風のトポスノート1-10

(1997.6.16-1997.7.28)


1●踊ること歌うこと

2●共同体

3●悪

4●学ぶこと

5●生命

6●癒し

7●他人という闇、自分という闇

8●うつろのなかに満ちる美酒

9●友愛

10●わからないこと

 

風のトポスノート1●踊ること歌うこと


(1997.6.16)

 

私たち人間の意図は宇宙運動を肢体を通して模倣することにあるのです。それではその意図は何によって実現されるのでしょうか。踊ることによってです。実際私たちの肢体は生活の場でいつも踊っているのです。いわゆる舞踏はその踊りの一断片にすぎません。すべての踊りは星々の、あるいは地球そのものの運行を人間の肢体で模倣することから始まりました。

しかし人間の動作が宇宙運動を踊りながら模倣することだとしたら、頭と胸とは一体なにをしているのでしょうか。それは宇宙の中で行なう私たちの運動をせき止めようとしています。運動は体から魂へと継続されることはできません。なぜなら肩の上で安らう頭が、運動を魂の中まで継続させないからです。頭が肩の上で静かにしているために、魂は静かに運動に関与します。そして魂は何を行なうのでしょうか。肢体が踊りながら行なうことを内省するのです。肢体が不規則な運動をすると、魂はぶつぶつ言いはじめます。肢体が規則的な運動をしている時、魂はさわやかに語ります。肢体が調和的なコズミック運動を行なう時、魂は歌いはじめさえするのです。そのように外に向かって踊る運動は、内に向かっては歌唱となり、音楽となるのです。

(シュタイナー「教育の基礎としての一般人間学」(筑摩書房/P161-162)

 道教に、「禹歩(うほ)」の術というのがあります。これは、魔除けや清めとしての方術であると同時に、何かの方術を行なう前に踏まなければならない前儀礼の一種で、基本的に、北斗七星の形を踏んで行なうものです。陰陽道や修験道などでも、この北斗七星の形を踏むということがあるようです。

 両足を揃えて立って、左足を半歩前に出し、次に右足を前に出してから左足を右足に揃えるというのが第一歩。次に第二歩として、右足から先に出して左足を出して右足を揃える。第三歩は、第一歩と同じ。これが、典型的な北斗七星の歩行である「天地交泰禹歩法」です。

 これは、上記のシュタイナーの引用にあるように、

すべての踊りは星々の、あるいは地球そのものの運行を人間の肢体で模倣することから始まりました。

 ということを、術として行なっているのだといえます。これがおそらく「踊り」の原型なのだと思われます。

 こうした宇宙的なマクロコスモス的な運動を人間というミクロコスモスが模倣することによって、それといわば共振するかたちで魂が奏でていくのが「歌」であり「音楽」なのではないでしょうか。マクロコスモスとしての「宇宙の歌」「宇宙の音楽」に対して、ミクロコスモスとしての「人間の歌」「人間の音楽」です。

 歌は、音楽は、魂の真の衝動とならなければならない。それを感じはじめたときから、歌も音楽も、単なる快楽のためのではなく、魂の祝祭を指向し始めます。それがわからなくなってしまったがゆえに、カラオケ文化が咲き乱れるようになっているとはいえないでしょうか。それは、魂の祝祭とはほど遠い乱痴気騒ぎでしかないように思えます。民俗音楽を聴いて魂が共振するというのも、おそらくそこには、宇宙との、そして大地との交感、共振があるからではないのか。そんなことを感じるようになったこの頃です。

 

 

風のトポスノート2●共同体


(1997.6.24)

 

 共同体の問題を追求してきたフランスの哲学者J=L・ナンシーが、一九九六年秋に日本を訪れた。そのとき東大の駒場キャンパスで行なった講演のなかで、穏健な感じの彼が或ることを明言して、私を驚かせた。

 彼は共同体の回復、あるいは新しい共同体の構築が必要なことを説いたのだが、それに対して、聴衆の一人の若い研究者が、そういうことを言われると、伝統的な共同体の重荷を未だに負っているわれわれ日本人は当惑する、困ると言って、疑問を投げかけた。それに対してナンシーは、次のように答えたのである。<われわれ西欧人は、いま裸のエゴの孤独に苛まれている。>だから、共同体の再発見は切実きわまりない問題なのだ、と。また、彼が、第二次大戦後、六〇年代に入って<共同体>の問題を切実に論じはじめたころ、ベルリンの極左グループから、<ナチズムの再来>だと騒がれた、とも言っていた。

