風のトポスノート91-100

(1998.9.16-1998/1998.9.30)


風のトポスノート 91●教えるということ

風のトポスノート 92●学ぶ

風のトポスノート 93●正統

風のトポスノート 94●意味と無意味の反転・交替

風のトポスノート 95●気配の察知・リズムの引き込み

風のトポスノート 96●不意打ち・裏返し

風のトポスノート 97●哲学と野暮

風のトポスノート 98●常に亡命し続ける者としての哲学

風のトポスノート 99●観念力

風のトポスノート 100●「裸」の言葉

 

 

 

風のトポスノート 91

教えるということ


1998.9.16

 

 父が私に語った古代の言語には「教える」という言葉はありません。そこから学ぶことのできるシステムはあります。三つの学びの物語はどれも手づくりのシステムであり、そのパターンのなかにはたくさんの経験レベルが織り込まれていて、3歳の幼児から103歳の老人までだれもが耳を傾けて、「ああ、それはわかる!」といえるのです。

(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P225)

 「教える」という言葉がないということは、おそらく「学習システム」の基本が「自己教育」だということではないかと思う。教えられるのではなく、自らが学ぶ、学ぼうとするということ。

 「教える」ということは、学ぶということが最初にあるのではなく、教える具体的な内容が最初にあるということだ。学ぶということは、学ぶひとの問いかけからはじまる。教えるということは、教えるひとのもっている答えからはじまる。

 世界は謎に満ちている。人も謎に満ちている。しかし、そこに謎をみるかどうか、そこに問いが生じるかどうかが問題になる。問わなければ、世界は闇のまま。問わなければ、人は闇のまま。

 最初に世界に答えはない。人も最初に答えはない。教えるということは、世界に最初から答えを押しつけること。そのとき、世界はその答えのなかに閉じこめられてしまう。教えるということは、人に最初から答えを押しつけること。そのとき、人はその答えのなかに閉じこめられてしまう。そして、教えられる人も、その答えのなかに閉じこめられてしまう。

 学ぶということは、自分で発見するということ。自分で発見する驚きと喜びからはじめなければ、世界は、人は、未来に向けて進化することを禁じられてしまうことになる。

 人は、問いかけることで、世界を、人を、発見すると同時に、世界を、人を新たに創造し続けているのかもしれない。

 

 

 

風のトポスノート 92

学ぶ


1998.9.20

 

私が受け継いでいるアメリカ先住民の伝統では、学びの責任は学ぶ者にあります。話し手の責任は、よりよい学習環境を作ることです。

 すべての人がその人から学べるほど賢い人はいません。

 だれもその人から学べないほど愚かな人もいません。

(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P242)

 人をあまりに絶対化して教祖化してしまうと教祖以外から学べなくなってしまう。そしてその枠のなかに閉じこめられることでその枠の外に対する受容性や柔軟性を失ってしまう。

 マインドコントロールということがいわれたりもするが、それはそうされたい、そうされるのが楽だからそうされるという場合がかなり多いのではないかと思う。

 人は、自分で複数の選択肢をつくりそのことであれこれ悩んだりするより、選択肢をひとつにして、それを外からきたものとしてその責任を自分以外のところに置くことで安心立命しようとすることが多いのではないかと思う。そうすることでそれが破綻したときでも、自分のせいだと思わないでもすむのだから。

 どんな人からも学ぶことができるのにそれをしないときおそらく人は自分の可能性をなくしてしまう。反面教師ということからでさえ人は学ぶことができるのだから。

 パソコン通信をはじめた頃から日々自分に言い聞かせていたのは「何からでも学べる」ということを決して忘れないでいようということ。パソコン通信のなかでは罵倒合戦のようなものもよく見かけたけれど、そうした投影と逆投影を絵に描いたような稚拙なやりとりからでさえ人間という存在をさまざまに学ぶことができる。もっともそういうことには、ぼく自身無縁だったのは幸運だったと思う。おそらく稚拙な形ではあれ、その場をつくっている者として「話し手の責任は、よりよい学習環境を作ること」だということを意識していたということもよかったのかもしれない。

 何からでも学べるが、何でも学べるわけではない。その姿勢からは着実な道が広がっているように思う。

 

 

 

風のトポスノート 93

正統


1998.9.20

 

