風のトポスノート121-130

(1998.12.11-1999.1.19)


風のトポスノート 121●不純物・道草

風のトポスノート 122●運・根・鈍

風のトポスノート 123●理念と理想

風のトポスノート 124●「眠れる森」から

風のトポスノート 125●山川草木悉皆成仏

風のトポスノート 126●場所と記憶

風のトポスノート 127●システムの囚われからの解放の可能性

風のトポスノート 128●固定化したシステム打開への鍵

風のトポスノート 129●「切実な欲求」というアポリア

風のトポスノート 130●驚きから

 

 

風のトポスノート 121

不純物・道草


1998.12.11

 

 すべての植物染料の基調色もじつは灰色なのである。植物を炊き出した液の中に何が交じっているのか。樹液か夾雑物か、アルファが交じっていて、それがすべての色彩に灰色の紗幕をかける。

 植物染料の色がどこかしっとりと落ちついているといわれるのはそのためである。化学染料のようにきっちり割り切れるものではなく、どこかに不純物が交じっているが、色そのものはそのために濁るのではなく、本来の色をきわ立たせる。

 不純物が交じりながら純粋な色彩というのは一見矛盾しているようであるが、事実である。この場合、色が影を宿しているといえばよいのか。灰色はその影の部分、いたわりとやさしさの部分なのである。

(志村ふくみ「色を奏でる」ちくま文庫/P88-89)

 ぼくのなかの「不純物」を思う。決して割り切れることのないものを思う。

 不純物を嫌うあまり、それをなかったことにする。効率を競うあまり、無駄と思うものをなくしてしまう。そんなことをしてはいないだろうか。

 ぼくがぼくであるということは、あらゆる不純物や無駄もまるごとぼくであるということだ。あらゆる道草もぼくであるということだ。

 不純物によってできる影の部分がないとしたらどうだろう。苦しむ可能性のない人間、道草のなくなってしまった人間。

 先日、「世紀末の詩」というテレビ番組を見ていたら、あらゆる感情は愛にとって不要なものだ、それさえなければ人には苦しみなどないのに、そんなテーゼをふりかざす人物が登場していた。

 人の生は四苦八苦だと仏陀の教えの基礎にある。四苦八苦の原因をしっかり見据えることは重要なことだが、四苦八苦をただ滅することが課題であるとしたら、生そのものを滅すること以外に道はないだろう。それは自殺の勧め以外の何者でもなくなってしまう。それとも「ポア」の勧めだろうか。

 ある意味で「解脱」を目的とするということは生から不純物をなくしてしまおうとする試みなのかもしれない。ひょっとしたら生そのものが不純物だとみなすのかもしれない。そうだとしたら「解脱」とやらを目的にするのは生をなおざりにしてしまうことになりはしないか。

 不純物と道草だらけになってしまうのもそのもう一つの極端だけれど、ちょうどいい具合に張られた弦が美しい音色を奏でることができるように不純物や道草を愛するというのも必要なのではないだろうか。

 もっともぼくのばあいは、それらを愛しすぎるという危険性があるのだけれど・・・。

 

 

風のトポスノート 122

運・根・鈍


1998.12.14

 

 鈍ということは、一回でわかってしまうことを、何回も何回もくりかえしやらないとわからない。くりかえしやっていると、一回でわかったものがとは本質的にちがったものが掴めてくる。木のかたまりのなかから仏が生まれ、美しい器が生まれてくる。それが根(こん)ともいい根(ね)ともいうものにつながっている。それを大きく包んでいるものが、運である。運は偶然にやってくるものではなくて、コツコツ積み上げたものが運という気を招き寄せるのである。

(志村ふくみ「色を奏でる」ちくま文庫/P124)

 「コツコツ」といえば、先日あるクライアントの来年度のテーマが「工面工夫」だというので、それについてお正月用の新聞広告等のコピーをお題拝借という感じでまとめていたのだけれど、そのときにその「コツコツ」という言葉を使ったのを思い出した。

 「コツコツ」というのが得意なほうではないし根気もそんなにあるほうだとはいえないのだけれどこうして毎日同じようなことをくりかえし書いているとたしかにそのくりかえしのなかでなにかが見えてくるところがある。