 今日、<共同体>の問題を論じるのは難しい。個と共同体との関係をどのように調整し、<エゴの孤独>と<全体主義の悪>という両極にある陥し穴からどのように免れるか、さらに、個を共同体に埋没させるのではなく、共同体を個が十全に開花するための土壌にするにはどのようにすべきかは、人類にとって大きな共通の課題である。

(中村雄二郎「術語集II」(岩波新書/P66-67)

 この問題を考えはじめてからかなりな時間が経っているけれど、この問題が自分のなかにおいても、解決の方向を向いたことがない。むしろ、混迷のなかにさらに踏み込んでいくばかりのような気がする。

 ぼくは、実際、「共同体」が極めて苦手である。それは、幼稚園を登園拒否して以来のもので、みんなが同じ顔をし同じ方向を向いて並んでいるのをイメージするだけでも、なんだかとてもいたたまれなくなってしまうのだ。

 しかし、だからといって、上記の引用にもあるように、ナンシーがいうような「共同体の回復、あるいは新しい共同体の構築」が切実なまでに必要だということについては、よく理解できるし、まだ、やっと最近になって、その何らかの可能性についてもぼくなりに考えはじめたところだ。

 それは、ひとつには、シュタイナーの社会有機体三分節の考え方に影響を受けたということもある。精神における自由、法律における平等、経済における友愛、ということだ。けれど、これは、自覚的な個が共同体に参加し、また、自覚的な個を生かす共同対であってこそ成立するもので、日本のように、個を生かすということがうわべの建て前的理想で語られているだけのところで、成り立つものではないというのはおそらく事実であろう。

 これは日本だけのことではないが、新興宗教の隆盛や姿は違え、開発セミナーやそれに類するようなあり方の流行は、個の自覚及び開花という方向ではなく、みずからの自我をなんらかにゆだねてしまう傾向の結果ではないだろうか。

 日本人は、我をなくすことが大変に得意なところがあり、桜散るなかを特攻隊していくわけであり、逆に西欧では、<エゴの孤独>の裏返しとしての「全体主義」が起こり、そうでない場合には、ニューエイジにみられるような神秘に身をゆだね、自我を滅する方向にいくことが傾向としてみられる。

 この問題については、同じく「術語集II」の「宗教」の項が示唆的だと思われるので、あらためてとりあげてみたい。

 ともあれ、現在の日本は、共同体の息苦しさと同時に共同体の崩壊への危機感がともに高まっているように思われる。共同体が崩壊するのを憂えるゆえに、過去への帰還を語る傾向もあるが、それはやはり無意味でありまた危険なことでもあるようにも思う。崩壊しつつある共同体を逆回しして構築しなおすのではなく、崩壊後の再構築をいかにすべきかをやはり考えるべきだろう。

 ・・・と考えれば考えるほど、わからなくなってくるのがこの問題だ。実際のところ、個の自覚をベースにした自由な共同体を再構築していく以外の道はないのではないかというのが今のところのぼくの考えなのだけれど、それはあまりにも途方もない理想でしかないことがわかっている。そういう意味では、シュタイナーの社会論も限りない理想論だということもできる。しかし、理想なき実践はあまりに不毛なのではないかとも思い、この問題については、今後おりにふれながら、その理想に向けて、どのように一歩を踏み出していけるかどうかを考えていきたいと思う。

 

 

風のトポスノート3●悪


(1997.6.24)

 

どんなことであれ創造には想像力が必要であり、「善良なるもの」は想像力を欠いているので駄目だ。従って、この世を創造した神は「悪しき創造主」だったのに違いない、というのがシオランの主張である。宗教にかかわる部分には触れないとして、この「善良なるものは創造しない」というのは、本章を通じて多くの例をあげて述べてきた「創造性と悪」という点にしっかりと呼応する言葉である。(P31)

悪がなくならないということは、人間の心に本来的に悪が存在しているからだともいえるが、それが人間生活にある種の意義をもっているからだと言えないだろうか。悪は不思議な両義性をもっている。そのことを端的に示す例がすでに述べた「悪と創造性」ということになるだろう。これは、いかなる創造にも背後には「破壊」がつきまとう、ということではないだろうか。われわれが生きている世界はすでに何らかの秩序をもっている。そのなかで何かあらたにつくりだそうとするならば、古いものを破壊する必要がある。もっとも、それが破壊のみに終わってしまうと無意味になるが。(P47)

