風のトポスノート111-120

(1998.11.30-1998/1998.12.11)


風のトポスノート 111●時熟

風のトポスノート 112●大きなポジ

風のトポスノート 113●世界の広がり

風のトポスノート 114●「良いこと」を信仰すること

風のトポスノート 115●煩悩を抱きしめる

風のトポスノート 116●自分の中に悪を抱えること

風のトポスノート 117●自由が恐い

風のトポスノート 118●選良意識

風のトポスノート 119 ●言の葉の色

風のトポスノート 120●光の旅

 

 

風のトポスノート 111

時熟


1998.11.30

 

 私なども自分と同年輩、さらには年下の友人、知人たちが次々に亡くなっていくような年齢になって、「いかに生くべきか」よりも「いかに死ぬべきか」の方がずっと切実になってきましたが、そのような私でも驚いているのは、日本がいつの間にかひどくバランスを欠いた「老人国家」になってしまったことです。日本人の「平均寿命」が長くなり、社会全体が急速に「高齢化」したことに私は不安を感じているのです。そのためもあって、『術語集2』の「老い」の項では、このような趨勢から社会そのものがただ単に「老衰」しないように、「老熟」「老実」「老成」などのことばを掘り起こすことを提言したのです。

 そして、この「老人国家」と表裏をなすのが、「若者国家」ですが、現在の日本において「SMAP」やさらには「ジャニーズ Jr」に代表されるミュージシャンたちのように、若者たちがいきいきと活躍していますね。そのことについて、やっかみも少しはないわけではありませんが、それより心配しているのは、日本の文化や社会が、極端な「旬」好みというか、世阿弥 いう「時分の花」好みというか、ゆっくり成熟して実っていくことに乏しいことです。この頃ではそれは、木の芽時の瑞々しさが一番美しい日本の風土のためではないか、などと考えたりしているのです。(中略)

 日本の場合に「若さ」が死ぬまで強調されるような時代は、いつまで続くと思うか、とのご質問ですが、私の見るところ、あるいはむしろ危惧するところを申し上げれば、日本経済の長期低迷とも重なり、意外に早く、「若者文化謳歌」「生命謳歌」の時代は終わって、みんなが今以上に「死」のことばかり考える時代が来そうな気がするのです。現在でも、すでに「自殺の激増」や「原因不明の死」などにその徴候は現われていますが、それらがもっと増えると思うのです。

(インターネット哲学アゴラ「死について」第2回老いと死/第3通信・中村雄二郎→小松和彦)

 「若者文化謳歌」「生命謳歌」と「自殺の激増」や「原因不明の死」は、おそらく同じコインの裏表なんだろう。

 時間は、いつだって今。だから、その今をどうとらえるかということによって、今を謳歌するか、それとも今に絶望するかということ。自分が今「旬」であればよし、そうでなく未来の自分に託せるだけのものがなければその今に絶望してしまう。

 では、そうした謳歌と絶望という振り子ではなく、常に充実した「今」であるためにはどうすればいいのだろう。若き時代の「今」も、歳を重ねたそのときの「今」もまた、そのあり方は違え、密度の濃い生であるためにはどうすればいいのだろう。

 太古には、歳を重ねるということは、そのままで叡智の蓄積ということを意味していたという。長老という存在の重みもそこにあった。

 しかし今や歳を重ねるということは、そのままでは、単に身体の衰えを意味するにすぎなくなった。まさに、「老衰」への一直線になってしまう。

 だから、「そのまま」であってはならない。「今」という生の時間を年輪のように重ね、それを叡智に裏付けられた「今」へと高めていかなければならない。それは過去を振り返り追憶するというセンチメンタリズムではなく、自分のなかに、3歳の子供も20歳の若者も存在しているということ。

「時熟」。時間をじっくりかけて熟していくことでしかできないことがある。すぐに分かりやすい結果、成果がでるのではなく、今自分のやっていることが確実にいつかは熟して実るのだとかいう保証はない。だから、「今」そのもののの密度を高めるということとそのときどきの「今」を種を撒く行為そのものとすることを同一化すること。

 時間はだれにとっても均質なものではない。それはそれを生きる今そのもののあり方でまったく異なったものとなる。時熟というのは、若いときにもその「今」の密度があり、歳を重ねてもその「今」の密度が可能となるということだろう。