 私は「正統」という考え方に大きな違和感をもっています。一つの理由は、なんであれ人間の伝統である以上、学び成長するためには変化への柔軟性が必要だからです。もし物事の原形だけを守ろうとしたら、いつか変化によって本来の目的が果たせなくなるかもしれません。けれどもいっぽうでは、過去を尊重し、伝統を大切にする知恵も忘れてはなりません。さて、どうすればいいのでしょう?(中略)

 私にとってインディアンであることの本質は、宇宙を一つの全体性として理解することだといえます。あらゆる部分があらゆるほかの部分と全面的に関係し合ったものとして理解するのです。それは、個体性を一時的な構造として、全体性を永続的な構造として理解することです。それは物事の関係性を理解し、二次元のかわりに三次元で考えることです。それは物事を時間軸に沿った連続性、ないし因果連鎖でのみとらえず、広大で、複雑で、相互に関連し合った編み目としてとらえることです。そこでは因果律が通用しません。あまりにも多くの物事が同時進行し、あらゆるものがほかのあらゆるものに影響をおよぼしているからです。生命を因果律で説明するのは、あまり生産的とは思えません。(略)

 インディアンの流儀で正統であるためには、宇宙の全体性に含まれるあらゆる要素を尊重すること、真心で語ることが不可欠です。

 さもなければ、自分自身の存在の全体性を否定することになってしまいます。

(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P247-249)

 重要なのは、幅広い受容性と柔軟性ということだろうか。

 過去に耳を傾けるということはとても大切なことで、そういう意味での正統や伝統ということから学ぶことは欠かすことができない。

 けれど正統や伝統を絶対視してしまうとこんどはそこから自由であることができなくなってしまう。

 正統や伝統が必要なのは、逆に、そこから自由であるためでもある。知らなければむしろそれにとらわれてしまうということだ。

 「守」「破」「離」というのはそういうことでもある。まずは正統や伝統を学ぶこと。無手勝流よりは効率がいいからだ。けれどそれにとらわれないために、それを破る必要がある。それが「賛成の反対」にならないようにまさにとらわれないという自由さ、自在さが求められる。

 受容性、柔軟性の鍵は、時間的にも空間的にもとらえた「縁起」という認識を基礎に、さらにそこにいわば宇宙の変幻自在な進化、そして自分を固定化する姿勢から自由を加えものごとを総体としてとらえるという姿勢だろうか。そのことで、認識は固定化、実体化から自由になる。

 諸行無常の認識、諸法無我の認識に涅槃寂静ではなく、むしろ宇宙進化という認識をベースにした「縁起」認識を加えるということだろうか。

 

 

 

風のトポスノート 94

意味と無意味の反転・交替


1998.9.23

 

 僕がリズムと言われて真っ先に思い出したのは、「瞑想(めいそう)中に空を仰いで雲の切れ間を見た瞬間、呵々(かか)大笑した禅僧」の話なのです。(中略)

 勝手な解釈は承知で書きますが、僧侶は「変化のない世界」に「変化」が起こった瞬間に笑ったのです。それは無意味な世界に意味が生じた瞬間と言ってもいいし(正しくは、無情報な空間に情報が生じたと書くべきでしょうね。事は意味以前であるからこそ根源的なのです)、意味に満ちた世界に唐突に無意味な裂け目が生じた瞬間です。

 僕は自分のネタのなかに、いくつかそれによく似たものがあることを知っていましたし、客が曇りなく、腹の奥から息を噴き出すように笑う瞬間があることを心得ていました。それはほとんど必ず、ナンセンスとセンスの絶妙な反転、時間的に言えばその「全面的な交替の最中」に関係がありました。 (中略)

 ナンセンスは長く続くと退屈です(もちろんセンスの世界も同じですが)。つまり、ナンセンス自体はなんら面白いものではない。問題は「意味」から「無意味」への反転をどこで起こすか。あるいは、「無意味」から「意味」が見えてくるその瞬間をどう見せるか。テクニック的に言えば、どこまでじらしてから世界をひっくり返すか。どのようにその全面的な交替の落差を仕組むのか。それに尽きるのです。

 「意味」がほの見えない「無意味」はまったくもって快楽的ではありません。逆に、「無意味」に滑り落ちかける「意味」世界の雪崩(なだれ)を予感させない場所に快楽はない。しかも、「意味」/「無意味」があらかじめ補完し合うような予定調和的構造が見えると、快楽は半減します。客前に立ちながら、僕はそういう不思議を身体的に受け取り、舞台を降りてから内省的に考えてきたわけです。

 この反転、この交替はすべてリズムに関係しているのではないでしょうか。リズミカルでない反転、交替は無効である。いや、それどころか反転、交替それ自体がつまりはリズムなのです。

 時間を区切るもの。

 存在を区切るもの。

空間を区切るもの。

 それがリズムそのものなのですから。しかも、そこに反復があることが大切だと思われます。区切ったことで不可逆にはならず、かえって再び元に戻ること(二が一に戻ること)を予感させるもの。それこそがリズムというものなのではないでしょうか?