(河合隼雄「子どもと悪」岩波書店)

 善が悪を排除したがゆえの善であるとすれば、そこにはいかなる自由も存在しえないのではないかと思う。

 親鸞の悪人正機は、自らの悪を自覚することにより、善をより高次なものに変容させると同時に、悪の中にある善を通じて悪を変容させるものでもあるのではないか。

 「いいこだから わたしはわるいこ」というのは、いろんな意味を持っているように思う。まず、無自覚な「いいこ」は、「わるいこ」にさえなれていないということ。さらに、「わるいこ」の可能性を捨ててしまうことで、「よいこ」でいようとすること(純粋願望とかいうのもこれ)。それから、「いいこ」のふりをする偽善。

 悪の創造性というのは、自由と深い関係をもっている。シュタイナーの「自由の哲学」というのは、ある意味では「悪」の問題と切り放せないものでもある。悪の創造性ということでいえば、グノーシス主義が浮かぶが、その二元論は、シュタイナーの自由の哲学が提唱する一元論へと止揚する必要があるのではないか。

 東洋的な術語をあえて使えば「中道」。「中道」は、弁証法でもあり、善と悪の止揚をもその射程におさめているように思う。それについては、ホームページのなかに「中道論」及びそのなかの「風説維摩経」に比較的詳しく書いてみたものをおさめている。

 ・・・と、少しばかりかたい書き方になったけれど、自分のなかにある悪への自覚を踏み台にして、みずからの魂を育てていく可能性についてこれからも考えていきたいと思っているところです。

 

 

風のトポスノート4●学ぶこと


(1997.6.25)

 

 大人と子どもの断絶は、おまえは学ぶ側、わたしは、もうそれを済ませた側なんだという意識から生じる場合が多いと思います。

そこで立ち止まって考えてみてください。

そうなんでしょうか。

人は生きている限り、学ぶはずなんです。学ぶということは死ぬまでつづく。

たいていの人は、それを忘れるようです。

子どもが学ぶのは当然だけれど、大人は一応、卒業したと。

そんなことはないです。

人は死ぬまで学んで変わりつづけなくてなならない。

学ぶということは一つの経験ですから、必ず何らかの相手があって、はじめて成立することです。

学んで変わるということは、一人ではできない。仲間がいります。

仲間というのは先生だったり、親だったり、友だちだったり、あるいは自然であったりします。

書物というのもありますが、これは人が著わしたものだから、人間の変形と考えることにしましょう。

相手はさまざまですが、学んで変わるためには、必ずもう一方の支えが必要です。ということは一方的に、ものを教えるという関係は成立しないということになります。

あるいは学び合うという関係です。教師も子どももそうです。わたしが、子どもに学ぶ、といっているのは、そういう意味です。このごろ。「子どもに学ぶ」ということばは手垢がつきすぎました。

そんなふうにいっておれば、良心的な教師のように思われる。そんなばかなことはありませんね。

(灰谷健次郎「子どもに教わったこと」NHK人間大学P20-21)

 教えることと学ぶことは、一方的な関係ではありえない。すべては「自己教育」なのだから。しかし、そのきわめてあたりまえなこと。あたりまえすぎて言わなくてもすむようなことが、言われなければならないというところに、大きな病があるような気がする。

 この7月からはじまるNHKの教育テレビ「人間大学」に灰谷健次郎さんが出演するということで、そのテキストがでてたので、さっそく読んでみたのだけれど、こうしたあたりまえのこと、あたりまえすぎることを、ずっと訴え続けていることの重みをあらためて感じることになった。

 ぼくは、シュタイナーの思想から「教育」について、「学ぶ」ことについて大きな衝撃を受け、その膨大で総合的なビジョンをライフワークとしたいと考えるようになったのだけれど、同時代に生きる、この灰谷健次郎さんや、この「人間大学」にもとりあげられている林竹二さんなどからも、多くを学ばせていただいている。それは、もちろんシュタイナーのような宇宙論的なそれではないが、なぜか、読みながら、同じ種類の感銘を受けることがあまりにも多い。それはおそらく、「学ぶ」ということ、「自己教育」ということがその根底にあるからだろうと思っている。