 「いかに生くべきか」と「いかに死ぬべきか」は時熟において同一化する。

 

 

風のトポスノート 112

大きなポジ


1998.11.30

 

村上/僕は思うんですが、今の世界は何かおかしい。どこか間違っているという感じ方は、ある意味では正常です。学校が嫌い、会社が嫌い、これは当たり前ですよね。僕だってそんなもの嫌いでした。だからそういうところから離れて精神的な領域を深めたいというのは、それ自体動機としては間違っていないでしょう。だから「そんなことをやめて学校に行きなさい。会社に行きなさい。それが正しいことです。」なんて僕には簡単には言えない。ただしそのようなネガを飲み込むより大きなポジがあれば、それはうまく行くと思うんです。言い換えれば物語を飲み込んでいく、より大きな物語ということです。結局のところそれは善悪の勝負というよりは、スケールの勝負になるんじゃないかと思います。

(村上春樹「約束された場所で」文藝春秋/P228)

 安易なポジの物語を見抜く目を持たなければならないと思う。社会は汚い、自分だけは純粋でいたい、「精神的な領域を深めたい」、そういう動機から、安易なポジの物語を受け入れてしまうことがある。

 ある意味では、それは最初に読んだ物語が面白かったものだから、もうそれ以外の物語はそれより面白くないと思いこんでしまうようなもの。その物語がその人のなかで絶対化されてしまうものだから、今度はその物語の素晴らしさをほかの人にも吹聴しようとする。そしてそのほかの人がいくらこんな物語もあるよと勧めてももう耳を貸すことはなくなってしまっている。だって、「私の物語は最高」なのだから。そして「私の物語を汚い社会は受け入れてくれない」ということでますますその絶対化された物語に隔離されるようになっていく。

 ある意味では、その人のネガはそう大きなものではなかったのだ。だから最初に読んだ絶対的な物語で満足してしまう。ネガが大きければ大きいほど、そのネガの物語を飲み込めるだけの大きなポジの物語が必要になる。だから安易なポジの物語を絶対化することでは満足しない。たとえその物語を面白いと思っても、自分のネガをもっと呑み込んでくれるようなもっと面白い物語を探そうとするだろう。

 おそらくぼくにとってはそれがシュタイナーの神秘学だったんだろうと思う。それは、ネガを否定することなく包み込んでしまうほどの大きな物語だった。大きな物語すぎて、いまだに全貌がわからないほどの^^;。とはいえ、ぼくのすべてのネガを呑み込んでくれるとは思えない。だからホームページも「シュタイナー」だけをテーマにしてはいない。あくまでも、ホームページのなかに包み込まれるようなものになっている(^^)。

 どんなに素晴らしいポジの物語でも、それを絶対化してしまうことで、それは容易に組織化し、その組織そのものが物語を管理するようになる。そしてその物語を読まない人にまで「この物語は素晴らしいですよ」を連呼しながら、組織は純粋化しながら自己増殖していくようになってしまう。

 物語を読む力をつけること。そして物語に支配されない力をつけることだ。

 

 

風のトポスノート 113

世界の広がり


1998.12.2

 

村上/僕は意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追求するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。そういう文脈で、僕は彼らの語る宗教観をある程度正確に理解できたという気がします。でも違うところは、そのような作業において、どこまで自分が主体的に最終的責任を引き受けるか、というところですよね。はっきり言って、僕らは作品というかたちで自分一人でそれを引き受けるし、引き受けざるを得ないし、彼らは結局それをグルや教義に委ねてしまうことになる。簡単にいえばそこが決定的な差異です。

 話をしていても、宗教的な話になると、彼らの言葉には広がりというものがないんです。それでね、僕はなんでだろう、なんでだろうと、それについてずっと考えていたんです。それで結局思ったんですが、僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって……というやつですね。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の箱がああるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解が我々の世界に陰を与え、深みを与えているわけです。音楽でいえば倍音のようなものを与えている。ところがオウムの人たちは、口では「別の世界」を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板なんです。あるところで広がりが止まってしまっている。箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります。

(村上春樹「約束された場所で」文藝春秋/P228-229)

