風のトポスノート131-140

(1999.1.26-1999.2.21)


風のトポスノート 131●「強さ」と「弱さ」の可能性

風のトポスノート 132●ホメオパシー的発想

風のトポスノート 133●間

風のトポスノート 134●身体性の制約

風のトポスノート 135●協力関係による合理的選択

風のトポスノート 136●ルサンチマン

風のトポスノート 137●檻の中で

風のトポスノート 138●人権

風のトポスノート 139●パトス(受苦)からの発想

風のトポスノート 140●愛と打算

 

 

風のトポスノート 131

「強さ」と「弱さ」の可能性


1999.1.26

 

 数年前に雑誌「群像」の対談を一緒にさせていただいたときに、中村さんがケネス・バーク を引用して「タ・パテマータ・マテマータ(〜人は経験より学ぶ)」の話をしてくださいました。人が学ぶのは、ただ経験することからではなく、むしろ、ある種の受苦をともなった経験からだということでした。人が身体をもっているということから生まれるある種の切実さ……これは、前回のメールで中村さんが言っていたポール・リクールの「自己性」(かけがえのなさ)のことでしょうか……は、人が生き、他の人と関係をもち、学ぶというプロセスの中でとても大事なものです。

 もしインターネットの作り出す関係世界でそれが無限に希薄になってゆくのだとしたら、それは、由々しき問題です。また、ヴァーチャルワールドでいろいろ悪さをする人がたくさん出てきているひとつの大きな原因が、この「自己性の希薄さ」だという意味でも問題です。いたずら電話をかけるにはそれなりのエネルギーと時間がかかる。お年寄りをだまして銀行通帳を盗んだ犯人が銀行のATMの防犯カメラの映像に写っていたために捕まる。リアルワールドでは人は身体を備えているということで一定の秩序形成機能が働きますね。それがなくなるのがヴァーチャルワールドかもしれません。

 その一方で、関係の希薄さがインターネットにおける関係形成にかえってポジティブに働くという可能性もあるようです。う〜ん、どうも、インターネットは「強さ」と「弱さ」、ネガティブとポジティブを一緒に運んでくるメディアのようです。

(インターネット哲学アゴラ「弱さ」

 第2回ヴァーチャリティと信用・金子第3通信 金子郁容→中村雄二郎)

 人は経験から学ぶ。その経験には身体性が伴っている。「ある種の受苦をともなった経験」である。人には四苦八苦があり、そのことを貫きながら生きなければならない。

 ぼくにとっては、小さい頃から身体というのがどうにも重苦しくで耐え難いところがあった。思い通りにならない身体。おなかが減り眠くなり疲れる身体。怪我をしたり病気で動けなくなったりもする身体。風のように自在に空を戯れることを幾度夢想したことか。けれど、ぼくは山と川と海のなかで育った。ぼくのなかには山と川と海が織り込まれている。

 身体性についての苦はそれでもずっと苦でしかなかったが、最近になってようやくその苦が変わってきたのではないかと思う。身体性というのは「弱さ」以外の何者でもないと思っていたのだけれど、「弱さ」を抱えているからこそ、それが「強さ」へと変容するのだ。もちろんそれはマッチョ的な肉体性のことではない。身体性なくしては創造されえない何かのことだ。

 インターネットには身体性がないという。果たしてそうだろうか。関係が希薄だという。果たしてそうだろうか。

 インターネットでこうして書いていることはぼくにとっては確実にこの身体を使っている。インターネットでなければおそらく発生しない作業だ。けっこうな作業である。ある人が原稿用紙に向かってしか生じないことがぼくにとってはこうした形で存在している。また、インターネットでなければ存在しなかった関係性がここにこうして存在するようになっている。これはバーチャルなのだろうか。だとしても、通常の人間関係は果たしてバーチャルではないのだろうか。