 一回でわかること、二回でわかること、三回でわかること……。そのコツコツ……で根っこが少しずつ伸びていくのだろう。一回だけではたぶん根っこを伸ばすまでにはいかない。そうして大きな樹は長い年月をかけて根っこを張っていく。

 シュタイナーのいうカルマというのもそういう感じで、宇宙は生成・展開していくんだろうと思う。何回もくり返したからといって必ずしもいい方向にいくとかかぎらないけれどわかるまで何度でもくりかえすのも、まあいいじゃないか、と。そしてそのなかで、木のかたまりのなかに仏をみることもあるだろうし、キリストをみつけることもあるのかもしれない。

 天使たちは、たぶん例外をのぞけば、人間のようにこうやって何回も何回もくりかえすような楽しみ(苦しみ)というのはないんだろう。そうだとしたら、それは人間だけに与えられた特権ではないか。

 人間は「自由の霊」だといもいう。自由ゆえにくりかえす、間違いも犯す。そこに霊的なエリート意識などは無用だろう。

 

 

風のトポスノート 123

理念と理想


1998.12.14

 

 「如何なる理念も理想たりえぬ限りは、魂の力を殺す。しかし如何なる理念も理想たりうる限りは、すべてあなたの中の生命力を生み出す」と、シュタイナーは語っている。果たして私の理念は理想に向かっているだろうか、それは私自身にもよく分からない。それは願いである。自分の仕事を美化してはならない。少しでもその方向性の舵とりをあやまったらとんでもない方向にすすむのだ。

 現代に理想などない。それはみな幻想だ、といい切ってしまえない最後の一線でこのシュタイナーの言葉を思う、すると私の仕事の過剰な虚飾の部分が浮かび上がり、推進力の衰退が見えてくる。理念も理想も一挙に影をひそめ、私は惰性でくるくるまわる水車のような気がしてくる。理念なき理想などないのだ。もし私が本当に理念とよべるほどの信念を持つことができればそれが理想なのだ。したがって理想なき理念もないのだ。それは一体なのだと思う。私がこの仕事に本当に理念をもつことができたのか、それが最も重大な残された課題である。

(志村ふくみ「色を奏でる」ちくま文庫/P171)

 唯幻論というのがある。とてもわかりやすいし、一見わりと気持ちが楽になる。しかしそれにも関係して、かつて「モノンクル」というような精神分析関連の雑誌さえ責任編集をしていたような伊丹十三氏はささいなことからかどうかはわからないけれど、突然のように自殺を選んだ。それはいったいどういうことなのだろうか。

 唯幻論はおそらく自分が幻だと思っているものに復讐されてしまうのではないだろうか。そこには「理想」を排除してしまうものがあるからだ。「如何なる理念も理想たりえぬ限りは、魂の力を殺す」のだ。理想が殺されてしまうとき、魂はその力を自らが断ってしまう。

 観念論(理想主義)を転倒させて唯物論が誕生した。つまり「理想」が転倒してしまったのだ。「理想」はあってはならない幻と化してしまった。

 「現代に理想などない。それはみな幻想だ」というのは簡単なことだ。「死んだらすべておしまい、無と化すのだ」というのはほんとうに簡単なこと。

 シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」にある上記の言葉を思い出すたびに、ぼくのなかで何かが力を得る。

 なにかをマーヤであるというのならば、どのようにマーヤであるのかということを見なければならない。そのことによってマーヤであり生命のないものと理想であり理念であるものとの違いを見抜くことが可能となる。

 

 

風のトポスノート 124

「眠れる森」から


1998.12.16

 巷では、フジテレビのドラマ「眠れる森」が盛り上がりをみせている。大庭実那子を演じる中山美穂、伊藤直季を演じる木村拓哉、濱崎輝一郎を演じる仲村トオル、中嶋敬太を演じるユースケ・サンタマリア、そして国府吉春を演じる陣内孝則・・・。

 インターネットでもそのドラマの謎を語り合うBBSなども開かれていたりする。広告屋で俗っぽいところの決して抜けないぼくも、そのドラマの展開が気になってついつい見てしまっているのだけれど^^;、このドラマのテーマのひとつが「記憶」。

