風のトポスノート101-110

(1998.10.1-1998/1998.11.7)


風のトポスノート 101●いや、そのまえに私。

風のトポスノート 102●悪の意味の欠如

風のトポスノート 103●奇跡

風のトポスノート 104●悪の硬直化

風のトポスノート 105●至誠という陥穽

風のトポスノート 106●LOVE

風のトポスノート 107●偶発性の悦び

風のトポスノート 108●精神の生活

風のトポスノート 109●孤独

風のトポスノート 110●死について

 

 

風のトポスノート 101

いや、そのまえに私。


1998.10.1

 

これでいいのか日本。いや、そのまえに私。

 10月20日に、文春新書が創刊されるそうだけれど、その広告のキャッチコピーがこれ。

 とくに文春ファンだということもないし、案内されている文春新書のタイトルなどを眺めてみても、それほど読んでみたいというものも今のところのないのだけれど、このキャッチコピーには、感心した。

 この表現には、現代に生きる日本人への根源的なメッセージが含まれているような気がしたからだ.また、この文春新書のコンセプト表現として次のようなコピーも使われていた。

今こそ、自分で、考える。

 「これでいいのか日本」と宣う人は後を絶たないけれど、そういう問いかけにもっとも欠けていることが多いのが、「自分を勘定にいれない」ということのように思う。つまり、認識主体への反省的意識がまずもって欠けていて、すぐに集合的な無意識に左右されてしまいがちだということ。

 やはり、一から「自分で、考え」たのでなければ、そこで「いや」と、みずからを振り返ってみなければならない。いや、待てよ、その問いかけと結論は、自分できちんと吟味を重ねたものなのだろうか。外的な権威などを安易に信じ込んでウケ売りで感情的に言っているだけではないのだろうか、と。

 「そのまえに私」。そこから、出発しなければならないだろう。

 

 

 

風のトポスノート 102

悪の意味の欠如


1998.10.3

 

 "存在の欠如"、存在すべからざるものを悪とするという考え方は、哲学とは離れた意味で近代日本を覆っています。悪はあり得てはならないという理想が、いつの間にか悪はないという前提を生んでしまっており、おかげで"あっても無視をしておこう"という無気力感がただよっているのです。そのなかで、無菌状態がむしろ免疫異常を引き起こし、花粉症を発生させるようにして、ないはずの悪が唐突に散発的に非意味的に出現してきている時代。それが現代であるような気がしてなりません。

 存在の欠如が悪だとすれば、悪の意味が欠如しているのが現代であると言い換えてもいいように思います。やはり『術語集2』にお書きになっていた日本中世の悪党衆には、少なくとも社会から与えられた意味がありました。本人たちはそうでなくても、社会がその悪をゆるやかに規定し、自己のなかに組み込んで生きていたのです。

 それならば、今必要なのはやはり、悪に意味を与えてやることではないでしょうか。あるいは、悪に空間を与えてやること。名前を与えてやること。

 オウムに魅惑的な力があったとすれば、ひとつには大量無差別殺人に"ポア"という名を与えたからです。そこで悪は意味づけられ、居場所を得てしまった。ないことになっているものが積極的な意味をもって現れたのです。また、"学校殺死の酒鬼薔薇聖斗"はそれこそ名前そのものが存在でした。

 これらの事件に関して、僕には"浮遊する悪が暗闇から名ざされた"イメージがあります。とすれば、明るい場所から悪を名ざし直さなければならないと思うのです。悪を暗闇から引っぱり出し、光に当てなければならない。前回のメールの言葉で言えば、暗黒の世界に「同化」しようとしている悪を「異化」し、新しい姿を出現させなければならないのです。なぜなら、悪は単に抑圧されるべきものではないから。悪は人間を新しくもする力であるからです。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第2回哲学/第9通信・いとうせいこう→中村雄二郎)