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第1回リズム /第1通信・いとうせいこう→中村雄二郎)

 今回のインターネット哲学アゴラは、いとうせいこうとの対話。テーマは、「哲学」、そして第1回は「リズム」ということをめぐって。

 ここで、いとうせいこうは、通常「リズム」ということでイメージする切り口とはかなり異なったところからテーマを提示している。「瞑想(めいそう)中に空を仰いで雲の切れ間を見た瞬間、呵々(かか)大笑した禅僧」の話。

 「笑い」というのはたしかにリズムであり、「笑い」には「無意味と意味の反転・交替」がある。その反転をもっとも如実に表わすものといえる禅僧の話。

 人はなぜ笑うのだろうか。人は思いがけず笑うだけではなくて、意図的に人を笑わしたりもするし、漫才や落語などという芸までつくりだして人は笑いを求めさえする。

 おそらくそれは、人は世界の意味が固定的なものであることに耐えられずまた同時に世界が無意味であることにも耐えられないからかもしれない。あまりに意味に埋め尽くされてしまうとそれにがんじがらめになるし、「ナンセンスは長く続くと退屈」になる。意味の構築物のなかに、ナンセンスの裂け目が入ることでほっと一息つくことができる。人はマジメだけでは生きていけないし、フマジメだけでも生きていけない。

 だから人はさまざまな笑いを必要とする。意味に裂け目を求め、無意味から意味への思いがけない反転を求め、その交替のリズムに笑いが生まれるのを歓迎する。その笑いは、大爆笑のようなものもあれば、皮肉さに近いニヤリとした笑いのようなものもあるし、ときにはそうした笑いが怒りをかってしまうこともあるが、その意味と無意味の反転・反復のドラマは、特に日常を非日常に塗り替えるときなどに不可欠のものとなる。 

ははははははは。

ひひひひひひひ。

ふふふふふふふ。

へへへへへへへ。

ほほほほほほほ。

 このハ行の、口と腹筋を使った意味と無意味のリズム運動。ひょっとしたら人は、笑うためにこそ生まれてきたのかもしれない。意味の世界に生きている天使は、決して笑わないのかもしれない。そうだとしたら神は笑いを欲して人を生み出したのさとさえいえる、か。

 

 

風のトポスノート 95

気配の察知・リズムの引き込み


19998.9.24

 

 これまで出てきた話とも関係しますが、自分のリズムに相手を引き込む、あるいはリズムの共振を成り立たせるために重要なのは、相手の気配を正確に察知することと、エントレインメント(entrainment) つまり引き込みの働きですね。

 この二つは、一方は心理や感情の問題であり、他方は電磁気についての物理的現象のように思われがちですが、気配の察知というのも、実は、リズムの引き込みの条件を探る働きなのではないでしょうか。そして、気配というとなんとなしにアナログ的に思われ、それに対してリズムというとデジタル的に思われますが、実は、そういう分け方を超えるところが、リズムという問題の面白さなんですね。リズムは非線形的なものと線形的なものとを架橋する働きだといってもいいのです。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第1回リズム /第2通信・中村雄二郎→いとうせいこう)

 リズムは、動く形だといえるかもしれない。その動く形とは、その場全体のなかで、その場から影響を受けながら、その場そのものを構成するように働く。

 気配というのは、その場全体のもっている形になっていない潜在的な形を感じ取るということだろうか。

 その気配を感じ取るためには、意識を自分という殻のなかに閉じこめてしまうのではなく、むしろ自分をその場全体へと開く必要がある。ある意味では、内と外とをひっくり返すことで、自分をむしろ対象化して認識し得る可能性でもある。

 自分が動く形になるということは、自分の形を場の原理にあわせて変化させるということ。共振ということでもある。だから、その変化した自分を場の方向から逆にとらえることも可能になる。