 インターネットなどではフレーションということがよく起こるという。匿名性を原則としているがゆえに、相手のあげあしをとり非難、罵倒したりすることがよく起こるという。人は容易に無責任になりうる存在だということがそこでもわかる。しかしそれはインターネットだからというわけではない。ばかばかしいまでの誹謗中傷、公私混同がマスコミでは日常茶飯事である。マスコミという権力は権力化しているからこそそういうことも平気でできる。そうしたことは、インターネットだからというのではなく、人間の「精神性」やマナーといった「質」に関わる問題である。

 匿名という仮面を使って自分の「弱さ」をごまかすこともできるメディアで人はなにを学ぼうとしているのだろうか。仮面を使いにくい通常の関係性ではないからこそその人の「弱さ」の根底にある、いや「弱さ」を超えて育てることのできる「強さ」の可能性が開かれているのではないだろうか。その「質」には、「受苦をともなった経験」から学ぶということが大きく作用しているように思う。その場合、インターネットであるかそうでないかということは問題ではない。それは一つの関係性の網の目という「場」の個性にすぎないのだから。

 テーマは、常に自分の「弱さ」を直視すること。それに仮面をかぶせるのではなく、「弱さ」の根底をぶちぬいていくこと。そのとき、おそらく「弱さ」は「強さ」以外の何者でもなくなる。だから間違っても自分を「弱者」にしないことだ。自分を「弱者」だとしたとき、その人には仮面としての「強さ」の可能性しか残されていないことになるのだから。

  

 

風のトポスノート 132

ホメオパシー的発想


1999.1.26

 

 ホメオパシーということを知って以来、その発想からいろいろなことを考えてみることが多くなった。

 ホメオパシーの原理というのは、物質をどんどん希釈していくと、その性質が反転するということだといえる。

 恐ろしい毒もどんどん希釈していっていわゆる分子さえ残らないほどに希釈されていくとその性質は反転しむしろ逆の性質を持つようになる。

 なにかの性質というのは、通常は固定的にとらえられることが多いように思う。AはどこまでもAであり、BはどこまでもBである。悪はどこまでも悪であり、善はどこまでも善である。そういうとらえ方である。

 グノーシスではこの世は悪の神がつくったということになっている。だからこの世的なものに染まらないようにしなければならないというわけである。宗教的な禁欲というのもそういう発想に近いところがある。ひたすら清浄に生きることで展の国が約束され、悟りの世界が開かれる。先の発想でいえば、そこでも善と悪、無明と悟りはどこまでも平行線である。

 しかし発想を変えてみれば、面白い。悪がなければ善への道が開かれないと考えてみるのだ。悪人正機というのはその発想に近い。悪を自覚しなければ正機が得られないのである。そこでは悪という性質が反転する。

 善魔という発想もある。善だらけになるとそれそのものが魔になってしまうのだ。善意の押し売りというのもそれである。無自覚な善というのはいかにはた迷惑なものか。

 いかに身体にいいといっても、そればっかり食べ過ぎるとやはり毒になってしまう。悪が善になり、善が悪になる。毒が薬になり、薬が毒になる。

 人は悪について知らなければ悪を克服することはできないという。悪から遠ざかることでむしろ悪に染まってしまう。毒を克服するためには、毒から遠ざかるのではなく、むしろ毒をホメオパティックに作用させることが必要だ。

 ホメオパシーの発想は、いろんな応用が可能である。宇宙に存在しているものに無意味なものは決してないということもそこからよくわかるようになるし、経験に無駄はないということもよくわかるようになる。「悪い子」は、最も大きな可能性の種であるというのもそのことでよくわかる。

 

 

風のトポスノート 133


1999.1.30

 

佐治●…私はよくこんなたとえを出すんです。森を調べたいという時に、二つの方法があると思うんです。木の一本一本を徹底的に調べるやり方と、もう一つは木と木の間にあるものを見ていくという方法です。たしかに森を知るために木を一本ずつ調べていくことは大事なことですが、よく見ると、その木と木の間に落ち葉があって、虫がいてということで森がつくられているんですね。

(佐治晴夫・松岡正剛「二十世紀の忘れもの」(雲母書房/1999.1.18)