 ぼく個人のことをいえば、「教育」については、ほとんど不信感以外を持たないできた悲しい人間ではあるけれども、だからこそ、それが教育の重要性を考えるための重要で切実な契機になったのだといえる。

 しかし、灰谷健次郎さんの紹介する子どもの詩はなんど読んでも、涙なくしては読めないような、そんなものばかりで、今回も、思わずからだを熱くしながら涙ぐんでいる自分を見つけてしまった。

 

 

風のトポスノート5●生命


(1997.7.6)

 

意識が進化し拡大するためには、地上の生命は変わるほかないのである。私は、物質としての生命すなわち自然はとは、意識の反映であることを認識した。ゆえに、その鏡に映っているもの、すなわち自然は、それよりはるかに大きな精神界が物質として反映されたものなのである。(略)

生命の進化を深く見つめてみると、その真理はイモムシの一生に簡潔に表わされているのがわかる。サナギの中でイモムシが変身したとき、それは生命の終わりなのだろうか。大きな力によって体が引き裂かれると、古い体は破壊されるが、新しい体がすでに作られているのだ。これはいまの時代を実に適切に表現しているではないか。イモムシの行動は単独でできるものではない。そのあいだずっと、意識は肉体に対して注意を集中しているよう要求している。イモムシの青写真には、チョウというまったく異なった生き物も入っているのだ。ゾウはいったいどのような青写真を持っているのだろう?クジラは?ヒキガエルは?さらに人間は?それは誰にもわからない。

チョウが変身をとげるように、私たちの惑星である地球も同じような過程をたどっている。いま自然界や私たちの周囲で見られる環境破壊は、多くの独特な形をした生き物が絶滅することを予告するものかもしれな いが、それは同時に、一層成熟した自然に適する新しい形の生き物を先導することになるのだ。

この過程に抵抗する理由はいくつかあるが、おそらく最大の理由は罪悪 感であろう。人類の歴史が、暴力と自然界に生息する生物の環境の破壊であったことがあまりにも自明であるため、みな罪悪感を背負うことになったのだ。でも、私の全体論的な見方からすると、たとえ複雑な感情の乱れや罪悪感や、いま存在するものに対する愛着があろうと、私たちはこの変化に本来備わっている重要な部分なのだ。自責の念もまた当然であるのは否めないが。

「人間は罪悪感を持つのではなく、自然を尊ばねばならない。生命の成り立ちという大きな枠の中で、自己を否定するのではなく、自己を認めることが大切である。」

(マイケル・J・ローズ「魂の絆」徳間書店/1997.2.28)

 「生命の尊厳」というのはいったいどういうことだろうか。ただただ少しでも長く生き続けることが何よりも重要なのだろうか。寿命が長いことがなによりも重要なことであるのだろうか。植物人間になって生きながらえる人間、臓器を交換可能な機械のパーツのようにとらえ、臓器移植によって少しでも長く生きようとする人間。

 問題を短絡的に単純化してとらえる危険性には注意深さが必要だが、「生命の尊厳」を語るために必要なのは「魂の尊厳」であり、「生」と「死」を超えた、またそれを貫いて流れる精神の流れを深くとらえていくことなのではないだろうか。

 地上生命の歴史は、ある意味では、「精神」の冒険でもあったように思う。地上に生命が生まれ死に生まれ死に・・・、そうすることで、「精神」は、それを載せるための「生命」を変化させ続けてきた。いかなる生命も立ち止まったままでいることは許されなかった。諸行無常というように、精神の受け皿としてのあらゆる生命は、変容を余儀なくされ続け、多くの場合、絶滅を余儀なくされた。しかし、絶滅は「精神」の死ではなく、新たな姿へのメタモルフォーゼとしてとらえることもまた重要なのではないか。

 シュタイナーの宇宙進化論は、こうした観点にも重要な示唆を与えてくれる。地球の転生を語っているのが、土星紀、太陽紀、月紀、地球紀であるように、地球もメタモルフォーゼを繰り返しながら、「精神」の冒険をしているのだ。その転生の冒険に重要な観点を提示してくれるのが「カルマ論」でもある。すべての存在は生まれ死に生まれ死にを繰り返す旅人なのだ。だから、もっといえば、生や死という観点さえ超えていかなければならない。