 自分のものだと思っている記憶ははたしてほんとうに自分の記憶なのか。そういえば、「ブレードランナー」に登場したレプリカントは、人間の記憶を埋め込まれていたが、そのことでアイデンティティに苦しむことになる。自分が思い出としてもっているものが、嘘だったのだとしたら、いったい自分が自分だということをどうやって確かめたらいいのだろう、というアイデンティティの危機に直面する。

 逆に真実に直面することは、恐怖でもある場合がある。記憶喪失になる原因の多くはおそらくは記憶というアイデンティティを持つことを拒否したいということなのだろう。その記憶を消し去って、新たなアイデンティティを持ちたいという願望。しかしその人は記憶をなくしてもその人にほかならない。

 そういえば、人は生まれてくるとき記憶を失って生まれてくる。もちろんそれは肉体に結びついたパーソナリティとして新たな人格だということで、深いところでの個性はそのパーソナリティを左右している。まるで推理小説の作家かシナリオライターのような役割だ。パーソナリティは、その生というシナリオの最終目的に向かって邁進する。まるで「眠れる森」の国府吉春のように・・・。しかしバフーチンではないが、登場人物はそのなかで生命を持って行動しはじめ、そこにさまざまなものをつけ加えていくことになる。そこが生まれてくる楽しみでもあるのかもしれない。

 人は偶然にこの世に放り込まれたものではない。シュタイナーがつぎのように言っているように、人がなにかをするということは、結果が先にあるということなのだ。

「皆さん、そこに水の入っているコップがあるとして、それをつかむために私の手がそのコップに向かって差し出されるとしたら、私はごくふつうの人間として、こう言います。『私の手は私から離れてコップへ向かう』と。これはこれでまったく論理的です。しかし霊的透視能力をもつ人間にとっては、それはまったく別様に見えるのです。彼はこう言います。『いや、手はここからそこへ向かうのではない。手はコップから私の方へやってくるのだ。見えない手が、そこからここへやってくるのだ』と」

(アルバート・ズスマン「魂の扉・十二感覚論」耕文舎/P54)

 これは宿命論ではない。いわば「立命論」だといえる。自分で自分をのシナリオを書いて、自分で演じるということ。だた、私はこの世という「森」で深く深く眠りこけている。その眠りから醒めることを半ば恐れながらも願っている。

 

 

風のトポスノート 125

山川草木悉皆成仏


1999.1.10

 

おっしゃるとおり、日本の霊魂観は、「唯一神の前で、我ー汝関係」にまで深められてはいません。むしろその逆の道を一時期たどりました。その典型例は、自然の存在物や自然現象に「霊」の存在を見出すアニミズムから、さらに人間が作った「文化」物すなわち道具などに「霊魂」を認め、さらにそれが成長し、人間の「霊魂」と同様に、「成仏」できるという思想を生みだしたことに示されています。キリスト教徒が、職人や自分が作った道具に「霊魂」が宿っており、したがってそれも「洗礼」を受ける資格があり、さらには「神のもと」にいく資格もあるのだ、という主張することはありませんし、自分が分身のように愛玩している犬や猫でさえ、洗礼を受けさせることはありません。人間のみが「洗礼」を受け「神のもと」にいく資格があるのです。

 ところが、日本人は、「山川草木悉皆成仏」などと言って、自然物は人間と同様に「成仏」できると考え、さらに中世の「つくも神絵巻 」が物語るように、道具のたぐいにさえ、「成仏」する資格を与えてました。キリスト教的な「霊魂観」とはまったく異なる「霊魂観」を発達させたわけです。これが「日本的霊性」の一つの特徴かもしれません。人間を特化・特権化するのではなく、人間を無数の存在物のなかの一部として組み込んでしまうことで、相対的化してしまうわけです。自然や道具たちとの共生関係の樹立といっていいかもしれません。しかも、このような共生関係が確認されるのが、「祟り」というネガティブな関係を通じてでした。「山川草木」も、「道具」も、そしていうまでもなく「人間」も、人間との共生関係が歪んだときに、祟ることになります。それがシグナルなのです。

(インターネット哲学アゴラ「死」第4回 裏のアニミズム小松第7通信 小松和彦→中村雄二郎)