 人間について考えるときにも、人間のひとり一人を調べていくアプローチと人間と人間の間にあるものを見ていくというアプローチがある。わたしはわたし、あなたはあなただけれど、わたしとあなたでつくっている「間」にこそ「人−間」が存在している。わたしはあなたを通して私を見、あなたはわたしを通してあなたを見ている。その不思議な世界、宇宙の秘密につながっていそうな不思議・・・。

 音楽についても、音そのものを聞くことと音と音の間ということを聞くということができる。音楽が流れるというけれど、流れるための場は大いなる「間」の大河なのだ。その大河をいかに聞き取っていくことができるか。それが音楽の秘密を開示しているといえる。そこに鳴っている音以外を聞きとれないとしたら、なんと貧しいことか。「精神」はその大河の流れなのだから。

 宇宙空間に星たちが煌めいているけれど、宇宙について知ろうとして星そのものを調べるだけでなく、星と星の間のことを調べるということも必要だと思う。よく、太陽、地球、月の大きさの比較が太陽をリンゴくらいの大きさだとしたら・・・というふうに説明されることがあるけれど、惑星の現われはごく小さなものであって宇宙はその「間」にこそあるということが実感できる。「間」には何もないのではなくて、むしろすべてがあり、それがほんの小さな形のなかに顕現していると見るのがいいのではないか。

 物質へのアプローチも、実は物質のなかには大いなる空がそこに拡がっているのだという視点が必要なんだと思う。おそらく唯物論は「間」という視点を捨て去ったものではないだろうか。そして物質という形をとっているものは、「間」にひろがっている宇宙がつかのまに顕現しているものなのだという視点。

 そういえば、医療の問題、とくに臓器移植の問題にしても、臓器そのものを取り替えれば済むという視点はどこかまさに「人−間」ということを無視したもののような気がする。わたしとあなたのかけがえのない関係。たとえあなたがわたしを傷つけたとしても、そのことであなたを取り替えれば済むとでもいうのだろうか。あなたというかけがえのない存在。「愛」という宝物の原点・・・。

 

 

風のトポスノート 134

身体性の制約


1999.1.30

 

 その場で体験することが、新聞記事を読んだりテレビ報道を見たりするより豊かなのは、雑音や匂いなどを含めた多様でリダンダントな情報が入ってくるからだ。と、よく言います。たしかに、それはあるでしょう。しかし、私の感じではもっと別のことで重要なことがあるのではないかと思っています。身体性の制約ということです。

 実際にそこにいることで、何かしらの被害を受けるとか、そこまでいかなくとも何かしらの制約を受けるとかということによって、「身にしみる」ということです。五月革命に遭遇することで実際に身の危険を感じるという劇的なことがあればなおさらですね。わたしがすぐに思い出すのは、阪神・淡路大震災のときに何回かにわたって延べ一ヶ月ほどですが現地にいったときのことです。交通手段がなくて、数時間歩いて友人のところにたどりついたとか、知り合いに自転車を借りて電車でいえば五つも六つも先の駅まで行ってNGOのミーティングに参加したなど、普段は存在しない「制約」を受けたことが、なにか、もっとも生き生きとした感覚として残っています。

 一日が24時間でしかなくて、そのときはその一瞬しかない。自分の身に、あることが起これば他のことは起こらない。些細なことであっても、そのような身体的制約に依拠するものが貴重さをもたらす基底にあるのではないかと思います。

(インターネット哲学アゴラ「弱さ」

 第2回ヴァーチャリティと信用・金子第4通信 金子郁容→中村雄二郎)

 霊的世界とこの物質的世界との違いということをもっとも如実に表わしているのはまさに「身体性の制約」ということではないかと思う。

 身体ということを否定的にとるのは、多くの宗教の得意とするところではあるけれどもその身体性こそが、可能性の基であるということを考えてみる必要があるのではないか。

 霊的世界、もちろんここでいうのは「死後の生活」ということなのだけれど、そこにおいては肉体はもはや失われてしまっているがゆえに「身体性の制約」というのは基本的に存在していない。そこに存在しているのは、「意識の制約」だけだということができる。ある意味では意識だけだからこそ、「意識」を変えたり広げたりするための契機を見出すことが困難なのでではないか。そこにあるのは電波の周波数のような意識の同一性ということなのだから。