 自分が世界だと思っているものが世界になる。だから世界の広がりをつくっているのも自分である。

 自分が狭い箱のなかに閉じこもってその箱のなかの世界こそが真実の世界だと思っているならば、その人はその箱の中の世界以外を見ることはない。たとえその箱の外に出ざるをえないとしてもその人にとってその世界は真実の世界ではないのだ。真実は箱のなかの世界にある。

 社会のなかにさまざまな矛盾を感じそのなかで生きることを無意味なことであると思い真実を探す。そして真実を見つけた・・・と思う、思いこむ。それがある種の霊的体験のようなものを伴っているときそれはとりわけ強烈な「真実」の体験となり、それ以外が「真実」ではなくなってしまう。

 かつてニーチェが真実などというものをつくるものだから真実でないものがつくられてしまうと皮肉に述べたことがこういう場合にあてはまる。

 その「真実」は箱のなかで大切に守られる。そしてその「真実」を多くの人にわかってもらいたいと思い「ここにこそ真実があるのだ」と告げることに生き甲斐さえ感じるし自分は「真実」に気づいた人だという実感は誇らかでさえあるだろう。そしてその箱の中の世界を真実の世界であるとする限りにおいてその世界に破綻はない。

 しかいここにこうして生きているということはいったい何を意味しているのだろうか。「真実」と「真実でないもの」、というように分けられるのだろうか。世界を二つに分けたとき、世界は閉じてしまわないだろうか。

 今ここに生きているということそのものがあらゆる広がりと深さを内包しているのではないのだろうか。そしてそれをこの「私」が引き受けているのだということ。グルや教義などに委ねることなく引き受けているのだということ。花の香を楽しみ、紅葉を愛で、人を愛し、また悩み、苦しむ・・・。

 「真実」と「真実でないもの」と分けるのではなくそれらすべてを自分として引き受けていくこと。そこに「生きる」という意味も「死ぬ」という意味もすべてがあるのではないだろうか。

 

 

風のトポスノート 114

「良いこと」を信仰すること


1998.12.3

 

村上/オウムの人に会っていて思ったんですが、「けっこういいやつだな」という人が多いんですね。はっきり言っちゃうと、被害者のほうが強い個性のある人は多かったです。良くも悪くも「ああ、これが社会だ」と思いました。それに比べると、オウムの人はおしなべて「感じがいい」としか言いようがなかったです。

河合/それはやっぱりね、世間を騒がすのはだいたい「いいやつ」なんですよ。悪いやつって、そんなに大したことはできないですよ。悪いやつで人殺ししたやついうたら、そんなに多くないはずです。だいたい善意の人というのが無茶苦茶人を殺したりするんです。よく言われることですが、悪意に基づく殺人で殺される人は数が知れていますが、正義のための殺人ちゅうのはなんといっても大量ですよ。だから良いことをやろうというのは、ものすごいむずかしいことです。それでこのオウムの人たちというのは、やっぱりどうしても、「良いこと」にとりつかれた人ですからねえ。

(村上春樹「約束された場所で」文藝春秋/P233-234)

 「良いこと」というのはいったい何だろう。「良いこと」ができることで「悪いこと」が生まれる。

 ぼくのなかには「良いこと」も「悪いこと」も住んでいてそれらは互いに戦っていたり憎しみ合っていたり多くのばあい、なれあっていたりもする。

 「社会」のなかで生きていると、たてまえとしての「良いこと」や「悪いこと」が一応はあるけれど本音としての「良いこと」や「悪いこと」、それから場合によってそれらが混乱してしまったりすることもある。ぼくらは、そうしたたてまえからも本音からも、混乱からも多くを教えられる。

 でも、世の中にはいろんな人がいて、自分のなかの「良いこと」だけを見たいという人もいる。しかも往々にしてたてまえと本音と混乱のちがいなどをひとつにしてしまう、つまり絶対化してしまいたいと思うらしい。

 その絶対化はある種の人格を形成するように思う。「良いこと」が絶対化されるとけっこうコワイ。絶対化された「良いこと」は、そうでないことが気になってしかたないらしくすべてを「良いこと」にしてしまおうとするのだ。

 だから「良いこと」をしようと思うときには気をつけなければならない。「悪いこと」をしようとすると人はどうも深いところで羞恥心があったりそのことで意識に陰影ができたりもしたりするんだけど、「良いこと」を信仰する人にはそんな陰影のことなんかわからない。「純粋であること」などということをほめたたえたりもする。