 だから、「自分のリズムに相手を引き込む」ということは、相手がどのような形であるかという気配を感じ取りながら、その形がどのような変化の可能性を持ち得ているかを探り、その上で、相手の変化の可能性を引き出し得るような動く形へと自分を戦略的に変化させていくということになる。

 相手を引き込み、笑わせるというのもまずは相手の「意味」の世界にどこかで裂け目を入れ、その裂け目から「無意味」を放り込み、相手の形をリズミカルに変化させるということではないだろうか。「意味」と「無意味」がめまぐるしく交替するような動く形。ははははは。

 「ははははは」は、共振する。つまり、伝染する。そしてどんなささいな刺激からも増幅してしまうほどのときもある。引き込みが絶妙なリズムで起こっているわけである。

 そして、その「ははははは」は、無意味に傾斜してしまったときまた、あまりの意味の過剰によって構築されてしまったときそのリズムを止めてしまうことになる。そして、なぜ自分があれほど笑ってしまったのか、と自分でも不思議に思えるようなときさえある。

 

 

 

風のトポスノート 96

不意打ち・裏返し


1998.9.27

 

 「不意打ち」……ちなみに、僕がレゲエや歌舞伎にひかれる理由のひとつがそれです。レゲエはリズムの基本が"裏拍子"(一拍裏)ですし、時おりさらに細かく分割した拍子の"裏"(半拍の裏)にコンとカウベルなどを鳴らしてくる。歌舞伎においてはツケ打ちや大向こうからの掛け声です。役者の見得に合わせてカン、カカンと打たれるツケを、僕は必ず半拍の裏で取っているのです。

  観ている者/聴いている者の呼吸の裏側に強勢を置く。心臓が踊るような不意打ち。それは大向こうの掛け声にもいえます。「音羽屋!」というよりは「ン音羽屋!」と、呼吸の頭に微妙なタメを作っているあの感じ。下手な人は演技の呼吸の表で「成駒屋!」と声を掛け、舞台のリズムを退屈なものにしてしまいます。ですから、ここはますますテーマ順序の「不意打ち」を許していただかなければなりません。(中略) 

 ただ、日本人はこの"リズムの裏"が苦手なようです。音楽的・舞踊的には拍子の表が基本ですし、文学も"裏返し"を正当なものと認めない傾向がありますから。(中略)

 井原西鶴や鶴屋南北という"裏返し"の天才たちを大先輩としてもちながら、特に近代の日本はリズムの多様性を大きく失ってしまった。ないしは、リズムの裏に対する鋭い感覚を忘れてしまったのかもしれません。"裏返すリズム感"こそ、人間の古層に眠る芸能感覚だと思うのですが、残念なことです。ちなみに、八木節の鉦(しょう)にだけは珍しくすさまじい"裏リズム"がありますね。あれはほとんどサンバに匹敵する。ただ、それが古くからあったものか、西洋のリズムを取り入れて出来てきたものかが確認できていません。物語をゆったり歌った後、いきなり出てくる細かいリズム。コン・コン・カカンと打つ鉦は自らの裏リズムの他に、流れを裏返す力があります。語られる悲しい物語を激しい律動で断ち切り、なおかつ盛り上げてしまう力。まさに芸能的です。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第1回リズム /第3通信・いとうせいこう→中村雄二郎)

 「近代の日本はリズムの多様性を大きく失ってしまった」というのは明治維新以降、いわゆる富国強兵のため人間を均一化させるような教育などが大きく影響しているのではないか。

 運動会や音楽の授業などもそのために作られたともいう。たしか、夏目漱石の小説には、運動会批判の部分もあったように記憶しているがかつて日本人は、音楽に合わせて行進するなどなかったということだ。もっとも音楽に合わせて行進するとかいうのは、近代において日本に限らず各国が取り入れた方法論で、やはり各自を思い思いの「リズム」で行動させていたのでは統制がとれにくいらしい。

 一糸乱れぬ行進、統制のとれた行動を美しいと見ることもできるが、個人的にいえば、昔からそういうのが苦手な質で、運動会などというのもどうもいけなかった。

 均一の製品を効率よく生産するためには、リズムの多様性などは排される必要がある。「不意打ち」は「均一」とは矛盾してしまうからだ。教育などでも「不意打ち」は多くの場合、是正の対象となりがちだ。効率の良い正解マシーンを製造するためには、「不意打ち」を許容してしまえば、ははなはだ効率の悪い、ともすれば問題児を製造してしまう恐れがあるからだ。