 この地上世界では、「身体」ということがあらゆる制約をもたらしている。しかしその「身体」故に、「意識」の違った存在が向かい合うことができる。そのことで「意識」を堕落させたり、向上させたりするためのあらゆる契機がそこには存在可能になってくる。病気という「恵み」もだからこそここまで地上に蔓延している。風邪がこうまで毎年流行るのも、その「恵み」をどれだけ多くの人達が待ち望んでいるかという視点から見ることもできる。

 身体があるということからも直面せざるをえない男女の愛憎もそのひとつ。愛し合うにもかかわらず遠く離れている男女が、その距離を超えて会おうとするエネルギーは身体性ゆえのもの。またその身体性ゆえに、離れているという身体の距離が意識の差となって「別れ」につながってくることもある。

 身体性のつくりだすドラマは地上ならではのもの。そのドラマで私たちはなにを遊戯しようとしているのだろう。真剣かつ滑稽でもあるかずかぎりないドラマの数々。

 「身にしみる」ことによって得られる「意識」の変革の可能性ゆえに私たちはこうして身体という衣装をまとって生きている。制約ゆえの、おそらくはみずからが望んだ制約ゆえの可能性のステージに。

 

 

風のトポスノート 135

協力関係による合理的選択


1999.2.1

 

 『ボランタリー経済の誕生』の第2章「情報ネットワークとコミュニティ経済」の或る個所で「協力と背信がつくるゲームの重要性」という見出しのもとによくわかるような説明がありましたね。私自身の正確な理解のためと読者のみなさんの理解を容易にするために、その個所を紹介しておきましょう。すなわち、このモデルにおいては、二人のプレイヤーは、それぞれ「協力」か「背信」かのどちらかの行動を選択する。このとき、両方を「協力」すれば二人ともかなりの利得が入り、双方が「背信」であれば、それぞれの利得は少ない。一方が「協力」したときにた方が「背信」を選択すると、出し抜かれた前者は大きな損害を被り、出し抜いた後者は大きな利益を得る。このようなゲームにおいては、両方が「協力」することが互いにとっていい結果をもたらすのはわかっているのだが、どちらのプレイヤーも出し抜かれたくないために、つい「背信」を選ぶことが "合理"になってしまっている。つまり、両プレイヤーが合理的な選択をすることで、双方ともが望ましくない結果になってしまうというジレンマが生ずるのである。

 ただし、金子さんがはっきり指摘なさっているように、重要なのは、一回の勝負だと「裏切り」がいつも勝つことになるが、繰返しゲームになると、強制的な力が働かないでも、ある種の協力関係が合理的選択になりうる、ということです。私が興味深く思ったのは、「繰返し」はデジタル・コミュニケーションの得意とするところなので、ここでも、そのことを逆手とって協力関係による合理的選択が可能になる、ということです。

(インターネット哲学アゴラ「弱さ」

 第2回ヴァーチャリティと信用・中村第4通信 中村雄二郎→金子郁容)

 「損」をしたくない。しかし、悪者になりたくはない。その両者を成立させる「合理的選択」は「協力」である。

 しかし、「協力」が成立しがたいのはなぜだろう。ひとつには、自分がひとよりは利益を得たいという欲望だろうし、もうひとつには、ひとの「背信」への恐れということがあるように思う。

 このことは、経済に関してだけではなく、他者との関係において多く出てくる問題なのではないだろうか。ひとより優れていたい、認められたい、尊敬されたい。そして、騙されたくない、裏切られたくない、傷つきたくない。

 ひとより優れていたい、認められたい、尊敬されたいという気持ちは、向上心を持つ意味でのモチベーションとして必要なこともあるだろうし、騙されたくない、裏切られたくない、傷つきたくないというのは人と信頼関係を持ちたいということの裏返しでもある。