 先日ご紹介したシュタイナーの「霊的宇宙論」(春秋社)にもふれられていた四大霊の解放ということは、西欧ではほとんど顧みられることはないように思います。それは、「唯一神の前で、我ー汝関係」というキリスト教的なあり方ゆえに人間と自然物がはっきりと区別されているからでもあります。おそらく西欧で「山川草木悉皆成仏」ということを理解させようとしてもほとんど難しいのではないかと思います。

 針供養やら人形供養やらということで、人間以外の存在、しかも道具などに到るまでの「共生関係」を背景とした「供養」が行なわれるということを、単なるアニミズム的にしか理解しえないのではないでしょうか。ましてや、「「山川草木」も、「道具」も、そしていうまでもなく「人間」も、人間との共生関係が歪んだときに、祟る」ということなどは。

 日本では「唯一神の前で、我ー汝関係」という「人間」の「個」を前提としたあり方が深められないぶんだけ、太古においてはおそらく当然のものであった「四大霊」と人間の関係がずっと残ってきたのではないでしょうか。そうした太古の霊性という磁場故に、大乗仏教が日本に導入されるにあたり、すべての人間どころかすべての存在の成仏の可能性という視点がでてきた。それが「山川草木悉皆成仏」という発想となったわけです。そして成仏の可能性ということは、逆に成仏できないがゆえの「祟り」の可能性としてもでてくることになり、それゆえに「供養」ということがあらゆる対象にまで拡大されていくことになりました。

 シュタイナーは「四大霊」の解放ということを人間の責任とでもいうべき霊学的認識として提示しているのですが、日本には、認識的では決してないとしても、それが仏教思想などにまで取り入れられることになっているということにあらためて注目する必要があるのではないかと思います。むしろ西欧よりも即物的になりかけていることへの現在、それを霊学的にとらえかえしてみる必要性があるように思います。

 

 

風のトポスノート 126

場所と記憶


1999.1.12

 

 外国人から、日本人は健忘症の国民性をもっているのではないか、といわれます。たとえば近代の日本は隣国を植民地化したり侵略し虐殺を重ねた経験を持っていますが、日本人はそうした都合の悪い過去を忘れたがるようです。私たちがさりげなく使う「水に流す」という慣用句も、「家を焼く」ということと同じような意味、つまり過去を抹殺することであるのでしょう。「火で焼く」も「水で流す」も、ようするに、記憶の「依り代」ともいうべき事物を消去し、記憶がそこに宿らないようにするわけです。

 しかしながら、いやだからこそ、その一方では、日本人は、場所にこだわります。場所は記憶の「依り代」だからです。この対話の冒頭に私が紹介した慰霊団もそうだったように、戦死した場所を参拝し、記念碑(慰霊碑)を立てるのは、じつは「家を焼く」とか「水に流す」ことと表裏の関係のではないでしょうか。その意味で、私は、「場所」とは「記憶の住みか」であり「魂の住みか」なのではないか、と推測しています。日本人が塚や記念碑の建設・建立に執拗なほどにこだわり、無数の塚や記念碑が全国各地に建設され、それがそれほど抵抗なく受け入れられるのは、場所への格別なこだわりがあるからだと思います。なにしろ、たった一度天皇が立ち寄った場所に当然のように記念碑を建ててしまうのですから。記憶したくない事柄は焼いたり流したりする一方では、そうだからこそ記憶したいことは、そのための場所と建造物を恒久的に、つまり世代を越えて記憶されるように建設しようとしたのもうなずけます。

(インターネット哲学アゴラ「死」第4回 裏のアニミズム小松第8通信 小松和彦→中村雄二郎)

 西欧の時間は直線的に進み、東洋の時間は円環的に巡る。

 直線的であるということは、「記憶」は過去という時間性のなかにあり、二度と戻らない「記憶」である過去は消去できない。

 円環的であるということは、「記憶」は再びめぐりくる再生可能なものであり、それを振り返るためにはそれを「場所」に刻むことで永遠になる。と同時に、水に流したい「記憶」は、消去できる。まるで、フロッピーディスクの情報を上書きでもするように。そう、コンピューターのデータは、「場所」に刻まれている。そしてそのデータは、使うときに随時時間性のなかに甦らせることができる。しかもいつでも入らなくなった情報を上書きできる。