 インターネット哲学アゴラ「哲学について」の中村雄二郎・いとうせいこうの対話も、いよいよ「悪」についてのテーマになりました。

 この「悪」というテーマに迫るということは、ある意味ではもっとも現代的な、つまり現代人にとって避けて通ることのできない部分ではないかと思います。

 ここでいとうせいこうは、「"存在の欠如"、存在すべからざるものを悪とするという考え方は、 哲学とは離れた意味で近代日本を覆ってい」ると言っていますが、まさにその通りで、だからこそ「悪」に目を向けようとしていない、なかったことにしておく、ということの積み重ねが、まさにシャドー(影)として無意識化された「悪」を次々と顕在化させているような気がしています。だから、そのシャドーを意識化していく作業が求められている、つまり「悪を暗闇から引っぱり出し、光に当てなければならない」わけです。

 オウム真理教の事件は、「影」となってしまっていた「宗教」が、「酒鬼薔薇」事件は、「影」となってしまっていた「教育」が、「子供」が、(実際のところ、「教育」や「子供」について叫ばれれば叫ばれるほど、それらのシャドーが深まっていくような印象があります)防衛庁の事件などや、汚職などの問題、長銀などの問題は、「影」となってしまっていた「お上」「公」が、その「悪」としての側面を含めて、「暗闇から引っぱり出」され、「光に当て」られなければなかったということだと思うのです。

 「無菌状態がむしろ免疫異常を引き起こし、花粉症を発生させる」というたとえのように、「悪」への「無菌状態」こそが「悪」への「免疫異常を引き起こ」す。そして、医療において対症療法が新たな病をつくりだすように、「教育」においても目の前の問題に対症療法的に「規則」で対処するように、農業において、化学肥料と農薬、遺伝子操作で対処するように、それらの根源へと迫らない限り、適切な処置はできないどころか、事態をますます深い「闇」のなかへなかへと混迷させることになります。

 シュタイナーがルシファーとアーリマンの間にある存在としてキリストを描いているように、対極にある「悪」ということなくしては、人間存在への認識は深まっていくことができないように思います。「悪」をなかったことにする、見ないことにする、抽象化することではなく、「悪」の意味を深く認識していくこと。しかもそれを霊的な方向への悪と物質的な方向への悪という対極としてとらえその双方を否定するのではなく、それぞれの意味を認識論的にも存在論にも深くとらえながら、そのことでその両者の「中」なる道としてのキリスト的な理想へと目を向けていくこと。そのことを通じ、「悪は人間を新しくもする力」となりえるのだということに気づき、その役割に目を向けていくことが必要なのではないでしょうか。

 シュタイナーが「社会の未来」で次のように言っているように現代としての悪人正機、悪への自覚ということを通じて、まず自らの、そして社会のシャドーに「光を当て」ることなくしてはもう一歩も進めない時代になってきているように思います。

 今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できるということが大切なのです。悪い存在であることが良いことだからではなく、克服されるべき社会秩序がひとりひとりにそのような生き方を強いているからなのです。自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、指をしゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分の方が清らかである、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力し、今日の人々を深く捉えている催眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるでしょうから。

(シュタイナー「社会の未来」高橋巌訳/イザラ書房P30-31)

 

 

 

風のトポスノート 103

奇跡


1998.10.9

 

奇跡は、奇跡的に訪れるものではありません。

(金大中/1998年10月8日/国会演説より)

 奇跡などということはない。または、すべてが奇跡である。

 木の葉一枚落ちるのも奇跡であり、私が私であること。なにより、私が存在するということこそ奇跡であり、世界が存在するということそのものが奇跡以外の何者でもない。

 すべてが奇跡であるからこそ、逆説的な意味で、「奇跡は、奇跡的に訪れるものでは」ないといえる。

 それは、偶然は存在しないというのと同じ。偶然というのはただの認識の欠如にほかならないのだから。そして、すべては必然であるということは、すべてが決定されているということではなく、むしろ、すべてが自由であり得るということであるということだ。つまり、すべてに関する責任を負っているということになる。自由の重みである。