 しかし人は、自分だけが取り残された気持ちにはなりたくないし自分だけが信頼して馬鹿をみたくないと思う。それは、「損」であり、「合理的」だとはいえないのだ。だから心のなかでは躊躇そしながらも、「背信」という「合理」を選択してしまう。

 「組織」「共同体」の成立根拠は、安定した構成員の関係性により「背信」という恐れのない「合理」を安定したかたちで享受するためにあるといえる。そのために、そこにはさまざまなルールが必要となる。そのルールには暗黙の前提ということもあるし半ば文書化されているかそれに近いかたちのものもある。ともあれその「組織」「共同体」はルールによって成立している。

 しかしルールはともすれば固定化する。最初は構成員の合意のもとで成立したものであったとしても、ルール成立後は「最初にルールありき」ということになってしまう。それはもはや「協力関係」ではなくなってしまう。階層化が固定化した組織となってしまうわけである。

 合理的選択としての協力関係を固定化した関係でつくるのではなく、ダイナミックなかたちで成立させるためにはどうすればいいのだろうか。引用箇所で挙げられているように「繰り返し」というのは重要な要素かもしれない。問題はその「繰り返し」を死んだルールに固定化させないことだと思う。

 こうしたインターネットの可能性もそこにある。パソコン通信の時代から長くこうした対話の場を開いているのだけれど、こうした場がフレーションなどの罵倒の場と化していかないためには、そこに死んだルールをつくらないことだという気がしている。

 

 

風のトポスノート 136

ルサンチマン


1999.2.2

 

佐治●…私のやりたいことは「恨み学」ですね。(…)

喜びとか悲しみというのは、時と共に忘れていくでしょう。指数関数的に喜びや悲しみは減っていきますね。「恨み」はそうじゃないんですよね。いつまでもよく覚えていますよね。……「恨み」があるために、それをバネにして飛躍するんだという説明ができるけれど、それにしても「恨み」はどうしてか、思い出した瞬間に元のレベルに戻ってしまう。

(佐治晴夫・松岡正剛「二十世紀の忘れもの」雲母書房/1999.1.18/P67-68)

 ぼくはあまり記憶力がないものだから、人の名前もあまり覚えることができないし、過去のことはすぐに忘却の彼方になってしまうものだから、「恨み」とかいってもあまり現実感がないのだけれど、実際のところ、人もそれがつくりだす歴史も「恨み」で動いていることが多いようでびっくりさせられてしまう。「恨み」は人がもっとも記憶から消し去りがたいものらしい。

 自分の生い立ちからはじまって、その都度自分のかかわった人や環境に対して、「なぜ自分だけが」という思いがその「恨み」を募らせるのだろうか。「自分が享受して当然のこと」が得られないという思いこみもあるだろうし、自分の受けた「耐え難い仕打ち・運命」に対する憤懣もあるだろうか。

 さて、「喜びとか悲しみ」に対比された「恨み」の「思い出した瞬間に元のレベルに戻ってしまう」ほどの壮絶さというのは面白い。ひょっとしたら、「恨み」は自我に深く傷を残すゆえに、いつまでも鮮烈に消えずに残っているのかもしれないと思う。それはもはや単なる感情を超えてしまっている。

 愛と憎しみというのが互いに裏返しの関係にあるとよくいわれるけれど、その「憎しみ」にあたるのがこの「恨み」なのかもしれないと思う。それは「愛」という、自我がもっとも欲するであろうものが叶えられなかった、裏切られたという思いが生み出すもの。

 ある意味では堕天使ルシファーが感じた呪いのようなものかもしれない。自分はこれほどの存在、かけがえのない存在、尊敬されるべき、愛されるべき存在であるにもかかわらず、それが叶えられないゆえに、愛に敵対するようになったルサンチマン。自由という呪いを受けたがゆえに生まれたルサンチマン。

 そうしたルサンチマンに対する視点は、「悪の解放」という視点にもつながるものかもしれない。

 

