その一言で万事は一転するのだ。しかし、そのいかに困難であることか。私ひとりが考えているぶんにはとくに困難はない。そうではなく、人々の、人類の、有史以来の、思考形式、AはAであり、よりよい生活がよいことである、これらを自明とする思考に対して「なぜ」と問う思考、すなわち形而上学的思考法を全人類が自身のものとするまでには、問わずにすごしただけの時間と、そのぶんだけの血と涙とが、まだまだ流されるはずだと言っているのだ。しかし、道は、これしかない。

 Aとはなにか

 「よい」とはなにか

 「形而上的思考」と偉そうに言ったところで、詮じ詰めれば、これだけの問いである。これだけの問いの恐るべき困難は、各人己の思考に問うてみるなら明白なはずだ。Aを問う思考が、「よい」を問う思考が、たんなる思考が考えが、現に流れる血と涙とをどうして阻止し得るものかと、まだ君は言うか。

(池田晶子「メタ・フィジカル・パンチ」文芸春秋/P148-149)

 シュタイナーは、霊学が感覚にとらわれぬ思考へと導く厳格で確かな道として「ゲーテ的世界観の認識論」や「自由の哲学」で述べられているような「純粋思考」によるものを挙げているが、同時に、これは、確実ではあるものの万人に開かれた道ではないともいっている。だから、池田晶子のいうように「形而上学的思考法を全人類が自身のものとする」ということだけが道ではないとは思う。

なぜそれはそうなのか

 その単純な問いを繰り返していくことにおそらく宗教的敬虔な魂は耐えられないというのも万人に開かれた道ではないということなのかもしれない。帰依の感情ではなく、噛むような疑念で「なぜ」を問い続けること。虚無を常に見据えざるをえないそうした「なぜ」の繰り返し、あらゆる自明さを問うことは、ともすれば人を狂気の淵にさえ導いてしまう。

 けれど、それが厳格で確実な道であるというのならば、たとえ狂気の道に踏み迷おうとも、その道を歩まずにはいられないのが、おそらくは哲学的な魂なのだともいえよう。それは確実に「流れる血と涙」を「阻止」しうるものなのだから。

 「なぜ」は「ノウハウ」にはならない。「よくわかる哲学」は存在しない。ただ問い、考えること以外に方法はない。考えることを人に代わってもらうことはできない。けれど、まさに「私」が考えることによってその「私」の「思考」を普遍的なものとすることができる。その逆説を直観しなければならない。外的な道徳ではなく内的倫理こそが重要だというのも同じである。どんなに素晴らしいことも「私」によってそれが意志されないならばそれは普遍化されえない。無数の「私」が内的に意志すること。それこそが確実に「流れる血と涙」を「阻止」する!

 

 

風のトポスノート 150

オリエンタリズムとアイデンティティ


1999.3.13

 

 昨年テレビ番組の取材で二〇数年ぶりに韓国の土を踏むことになりました。ポストモダンの雰囲気も漂うソウルの雑踏を歩きながら、感傷的な郷愁など吹き飛び、何か腹の底からわいてくる悲哀の交じったうれしさで人混みのなかに立ちつくしていました。それは民族やその文化と結びついた「アイデンティティ思考」とのひそかな決別の瞬間だった様に思います。同時に「故国喪失者」として生きてみることの歓びの発見でもありました。そこには悲痛な喪失感など微塵も見いだせませんでした。そう思うとオリエンタリズムの彼方にあるものがうっすらと見えてくるような感じになったのです。まだハッキリとした輪郭を描けるわけではありませんが、わたしはそれを求め続けていきたいと思います。この日本というコンテクストのなかで。

(インターネット哲学アゴラ「文化」第1回オリエンタリズム 姜第1通信 姜尚中→中村雄二郎)