 音楽も単なる均一のリズムは面白くない。先日、CMの音楽をクラシックのメロディーを使ってデジタル制作してもらったのだけれど、最初にできあがってきた楽譜通りのデモ音楽は音楽とはいえないしろもので、一糸乱れぬ、統制のとれた音楽の音楽性のなさを如実に表わしていた。とくに「歌う」ことを強調する必要があっただけに、最初からそうなるだろうなとは思っていたのだけど、その「歌」の欠如感は思ったより強かった。歌う音楽にするためには、リズムやテンポなどを狂わせる必要がある。そのいわば「狂い」、ある程度計算された「狂い」のようなものがどうしても必要になってくる。

 「不意打ち」「裏返し」は、単なる「狂い」ではなく、均一感を崩し、それに生きた力を注ぎ込むためのかなり計算された、しかし生き生きとした内的生命のあるリズムなのではないだろうか。

 

 

風のトポスノート 97

哲学と野暮


1998.9.27

 

 「哲学」と「ドラマ」と「野暮」の間を考えるうえで私がわが意を得たのは、話が飛ぶようですが、ブレヒト の「異化」の理論 説です。ベルトルト・ブレヒトの芝居は、一方で社会主義リアリズムと結びついていたため、最近では冷たく扱われていますが、彼の「異化」(Entfremdung )というのは、簡単には忘れられてはならない概念です。ブレヒトが「異化」概念を重視したのは、伝統的な美学の感情同化だけでは演劇において自己と感情的に同化した主人公には出会えても、他者には出会えないと考えたからです。「感情同化」によらないで楽しめるような演劇はないだろうか、とブレヒトは自問し、「異化」の概念を導入したのでした。異化とはなにかと言えば、それは、彼によれば、簡単に言ってまず、出来事や性格から、当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくり出すことであり、また物事を歴史化して、変化のなかでとらえることでした。(中略)

 「哲学」が「野暮」なものだということについて、是非付け加えておきたいことがあります。それは、「……とはなにか?」という問い方、問題の立て方についてです。これは私なんかも西欧的思考の典型としての「哲学」に出会ったときに、新鮮で手応(てごた)えのある問題の立て方として魅了されたのです。また、問題を真っ向から問うときにはそれ以外の問い方がないように思ったのです。ところが、あるとき、ハイデガーの『それはなんであるか?哲学とは』という言い方が、おそろしく主語的な論理に囚われたものであることに気がつきました。主語的な論理とは問題を真正面から問う「野暮」な思考形式であり、その囚われから脱する工夫と努力も必要ですが、この野暮な問い方を捨てきれないところに「哲学」の光栄と悲惨があるのではないか、とこのところ、しきりに考えています。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第1回リズム /第4通信・中村雄二郎→いとうせいこう)

 前回、「不意打ち」「裏打ち」をとりあげたが、ここでふれられている「異化」という手法もそのひとつだといえる。

 「異化」といえば、もう20年以上前はじめてその概念を知ったとき、とてもうれしかったというか、「わが意を得た」のを覚えている。その頃は、とくに「感情同化」を拒否する傾向が強かったからだ。もっとも、たんなる「賛成の反対」的な拒否傾向ではあったのだけれど単なる「感情同化」があまりにも陳腐で面白くなかったのだ。まさに「感情同化」のなかでは「他者には出会えない」。

 もちろん「感情同化」はそれはそれで重要な要素なのだけれど、「感情同化」するにしても、一度は「異化」され、それが拒否された上でのそれでなければ、単なる無意識の支配に屈することになる。重要なのは意識的であるための戦略なのだ。「異化」によって、無意識は一度意識の舞台への浮上を迫られることになる。

 さて、「哲学」と「野暮」についてだが、たしかに「主語的な論理」のない哲学が考えられにくいところにその野暮さがあるといえる。「……とはなにか?」という問い。その問う者とは「なにか?」という問いも同じ野暮さ。その野暮さからは、結局その「問う者」の根源は永遠に見極められそうもない。まさに、それを問うことそのものが、かぎりない野暮になりかねない。