 

風のトポスノート 137

檻の中で


1999.2.2

 

 1980年代はじめ、その頃気にかかっていた青年の姿勢について書いたことがある。「手をズボンのポケットにつっこみ、顎をつき出し、胸は落ち込んで、腰をひょろりと前につき出し、ふらりふらりと肩をゆすって歩く」。上へ伸びる力が重力に負けて上体が崩れ落ちかかるのを、腰の蝶番をぱちんと固めてようやく支えている、という姿である。

 そして今、少年たちは、腰の蝶番を折り畳んで、前屈みに崩れ尻を落としている。かれらにとって、この姿勢はすでに馴じみの慣習化された身体、無自覚に行為される「自然な」からだとなっている。幼稚園から小学校中学高校と考えると、十五年にわたる間、生徒が集合するたびごとに、規範として強制されてきた「三角座り」の姿勢なのだから。(中略)

 自分の手で膝を縛って、最も小さな容積にからだを押し込めたこの形は、古い言い方に従えば「手も足も出せぬ」ばかりか、息さえひそめた形である。これはからだが動こうとする一切の可能性を封殺した、いわば檻に閉じこめたと同じ形だ。(中略)

 ここまで子どものからだを閉じこめておいて、ようやく教員たちは安心してしゃべりまくることができる。これが現代日本の学校教育の、表に現れぬ基盤なのだ。(中略)

 そして今、そのからだに気づきもせず、大人たちは「こころ」だけを理解しよう「教育しよう」として、しきりに子どもたちに話しかけようと試みている。

(竹内敏晴「教師のためのからだとことば考」ちくま学芸文庫/1999.1.12)

 檻の中を窮屈に思う。檻の外に出ようとする。そこに不安と葛藤が生じる。しかしあえて檻の外に出ることに挑戦する。

 檻の中で暮らす。自分ではそれと気づかず。檻の中を世界だと思う。檻の外はないと思う。たとえ檻の外があったとしても、そんな世界は不安だからそのままでいようと思う。手も足もでないのではなく、手も足も出そうとは思わないし、だせるとも思わない。

 ・・・・

 条件づけは恐ろしい。クリシュナムルティが一貫して訴えていたこと。人は条件づけから自由にならなければならない。そしてまず、自分が条件づけられているのだということに気づくところから始めなければならない。

 自分が望んでいることそのものは条件づけゆえのものだとしたら・・・・そんなことを考えたことはないだろうか。それは「そういうもの」なのであって、「そういうもの」ではないことに関心はないか、あったとしても、それに敵対するばかりということになる。

 子どもが大人にとって素晴らしいとされたりもするのは、その条件づけ未満の存在だからだ。その子どもの「なぜ」の塊のような存在に大人は驚嘆する。しかしその驚きは、自分がいかに条件づけられているのかと深く自省するためにこそなければならないように思う。

 さて、檻のなかだけを世界だと思い育てられた子どもを檻の中に置いたままにして、心の教育を行なおうとするのはいったいどういうことなのだろうか。しかもその教育を行なおうとする本人が檻の中にいたりする。

 

 

風のトポスノート 138

人権


1999.2.8

 今日の朝日新聞で、厚生省が痴呆老人などの介護にあたっての身体拘束を禁止したという内容の記事があった。たしかに身体拘束は「人権侵害」にあたるわけで、そういうことがないに越したことはない。けれど問題はそんなに単純でもない。

 たとえば犯罪を犯したとされる人は、身体を拘束されている。これにはほとんどの方は異を唱えないだろう。詳しくは知らないので事実かどうかは知らないが、その場合「人権」はある部分「侵害」されることが容認されていると思う。「侵害」というよりは、「人権」が「限定」されているというのかもしれないが。

 また犯罪を犯した場合、その主体が正常か異常かという判断が下され、正常だとみなされたとき、それに対する罪が下される。しかし異常だとみなされたとき、罪は認められないが、その代わりに、その人間は「精神」に「異常」があるとされ、その人の主体としての能力は認められなくなる。つまり、「人権」は著しく制限されることになる。そして「精神病院」のなかで拘束されることになる。