 そうした観点に立って、はじめて、「生命の尊厳」を語り、「自然」の大切さに目覚め、「自然」とともにあることの喜びを深く感じとり、環境問題などにも積極的に取り組まなければならない。

 鉱物も植物も動物も、その姿は違え、「精神」の顕現でもある。ただ、それは集合的な現われ方をしていて、人間のような自我をこの地上において有していないだけだというのがシュタイナーの神秘学的観点なのだけれど、自我を持ち、「個」としてこうして地上を歩んでいることの意味を我々は深くとらえていかなければならない。

 「個」であるがゆえに、集合的な自我ではなく、「個」の自由を基礎に置いた「共同体」について考えなければならず、「個」の自由であるがゆえの「悪」の意味について考えなければならない。

 

 

風のトポスノート6●癒し


(1997.7.9)

 

このごろは、「癒し」が一種の流行となっている。私自身もそれにある程度かかわっている気がして、申し訳ないような気持ちでいる。というのも、「癒し」ということが何だか手軽に行なわれたり、何かの「マニュアル」に従って行なわれたりすると、うまく成功するように感じさせるような、もの言いをする人が多い気がするからである。癒しはそれほど単純なことではないし、不可解な部分さえある、というべきである。(中略)

癒しの根本は、そのことによる悲しみ、怒り、痛み、などを心のできるかぎり深いところの中心に据え、それはそれとして、日常のしなくてはならぬことを、がっちりと行なうことである。おそらく、それは簡単には言葉にならないだろう。中学生たちに感想を聞き、それによって「癒し」を行なおうとするのは単純すぎる。おそらく、彼らはあまり話さないだろう。それは隠しているのでもないし、感じていないのでもない。それは言葉にならないのだ。もし話し合うことによって癒しを行ないたいのなら、彼らの「言葉が熟し」それを聞かせてもらうほどに「関係が深まる」のを待たねばならない。その 待っている間、何カ月とか時には何年かの間、前記の悲しみを、自分の心のなかにずっと据えている力がなくては、ことは起こらない。

(河合隼雄/朝日新聞1997.7.9・21面より)

 なにごとにおいてもそうなのだけれど、手軽にできるというのは危険なことが多い。手軽にできるということそのものは、それはそれでとても有効なことなのだけれど、その手軽ということのかわりに引き渡してしまう代償のことを忘れてはならない。

 ハウツーマニュアルで済むようなことであればそれでいいだろうし、それがもとになって新たな展開ができるようであればそれは貴重なきっかけになる。セミナーにしても、それがきっかけになるという意味では有効なことも多いかもしれない。

 けれど、ハウツーマニュアルやセミナーだけで、なにかをした気になるというのは、とても危険なことなのではないだろうか。大事なのは、そうしたきっかけをどう日常的に展開していけるか、根気よく自分なりの血肉にしていけるかということなのだと思う。

 河合隼雄さんが言うように、気づきを「種」として大事にしながら、「日常のしなくてはならぬことを、がっちりと行なうこと」がなくては、しっかりとした足どりで魂の深みに降りていくことはできないのではないか。その日常的なことは、「種」を植え、水や肥料をやり、発芽させ育てていくことであり、そのなかではじめて、花が咲き、実りのときを迎えることができるのではないか。ハウツーや教条のようなものに頼るのではなく、自分で考え、行動し、試行錯誤していくなかではじめて、日常のなかで「熟」し、風雨に耐えうるような魂の力となっていくのではないか。

 マニュアルや教条どおりにロボットのように行動することは、むしろ魂を萎えさせ、何も「熟」さないまま、腐っていくのではないかとさえ思う。

 さて、「癒し」ということでいえば、それを成長のためのきっかけとしてとらえる必要があるのではないかと思う。そうでなければ、単なる傷のなめあい的セミナーなどは減ることはないように思う。難しいのは、成長させるのは結局自分だということ。自分で傷を「種」と認識し、根気よくそれにつきあっていく以外にないということ。だから、その「傷」の原因を安易にほじくったりすることというのは、植えたばかりの種を地中から掘り出してだいなしにしてしまうことにもなる。

 「魂の謎」は深くで迷路のようなものだ。だから、それにつきあいながら、出口を見つけるためには、それなりの手間暇がかかる。そして、そのプロセスこそが、魂の成長のために重要なのだと思う。

 

 

風のトポスノート7●他人という闇、自分という闇


(1997.7.10)