 西田哲学の試みは、禅が野暮から遠いように、その野暮さに対する挑戦だったともいえそうだ。そこに究極の術語として、絶対無が登場する。その絶対無が自覚的に自己展開する。しかし、その特殊な問いの立て方は「野暮」ではなく「問う者」の根源に迫るものだけれど、「野暮」でないだけにかなり神秘主義めいてくる。そのためもあり西田は論理や数学にも傾斜するのだけれど、「哲学」と「野暮」はあまりにも近しい。

 しかし、異化という手法が異化でないものに対する異化であるように哲学も野暮があってこそ、野暮でない問いの立て方も成立する。

 「あんた、そりゃあ野暮じゃないかえ」。

 そう言われたとしても、「野暮は先刻承知」とうそぶいて野暮の滋養を存分に吸収してみるのもまた一興。異化の異化・・・・という楽しみもまた一興ではないか。

 

 

 

風のトポスノート 98

常に亡命し続ける者としての哲学


1998.9.29

 

 「粋というのは東京の下町の人間の生まれながらのもち味などではないのを痛感しました」という言葉、実は我が意を得たりという感じなのです。なにせ、江戸っ子を看板にする人はたいてい感覚がローカルです。僕の言葉の中ではそれは「田舎者」と同義。自己の生まれた土地を世界の中心とし、誇るいう形は思考の狭隘(きょうあい)なローカライズにつながります。

 では「都会者」とは何かと言えば"自分を世界の中心に置く人"ですね。どこか別の場所へと「上ろう」という感覚がない人。土地へのコンプレックスがなく、愛着心もニュートラルな人間。それが僕なりの都会者の定義なのです。ですから、山奥にも都会者はいます。都市で生まれ育った者にも田舎者はいる。

 とすれば、前回中村さんがお書きになった「ある感情的同化から自己を引き離す」「感情に流されず自己を共同性から屹立(きつりつ)させる」という性格は、僕にとっては「野暮」ではなく、粋/野暮の二項対立にかかわらない都会的な精神だということになります。 哲学は本来、そういった都会的なものだったわけですよね?

 亡命者に優れた哲学者が多いのも事実ですし、共同体間の常識の差異のなかからこそ、哲学が生まれ出てくるとはよく言われることですから。僕はその意味で、哲学は偉大な「隙間(すきま)産業」だと思っています。共同体と共同体の隙間に生まれる営み。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第1回リズム /第5通信・いとうせいこう→中村雄二郎)

 偉大なる「隙間(すきま)産業」としての哲学、「共同体と共同体の隙間に生まれる営み」としての哲学は、「思考の狭隘(きょうあい)なローカライズ」から最も遠いもの。シュタイナーのいう「故郷喪失者」の姿勢に近いのではないか。常に亡命しつづけている者の姿勢。

 「「ある感情的同化から自己を引き離す」「感情に流されず自己を共同性から屹立(きつりつ)させる」という性格」を持っている人間。血縁や地縁、組織への執着によって思考し行動するのではなく、常に「自由」から思考し、行動する人間。逆説的にいえば、そういう人間こそが、もっとも共同体の可能性を持ち得ているといえる。

 中村雄二郎は、この後の第6通信で、

 私自身このごろ、「哲学者であることを貫くためには自分の国を追われる覚悟ももたなければならないのではないか」とさえ思うこともあります。

 ということを述べているが、そういう哲学者であればこそ、高次の意味の共同体形成の可能性を開くものであるといえないだろうか。

 さて、ユダヤ教は、基本的に集合自我の形成に関わり、その「旧約」を「新約」として、つまり、「個」としての自我の形成に関わるものがキリスト教であるといえるが、それも「旧約」としての血縁・地縁共同体から屹立したいわば「故郷」を積極的に喪失した者の新たな「約束」としての共同体の形成に関わるものではなかったか。もっとも、2000年の昔、その「新約」はまだ生まれたばかりの「個」と「個」によるローカライズを脱した「都会者」の態度ではあったが、2000年後の現在、その「新約」は、シュタイナーのキリスト論を経てさらに「故郷」を積極的に脱した「都会者」の態度としての可能性を垣間みせてくれているといえそうだ。もっとも、その反動として、民族紛争などが絶えないのだが。

 

 

 

風のトポスノート 99

観念力


1998.9.29

 

 想像力豊かであることが、人の第一の誉(ほ)め言葉にもなっている現在、しかし想像力というのはほとんど視覚的現実に基づいた狭苦しい知覚に過ぎないと、哲学者以外の一体誰(だれ)が言い得るでしょうか?(中略)

 こうして想像力は人の発想を根底から揺るがすことがない。むしろ、人間の脳が誇り得るのは「観念力」なのだと思うのですが、いかがでしょうか?