 ハムレットの科白にたしか、胡桃の殻のなかに閉じこめられてもぼくは無限の天地の主なのだ、というようなものがあったと記憶している。この場合、自分の主体に対する信頼がある。どんな環境にあろうと心の自由は阻害されることはない。心の自由を阻害するのは、自分だけなのだから。けれど、ハムレットはある種の狂気のなかにある。

 グノーシスでは、肉体をつくったのは悪の神なのだから、その牢獄のなかに閉じこめられている神性の発現ということをなによりも重視する。そのために過度ともいえる禁欲生活を送ることになる。そこでは肉体性、物質性の意味が軽視される。なぜこの身体があるのだろう、物質世界があるのだろう。その意味は果たしてどういうところにあるのだろう。そういう視点は「悪の神」「低次のもの」ということ以外顧みられにくい。多くの宗教のなかでも、肉体や欲望に対する制限を「教え」のなかに組み込んでいる。逆に、密教などのようにそれこそが悟りへの道であるとして賛美する場合もある。どちらもかなり極端なあり方を示している。

 さて、「身体拘束」という問題である。「人権」をそこにどのように認めるかということが、法律上は問題になるのだろう。必要なのは、人権擁護の立場にある方が、痴呆老人の世話をしてみることかもしれない。逆に人権を制限してほしい立場にある方が、人権擁護の立場からあらためて具体的に考えてみること。しかし、問題はそんなに単純ではないだろうし、答えも誰もが納得のいくものは得られにくいだろう。

 「人権」をどのようにとらえたらいいのだろう。「人が人である」ということはどういうことなのだろうか。シュタイナーは自由について、人は最初から自由が与えられているというのではなく、それを獲得しなければ得られないものとして論じている。もちろん現状の法律論義としてではなく、精神科学的な認識においてである。人間は人間であろうとする営為において人間となる。そういう視点も必要になるかもしれない。けれど、現在のような実質的に唯物論的な観点とよくわからない慣習とが混在しながらカオスのようになっている状況では、「人権」はますますよくわからないものになっていくような気がする。

 

 

風のトポスノート 139

パトス(受苦)からの発想


1999.2.12

 

 環境問題を「愛と憎しみ」の観点からとらえなおすというのは、われながら迂遠すぎる気もするのですが、こういうことを言い出してしまったのは、そういう尺度をもってこないと、環境問題の本質は掴めないのではないか、と思わざるを得ないところがあるからです。オルテガの主張を金子さんの出してくださったNPOの特色と関係づけてみると、以下のようなことになります。ひとは憎悪の原理によるときには、対象の全体性も、対象と自分とのつながりも、断ち切ることで、問題が単純化できます。対象が個人であるときには、そのようなやり方でもあまり問題はおきません。けれども、情報の「相互性と自発性」が否応なしに要求される「環境問題」のような場合には、そのような切断と憎悪の原理によっては、問題それ自体が意味をなさない偽問題になってしまいます。したがって、根本的な原理の変更が要求されるようになるのです。では、「愛と結合の原理」によるとして、その場合、どのような展望が開かれるでありましょうか。ここで手がかりになるのは、愛と結合が成り立つには強さではなく、弱さが主発点になることです。

 それをさらに言い換えると、言葉の根源的な意味でのパトス(受苦)、つまり、「開かれた感受性」と「他人の痛みがわかること」になりましょう。そして、実は、「エネルギー」の理論と異なる「情報の理論」の特色も、そこにこそあるのではないでしょうか。これらのことは、これまでにも金子さんと私の間でほぼ共通の了解事項になっていたことですが、オルテガのいう「憎悪と切断」ということによって裏から照らし出してみると、いっそうそのことがはっきりするようになると思うのです。

(インターネット哲学アゴラ「弱さ」

 第3回ヴァーチャリティと信用さ・中村第6通信 中村雄二郎→金子郁容)