人は、体験や感情を他人と共有することはあっても、他人のすべてを理解出来るわけではない。そのことを思い知ったときに、わたくしは多分、子どもを卒業したのだと思う。

子どものころ、他人という闇はわたくしを孤独にしたし、学校にも親にも友だちにも、理解されたと感じたことは一度もなかった。その一方で、わたくし自身も、相手を理解出来ないという思いを深くし、社会に出て他人との関係が多様なものになるまでの十数年間は、他人という闇に囲まれて逼塞しているのみだった。他者こそは<わたくし>を存在させるものだから、他人や世界が闇なら、このわたくし自身も闇だったということだ。(中略)

大人であるわたくしの目には、透明な<ボク>は、何重にも矛盾した存在としか思えない。矛盾していることが人間の本質なのだから、矛盾自体は問題ではない。しかしこの子どもは、矛盾を矛盾と認めず、矛盾し続けたまま、それを絶対化するための、自分だけの言葉や記号を用い、自分だけの体系を外の世界に投げつけて、理解しない人間が悪いと言う。そして、ますます世界から自分を隔離して、他者への絶望と敵意をつのらせるという悪循環の中にいる。(中略)

人は理解しあえるもの、仲良くすべきものといった言葉だけの理念が虚しいことを、彼は早くに見抜いていただろう。他人に理解と愛情を期待し、しなしば裏切られて傷ついたとき、人間とはどういうものかを学ぶ代わりに、自分を受け入れないものを排除する論理を彼に育ませたのは、記号だけの体系を教えて人間存在の闇を教えなかった大人である。

(高村薫/朝日新聞1997.7.10 21面)

 このところ、朝日新聞に「透明なボク/神戸小6殺害事件を問う」というシリーズが、毎日いろいろな方によって書かれていて興味深い。前回紹介した河合隼雄さんのものも、このシリーズだったが、今回の高村薫の考えは、これまででもっとも首肯できるものだったし、ぼく自身の経験や感じ方と深く共通するものがあった。

 人は、他人という闇、世界という闇に直面して、自らに深く拡がっている闇に気づくことができる。人は、そうした闇の中から立ち上がらなければならない。それが、「自我」なのだから、その「自我」の闇に気づけないと、もちろん、他人や世界の闇にも気づけず、それを理解する糸口も持てない。

 つまり、相互理解した気になったままのぬるま湯のような状態でいるか、その逆に、自分を受け入れないことを怨み、排他、攻撃にでることになる。「その逆に」と言ったが、実は「逆」ではない、同じものの裏と表であり、それは実は、姿は違え、同質のものなのではないだろうか。

 自己認識とは世界認識でもある。

 自己認識とは反省的意識でもある。

 意識をリフレクションさせながら、他人、世界という闇と同時に自分という闇に向かう。その矛盾を生きようとする。

 かつて、ぼくはその矛盾を生きるということを、「中道」という弁証法的な実践として書いたことがあったが(「中道論」参照)その矛盾をいかに生き抜くかということが、人間の最重要テーマであり、「人間学」の大きな課題でもあると思う。

 自我は、他者を、そして世界を受け入れる大きな「器」になるという課題を持っている。自らを自己意識の闇の炎で焼いて硬質の器をつくるのだ。その器に、他者が、世界が載せられる。作られた器の容量と強度が人格そのものだといえる。闇を知らなければ、器は焼けない。従って、他者も世界も、排除、攻撃の対象としかならない。

 

 

風のトポスノート8●うつろのなかに満ちる美酒


(1997.7.23)

 

 俊成の言葉を思い出して頂きたい。「やまと歌はただ仮名の四十七文字のうちより出でて、五七五七七の句三十一字とだに知りぬれば、やすきやうなるによりて、口惜しく人に侮づらるるかたの侍るなり」だから、道を極めることは至難の業であり、たとえ極めたとしても、「むなしき空の限りもなく、わたの腹波のはたてもきはめも知らず」といったような茫漠とした境地で、自然と同化するか、無心の境地に至る、としかいいようのな い「空」の状態に身を置くことであった。