 奇跡は存在しない。すべては起こるべくして起こっている。しかしそれは決定論ではなく、その逆。すべてが自由であり得、だからこそ、すべてに責任を負っているということ、責任を負おうとするからこそ、自由でありえ、奇跡的ということはないのだということ。

 すべては奇跡である。世界は奇跡として存在し、私はそのなかで奇跡として存在している。なぜ奇跡なのだろうか。その意味を問うことで、私は自らを、自らの意味を創造している。だからこそ、その意味についての責任を負っているといえる。責任を負わなければ自らの意味を創造しているとはいえない。

 世界は、奇跡的にあるのではない。しかし、世界そのものが奇跡である。私は、奇跡的にあるのではない。しかし、私そのものが奇跡である。

 

 

 

風のトポスノート 104

悪の硬直化


1998.10.12

 

 「リアリティーがバーチャル化した時代のなかでは、悪がひどく拡散し、透明になってしまっている」と中村さんが指摘されるように、今悪は抑圧され希薄化しながら広がってしまっている。

 とすれば、今、悪が硬直化しているのではないか……。そんな風に僕が感じたとしても無理はないでしょう。悪が善批判の力ももたず、他者との接触を避ける形に終始していることが、つまりは僕らが生きている現代のこの閉塞感(へいそくかん)を生みだしているのではないか。そう思うのです。

 善が硬直しているのではなく、悪が硬直している。善批判であるべき悪が、社会のなかで自己検閲され、疲弊している。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第3回 悪 /第11通信・いとうせいこう→中村雄二郎)

  「いま硬直しているのは悪なのか善なのか」という、あなたが出した問いも、いいところを突いている。一般には、硬直しているのは善だと思われていますが、身も蓋(ふた)も無いことを言えば、善はいつだって硬直しているのです。少なくとも、善は「たてまえ」の側であり「まとも」の側なのです。そういう善の硬直を解きほぐすのが悪なのですから、悪のほうが硬直したらもう、どうにもなりません。悪を硬直させない工夫が今、なによりも大事かもしれませんね。私が魔女ランダにかぎらず演劇に強く惹(ひ)かれるのもそのためです。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第3回 悪 /第12通信・中村雄二郎→いとうせいこう)

 善人だけしかでてこない物語はつまらない。み〜んないい人でよかったね、ではどうにもならない。水戸黄門でも、み〜んないい人では印篭の出しようがない。やはり悪役が充実していてはじめて物語はスリリングになるしカタルシスも味わうことができる。

 現代では、悪がその役割としての演劇的な位置づけを失っている。悪が善人の内に無自覚なかたちで透明に存在してしまっている。だから、演劇的役割という位置づけのない悪がいきなり露呈する。だから歯止めがきかず、悪は悪の自覚を持てないまま往生できない。善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。で、悪人が往生できないのだから、善人だって往生のしようがない。

 善人は往生できないまま、「たてまえ」を限りなく強め、硬直化の度合いを深めていく。「○○○君は悪いと思いマス」というような小学校でよく使われるどうしようもない「良い子」のセリフがそのまま社会で使われてしまうことになる。マスコミの報道などは、その「良い子のセリフ」にあふれている。そして「良い子」は自分のなかの無自覚な悪の部分を別の「良い子」にむけて、良い子同士がウチワもめをはじめてしまうようなまったくセンスのないことが延々と続けられる。

 悪は、自覚されることでその本来の可能性を実現する。しかし自覚されることのない拡散した悪は、善人の内部でしだいに腐臭をたてるようになってしまう。もしくは、善人が動脈硬化症を起こして自己崩壊してしまう。

 シュタイナーは、悪の両極であるルシファーとアーリマンの中心に人類の理想としてのキリストが立っているということを示唆しているが、その悪の両極について無自覚であることが、そのバランスとしての善を硬直化させその悪の両極から無防備な力を受けてしまうことになる。自分は「善」だと思いこみながら・・・。

 

 

 

風のトポスノート 105

至誠という陥穽


1998.10.14

 