 ぼくは(そんなにたいしたことじゃないけど)自分でも「悪いことしてるなあ」とか思うことなんかがあって、そのことで「良いこと」もしなくちゃあとか思ったりして、そこらへんでバランスをとっているように思う。

 シーソーのバランスが最初から片方に寄りすぎているとその反動はガツーンとくるんだろうな。

 

 

風のトポスノート 115

煩悩を抱きしめる


1998.12.5

 

村上/彼らに言わせると、そういう物欲みたいなものが人間の煩悩を膨らませて、人間を消耗させているということになりますね。だから煩悩を捨てて純化しなくてはならないんだと。

河合/いや、だからね、煩悩があって消耗しないことには宗教にならないんです。煩悩を捨てたら、そんな人はもう仏様になっとるんやから。

村上/煩悩を捨てるのは修行じゃないんだ。

河合/うん。そういうのはもう仏であって、人間の修養やないですよ。でも僕らは神や仏やないからね。

(略)だからこのあたりに出てくる(オウム)の人は、煩悩を抱きしめていく力がちょっと少ないんです。残念ながら。まあ違うほうから光を当てれば、我々凡人よりは純粋だとか、ものをよく考えているとかいうふうには言えます。言えるんですが、それはやっぱりものすごく危険なことなんです。この人たちが仏の国に行っておられれば、それはそれでいいんだけど、この世に出ておられるかぎりにおいては、それはなかなか大変ですわ。だから人間としてこの世に生きている限り、煩悩から自由になることはやっぱりほとんどできないんじゃないかと、ぼくは思いますけれどもね。

(村上春樹「約束された場所で」文藝春秋/P235-236)

 人がム(無)になるのが仏だとしたら、そんな仏の教えとしての仏教なんかいらない。まさに、人でなし。

 オウム真理教の元信徒の話を読みながら気づかされるのは自分たちは本来の「仏教」をやってるんだという発言である。その「仏教」というのが、ただ煩悩を捨てて悟る(解脱する)というものであるとするならば、そんな「仏教」は人のためのものではない。仏教には「煩悩即菩提」というのが重要なはずなのだけれど、それだと「無煩悩即菩提」ということになってしまう。

 この世に生きているということは煩悩を抱えて生きるということ。その煩悩を要らないものだとするのはこの世を否定するということ。この「汚れた」世を否定するための「解脱」。いわば逃避行。その逃避行を悟りのヒラルキーで自己正当化する宗教団体。自分の煩悩から目を背けないで生きること。そのことで煩悩そのものを変容させていこうとすること。この世でできることはそれしかないのではないかと思う。とくにぼくのような凡人は^^;。

 煩悩もそれを抱きしめることで、その愛しさがわかる。煩悩を愛しく思えないで、それを捨て子してしまうのはやはりあまりに「愛」がなさすぎるのではないか。自分の煩悩への「愛」がなければ、人の煩悩への「愛」も感じることはできないだろう。

 

 

風のトポスノート 116

自分の中に悪を抱えること


1998.12.5

 

河合/だからね、本物の組織というのは、悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです、組織内に。これは家庭でもそうですよ。家でも、その家の中にある程度の悪を抱えていないと駄目になります。そうしないと組織安泰のために、外に大きな悪を作るようになってしまいますね。ヒットラーがやったのはまさにそれですよね。(中略)

河合/これからは、ちょうちょっと人間も賢くなって、どんな組織にせよ家庭にせよ、ある程度の悪をどのように抱えていくかということについて、もうちょっと真剣に考えたほうがいいと思いますね。それをどのように表現し、どのように許容していくかということです。

村上/僕はオウム真理教の一連の事件にしても、あるいは神戸の少年Aの事件にしても、社会がそれに対して見せたある種の怒りの中に、なにか異常なものを感じないわけにはいかないんです。

それで僕は思ったのですが、人間というのは自分というシステムの中に常に悪の部分みたいなのを抱えて生きているわけですよね。

河合/そのとおりです。

村上/ところが誰かが何かの拍子にその悪の蓋をぱっと開けちゃうと、自分の中にある悪なるものを、合わせ鏡のように見つめないわけにはいかない。だからこそ世間の人はあんなに無茶苦茶な怒り方をしたんじゃないかという気がしたんです。