 こういっていますと身も蓋もなくなるが、山本さんの言葉を借りていえ ば、「<無内容>とはそのまま内容のないことではない。今日近代文学のあり方になじんだ私たちが、ごく普通に<内容>といって思い浮かべるところの、意味とか、観念とか、意識とか、思想とか、そういうものを主にして考えた場合の、<無内容>なので」あって、そういうものを全部取り去った後、うつろになった容器の中に、おのずから満ちてくる美酒を、迢空は短歌の極地と考えた。それは音楽のように気持ちよく流れるものであ り、消え去った後には、汲めどもつきぬ泉の豊かさが残る。迢空はそれを 短歌の「即興性」と名づけたが、およそ何がむつかしいかといって、こう いうことを説明するほどむつかしいことはない。迢空がどんな言葉を用いようと、それは結局同じことを言っているだけで、日本の芸術は、しょせん逆説でしか言い表わすことの不可能な運命を荷なっている。

(白州正子「花にもの思う春」平凡社ライブラリー/1997.7.15/P62-63)

 数カ月前より、白州正子の著書を読み始めているのだが、読む度に、日本の芸術の深さを感じさせられることが多い。引用文中の「山本さん」というのは、山本健吉のことで、引用は、「いのちとかたち/日本美の源を探る」という著書からのものであるが、これもちょうど角川文庫ソフィアの新刊(最初は、昭和56年刊)としてでたばかりなのが、シンクロニシティしていて不思議な気がする。こういうときには、こうしたテーマについてもっと掘り下げなさいというとだと勝手に思うことにしているので、そこらへんは素直にしていれば勉強になる(^^)。

 さて、意外な話かもしれないが、シュタイナーの神秘学を現代の日本で学ぶということは、日本を深く学ぶということでもなければならない、ということは再認識することが必要だと思う。

 シュタイナーの人智学は、西欧の文化伝統の中で、西欧の方々を対象として展開されたものなのだ。もちろん、その思想は、単に西欧だけでなく、広く展開可能だとは思うが、それを展開し、さらに豊かな実りを生むためには、それぞれの文化伝統のなかに深く分け入っていくことで、その根源の部分でつながっている地下水脈を発見しなければならない。

 たとえば、現代日本で「シュタイナー教育」に関わっている方のうちで、日本の文化伝統についても深く分け入ろうとする方がどれだけいるだろうかと考えたときに、その貧しさばかりが目立つのではないだろうか。もちろん、「シュタイナー教育」ではない側面では必ずしもそうではないのだけれど。

 さて、上記の引用にもあるような、「うつろになった容器の中に、おのずから満ちてくる美酒を、迢空は短歌の極地と考えた」という箇所には思わず頷いてしまった。

 「うつろになった容器」というのは、「自我」を矯めて「器」となり、聖杯となった人間存在でもあるのではないか。人間は聖杯となるときに、大きな乗り物となることができ、そこに宇宙の音楽も流れ入ることができる。逆にいえば、「うつろ」にならなければ、そこには、宇宙が流れ込んでくることができないのだ。

 ・・・・と、そんなことを想像してみたのだった。

 最近になって、ようやく万葉集、古今和歌集、新古今和歌集などの日本の古典の素晴らしさに目が開かれるようになった。神秘学を学ぶということは、あらゆる面で感受性を深めるということであり、日本に生きる存在としてその文化伝統を深く理解することそのものが、神秘学を学ぶ重要な側面であるということを忘れてはならないのだということを特に最近よく考えるようになった。

 

 

風のトポスノート9●友愛


(1997.7.25)

 

『天の瞳』で書きたかったことは友愛ということです。人が利己で生きたときに、人々はつながらない。世界の先住民の中には、共通した思想があります。木に実がなると三分の一は、自分が生きるために食べる。三分の一は、自分の子孫のためにもがないで残しておく。最後の三分の一は、人間以外の生物のために、やっぱりもがないで残しておく。沖縄の人たちも同じような思想を持っています。生命の連帯というもの、生命の平等感というもの、一体感というものをしっかり持っています。だから人間が孤立しません。だから優しい。私たちはすべての人間の関係を友愛というものに置き換えたほうがいいと思います。

親は、自分の子という所有格で考えますが、『天の瞳』の中で書いたのは、書こうとしているのは、自分の子だけれども、人生のかけがえのない伴侶だということです。そうすれば親と子の間にも友愛が成立します。親子の情があることは否定しませんが、それもまた友愛の一部ととらえれば、人 間はつながることができる。それを、私は『天の瞳』の中で書きたかったのです。