 記憶が場所的だということはどういうことだろうか。それは、記憶が自分の内的なものではなく、外的にあるもの、集合的にあるものだということがいえないだろうか。同じハードディスクに記憶された情報をみんなで共有するようなもの。つまり、個々の自我にしても、個の内部にあるというよりは、集団の場のなかに存在しているのだということもいえないだろうか。だから、「赤信号みんなで渡れば恐くない」、つまり、みんなで決めれば恐くないし、みんなで忘れれば恐くない。記憶は場所なのだから、その場所を抹殺すればそれで澄む。「禊ぎ」をすれば「なかったこと」になってしまう。

 さて、アカシックレコードというのがあり、そこにはあらゆることが記録されていて、それなりの能力があれば、それを読み出すことができるということだが、そういう意味では、時間と空間というのは、それを読み出す意識によってつくられるものだということができる。アカシックレコードがあるのは、時空の統合された「場所」。しかしそれは、「なかったことにする」ということはもちろんできない^^;。

 

 

風のトポスノート 127

システムの囚われからの解放の可能性


1999.1.12

 

 「インターネットの普及とともにヴァーチャルVSリアルという図式はほどんど意味をなさなくなった」という金子さんの認識も、まったく正当です。ただ、先ほどもちょっと言いましたように、「活動」ということを主にして考えれば、かえって、リアルのほうが余分なものを含んでいることになるのです。また、「インターネット社会においては、グローバルな標準化が進むことは世界をのっぺりさせるというより、個人や小さなグループの声がより広く届く可能性を拡げるものになる」とは考えられないか、という問いかけを、金子さんからいただきました。この問題については、切実なメッセージを自分の発信する情報に込められるか否かで、その効果は反対なものになると私は思うのです。こんなことをいうと、精神主義に聞こえるかもしれません。が、ここでも、要は、活動本位に考えるかどうかの違いなのです。

 それから、「インターネットにおける肉体性の欠如によるいたずら」の横行というのは、たしかに切実な問題です。(中略)インターネットは、すべてにつけて可能性が大きいだけに、そのコミュニティは、その分だけ高度に、自己浄化能力をそなえる必要があります。

 自己浄化能力が必要なのはリアルな世界や社会でも同じですが、インターネット社会のいちばん大きな問題点は、自己の行為を自分自身に立ちかえらせることなく、ほとんどフリーハンドで悪を犯せることでしょう。私は、現代社会のなかでのいろいろな悪を考えてきて、今の社会の諸現象にも妥当する悪のとらえ方を、模索してきたのですが、インターネットでの悪をも考慮に入れようとすると、その上に新しい問題が出てきます。いちばん大きな問題は、金子さんも指摘なさっているように、オープンメディアとしてのインターネットにおいて、果たして、能動的異端の成り立ちうる余地があるか、ということです。一見ほとんど、否といわざるをえないようにみえます。しかし、話をひっくり返すようですが、オープンメディアは、原理的にオープンであることがかえって画一性を生むことが多でしょう。しかも、創造性や活動性は、画一性とたたかい、それらを打破するところに生じる。だから、オープンシステムとかオープンメディアとかいうことをあまり形式的に考えないほうがいいのではないか。そのほうがかえって、システムの囚われから自己を解き放つ可能性が開けるのではないか。そのように私は思うのです。

(インターネット哲学アゴラ「弱さ」第1回インターネットと〈弱さの思想〉中村第1通信 →金子郁容)

 インターネットのこうした可能性について考えることが多くなっている。それを、ヴァーチャルVSリアルという図式でとらえることはできないだろうし、肉体性が欠如しているがゆえに、フェイス・トゥ・フェイスによるコミュニケーションに比べて限界づけられているということを単に一面化してとらえることはもはやできないのではないかと思う。

 まず、可能性として「個人や小さなグループの声がより広く届く可能性を拡げるものになる」ということは何よりも強調されねばならないだろう。ぼくのような半ば厭世的な傾向のあったりするタイプでも^^;、こうして日々こうした場をつくることで細々とでもコミュニケーションによる可能性を広げることが可能になる。商品を購入するにしても、接客による良さはないかもしれないが、その代わりに通常は得られにくい情報も得る可能性が飛躍的に増大するし、販売者との密なコミュニケーションの可能性は別のところで高まる。