今度は、「善とはなにか」という問い掛けを、いとうさんは私にぶつけてきましたが、これは「悪とはなにか」よりもさらに答えるのが難しい問いです。それに対して、とりあえず私が言っておきたいのは、次の二つのことです。一つは、悪について考えるうえで大きな手がかりとなったスピノザ の『エチカ 』によるとらえ方です。それによれば、善とは、ものごとに内在する「コナトス (conatus)」(自存力)を増大させるものだ、とされています。このとらえ方に私は共感をもつのですが、それは、ワルのエネルギーと結びつくところがあるからです。もう一つは、西田幾多郎 のほかならぬ『善の研究 』のなかでの「善」のとらえ方です。(略)あるとき私が気がついて、調べてみたら、驚きました。というのは、それはかなり問題のある「善」の概念だったからです。

(中略)

西田が最も根拠ある説としてもち出しているのは「活動説」です。つまり、この場合には、善は、われわれの内面的要求の発展、完成にあるとされるのです。そして、その方向で出てくる具体的な徳目はなにかと言えば、個人の「至誠」なのです。しかしこの善の徳目としての「至誠」は、なにも西田の発明ではなく、なんと、徳川時代の儒教に一般的に、そして陽明学にはとくに顕著に見られる特色だったのです。

(略)とくにそのような善の考え方が、その赴くところ、誠実のためには、人をだましても、また人を殺してもいいことになるのを知って、すっかり考えさせられてしまった。

 このような「誠実」の倫理は、それだけ見るといかにも純粋なものに見えます。しかし、それは、強力な秩序のうちにあってそれに服従するだけの、主観的・主情的なものに、他者の存在を認めない自己中心的なものに、なりやすいのです。その結果が、「誠のためには人をだましても、また人を殺してもいい」というところまで行くことになる。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第3回悪 /第12通信・中村雄二郎→いとうせいこう)

 至誠、誠を尽くす。私を滅して奉公するという純粋さが好きな日本人の行き着く徳目。

 知行合一という極めて重要な観点を有する陽明学がその光ゆえに影を見ないように排してしまおうとする側面。

 滅私ということはともすれば、人にも滅私を強要してしまう独善を発揮してしまう。人に滅私を強要し、そうでない者を排してもかまわない。そういう「至誠」にまで行き着いてしまうというのは、そこに「他者」がいない、もしくは「他者」という「至誠でないもの」の存在を許さないということ。

 滅私すれば、私がいないのだから、そこにはもはや悪という影の側面が意味をもたなくなってしまう。滅私という至誠の問題性がそこに如実に現われている。

 自分は至誠であり悪の可能性を露ほどももたない。ゆえにその滅私の自分にとって、その至誠を尽くそうとする営為を妨げるものは「悪」以外の何者でもない。ゆえに、悪は排されねばならない、という論理。

 まさに言葉どおり、善が暴走すれば、「独善」という極めて主観的な価値観の純粋培養になってしまうわけである。

 善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。自分を善だと思っているひとさえ救われるんだから、自分の悪を見据える者が救われないはずはないだろう、という逆説論理。逆説でありながら、善と悪とのダイナミズムをシンプルに表現した論理。

 至誠という善は、自分の足許に穿たれている深い闇の穴を見ないがゆえにその穴に陥ってもそれに気づくことができないという側面がある。

 

 

 

風のトポスノート 106

LOVE


1998.10.15

 

 主題歌が懐かしいジョン・レノンの「LOVE」だというので日本テレビ系で始まったテレビドラマ「世紀末の詩」を見てみた。

 ドラマの設定はけっこう変で、変なりに面白く見ることができた。スリリングだというのでも感動的だというのでもないのだけれどその不思議で少しコミカルでアブノーマルな設定のなかにどんな「世紀末」を描こうとしているのかが、ほんの少しだけれどわかったような気がした。