(村上春樹「約束された場所で」文藝春秋/P243)

 自分を映し出す鏡の前に立って、その鏡に映し出されるものを自分ではないと思っている人を想像してみよう。

 笑顔には笑顔が映り、怒りには怒りが映し出される。

多くその鏡には「自分ではない」と思いこんでいるものが「影(シャドー)」のように映し出されてしまう。

 その影を見て「滅茶苦茶な怒り方」をするということは、自分で自分を見て滅茶苦茶に怒っているということなのだけれど、それを自分だとは思うことができない。

 人は自分の影でないものに対してはあまり感情的にならないですむのだけれど、それが自分の影であるばあい、それに対して平静になることは難しい。どうしてもそれに過剰反応してしまう。

 その過剰反応を鎮静させるのが、いわば「反省」という意識魂的な在り方なのだけれど、自分で自分の意識に無自覚な場合、その影は、さも自分を害する他者であるかのように肥大してゆく。

 そういう視点で自分を、そして人を観察してみるとかなり興味深いものが得られるのではないかと思う。

 

 

風のトポスノート 117

自由が恐い


1998.12.7

 

村上/この前どこかで調査をやっていてそれを読んだんですが、日本人に好きな言葉を選ばせると、「自由」というのは四番目か五番目くらいなんですってね。僕はなんといっても「自由」がいちばんなんですが、日本人のいちばん好きな言葉は「忍耐」とか「努力」なんですよね。

河合/ははは、それはそうでしょう。やはり日本は「忍」が第一やないですか。僕なんか忍従ばかりやっています。僕は平成の忍者です(笑)。

村上/でもそういう意味では、日本人というのは本当に自由を求めているのだろうかって僕はときどき疑問に思ってしまうんですよね。とくにオウムの人たちをインタビューしていると、それを実感しました。

河合/いや、日本人にはまだ自由というのは理解しにくいでしょう。「勝手」っちゅうのはみんな好きやけど。自由というのは恐ろしいですよ。

村上/だからオウムの人たちに「飛び出して一人で自由にやりなさい」と言っても、ほとんどの人はそれに耐えきれないんじゃないかという印象を持ちました。みんな多かれ少なかれ「指示待ち」状態なんです。どっかから指示が来るのを待っている。指示がないというのは「自由な状態」ではなくて、彼らにとってはあくまで暫定的な状態なんです。

(村上春樹「約束された場所で」文藝春秋/P253-54)

 「忍耐」は「忍従」という「従」が示しているように何か外的なものに対して従う、耐えるということを意味している。そこには外的な「指示」というか要請がある。とても困難な課題ではあるが、必ずしも自分で考えなくても忍耐はできる。

 組織というのは往々にして、そういう忍耐を美徳とするところがあり、逆に自分で考えるということに対しては、組織の考え方(つまり、集合魂)に沿わない限り危険視されてしまう。つまり、個があってその共同体としての組織というのではなく、まず組織があってその一部分としての個ということになる。歯車がなければ組織として成立しないということはいえるが、歯車はかけがえのないものではなく、スペアがある。

 自由というのは、そういう意味でスペアがきかない。自分をスペアとして位置づけないことでしか自由は成立しない。スペアは組織のなかで勝手にふるまうこと(機能不全)はできるが、自由にふるまうということはできない。ある意味では、自由は組織全体をそのままひきうけなければならないからだ。それは、かつては集合的なかたちで顕現していた自我が個として成立するということでもある。

 「一人で自由にやりなさい」ということは、組織の一部の機能を有能にこなしなさいということではなく、自分一人が組織の全部の機能を個として成立させなさいということでもある。それは組織ほど有能ではないとしても個そのものを総体としての組織として機能させる必要があり、当然のごとく、あらゆる意志決定を自分でするということになる。

 だから、「自由というのは恐ろしい」。「忍耐」するほうがずっと恐くない。しかし、ある意味では、自由のなかに忍耐は内包されている。忍耐のない自由は往々にして「勝手」へと向かいかねない。そして待つことができるという忍耐が必要とされている自由は、自由こそが「愛」の種子であるということもできる。自由は自らの由への探求であり、愛は他の由への探求なのだから。

 

 

風のトポスノート 118

選良意識


1998.12.7

 