 今回からの岩波書店ホームページの「インターネット哲学アゴラ」は姜尚中(カン・サンジュン)さんとの対話になりました。姜尚中さんは、1950年熊本県生まれの在日韓国人二世で、現在、東京大学社会情報研究所助教授、専攻は政治学、政治思想史。その著書『オリエンタリズムの彼方へ』(1996年、岩波書店)は中村雄二郎さんが、「もっとも感心した社会科学書の一つ」だということです。これまであまり具体的に見てはこなかった領域だけに、これをきっかけにいろいろ考えてみたいものだと思っているところです。

 今回の対話シリーズのテーマは「文化」。

「文化」と銘打たれてはいるが、在来の「文化」論ではなく、一口にいって「オリエンタリズム」以後の、あるいは「ポストコロニアル」時代の「文化」への問いである。当然ここでは、『術語集2』で私が項目としてとり上げた「オリエンタリズム」や「クレオール」や「ボーダーレス」のほかにも「エグザイル」のような現在重要になった多くの概念が多角的に検討されることになるはずである。(中村雄二郎/今回の対話のためのイントロより)

 さて、「オリエンタリズム」、そして「逆オリエンタリズム」。オリエンタリズムは「東洋と西洋という地理的な二分法を、文化のいろいろな領域に巧みに配分する知/権力のシステム」。「異国趣味」を機軸とした「西洋の東洋に対する支配の様式」としての西洋の自己中心的な思考様式であり、逆に「逆オリエンタリズム」は、「アジア的価値」というへの誘惑でもあります。

 ですから、この対話では、そういった「オリエンタリズム」やそれへのアンチでもある「逆オリエンタリズム」といった思考形態からいかに自由になるかということについていくつかの示唆があり興味深い。

 そのなかで最初に引用した姜尚中さんの言葉は、印象深いものでした。「「アイデンティティ思考」とのひそかな決別の瞬間」「「故国喪失者」として生きてみることの歓びの発見」ぼくはとくに外的な意味では、「故国喪失者」云々ということが切実な環境にあるのではないのですが、小さな頃から、内的にはそういう意識がとても高かったように思います。地縁や血縁といような「「アイデンティティ思考」ということがぼくにとってはまるで絵空事のようにしか思えないにもかかわらず、周囲を見回してみると、人はほとんどそれだけで生きている。その不思議さがぼくをずっと当惑させてきました。

 その当惑が不思議ではなく、必然的なものだったということが認識的な意味でわかったのは、シュタイナーの精神科学にふれるようになったからのことです。

 ちょうどおもしろい話がありました。昨夜、広告の仕事を始めて以来親しくしている方から電話があり、その知人が今度県議会議員として立候補することになったということで、ぼくもその方にはお会いしていろいろお話をしたこともある関係でその方がぼくに「ぜひお会いしたい」と言っているというのです。まあ、意図はよ〜くわかるのですが^^;、特に興味深かったのは、その話のなかに、「同じ高校を卒業している」というのがでてきたことでした。あたりまえのように思われていますが、多くの人にとって「同じ出身地である」「同じ学校を卒業している」云々というのは、ある種の強力な要素であるようなのです。

 ぼくはそうしたことと無縁に生きてきて、そういう要素から特に利益を受けたことはありませんし受けようとも思わないのですけど、政治というのは、そういうことが基盤になって動いている。高知県の非核条例の件で、橋本大二郎知事が「県」ではなく「国」のことに目が向いているということで、ある種の県人から批判されているという話も聞きましたが、やはり、多くの方にとって、「今自分の身近な利益になること」以外に興味がわかないというか、それ以外のことはある意味で理解できないことに属してしまうのかもしれません。

 人はいろんな意味で自分と自分以外のものとの間にさまざまな「アイデンティティ」を付着させることで生きています。地縁、血縁、組織などから、自分の所有物(人も含めて^^;)などに至るまでそうしたアイデンティティを自分そのものと感じていたりもし、だからこそそういう要素が人を動かしていくことになるわけです。

 世界的な問題では、さきのオリエンタリズムやそれに対するアンチとしての「アジア主義」などをしっかり見ていかなければらないのだと思うのですが、それは今自分の思考形態のなかにあるそれらと同質のものに目を向けていくことから始める必要があるのではないかと思います。


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