 かなり陳腐な演出や設定も匂ってはくるが、やはり、テーマは「LOVE」なのだ。世紀末の。

 「LOVE」というのも、けっこう照れてしまうような言葉だけれど、ジョン・レノンの歌うあのシンプルなメロディと歌詞はけっこう世紀末に流れるのにふさわしいレクイエムでもあるようなそんな気がした。

 ジョン・レノンの「LOVE」が流行った頃流行ったものにぼくの大好きな「オールド・ファッションド・ラブソング」というスリードッグナイトの曲がある。「ラジオでかかっていた、ただの古くさいラブソングなんだけどね・・」で始まる曲で、「LOVE」を聴きながらなぜか思い出してしまった。

 世紀末には、自分のなかにずっと眠っていた「ただの古くさいラブソング」がもう一度流れ始めるのかもしない。ジョン・レノンの「LOVE」のような妙に純粋なシンプルさで。パルチヴァルが「鈍さ」と「疑い」を通過していくようなあり方で、まるで道化のような「LOVE」の姿で。

 「世紀末の詩」の第一回目の今回は、愛をなくした不成仏霊の女の子(広末涼子)に、結婚式場で相手に裏切られた主人公の男性(竹野内豊)が同情し死へと引きずり込もうとするが、その寸前で、まるで引導を渡すお坊さんのような説得を試みるもうひとりの主人公の男性(山崎努)の言葉と命をかけるようとする(竹野内豊)の姿勢に、成仏していく・・・という変な話が織り込まれている。

 やはり、これも「LOVE」なのだろう。ほんとうに愛されたことのある者は、そのことだけでおそらく世界に対して深い信頼感を持つことができる。だから世界を去るときも、むしろ心を残して不成仏霊になりにくい。けれど、愛されたという体験を持ち得ないとしたら・・・。シュタイナーが、子供の頃、深い尊敬の念を持つことができることを重要視するのも、世界への信頼感がどこで持てるからだという。

 けれど、ほんとうに愛されたことのある者だけしか世界に対して信頼感を持ち得ないとしたらどうだろう。この世界は解放されない不成仏霊の墓場になってしまう。

 マザーテレサは、だれにも顧みられず死んでいく者に「あなたは必要とされているのです」と語りかけた。その言葉は、死んでいく者の魂に深く深く刻み込まれたはずだ。

 けれど、「あなたは必要とされているのです」と言ってほしい人ばかりがふえていくとしたら、この世界はどうなってしまうのだろう。

 世紀末に「ただの古くさいラブソング」「LOVE」が流れる。

 

 

 

風のトポスノート 107

偶発性の悦び


1998.10.24

 

 さて、郡司さんがおっしゃった言葉で、僕を根本的に変えてしまったもののひとつを最後に引用しておきたいと思います。 「舞台で同じものを見よう、やろうというのが今の人です。でもね、今日の腕のひと振りが昨日と違う。いいものを見たなあと思う。心に残る。それが舞台というものでしょう」 コミュニケーションの最中心部にある偶発性の悦び。このメイル対話のなかにもまた、それがあふれかえっていたように感じながら、僕は今夜もまた千何百人かの客の前に立とうとしています。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第4回崇高/第15通信・いとうせいこう→中村雄二郎)

 ぼくは学生時代、研究者になれればと思っていたことが少しありますが、結局、学生時代の最後に出した結論に深く影響したのは、中村雄二郎さんの「演劇的知」ということでした。つまり、「街に出よう」「偶発性」のなかで生きよう。そういう衝動が自分のなかで働き始めたのではないかと思います。その当時、山口昌男さんのような尊敬すべき芸人的な研究者にもあこがれてはいましたが、自分のまねできるような方ではなく、やはりそれであれば、自分を檻に閉じこめるのは止めようと。

 ぼくはほんの少しだけ演劇をやっていたことがあるのですが、(実際のところぼくはあまり演劇向きではないのですけど)舞台の上での演劇ではなく、研究という舞台の上でもなく、自分の興味や関心とはほとんど接点のない仕事場という舞台の上で即興的に演じるしかないものを試すことの重要性を思ったのです。視点を変えれば、けっこう辛い仕事を坦々とこなすということなのですけど^^;、いまになってふりかえってみると、その「偶発性」から学んだことというのはとても大きなものがあります。