彼ら被告(実行犯)のほとんどは、今となってはグルとしての麻原彰晃に失望を覚えているようだった。尊師とあがめていた麻原が最終的にはインチキな宗教指導者に堕して、自分たちがその狂った(としか思えない)欲望のために都合良く利用されていたことを認識し、その点については−−つまりその指示に従って深刻な現世的犯罪を犯してしまったという事実については−−深く反省し後悔していた。(略)しかしそれにもかかわらず彼らは、自分たちが人生のある時点で、現世を捨ててオウム真理教に精神的な理想郷を求めたという行為そのものについては、実質的に反省も後悔もしていないように見受けられる。少なくとも私の目にはそう見える。

そのひとつの現われとして、彼らは法定でオウム真理教の教義の細部についての説明を求められると、しばしば「これは一般の方にはおわかりになりにくいでしょうが」という表現を用いた。そのような発言を耳にするたびに私は、そこにある独特のトーンから、この人たちはなんのかんの言っても、自分たちが<一般の方々>よりは高い精神レベルにあるという選良意識をいまだに抱き続けているのだなという印象を受けないわけにはいかなかった。

(村上春樹「約束された場所で」文藝春秋/P259-260)

 いい成績をとる、いい学校に入る、いい会社に就職する・・・そうした考え方のバリエーションはあらゆるところに見られる。それは自助努力を可能にするものではあるが、副産物として「選良意識」ということが出てくることがある。あくまでも、その「いい」というのは、特定の観点においてだけ「いい」ということなのだけれども、その「いい」が、すべてにおいて「いい」ということだ、というふうに拡大解釈されてしまう。

 とくにそれが宗教的なものになると、それは著しく絶対化されてしまうことがあるように思う。ある人が布教しようとしているとする。自らが信じている宗教を絶対的価値とし、それを「まだ信じていない」人にその価値を押し売りするというわけである。そこには「信じていること」と「信じていない」こととの間に大きな「差」があるという大前提がある。神や仏のまえでは平等である、というのであればいいのだけれど、同じ人間であるにもかかわらず、「位階」が生じてしまうことがある。

 もちろん人には、いろんな側面があり、その特定の側面において優れたところもありまた劣ったところもあるわけなのだけれど、その特定の部分が絶対的価値として、高次か低次かということになってしまう。超能力信仰とかいうのがそれに結びつくと特に危ない感じになる。

 自分を「一般の方々」ではないと思って疑わない人というのはけっこういるものだけれど、やっぱり人は人だから、少しぐらい特定の側面で優れていても、また劣っていても、「一般の方々」に違いはないと思う。

 とくに、霊的な観点についてとりあげていく場合にはそのことはよくよく注意が必要だと思う。もちろん通常でも、自分を人より高級な人間だと思っている方もけっこういるんだけれど・・・。

 

 

風のトポスノート 119

言の葉の色


1998.12.9

 

 まだ粉雪の舞う頃だった。小倉山のふもとの方まで行ったとき、桜の木を切っている老人に出会った。その桜の枝をいただいて帰り、炊き出して染めてみたら匂うように美しい桜色が染まった。(略)

 それから桜で染めたいという思いを持ち続けていたのだが、桜切るばか、梅切らぬばか、といわれているように、桜はなかなか切る場に行き当たらない。九月の台風の頃、近江の方で桜を切るからとしらせをうけたので飛んでいった。しかしその桜から出た色は匂い立つことがなかった。色はほとんど変わらずベージュがかったピンクだったが、色に艶がなかった。なぜだろうと思ううちに、植物にも周期があって、春を迎えるために桜が幹の中に、枝の先々まで花を咲かせる準備をしていたのだということに気がついた。

 花を咲かせる前に私がいただいてしまったのだと思うと、ああ、あの色こそ桜の精なのだと深く思いあたった。それから気をつけていると、梅も刈安も花の咲く前、穂の出る前の色に精気がある。(略)

 あるときその話を大岡信さんにはなしたところ、大岡さんは詩人の豊かな感受性でそれをとらえ、「言葉と力」という文章にまとめてくださった。美しい言葉、正しい言葉というものが、口先だけの、語彙だけのものではなく、それを発する人間全体の世界をいやおうなしに背負わされ、そのささやかな言葉のひとつひとつに人間全体が反映する、と。