 対象の全体性を考慮するかしないか、対象と自分とのつながりを前提にするかそれを断絶させてとらえるか。そのことは、環境問題でもそうだし、あらゆる問題において重要な観点を提供してくれる。

 ある意味で「強さ」というのは、対象に対してその対象のなかに自分はいない。それに対して「弱さ」というのは、対象のなかにも自分がいる。つまり、パトス(受苦)、「開かれた感受性」、「他人の痛みがわかること」。

 環境に対する関わり方も、人に対する関わり方も、それが「パトス(受苦)」という観点からのものになることで変わってくる。何かに働きかけるとき、それを自分に対して働きかけることだととらえるか自分とは切り離された対象としてとらえるか。

 何かを食べるということは、自分を食べているのだということ。誰かを打つということは、自分を打っているのだということ。何かを汚すということは、自分を汚すのだということ。だれかを憎むということは、自分を憎んでいるのだということ。だから、愛するということは、自分を愛するということでもあるのだということ。

 愛は「パトス(受苦)」という「弱さ」からのものでもあり、だからこそそれはもっとも大いなる強さともなりうる。

 

 

 

風のトポスノート 140

愛と打算


1999.2.21

 

 どうして、(たいていの)人はその人が愛に基づいて行動していると言われると当惑したり、拒絶したり、遠のくのでしょうか。(ときには怒り出す人さえいます。)それより、打算に基づいて行動しているね、といわれたほうが安心するのはなぜでしょうか。しかし、(たいていの)人は(わたし自身もその一人ですが)、深いところでは打算よりも人の役に立ちたいと願っているので、その人の行動が打算によっているものに見えるが実はそうではないといわれると、余計安心するようです。(…)

 環境問題の解決も、NPO論も、打算アプローチのバリエーションでは限界があるといいました。しかし、その一方で、打算でない打算というのでしょうか、表面的・形式的には、ないし、結果的には打算というか合理的・効率的な結果を生む行動が、実は、「愛の結合の原理」に基づいているというような議論はできないものでしょうか。

(インターネット哲学アゴラ「弱さ」

 第4回 弱さの思想・金子第7通信 金子郁容→中村雄二郎)

 無償の愛を信じるほど無垢ではいられない。そう見えるものほどどこかに落とし穴がある。それを信じて裏切られたらもう立ち直れない。だから自分の行動原理にある種の打算を見出そうとする。自分はこの利益のために行動しているのだと思うことでどこか安心するところがある。

 けれど、無償の愛をこそどこかで信じたい。無償の愛というよりも、ほんとうのところ自分の根底には打算ではない衝動があるのだということを信じたいと思っている。思っているというよりも、どこかでそれに気づいている。打算という自分の利益になること、その利益を追求していくとどこかでその利益という幻想が崩壊していくのがわかるのだ。しかしその利益幻想の崩壊するのが恐いので打算、利益という幻想にしがみついていたいと思う。

 また、打算は個の原理から導出され、自分の利益になるように行動するという原理を生む。そして自分の利益ということを追求していくことでそれがやがて自分という範囲を超えてしまうことに気づく。愛がほしいと思うだけで自分という範囲は乗り越えられてしまう。愛は自分ではない存在と結びつきを求めることに発する。一度は個として分離するからこそ結びつきたいという衝動となる。

 愛されたいという衝動はある種打算にも似ている。愛を得るために人はあらゆる不可解な行動をとる。たとえそれが自分には合理的に思えようとも、愛そのものが合理という器には盛りきれないのだ。それに愛を得るという矛盾にもすぐに気づくようになる。愛を得るためにはそれを自分が持っていないといけないという矛盾だ。自分が愛を体現することでそれを与えようとすることでしか愛を得るということができないという矛盾である。打算は打算になりえないという矛盾でもある。

 愛は無償ではないが、それを得るためには自分がそれを与えなければならないという現実の中で、環境問題もNPO論もあらゆる問題が、打算によって打算を超えていく道を模索しているように見える。

 


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