(灰谷健次郎「私が『天の瞳』で書きたかったこと」小説新潮7月臨時増刊「灰谷健次郎まるごと一冊」所収 P84)

 「情」も「友愛の一部」ととらえるということはとても重要なことだと思います。親子の間に「友愛」が成立するということは、互いの間に人間同士として尊敬しあえる共通の基盤が成立するということだと思うからです。これは、先生と生徒の間の関係でも同様です。

 もちろん、親として、教師としての責任や権威は不可欠なものですが、それも「友愛の一部」としてのそれでなければならないと思うのです。

 男女間でもまったく同じことがいえます。よく男女間では、「友だち」ということが、「恋人どおし」ではない関係、つまり、「お友達のままでいましょ」とかいうことで言われますが、そんな馬鹿な話はない。

 「情」も「友愛の一部」であるとすれば、むしろ、愛情の発展形として「友情」「友愛」がなければ嘘になる。もちろん、男女間で、いわゆる性愛的な関係のない友人関係もあるけれど、それも含めて、「友愛」ということに性別は関係しないといえる。逆に言うと、「友愛」のない「性愛関係」「恋人関係」「夫婦関係」こそが大きな問題なのではないかと思う。

 結婚すると、ろくに話もしない夫婦や依存関係のこじれから、憎しみあっているような夫婦もよく見かけるけれど、そういう関係というのは、その「情」のなかに「友愛」へと変容できるような高次の要素が欠如していることからくるのではないかという気がする。

 つまり、「なぜお互いの感じ、考え方もわからないでなぜ結婚したのか」ということこそが問題なのだ。それは、「結婚とはそういうものだ」で片づけるような問題ではない。

 民族問題にしても、結局は「情」が「情」だけで爆発していることからくる。「血縁」という「情」などばかりが優先し、そこに「友愛」の要素がないがゆえに起こるのではないだろうか。

 

 

風のトポスノート10●わからないこと


(1997.7.28)

 

若い頃の西行は、まったく心が定まらず、定まらぬ故に出家を切に願ったのだと思う。出家をとげても一向に定まらなかったことは、次のような歌が物語っている。

世の中を捨てて捨てえぬ心地して

都離れぬ我身なりけり

 

捨てたれど隠れて住まぬ人になれば

なほ世にあるに似たるなりけり

 

あはれあはれこの世はよしやさもあればあれ

来む世もかくや苦しかるべき

 

だが、西行の肖像画には、そのような苦悩の影はみとめられない。「そらになる心」が、「虚空の如き心」に開眼する、その間隙を埋めようとして、私は書いているのだが、西行の謎は深まるばかりである。わからないままで、終わってしまうかも知れない。それでも本望だと私は思っている。わからないことがわかっただけでも、人生は生きてみるに足ると信じているからだ。

(白州正子「西行」新潮文庫P22-23)

 

 幼い頃は、「わからないこと」は少なかったが、年を追うごとに、「わからないこと」はふえていく。かつては、「わからないこと」さえもわからなかったのだ。「わからないこと」がどんどんふえていくと、ほんとうに忙しくなる。しかし、その忙しさは、心を亡くす忙しさではなく、むしろ、心を豊かにしていく忙しさである。心を亡くす忙しさは、無知の知の実感からははるかに遠いもので、なにかに執着しそれに追われながら「わかった」と誤解するものだ。

 人生は、ひょっとしたら、「わかないこと」をふやすためのものでもあり、ほんとうになんでもないことに、ほんとうになんでもなく気づくためのたわいもない遊びなのではないかとも思う。しかし、そのたわいもないことこそが、かけがえのないことなのだ。

 そのたわいもないことに気づくために、日々、苦しく、そして楽しく戯れてみようとする積み重ね。胡蝶の夢のように夢か現か定かならぬとはいいながら、それでもその戯れそのものの遥かさを感じることができるだけでも、「人生は生きてみるに足る」とも思うのだ。浮き世を憂き世と思うからこそ、その憂き世とともに浮かれて、いずれ「そらになる心」となり、「虚空の如き心」へと、ひらかれていることを信じながら。

 謎に出会うこと。

 その謎の前に立って、途方に暮れてみること。

 そうして、その謎に直面し、「わかないこと」を、見つけだすこと。

 わずかな「わかった」ように思うことから、さらに大きな謎を見つけだすこと。

 そのあくなき繰り返し、としての、神秘学遊戯。


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