 そこで重要なのは、「要は、活動本位に考えるかどうか」ということに尽きるのではないかと思う。インターネットは「活動」によって飛躍的にその可能性を増大させてゆく。しかし、またその際には、「個」と「自由」の副産物との闘いも待っている。「フレーミング」による罵倒合戦のようなものもそれである。顔と顔を合わせることで最低限守られているマナーも、「自由」の増大とともに、「個」の自覚次第ということになるからだ。だから、そこに新たな積極的な「悪」も浮上してきてしまう。

 けれど、「活動」が自覚的な「自由」に裏づけられることで、その可能性を飛躍的に増大させることが可能になるわけである。そのことで、システムという閉鎖系ゆえの「囚われ」から解放される可能性もまた開けてくるのではないかと思う。組織なきネットワークによる「画一性」からの解放である。インターネットの場合、創造性や活動性も「個」の意識を如実に反映したものとなる。その「自由」の可能性も同様である。

 

 

風のトポスノート 128

固定化したシステム打開への鍵


1999.1.15

 

 前回に私が少々苦し紛れに言った「能動的異端」という人間のあり方も、いまの話の文脈でいえば、大勢としての「同一性」の支配に対する「自己性」の回復の企てであることになります。また、この「能動的異端」という私のとらえ方の背景には、「悪」についての二つの考え方があります。一つは、「関係の解体」をもって悪とするスピノザの説であり、もう一つはグノーシス 主義とくにE・シオラン の『悪しき造物主』に見られる、エネルギーに充ちた現状打破の力としての悪です。悪について考えるときに私がヒントにしたこの二つの考え方が、インターネット時代に大きな意味を持つのではないかと考えるようになったのは、比較的最近のことです。というのも、「関係の解体」とは、デジタル文明の体現者としてのインターネットのもたらす顕著な働きであり、「エネルギーに充ちた現状打破の力」の方は、意味の希薄化に抗し、手応えのある「自己性」を取り戻す鍵であると思うからです。

(インターネット哲学アゴラ「弱さ」第1回インターネットと〈弱さの思想〉中村第2通信 →金子郁容)

 固定化された「関係性」の桎梏は、人を窒息させてしまうか、そうでなければその「関係性」を絶対化することで、自分をそのシステムのなかの有能なロボットにしてしまう。

 「関係の解体」は、その関係性によるシステムにとっては「悪」であるが、そのアクティブさは、「現状打破」のための特効薬となる。演劇における「異化」の概念があるが、自動化してしまい、「意味」が希薄になってしまったものに新たな意味を付与することでもある。

 人は楽になろうとしてロボットにもなり、また自分が自分であることを確かめようとして、ロボットとしての自分から逃げ出そうともする。

 「善い子」になりなさいという教育で、「善い子」を演じようとする子どもと「やってらんねえや」とばかり、「悪い子」を演じようとする子ども。そういえば、ずっと以前、萩本欽一の「欽どん」という番組があり、「良い子・悪い子・普通の子」というコーナーがあったが、ああしたかたちで見せられると、それらが演じられたものだということが対象化できたりもするのだけれど、それは「コント」という通常の関係性からは外れた場所からアプローチするからだといえる。もっとも、「欽どん」の世界が次第にその作られた笑いゆえに笑えなくなってきたように、関係性はどんなところでもシステム化へと向かう。

 常に「関係の解体」をシステムのなかに組み込んでおくことは、とてもむずかしいということを考えさせられる。だから、そこに「関係の解体」としての「悪」というウイルスを無意識のうちに求めはじめるようになるのではないだろうか。

 しかし、システムの構築〜固定化〜その打破・・・という繰り返しを続けていくというあり方よりも一歩進めて、何度も問題にしているような「組織なきネットワーク」というあり方の可能性を試すことの必要性がやはり求められてきているように思う。

 

 

風のトポスノート 129

「切実な欲求」というアポリア


1999.1.18

 