 なんだか「観音力」みたいで誤解を招きそうですが、この力が発現しているか否かが哲学の生命線であって、わかりやすい /わかりにくいには一切関係がないのではないかと思うのです。その「観念力」の衝撃性、新鮮さがあれば、哲学はいつまでもその破壊力、構築力で人を感激させ続ける。

 まさしく「想像を裏返す」ことが「観念力」の重要性ではないかというわけですし、「ある感情的同化から自己を引き離す」「感情に流されず自己を共同性から屹立させる」ことがそのまま「観念力」と言い換えられるような気がしています。反想像力、と。 

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第2回哲学 /第5通信・いとうせいこう→中村雄二郎)

 

観念力は自己撞着という退屈なシステムに気づかせてくれる。だからこそ、中村さんのおっしゃっていた"亡命もやむなし"という言葉がよりいっそう厳粛な重みをもって響いてきます。もちろん、ひとつの国家内にいることは自己撞着に結びつきやすいからですし、何よりも単一のリズムで思考することになるからです。日本人だから日本人だとか、下町だから下町だという考え方のリズムのなさは本当に退屈です。前に定義した都会者を、"リズムのある人間"と言い換えてもいいように思われるほどです。”いや、デジタル人間とまで言っておきましょうか。リズムは切断です。したがってリズムのある人間はアナロガスなものの中に安住していられない。非連続なリズムが作り出す経験の上にだけ連続的に存在するのです。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第2回哲学 /第7通信・いとうせいこう→中村雄二郎)

 「日本人だから日本人だとか、下町だから下町だという考え方」にとらわれて身動きできなくなってしまう「自己撞着」の傾向から「自己を引き離す」ことが、現代日本においてはもっとも重要な衝動のひとつなのではないかと思う。

 「日本人の誇り」とかについて云々する前に、「私は私」なのだ。「男」だとか「女」だとかいう前に、「私は私」なのだ。「父親」だとか「母親」だとか、「子供」だとかいう前に「私は私」なのだ。「弱者」だとか「権力者」だとかいう前に、「私は私」なのだ。自分をどこかに「感情的同化」させる「リズム」から、常にみずからを引き離すことができなければならない。「感情的同化」によって自己撞着のリズムにとらわれたようなあり方から自由であるところから出発しなければならない。

 「感情的同化」というスクールが必要な段階もあるかもしれないがそれはやはり「旧約」の世界に属する。そこから「新約」への世界へ踏み出す勇気を持たなければならない。その「新約」は、自らの自由との契約である。

 いとうせいこうの言う「観念力」は、そのための起爆剤になる。つまり、自分で考えるという力でもある。人が考えたことをなぞったり、それに同化しようとするのではなく、そういう同化のリズムに「不意打ち」をくらわすことのできる力。

 自己撞着のリズムはほんとうに「退屈」である。演歌を歌いながら、酒を飲んで相槌を求めて涙を流すようなシーン。自分の出身地に近い高校を応援して興奮する甲子園のシーン。通常は、日本を口にだすことをはばかっている人がオリンピックやワールドカップでは我を忘れて興奮するシーン。自分を「弱者」として規定し、「弱者の権利」を叫ぶシーン。そんな「リズム」の自己撞着から、常に自由であるためには、「リズム」への意識的な感性と「観念力」が求められる。

  

 

風のトポスノート 100

「裸」の言葉


1998.9.30

 

ストア派に対して私が注目し、重視しているのは、次の三つの点からです。一)ストア主義は、ギリシアの古代末期にヘレニズムの文明が解体して、人間個々人が世界のなかにたったひとりで投げ出された状況のなかで要請され、生まれたものとして、少なくとも一面において、これまでのような国境の実効性が失われ、それと同じような状況が見られるようになった現代の「インターネット」時代に「裸にされた個人」の哲学として示唆するところが多いこと。二)「裸にされた個人」の内容になりますが、個々人がさまざま文化的装置に依存するのではなく、自分の内面と向かい合わざるをえなくなったこと。さらにいえば、三)さまざま文化的装置、とくにその基礎をなす言語も裸にせざるをえなくなったことです。