 ぼくは芸人ではないのですけど、仕事は自分の興味や関心とはかけ離れていますからある意味ではほとんど芸人のようであることが求められます。しかも、「舞台で同じものを見よう、やろう」というのでは、広告をつくっていてもあまり通用しなかったりもしますから、「いいもの」かどうかはわからないとしても^^;、常に同じパターンから視点を少しずつでも変えていかなければいけません。同じパターンでは、仕事をいただくことができないからです^^;。

 さて、こうやってぼくがここで日々書いていたりすることは比較的自分の興味、関心のある範囲のことなのですけど、この場は、仕事でやっているのではなく、むしろお金を払ってつくっている場なのですから、研究発表というわけでもなく、利害や打算とも無関係な分だけ、ある種のシビアさがありません。そして、つまらなければそれで終わりなわけです^^;。けれど、だからこそ、すぐにパターンにはまって、同じ様なことばかり言っている自分に嫌悪感を感じ、「コミュニケーションの最中心部にある偶発性の悦び」ということに常に意識的でありたいと思っています。「今日の腕のひと振りが昨日と違う」そんな自分を感じていたいと思うのです。

 

 

 

風のトポスノート 108

精神の生活


1998.10.25

 

アーレントの遺稿になった講義をもとにした著書に『精神の生活』(一九七八年刊、佐藤和夫訳、岩波書店)(原題は『The Life ofThe Mind』)というのがありますが、その第一部の「思考」のなかで、興味深いことに、彼女は次のように述べています。 自分が精神の活動という問題に取り組むようになったのは二つの原因がある。直接の動機になったのはイェルサレムの「アイヒマン裁判 」を傍聴に行ったことである。その報告のなかで自分は、「悪の陳腐さ」について述べたが、それは、自分たちの思想伝統のなかで通念になっていた神学的な悪とは違った「悪」、消極性に由来する悪、「なにも考えていない」ことに由来する「悪」に出会ったためである、と。原因のもう一つは、人として当然の、なんでもないような精神の活動の不在こそが「悪」を生み出すのではないか、と見なすようになったためである、と。ここには、たぐいの稀(まれ)なシンプルさのうちに、悪とはなにか、哲学とはなにかが示されている、と思うのです。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第4回崇高 /第16通信・中村雄二郎→いとうせいこう)

 「なにも考えていないこと」。「なんでもないような精神の活動の不在」。なぜそれが「悪」を生み出してしまうのだろうか。それは、積極的に「悪」をなすこととは異なっているように見える。

 善人なおもて往生を遂ぐいわんや悪人をや。悪の自覚こそが重要であるということ。自覚されない悪こそが危険だということ。自分は善人である、悪をなしてはいないという思い込みの意識下で育っているもののことを見つめてみなければならない。

 今日自分が思い行なったことをふりかえってみよう。すべてなんとなく・・・という感じで自動化されていなかっただろうか。なんとなく食事をしてなんとなくテレビを見てなんとなく人と話す。そういうなんとなくを自分でふりかえってみること。なぜ自分はそう考え、そう行動したのだろうか。そうふりかえってみること。

 グルジェフは人間はロボットであるととらえた。だからそのロボットから脱して真の人間にならなければならない。グルジェフの著書に「生は<私が存在し>て初めて真実となる」というのがあるが、まさに「私」が存在するかどうかが重要なのだ。

 シュタイナーが重要視する「意識魂」。その意識魂は神的なものの雫だという。つまり「私」が存在するための重要な働きである。逆にいえば、「意識魂」がなければ「私」は存在しない。「なにも考えていないこと」。「なんでもないような精神の活動の不在」。それは、「<私>の不在」ということにほかならない。