ソクラテス そうなんだ、そこなんだ。「このほうが哲学に入っていきやすい」、いきやすいも何も、切実な欲求によって問い始めてしまった人に、なんで今さら入門が必要なわけかね。入門が必要なような人は、もとから哲学が必要な人ではないのだ。切実な欲求はあらゆる人がもつわけではない。僕が、哲学を難しいと思うのは間違っているが、決してやさしいものではないと言ったのは、その意味だ。なるほど、自分が居て世界が在り、それについて考える限り、哲学は万人に開かれている。しかし、だからと言って哲学が万人に可能ではないわけが、それだ。知りたいという欲求を切実にもつこと、実はこれが難しいのだ。自ずから問いが立ってしまうこと、本当はこれが最も難しく人を拒む入口なのだよ。

(池田晶子「悪妻に訊け/帰ってきたソクラテス」新潮社/P20)

 「切実な欲求はあらゆる人がもつわけではない」。これは、哲学だけではなく、まさに神秘学にこそあてはまる。

 「切実な欲求を持て!」と命令したところで持てるようなものではないし、そんなことは命令するようなことではない。

 切実な欲求を持ったときには、もはや「入門書」のようなものはいらない。「入門書」は切実な欲求がないからこそ必要なのだけれど、そういう人にはそういう「入門書」など何の役にもたたない。

 だから、だれにでもわかる「哲学」、だれにでもわかる「神秘学」は自己矛盾を抱えているということがいえる。その「だれにでも」というのは、「切実な欲求」を持っている人だけにしかあてはまらないのだから。「切実な欲求」を持つことさえできれば、「道」を歩いていることになるが、それがないとしたら、「道」は存在しない。知りたいと思うからこそ、それを探そうとする。知りたいと思わなければ、それは探求の対象ではない。

 「求めよ!さらば、与えられん。」つまり、求めなければ、与えられることは決してないのだ。求めようとしさえすれば、その切実さに応じて、「それ」はいつか必ず与えられる。

 

 

風のトポスノート 130

「驚き」から


1999.1.19

 

ソクラテス そう、「考える」ということを、「解釈する」ことだと思っている人が多い。歴史解釈、世界解釈、人生解釈、いろいろある。まさしく様々なる意匠だね。でも、僕は訊きたい。解釈して、納得して、それで?って。やっぱり、歴史も世界も人生も、そこに在るじゃないか。厳然として在るじゃないか。その在ることに驚いて、人は考え始めるのであって、順序が見事に逆立ちしているよ。

(池田晶子「悪妻に訊け/帰ってきたソクラテス」新潮社/P30)

 そう、その頃のぼくはすべてを「解釈」だと思い込んでいた。

 だから「考える」こともいかにカッコ良く最新流行の服を着せて難しい用語で煙に巻くことが重要だった。

 もちろんそれはそれなりに納得していた部分はあったのだけれど、それでどうしたといわれれば、それだけのものに過ぎなかった。ぼくはそれを生きていたわけではなかったのだ。

 大事なのは、「やっぱり、歴史も世界も人生も、そこに在る」、そのことに他ならなかったのに、そのことをいかにごまかして自分に気づかせないかということに一所懸命だった。

 そうでなければ、あまりにも人生しなければならなかったから。

 今思い出して見ると、なぜかぼくは大学の卒業論文の最後に、単なる知識的な学問や「解釈」への決別として、「解釈」を去り「世界へ出る」ということを宣言するようなかたちをとった。そして、「世界」で「遊戯」しなければならない、とした。それは半ば自分でもなぜそういうことを書いたのかその頃はわからなかったことなのだけれど、おそらく、ぼくのなかで、「何かが違う!」と叫んでいたのだろう。

 だって、「世界」は今ここにある。自分という存在も今ここにいる。そのことに驚くために、いかに長い道のりを経たことか。そのときはまだ、本当に驚いていたわけではなかった。まだそれを予感していただけなのだ。

 ぼくが本当に驚いたのは、おそらくシュタイナー体験かもしれない。そうして、ぼくは考え始め、「やっぱり、歴史も世界も人生も、そこに在る」ことの前で驚き続けることになった。そこに到るまででも35年ほどかかった。今は「解釈」して遊ぶのではなく、「驚いて」「考えて」遊んでいる。あまりお洒落ではないかもしれないし、御利益も少ないかもしれないけれど、これがめっぽう面白い。

 


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