 花びらから美しい桜色を染めるのではなく、あのゴツゴツした皮や枝からだということも、大岡さんには意外だったようだ。花は咲いてしまったのだから、そこからは色は出ないのである、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、桜の花びらの色となるのだから。言葉の世界のできごとと同じではないか。

(志村ふくみ「色を奏でる」ちくま文庫/P18-20)

 自分を炊き出して染めてみたら、どんな色になるのだろう。身につけているものや所有しているものやひとの評価、そして自分がすでに表現してしまったものなどからではなく、自分自身の「ゴツゴツした皮や枝」から出る色である。果たして、その色に「精気」はあるのだろうか。

 かつて「美しい言葉」とか「正しい言葉」とかに対しては半ばひねくれてアンチの姿勢しかなかったのだけれど、その「美しさ」や「正しさ」が、その反対のものを排除するのではなく、それらをも含んだものなのだとしたら、そういう「美しい言葉」とか「正しい言葉」、つまり「真実の言葉」を持ちたいと切に願うようになった。

 仏陀に向けられた剣や矢が、仏陀の前では花びらに変わったという美しい話があり、ヨハネ福音書の冒頭には、「神は言葉」でありその「言葉」で創造が行なわれたということが書かれてある。シュタイナーによれば、人はいずれ喉で生殖を行なうようになるという。まさに、「言葉」が創造そのものになるということだろうか。

 そうしたはるかな未来に到達するであろうような果てしない「言葉」はともかくとして、自分が表現しているこうした「言葉」は、まさに自分を炊き出して染めてみた色に当たるのだろう。そう思えばとても恐いことなのだけれど、隠しても仕方がない。隠すことができないからこそ、自分の内にある「精気」について深く反省しそれを貯えることを怠りなきよう努力しようというものである。

 

 

風のトポスノート 120

光の旅


1998.12.11

 

光が現世界に入りさまざまの状況に出会うときに示す多様な表情を、色彩としてとらえたゲーテは「色彩は光の行為であり、受苦である」といった。この言葉に出会ったとき、私は永年の謎が一瞬にして解けた思いがした。光は屈折し、別離し、さまざまの色彩としてこの世に宿る。植物から色が抽出され、媒染されるのも、人間がさまざまの事象に出会い、苦しみを受け、自身の色に染めあげられてゆくのも、根源は一つであり、光の旅ではないだろうか。

生命の源、太陽から発した光が地上を美しい色彩で覆う日もあれば、思いがけない障害をうけて、影となり、曇りとなり、闇に達することもあり、地中にあって鉱石を染め、草の根に光を宿すこともあるのだと。

(志村ふくみ「色を奏でる」ちくま文庫/P85-86)

 人間は、神の「行為」であり、「受苦」なのかもしれない。

 なぜ人間は人間なのだろう。人間である必要があるのだろう。そんなことを考え始めたときがあった。最近流行の論でいえば、「地球に人間さえいなければ地球環境は破壊されずにすんだのに」。そんな人間がなぜ存在「しなければならないのだろう」と。

 神がすべてのすべてであるならば、神以外の存在はないはずだ。世界がなければ「苦」など存在しようもない。それなのになぜこうして「世界」があるのだろう。なぜこうして「人間」がいるのだろう。苦しみを抱え、悲しみに打ちひしがれながら、そして世界を破壊しながら・・・。そうして自分が「世界」のなかに存在していること、「人間」として存在していることの矛盾を思っていた。

 シュタイナーの宇宙進化についての観点を知り、ようやく世界があるという謎、人間が存在するという謎について、否定的・虚無的にではなく直面したいと思うようになった。それまでの自分は、せいぜいがニーチェ風の積極的ニヒリズムしか持てなかったのだ。

 世界は存在することそのものに意味があり、人間は存在することそのものに意味がある。おそらくそれは神の自己認識のためのものであり、神の内容そのものでもあるのだ。たとえそれが闇でしかないとしても。

 私は私として、こうして世界にいて、「さまざまの事象に出会い、苦しみを受け、自身の色に染めあげられてゆく」。それをあまりにも貧しく苦しいとしかとらえられないか、逆にその豊かさの可能性そのものとしてとらえるか。その「自由」のなかで、私はかぎりなく私である。


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