 <私>が不在であるということは、主体がどこか別のところにあるということになる。それは「空気」のようなものかもしれないが、家族や血縁、組織・・・そういった自分の依存しているところに集合的に存在している主体である場合が多いのではないか。「だって、みんなそうしてるんだぜ。」「あの人がそういうから。」「そういうものなんだ。」「これは絶対命令なんだから、仕方がない。」これらは現われ方はさまざまだけれど、<私>が不在であるということにおいて共通している。

 教祖の指示による犯行。教団の組織的、計画的な犯行。そういう積極的な「悪」と見えるものも、その背後には深い「精神活動の不在」という土壌が広がっているところから育ってくるものであることを考えてみる必要がありそうである。

 

 

 

風のトポスノート 109

孤独


1998.10.25

 

もっとも不幸なことは、貧しいことそれ自体にではなく、だれからも必要とされていないと感じる孤独にあるのです。

(マザー・テレサ)

 マザー・テレサのことを考えると、人間の可能性について勇気がわく。「だれからも必要とされていないと感じる孤独」はマザー・テレサの「抱きしめ」によって癒される。「あなたは神に必要とされているのですよ。」そして、その「神」は宗教の違いをまったく意に介さない。

 けれど、このマザー・テレサが身を持って示した人間の可能性は、いつまでも「抱きしめ」のままでいることを許さないのではないか。人はいつまでも「抱きしめ」られたままで生きることはできない。孤独でないことだけ、癒されることだけのために人は生きているのではない。

 マザー・テレサのことばは、あのカルカッタの街で放置されている人たちではない私たちにとっては、たとえばこう展開していく必要があるのではないだろうか。

もっとも不幸なことは、孤独それ自体にではなく、それを自らが選択し、そこから何も生まないということにあるのです。

 癒し、ヒーリングがもてはやされて久しくなるが、人は孤独であることによってしか生み出せないもののことを忘れている。

 人は自己認識を深めようと思えば、内的な悟性魂の戦いのなかで傷つくことは避けられない。そのことによってしか、意識魂にたどり着くことはできない。そのことによってしか<私>は存在できない。

 孤独をみずからが選び取る勇気がないとしたら、その悟性魂の戦いに最初から負けているということにほかならず、そのとき<私>は存在しない。いや<私>が存在することを拒否しているともいえる。人は、私が私であることに耐えられないのだ。それが、孤独であることをごみ箱に捨てている。

 人は孤独であることによって、意識魂を育てることができる。意識魂は、自分の意識について意識するという反省を可能にする。外界に対するリアクションでもなく、感情にひきずられた思考でもない反省意識。孤独を選べない人は、集団で反省的なことをしたりしてそれに代えたりもしようとするが、それは意識魂ではない。みんなですれば恐くない、のではなく、みんなですればもっと恐いのだ。その恐さは、みんなですることで生み出される安逸さゆえもの、<私>であることを直視しないでもすむ集合的な危険性である。

 出発点は、孤独である。もちろん、それは孤立を意味しない。

 

 

 

風のトポスノート 110

死について


1998.11.7

 

小松さんは日本人の抱く「あの世との近さ」や「この世と死後の世界との連続観」、それに広い意味での日本人の「浄土観」を問題になさったわけですが、それを読んですぐに私が連想したのは、同年代の哲学研究者の中埜肇氏のことでした。中埜さんが亡くなったのはたしか去年の末でした。共通の友人である梅原猛 氏が、ある新聞に中埜さんの死について書いていましたが、そのなかで、中埜氏が死期が近づいたとき、「浄土からお迎えに来る」のを待っていた、と述べていたからです。中埜さんといえばれっきとしたヘーゲル学者であり、そう簡単には精神的な「本卦がえり」はしないものと私などは思い込んでいたので、その話には、意外性もあって私にとってはたいへん印象深かったのです。

(中略)