 実は、これらの点は、いずれも、この「インターネット〈哲 学〉アゴラ」全体を始めるときに、抱え込まざるをえない大きな問題として、私がつよく意識したことなのです。なかでも、第三の点は、このようなEメールによる交信において、言語、さしあたっては日本語が裸にされる結果、どういう事態と可能性が生じるのか、危惧と期待によってはらはらさせられているのです。ソシュールがストアの言語論を大きな手がかりにしたのも、それが、さなざまな文化装置によって守られ、保護されたものとしての言語ではなく、「裸の言語」を扱ったものだからではないでしょうか。

 それに、いまになってみれば、あのロラン・バルト が「エクリチュール」について言った「零度 」というのは、単にポスト・モダンのキーワードにとどまらず、さらに大きな射程をもっていたことになりますね。彼がソシュールの仕事をほかの言語論者たちとはちがったかたちで意識し、ソシュールが「記号学」のうちに言語学を含むものとしたのを反転させて、わざわざ言語学のうちに記号学を含ませたのも、そのためだったかもしれませんね。

(インターネット哲学アゴラ「哲学について」

第2回哲学 /第8通信・中村雄二郎→いとうせいこう)

 このノートも100回目になるのに気づいたのだけれど、ちょうど格好のテーマになっている。ぼくは、インターネットでこうした試みをしていることを「組織なきネットワーク」の実験だとも思ってきているのだけれど、それは、上記のなかで中村雄二郎氏が述べていることと深く共通している問題意識だと思う。

 これまではさまざまな衣を付け、地縁やらさまざまな「文化装置」やらをがしゃがしゃと引きずって歩いていたのに対して、インターネットでは、そうしたものを脱ぎ捨てたまさに「裸」にされた「個」の可能性が開かれているのではないだろうか。

 もちろん、可能性ということには、限りなく堕落するという可能性や無責任になるという可能性も含まれているのだし、インターネットを使っているにも関わらず、そこにこれまでの「文化装置」や人間関係などをそのまま持ち込んで、単なる便利屋さんの道具としてしか使われない場合のほうがずっと多いのだけれど、それにしても、インターネットに対して、中村雄二郎氏が「新・ストア主義」ということで、「裸」にされた「個」の可能性を見ようとしていることは非常に重要なことだと思う。

 ここで、ロラン・バルトの「零度」の「エクリチュール」が引合にだされているのも、とてもうなずける。ロラン・バルトの試みはどれも不思議な言葉の織物なのだけれど、その言葉の織物に包まれているものは、確かに予想を超えた射程をもっている。

 言葉、言葉、言葉。

 ぼくがこうしたインターネットによるコミュニケーションのなかでこうした言葉を発しているということは、いったいどういうことなのだろうと、ときおり思うことがある。ひょっとしたら、ただ暗闇のなかで、そこに誰がいるかもわからぬままひとりつぶやいていたり、叫んでいたり、歌っていたりするような、そんな不思議な、ある意味では「裸」にされた言葉が、だれにも届かない可能性と同時に、あらゆる人に届けられもするような、そんな可能性を持ちながら「遊戯」しているようなシーン。

 「人間個々人が世界のなかにたったひとりで投げ出された状況のなかで要請され、生まれた」「裸」の言葉。

 「あなたがもっとも嫌悪する性質は?」という質問にシュタイナーは、「杓子定規と秩序の感覚」と答えたそうだけど、「杓子定規と秩序の感覚」から最も遠い場所で踊っていられる、そんな「裸」の言葉。

 誰にも守られていない「裸」の言葉。けれど、あらゆる条件付けから自由であるような可能性をはらんだ「裸」の言葉。アーリマンの道具ともなり、ルシファーの乗り物にもなり得るけれど、光に呪縛されたアーリマンを解放し、愛を恐れるルシファーの闇に光を注ぎ込む可能性をも持ち得るようなそんな「裸」の言葉。

 ぼくのこんな「裸」の言葉は、いったいだれに届いているのだろうか。ぼくの前には、まだ見ぬ可能性としての闇が深く広がっている。その闇はどこまでも深いと同時に、ひょっとしたらぼくのひそひそ声でさえ聞き取れるところに、たくさんの「耳」がひしめいているのかもしれない。

 ぼくは自由の海をはるかに湛えている「裸」の言葉の船を、「岸辺のない海」に向かって漕ぎだしている風の水夫なのだ。

 


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