ヨーロッパでは人々が死を忌むこと、恐怖すべきこととしてひどく嫌い、死を司る神つまり死神を鎌を持った骸骨として表象しているが、日本ではそのような表象は生まれず、また、生と死との間に西欧においてほど深い断絶を見ていない。むしろ、死を通過点、それも、還暦や古希のような通過点として迎える人が多い、というご指摘は、事実あるいは現象としては、なるほどと思いました。死を「長旅に出る」という感覚で受け取るというのも、わかります。しかし、これは、このシリーズの『生命』についての池田清彦さんとの対話中でも論じたのですが、問題は、死を個体として問題にするか、それとも類として問題にするか、によって、見方がまったく変わってくるのだと思うのです。それによって、個々の生が一回かぎりの「かけがえのない」ものになるか、それとも、悠久の歴史あるいは時間の過程のなかの一齣あるいは一部分になるか、の違いが出てくるのではないでしょうか。類的、共同体的な生命観が強ければ、極端にいえば「死」はなくなります。類あるいは共同体としては、生命は永遠につづいているのですから。

(インターネット哲学アゴラ「死について」

第1回 日本人と死  /第2通信・中村雄二郎→小松和彦)

 中村雄二郎のような優れた哲学者であっても、「死」について語るときには、そのアカデミックな、というか、時代における支配的な認識から逃れることができないことがよくわかる。どうしても、認識の範囲を最初から限定してしまい、その外を見ようとしないというところがある。カントが認識の限界を設けたことが、「死」にも適用されていて、通常見える範囲のことでさえ、疑問には上らなくなってしまう。

 ヘーゲル学者の中埜肇氏が死期が近づいて「浄土からお迎えに来る」のを待っていた、というようなあり方にかなり近いことが、そうした認識様態からはでてくる。梅原猛氏などが、「縄文」を持ち出してきて、先祖がその子孫に生まれ変わってくるということなどを云々するのも、それに近いあり方なのかもしれない、という感じもする。

 「死を個体として問題にするか、それとも類として問題にするか」というかなり単純な二つの見方しかできないということにもそれが現われている。「個々の生が一回かぎりの「かけがえのない」ものになる」ということと「悠久の歴史あるいは時間の過程のなかの一齣あるいは一部分になる」ということが、同時に成り立たないととらえているようなところがあるのだ。

 「類的、共同体的な生命観が強ければ、極端にいえば「死」はなくなります。類あるいは共同体としては、生命は永遠につづいている」という見方は、非常に集合魂的なあり方であって、血縁や民族などを通じてしか、「生」の永遠ということをとらえることができなくなっているということだ。

 たとえば、聖職者が生涯独身を保ったままでいるということなどについては、そうした「類的、共同体的な生命観」ではとらえることができないと思う。聖職者が生涯独身を保ったままでいるということは、血縁を残さないということだから、「生命は永遠につづ」かないことになる。論理的にいって、生命の継承を断絶させるために聖職者がいるというような、きわめておかしな結論がでてこざるをえない。

 重要なのは、「個々の生が一回かぎりの「かけがえのない」もの」であると同時に「悠久の歴史あるいは時間の過程のなかの一齣あるいは一部分になる」ということではないだろうかと思うのだけれど、「死」は現代人をそれほどに混乱させてしまうことになるらしい。混乱しない場合は、小松和彦氏のような古代的な習俗などをフィールドワークすることで、「死」について考えようとするらしい。「今」を見つめることができないのだ。

 「死」を見つめるためには、「今」から目を離してはならないのではないか。「今」から目を離して「死」を見つめようとするのは、「時間」ということを考察するために、それを対象化することで、「今」から目をそらそうとするような行為に似ているのではないかと思う。

 「私」の永遠は、永遠の今ということでもあり、それはまた時間過程のなかでの永遠の流れということでもある。そしてそれは、常に変転し変容続けながら、しかも変わらないものとしての永遠の今ということでもあるだろう。諸行無常であり諸法無我でありそれにより涅槃寂静であることとは「私」が「私」であるということの進化と矛盾するものではなく、それは同時に成立するものでなくてはならない。

 


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